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ひさしぶりに楽しいテーマの人類学のカンファレンスに参加した。 関西外大の近藤さんが主催した(たぶん)カンファレンス, 『アフリカの冒険的現代』だ。
ここに書くのは感想以前のもの、 発表をききながらぼんやりと考えていたことだ。 たいした話ではないのだが、 ひさしぶりに楽しい話をきかせてもらえたお礼として 整理しておこう。
さて、話のとっかかりはどっかで読んだことがある (教科書かしらん)一般論だ。 いわゆる「伝統的な」文化では、 文化の中心である威信経済 (アフリカじゃないけど、有名なところではクラなんか)は 男が握っている。 男たちは互いに威信を競いあい、 肩で風を来って村の中を歩くのだ。 さて・・・ そんな村に市場経済がはいると、 ぶいぶい言わせている男たちは言う --- 「そんなどうでもいいことは『女子供』のやることだ」と。 んで、女性が市場経済活動を担うこととなる。 というわけで暫くすると(市場経済的な視線から言えば) 女性の経済力があがり(こんどは女たちがブイブイ言わせている)、 というわけだ。 ・・・とまぁ、こんな話を聞いたことがある。
ところが、きょうの話にでてくる商人たちは、ほとんど男性ばかりだ。 どうしてだろう?と考えた。
「あ・そうか、舞台が(人々の本拠地である村じゃなくて) 町だからなんだ」
(ぼくの調査地、東インドネシアの)エンデの人々にとって、 出稼ぎの場(ほとんどがマレーシア)は「非場所」であり、 文化果つることころとされている。 というわけで出稼ぎを理解するには(すくなくともエンデでは) 「非場所」であるマレーシアを つねに場所である故郷の村と対照させなくっちゃいけない。
「アフリカでは場所と非場所の関係はどうなんだろう?」
そう言えば・・・ カンファレンスの中で、 「町での商売の評価は、村に家を建てたことだった」という 事例が紹介されていた。 これってとてもエンデと似ている。
かくして、 構造主義者の大好きな (私の大好きな)二項対立のオンパレードとなった --- (1) 男性:女性、(2) 威信経済:市場経済、 (3) 場所(町):非場所(村)。 これらを組合せたり、 順番を引っくり返したりして、 いろいろ議論ができそうだ (^o^)
ひさしぶりに頭をつかったので、 きょうはここまで。
閑話休題。
・・・ 「やっぱり人類学っていいですね。おもしろいですねぇ」
言語が違うと世界の認識の仕方が違うという、 とても魅力的なウォーフの仮説を、 観察と実験から判断しようという、 これもまた魅力的な目的をもった研究だ。 結論からいうと、 ウォーフの仮説は、それなりに正しい。 ただし、それほど華々しい話ではないよ、ということ。
ウォーフの仮説をビジュアルに再現すると、こんな感じになるだろう --- 言語以前の世界は、 混沌とした万華鏡のようなイメージとしてわたしたちの前に広がる; 言語がそれを整理して意味あるものとするのだ、と。 だから言語が違う人は、違う世界に住んでいるということになる。 これがウォーフの仮説だ。 あるいはクーンのことばをつかえば、 二つの言語が作る世界の間には(おどろおどろしい) 「共約不可能性」の壁がそそりたっているのである。
さて、今井氏の本の内容にはいっていこう。
さまざまな世界の認識の仕方の例(および実験)があがっていたが、 いちばん鮮明に記憶に残っているのが空間認識の話だ。
空間を絶対枠組で区分する言語と、 相対枠組で区分する言語とがある。 日本語や英語は後者であり、 空間(とりわけ話者の身近な空間)は 話者との相対的な枠組(右や左など)をつかって把握される。 たとえば、ポスターを壁にはっている人に指示するのに、 わたしたちは「もっと右」とか「もっと左」とかいうのだ。 対照的に絶対的な枠組(話者相対ではない枠組)、 たとえば東や西、をつかう言語がある。 わたしの調査地のフローレス島のエンデ語話者がそうである。 かれらは家の中でも「もっと北」「もっと西」といった 指示をするのだ。
つぎにデッドレコニングという能力が紹介される --- 自分のいる場所を絶対座標で記憶する能力だ。 たいていの動物はこの能力をもっているのだが、 人間にはないという。 ぼくらは車などにのって、遠いところに来た場合、 出発点がどちらの方角あるのか示すことができない。 ただし例外があって、 空間を絶対枠組で区分する言語をしゃべる話者には デッドレコニングがあるのだ、という。 [--もっとも出発点となる違いは語用論レベルでの違いだが--] たしかに、エンデの人の空間把握能力はすばらしいものがある。
「なーる」と思わせる実験エピソードにこんなんがある。 (細部は創作) 左から右へ、「1」「2」「3」と書いた3枚の板を被験者の前に並べる。 その3枚の板をもって、被験者に後をむいて(180度まわって)もらう。 そこにある机の上に「板をさきほどと同じ順で並べて」と依頼する。 相対枠組の言語話者は左から右に「1」、「2」、「3」と並べる。 ところが絶対枠組の言語話者は東西南北の軸で「同じ順」になるように ならべるので、相対枠組の言語話者とは逆に並べる、というのだ。
「そーか」・・・これは納得してしまった。
おもしろいのは 赤ちゃんや幼児をつかった実験だ。 相対枠組の言語話者の七歳以上の子供は、 大人と同じようにデッドレコニングの能力はない。 しかし、四歳の子供達は(どちらの言語話者も) デッドレコニングの能力を示したというのだ。 要するに、 どの言語の共同体であっても、 四歳までの幼児にはこの能力が備わっている、ということである。 しかし、自分の言語がその能力を必要としないとなると、 その能力は消えてしまうのだ。
「ふーん」
まとめると、(1) どのタイプの言語を喋るにも必要な能力を、 赤ちゃんはあらかじめ持っている、 しかし、じっさいに言語を学習していく中で、 (2) その言語に必要な能力をのこして、 不必要な能力はなくなっていく、ということだ。
利根川進 (2001) が 『私の脳科学講義』の中で(p. 59)、 世界には120の言語があり、 のべで70から80の母音が区別されており、 赤ちゃんは、じつは、 生まれたときにはそれをすべて区別する能力を持っているというのだ。 母語を学んでいく中で、不必要な能力は消えていくという。 [--もの言わない赤ちゃんが「〜に気付く」のをどうすれば分かるのかは、今井の本を読んでください--]
というわけで、 言語以前の世界は「混沌」などではなく、 緻密に分類された世界などだ。 言語以後の世界も、それぞれ 「共約不可能」なのではなく、 十分に共約可能なのだ。 (共通の単位がある、という意味で)
まだまだいろいろ紹介したい実験・観察・議論があるのだが、 きょうはこれだけにしておこう。
(後日の2023-03-16の議論も参照せよ。)
きょうは民博の特別展 『ラテンアメリカの民衆芸術』の内覧会に参加した。 身内だけのバーゲン会場みたいで、ちょっと 気がひける。 短い開会式のあと、 会場をめぐる。 どの作品も素晴しい。 いまアーサー・ダントウの現代芸術の哲学を読んでいるのだが、 ぜんぜんわくわくしない。 [--議論自身は興味深い--] もともとぼくが現代芸術を嫌いだ、というのが その(「つまらんと感じる」ことの)第一の理由かもしれない。 しかし・・・ 現代芸術と(ふつうの)芸術を それらが「同じようなものである」として 議論するのは、 ちょうど 客体化された文化と(ふつうの)文化を、 いっしょに議論しているみたいで、聞いていて居心地がわるい。 もっと端的に言えば、 間違っていると思う。 「芸術」という言葉の外延から 『泉』以降のいわゆる「現代芸術」は除外すべきだ。 (同時に「文化」という学術用語の外延から 〈客体化された文化〉を除外すべきであるように。) 「現代芸術」は鑑賞するためにあるのではなく、 それについて議論するためにあるのだと思う。 というわけで、 コンセプチュアル・アートのアイデアは とてもいい --- 作品もいらないから場所の節約になる。 ちょっぴり『パタリロ』の「バーチャル落語」を思い出す (^^:)
サイエンスウォーズのきっかけとなった ソーカル事件みたいな「いたずら」を誰かしないかな ;-P
もとに戻ろう。 民博の特別展『ラテンアメリカの民衆芸術』の話をしていたのだ。 ここに並んでいる「民衆芸術」は (議論は二の次で)ともかく鑑賞するためにある。 どれもこれも素晴しい。 うっとりとしてしまう。 いくつか模写してみた。 [--感動のあまり『泉』を模写する人っているのかしらん--]
先日の『アフリカの冒険的現代』といい、 この頃とてもついている --- 面白い人類学を満喫できた。
何がきっかけだったのだろう --- とつぜん GPD Pocket 2 が買いたくなった。 GPD MicroPC (2021) が 6インチで450 グラムくらい。 Pocket 2 は 7インチで510 グラムだという。 買いたくて買いたくてたまらなくなる。 製造終了なので、買うのはけっこう難しい。 なんとか直販のサイトでまだ売っていることに気がついた。
買う前にいくつかレビューをみる。 ららら。。。キータッチがひどいらしい。 それと CAPS Lock (Ctrl として使う)の位置が とんでもないところにある。 ・・・買わなくってよかった。 他にも Tab がとんでも無いところにある。
物欲がおさまったと思ったのだが、 だめだった。 今度は Pocket 3が欲しくてたまらなくなった。 8インチで765 グラムだ。 謳い文句が MicroPC と Pocket のいいとこ取り! 買うっきゃない。
とうとう注文してしまった。
いまGPD MicroPC (2021) (450 グラム)で このエントリーを打っている。 ベッドで仰向けでだ。 この二倍くらいの重さ(765 グラム)のある Pocket 3 では こんな芸当(仰向けでタイプ)はできないだろうなぁ。
ま・いいや。
「アブダクション」に関して、 私がいままで暖めてきたアイデアは、 大ざっぱにいって三種類にわかれるようだ。
第一の問題は、 (1) 推論の種類の1つとしての「アブダクション」という 問題だろう。 「帰納」ということばで 演繹以外のすべての推論を指すこととする (これが議論を最もすっきりさせる用法だ)。 アブダクションは、もちろん、 帰納の一種ということになる。 さて、 「帰納とは何種類あるのだろうか?」 動物も一般化(帰納の一つだろう)は可能だ。 ネコ1 とネコ2 を一般化して「ネコ」として把握できなければ、 ネズミは生き延びることができないだろう。 ネズミには一般化の(帰納の)能力がある。 それに対して、 アブダクションは人間だけに可能な推論だと思われる (後述の (2) の問題系を参照せよ)。 というわけで、 帰納には少なくともこの二種類があるようだ。 しかし、まだまだいろんな種類の帰納が (演繹以外の推論の方式)があるような気がする。 帰納には何種類あるのだろうか? ポパーが『推測と反駁』の中で主張する、 帰納とは一線を画す推論のある方法がある。 これも(演繹ではない、という意味で)帰納の一種である。 (なお、わたしには、 この推論形式は完全にアブダクションだと思える。)
直前の段落で、 私は人間とその他の動物の違いについて触れた。 (2) この人間とその他の動物の「違い」という脈絡のなかで アブダクションを考えるのが、第2の問題系である。 動物と人間の違いを考えるとは、すなわち、 閾問題 (threshold problem) である。 動物に欠けていて、 人間が人間になるのに重要であったと考えられる 能力として「規則性を見つける能力」がある。 人間が、動物とはっきり違うのは、 その規則性へのこだわりである。 この能力こそがアブダクションだ、という議論である。
今井は『ことばと思考』の中で、 個体発生の過程で(ようするに赤ちゃんから大人になる過程で) 母語の獲得にともなって、 赤ちゃんは、 もって生まれた様々な能力のうち 母語による世界把握に不要な能力を捨てていくという 議論をしている。 ハンフリーも The Mind Made Flesh: Frontiers of Psychology and Evolution の中で同じようなことをいっている。 ただし、 彼の議論は系統発生(猿からヒトへの過程)の中での議論だ。 そして「喪失と獲得」の順番が今井の議論とは逆である。 猿には膨大な事象を記憶する(丸暗記の)能力がある。 これは生存に大きな貢献をしたであろうと考えられる。 ハンフリーが想定しているのは、 ヒトの祖先はあるときこの大切な能力を失なってしまった、という物語だ。 100万に1つの僥倖で、 ヒトの祖先たちはこの能力を補ってあまりある別の能力、 すなわち、規則性を発見する能力を身につけた・・・というのだ。 ジャスト・ソウ・ストーリーである (第3の問題系を参照のこと)。 私が主張するのは、この新たに獲得された能力こそが アブダクションだ、ということである。
余談だが・・・「心の理論」は (もし、上のおとぎ話が正しいならば)アブダクションによる 最高傑作であろう。 じっさい、 このおとぎ話は、セラーズのおとぎ話 (「ジョーンズ革命」)ととっても親和的だ。
(3) 最後の問題系は、 「アブダクション」と 「アブダクションもどき」問題である。 「アブダクション」は「エウレカ!」である。 しかし「エウレカ!」が すべてアブダクションであるわけではない --- あるいはアブダクションとは認めたくない推論 もあるのだ。
コペルニクス的転回も、 メンデルが遺伝子のアイデアを思いついたのも、 海岸線から導きだされた 大陸移動説のアイデアもアブダクションだろう。 アブダクションは「エウレカ!」なのである。 しかし 多くの偽科学も「エウレカ!」の形をとっている。 陰謀論もしかり、だ。 これらの「理論」を 私は「アブダクション」とは呼びたくない。 しかし、 何がよきアブダクション(例えば科学革命)と 悪しきアブダクションもどき(例えば偽科学あるいは Q-Anon など)をと分けて いるのだろうか。 この第3の問題は、 「よいジャスト・ソー・ストーリーズ」と 「悪いジャスト・ソー・ストーリーズ」の問題とも 言うことができるだろう。 なお、この言い換えで、 私は、グールドによる「適応万能主義批判」の あの有名な論文のことを考えている、ということを 付け加えておきたい。
一昨日注文した GPD Pocket3 が届いた。 名前は "Shambleau" とした。 さっそく灯をいれる。 とにかく厚くて重くて大きい。 GPD MicroPC のように両手で持ってタイプするのは無理だ。 ま・わかっていたのだが・・・。 奇跡を期待してた。 ・・・失敗したなぁ。
Ubuntu Mate には さまざまな UMPC にューンナップされているイメージが 用意されている --- GPD Pocket 3 には Ubuntu Mate の 21.10 があった。 さっそく Ubuntu Mate 21.10 のイメージをインストールした ---
タッチスクリーンが不思議な状況になっている。 右で左、上で下・・・みたいな。 ここに解決策がかいてある。 以下のコマンド一発で治った。 (実際は1行)
xinput set-prop "GXTP7380:00 27C6:0113" \ "Coordinate Transformation Matrix" \ 1 0 0 0 1 0 0 0 1
「指紋認証はできませんよ」と公式ページに書いてあったので、 べつだんがっかりすることもなかった。
音がでない。 さまざまなサイトに解決法が書いてあるのだが、 うまくいかない。
画面の回転やタッチがうまくいかない。 [--ウェブによると、すべてうまく行く筈なので、ぼくのやり方がわるいのだろう--]
とりあえず Linux 化は諦めて、 Windows に戻すこととした。 暫くは wsl2 で Linux をつかうことした。
『ディープラーニング 学習する機械 ヤン・ルカン、人工知能を語る 』 (ヤン・ルカン 2021) を読んでいる。 まだ第2章「私の小史」までしか読んでいないが、 ここに〈なぜ私がこの本を読んでいるか〉を 書いておこう。
機械学習は最初 (たぶん1980年代、1990年代に)は connectionismと呼ばれた。 その後 「ニューラルネットワーク」と呼ばれるようになった。 世の中になかなか受け入れられなかったので、 2000年代に deep_learningに名前をかえた・・・ ということだ。
私が人工知能を勉強することによって知りたい事は、 〈人工知能にアブダクションの能力があるのか〉ということだ。 この疑問は、 〈赤ちゃんはいつアブダクションの能力を獲得するのか〉そして、 〈チンパンジーあるいはボノボにアブダクションの能力があるのか〉という 疑問と組になった疑問だ。
2017年に出た本(『心の進化を解明する』)のなかでデネットは、 ディープラーニングは知識をどんどん肥大させることはできるだろうが、 (気づきによって)1つ上の段階には行けない(だろう)と言っている。 すなわち、 デネットは「ディープラーニングにはアブダクションはない」と 言っているのだ。 これは「原理として無理」ということだろうか、 それとも「現在のところは無理」ということだろうか?
たまたまテーブルの上にころがっていた 『カラー図解 Raspberry Pi ではじめる機械学習 基礎からディープラーニングまで』 (金丸 隆志 2018) をぱらぱらとめくる。 こんな文章が目にとまった --- 「それ【ディープラーニング】までのニューラルネットワークや 機械学習では、 画像などの入力のうち「何が重要な特徴か」を人間が見つけて あらかじめ抽出しておく必要がありました。 これを前処理と言います。 ディープラーニングには この特徴抽出の前処理も人間の手を介さずに 自動で行なうことができるという性質があります。」 (p.22) これって、 規則の発見ではないだろうか! まるで、 人工知能はアブダクションができる!と言っているように見える。
ちょっとどきどきしてきた。
「教師なしの学習」が「アブダクション」に相当するのか、 がまず第一に解決すべきことだろう。
ヤン・ルカンの本を読みおわってから、 いろいろなことをまとめてみようと思う。 今日はここまで。
きょうの散歩のお伴の In Our Time は Mind and Body (2005-01-13) だ。 プラトン、アリストテレスのあたりはとても面白かった。 とりわけ、いま『アリストテレス 生物学の創造 上』 (ルロワ 2019)を読んでて、 アリストテレスの魂論をかじっているので、 理解が深まったような気がする。 デカルトは、まぁ、こんなもん。 デイヴィドソンの非法則論的二元論にはさらっと触れるだけ。 これはしょうがないだろう。 けっこう興味深いなと思ったのは Epiphenomenalism (随伴現象説)だ。 まず前提は、心と身体の二元論だ。 その上で、身体が心の原因となるが、 心は身体の原因とはならない、というのがエピフェノメナリズムだ。 日本語のウィキペディアの例によれば、 煙は工場(での活動)があげられている --- 工場は煙の原因だが、 煙は工場の原因ではない、ということだ。 同じように、 身体は心の原因で、心は身体の原因ではない、ということになる。 まじめにとるにはつまらない説だと思うが [--ただしいかどうかではなく、 この説からなにか面白い物語を紡ぐことができない(だろう)、という意味だ--] ゲストメンバーの間で熱く議論してたのが、 不思議だった。
GPD Pocket3の Ubuntu 化は(とりあえず)諦めた件については、 2023-03-17の日誌で既に述べたところである。 さて、 GPD のサイトに Windows に戻すいくつかのやり方が 書いてある。 いちばん真っ当な〈firmware のインストール〉をすることとした。 そのための Firmware が自社サイトに用意してあるのはすばらしい。
非常に簡単な作業だった。
・・・ところが
うまくいかない。 音が出ない、指紋認証ができない、画面タッチが効かないという 体たらくだ。
GPD のサポート係と何度かやり取りした。 とても親切だったし、 アドバイスも適切だ。 いちばん怖れていた 「あんた、自分で Linux をインストールしたんでしょう。 自己責任ですよ」という反応はかけらもなかった (^_^)
何度かやりとりして、分かったのは(とても恥ずかしいのだが) ぼくがダウンロードするファームウェアを間違っていた、ということだ。 GPD Pocket3 には Core i7 を使用したタイプと、 N6000 を使ったタイプがあるのだ。 ぼくのは N6000 タイプなのに係わらず、 i7 のファームウェアを適用していたのだ。
あらためて N6000 用のファームウェアをダウンロードして、 適用したところ、 すべて問題なしだった。
ほっとした。
きょうの散歩のお伴の In Our Time は Paul Erdos (2023-02-23) だ。 「ポール・エルデシュ」? 聞いたことのない名前だ、 またつまらん文学者の回かな・・・ スキップしようかと思ったが、 念のため聞き始める。
よかった、 面白い回を聞き逃すところだった。 ハンガリー出身の数学者の名前だ。 亡くなったのがごく最近 (1996年)なのに、 すでに 「伝説の人」になっているようだ。 ゲストの中では一人だけが、 エルデシュの晩年に一度あったことがあったという。 さまざまな問題を考えて、 それを美しい方法で解いてみせたという。 また、それまでの数学者とは異なり、 さまざまな人と共同作業を楽しんだという。 そのために彼の人生は旅に終始したようだ。 「変わったひと」とか「変人の天才」って、 たいていは、 その人の物語を聞くのは面白いけど、 会いたいとはあまり思えない。 でも、このエルデシュさんには会ってみたかったなぁ。
彼が解いた問題も、じっさいの証明はともかく、 わりと分かり易い問題が多いので、 聞いていて楽しかった。 とくにラムゼイ数の議論は 「あとでちゃんと勉強しよう」と思うくらい面白かった。 「あとで勉強するため」のサイトとして、 こんなんみつけた。
[Visit Website Rakyat NTT]
原題は "Pemprov NTT Wajibkan Siswa SMA dan SMK Masuk Sekolah Jam 5 Pagi" だ。 日付は今年の2月27日である。 この命令が物議を醸している。 (対象は、とりあえずは、クパンの町の指定された いくつかの高校である。) インドネシアは熱帯に位置しており、 すぐに暑くなるので 何にせよ開始時間を早くするのは合理的である。 しかし、それにしても、 「午前5時始業」はめちゃくちゃだろう 現在は午前7時はじまりである。 州知事はどっからこんな 数字をひねりだしたのだろうか・・・。 他にもいろいろ記事がある --- インドネシア・ネットワークが大統領に手紙(オープンレター)を出して、「高校は朝の5時から始業するように」という NTT州知事令を無効にするように頼む。 原題は "Jejaring Indonesia Surati Presiden, Minta Gubernur NTT Batalkan Kebijakan Sekolah Jam 5 Pagi" である。 (jejaring は「ネットワーク」の意味だそうだ。) あるいは、こんなのも: 「午前5時始業には賛成できない」 NTT州議会が教育省を召喚する (原題は "Tak Setuju Sekolah Jam 5 Pagi, DPRD NTT Panggil Dinas Pendidikan")。
出来事は 1ヶ月近く前のことなのだが、 ぼくの見ている限りでは続報がない。 どうなったのやら。
[Visit Website 窓の杜]
この記事で紹介されている 翻訳アプリの DeepL、なかなかに便利そうだ。 Chrome の 拡張機能を Chrome にインストールしてみた。 さっそく(オランダ語の)植民地文書を翻訳してみる。 選んだ文書が 5 MB ほどあったので、 アップロード可能の上限 3 MB を越えていた。 まずは、 Kami で読み込むこととする。 Kami には OCR 機能があったので、 それを用いてテキスト化した。 [--DeepL に直接アップロードしても (テキスト化していないので)無駄だったことに気がついた。--]
さて、 Kami 上で PDF ファイルの一部を選択して CTRL-SHIFT-Y で翻訳をしてみる。
うまくいかない。
考えてみれば、当り前である --- もとの文書(植民地文書)が汚ないので、 PDF ファイルも汚ない。 それで OCR がほとんどうまくいっていないのだ。 (たぶん 20 %前後だ) わりとめちゃくちゃなテキストを与えられてしまったので、 DeepL の翻訳も滅茶苦茶になってしまった、というわけだ。 次回はきれいな PDF ファイルを見つけて、 それをつかってみることにしよう。
いまのところ、植民地文書を読むためには、 DeepL の 翻訳窓をつかって、 文章を自力で入力するしかないだろう。 これでもないよりましだろう。
もちろんポルトガル語でもできる筈なので、 こんどいいデータがあったら、試してみることとする。
きょうの散歩のお伴の In Our Time は、 The Aztecs (2003-02-27) だ。 悪名高い人身供犠の件だが、 研究者たちが言うには、 その数には大きな誇張があるということだ(2桁くらい)。 ただし、人身供犠があったことは疑いない。 ある一人のゲスト(女性)が言うには、 この脈絡で注目すべきなのは彼らの戦争のやり方だという。 アステカは戦闘の際に敵を殺さないというのだ。 その代わりに敵を捕虜として連れ帰ったうえで人身御供とするのだという。 われわれは戦争のその場で敵を殺す --- われわれもまた「人身供犠」を(ある意味で) 行なっていると言うことができる、と彼女は主張する。 アステカがとりわけ残虐ではないのだ・・・ といった議論を展開した。 他の二人のゲストはその見方には賛成ではなかったようだ。 彼らは、 アステカの人身供犠は戦争捕虜だけに限らないことを述べて、 暗に彼女のアステカ擁護を非難していた(飽くまで「暗に」である)。 彼らは、例えば、つぎのような事実を指摘した --- 金持ちが、市場で奴隷を買って、 その奴隷を、自分の威信を示すために、犠牲として捧げるのだ、という。 「ほら、やっぱりアステカって残虐だろう」と言っているように聞こえる。
人身供犠に関する議論はともかく、 中央アメリカにおける戦争は、 ある意味で、とても儀礼に近かったと言えるようだ。 さきほどの敵を殺さずに、捕虜として連れ帰るといった慣習の他にも、 アステカは収穫の時には戦争をしないといった 儀礼的なルールがあるという。 そういう意味で、アステカおよび周辺の部族は 同じ規則でゲームをしていたらしい。 そして、それこそがアステカがスペインのコンキスタドールに 簡単に負けた大きな原因の一つであるようだ。 コルテスたちは、中央アメリカでの戦争の規則など知らなかったし、 知ろうともしなかっただろう。 彼らにとって戦争は人を殺し、勝つためにのみ行なうものなのである。
番組の最後に、メルヴィン(司会)が、 現在まで続く現地でのアステカの影響について質問した。 一人は現在まで喋られているナワトル語(アステカのことば)、 現在も見ることのできる慣習など、 ある程度常識的な答を返していた。 ところが二番目の回答者は「まったく無し」 ("none whatsoever") と答えていた。 マヤの後裔たちが(そしてある程度はインカの後裔たちも)、 文化運動あるいは政治運動として「マヤ」を大きく 打ち出す。 しかし、いまだかつて誰も「アステカ」の名のもとに (政治的にせよ、文化的にせよ)「運動」が行なわれたことはない、 という。 たしかに、その通りだ。 こう語った彼は「何故か」については 一言も触れなかった。
なぜなんだろう・・・… やはり「人身供犠」が悪名たかすぎたのかしらん。 人類学の論文にありそうなテーマだが、 いままで、このテーマで書かれた論文があるのだろうか?
Lenovo Yoga 770に Ubuntu を走らせてみた。 Windows 上で wsl2 が動いているので、 Lenovo Yoga 770 のウィンドウズにとくに不満はないものの、 やはり Linux を直に走らせたほうが、 ウィンドウズからの邪魔(アップデイトやらなんやらかんやら)が なくて気持ちがいいだろう。 ・・・というわけで、 一度失敗した〈Lenovo Yoga 770 のLinux 化〉をもう一度ためしてみる。
Ubuntu 22.04 の kernel では Ryzen 6000 シリーズでキーボードを 認識できない。 Lenovo Yoga 770 は Ryzen 6000 をつかっているので、 Ubuntu 22.04 を走らせることはできなかった。 これが「一度失敗した」経緯だ。 Ubuntu に Ver 6.0 の Kernel が採用されるのを待っていたが、 どうやら Ubuntu 23.04 には最新の Kernel が採用されているという。 さっそく Lenovo Yoga 770 で 23.04 を (インストールはしないで、トライするだけのモードで)走らせてみた。
キーボードを認識した。 ところが、 ディスプレイが物理的な動きに追随できなかった。 [--もしかしたら、自動はだめでも、CTRL-ATL-上矢印(みたいなやり方)で画面を回転させることができたかもしれない--] もっともがっかりしたのは音だ。 ぼくは Lenovo Yoga 770 の音がとても気にいっている。 ところが、Ubuntu の上ではかすかすの音だった。 耳がとりわけて良いわけではないぼくの耳でも分かるほどに、 びっくりするほど安っぽい音だった。
まだ暫くの間は「ようすみ」をすることとした。
6時20分くらいに約束のお店に到着する。 UT (OB)くんが来るまで(7時ころ)の時間潰しで、 MY (OB)くんと二人でワインを飲み、 前菜をたべる。 お店はたった一人できりもりしているようだ。 7時ちょっと前にUT (OB)くん到着。 三人で和気藹々でいろいろおしゃべり。 ご馳走のほうもなかなか。 牛肉をとろとろに煮こんだんとか、 タラのはいったグラタン風とか。 どれもおいしゅうございました。
前回もそうだったと記憶しているが、 今回も二人におごってもらってしまった。 「ごちそうさまでした」。
店をでたのは 9時を過ぎていたかな。 ひさひぶりの夜の遠出・・・。
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最終更新時間: 2025-04-28 11:09