タイトルは「よろめきの美徳」。 ここ にアップした。 内容は、まずまずの出来かな。
YouTube にアップロードしたので、 聞いてみた。 ま、なんと滑舌がわるいこと。 それに、ぼくの声はもっともっといい声だと思っていた。
ま・いいか。
ぼくの論文書きの計画は以下の通りだった。 (1)明日の土曜日(お誕生会)(05-18)までに第一ドラフトを書き上げる。 (2)それから1週間で形をととのえて、 (3)学会(来週の週末)で立派に発表。
Eがそれをきいて「まだ2週間あるよ」という。 カレンダーしらべたら学会(05-30/05-31)までに、 確かに2週間だった。 てっきり来週の土・日だと思ったのだが、 再来週の土・日だったのだ。 ほっとした。
5月末の日本文化人類学会の研究大会での発表、 「よろめきの美徳」 の大枠を考えてみた。
★ 「これまでのお話(その1)--- ないものがない(否定性の欠如)」。
自閉症(『自閉症の現象学』 (村上 靖彦 2008))、 概念枠組(On the Very Idea of a Conceptual Scheme (Davidson 1974))、 (ウィトゲンシュタインの)独我論 (Tractatus Logico-Philosophicus (Wittgenstein 1961)) はすべて単相状況 (『心と他者』 (野矢 茂樹 2012 (1995)))であり、 その世界には「ないもの(隠れているもの)がない」。 自閉症の世界には理解できないもの(「他者」)がいないのだ。
★ 「これまでのお話(その2)--- ないものがある(他者、異文化がある)」。
自閉症でない人の世界には影が、 見えないところが、 わからないものがある --- すなわち世界は「ないもの」に溢れているのだ。 「分からないもの」の典型が他者であり、そして異文化である。 ないものがある状況こそが複相状況であり、 ウィトゲンシュタインがウサギアヒルの図 Philosophical Investigations (Wittgenstein 1968) で示したものだ。 複相状況とは地としての自文化の上に、図としての異文化を見る、 そのような状況である (「異文化の見つけ方」 (中川 敏 2015)、 「引用と人生」 (中川 敏 2016))。
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★ 「これまでのお話(その3)--- 「ないものがある」にも程度がある」。
複相状況にもいろんな程度がある。 「エンデの人々は妖術を信じている」と報告する宣教師と、 「エンデの人々は妖術を信じている」と報告する人類学者の複相には差がある筈だ。
★ 「今回解いていきたい問題 「図と地が反転するとはいかなることか」」
人類学者がいくら「深い深い、まきこまれる異文化理解」とわめいても、 (Deadly Words: Witchcraft in Bocage (Favret-Saada 1980)) 彼の複相の地は、あくまで、自文化である。 けっきょく、節子は土屋とわかれ、倉越家の嫁として生きてゆくのだ (『美徳のよろめき』 (三島 2021))。
地が異文化になってしまう状況、 地と図が反転する状況とはどんなものなのだろう? 反転(あるいは「転向」)のよい例は QAnon への信仰のめざめの中に見られる --- 高学歴で、民主党支持の弁護士エミリが、 突然 QAnon の信者となる。 社会変革への熱心な支持者であったリベラルな考えをもつ アリスが突然 QAnon へとかたむいていく (The Quiet Damage: QAnon and the Destruction of the American Family (Cook 2024))。
なお、わたしが描きたいのは、因果関係ではないことを宣言しておきたい。 心理学的、社会学的な説明はちまたにあふれているだろう。 クックの本がそうだし、秦の『陰謀論』 (秦正樹 2022) をはじめ様々な 本がこの現象(QAnon への転向)を社会学的に説明している。 そうではなくて、 わたしが描きたいのは、「地と図が反転する」というのは 論理的にどのようなものかということだ。
★ 「これまでのお話(その4)--- トランプといじめ」
前回の発表、 「いじめの誘惑: ヒト、空気を読む」 (英語版) (中川 敏 2025) で行なったことは、 「いじめ」、とりわけ「冗談を武器にした いじめ」(〈いじめ/冗談〉)を、 デネットの「心(志向性)の埋め込みのレベル」を背景にして眺めてみることだった。 3次の志向性は霊長類学者が「(サルとヒトの)閾」として考えた「他人の心」である。 わたしは、3次の志向性を対象にする心的態度、 すなわち、虚構を楽しむ態度があることを指摘した。[--わたしはこれが「閾」であると主張したい--] いじめ/冗談とは、さらに、この「虚構を楽しむこと」自身を 対象にした態度なのだ。
★ 「いよいよ本文」
最後に、〈いじめ/冗談〉を可能にした舞台装置こそが、 地と図の反転に際の論理装置なのであることを示す。
・・・
なかなかいいじゃん。 これを枠組にして書き始めよう!
[16:53:11] 今日作った ikiwiki (phil-web) の エントリーを読みながら、 頭の中でアイデアが浮かぶのをまっている。 "Fiction and Metaphysics" (Peter van Inwagen 1983) の 《まとめ》 (phil-web) とあわせて、 クワインの存在論を読むと、 5月の日本文化人類学会の発表の筋がうかんできた。 《日本語の「あるとはどいうことか」のまとめ》 (phil-web) も参照すること。
勉強の仕方を忘れていた。 やっとコンピューターの前に陣取って、 NotebookLM を相手に、いろいろと問答をかさねる。
NotebookLM の「芸術と説明論」を 「存在論の語り方」と改名する。 これを5月の日本文化人類学会の発表のネタとする予定だ。
KAPAL の発表に、AI にサポートされた論考を発表することに(ほぼ)決めた。 対象は Noemuti にしようとおもっている。 ノエムティ (Noemuti) の中に Kecamatan 毎の人口を記載した。 さらに、 "Mot nini Tradition: Dialogue with Ancestors in Noemuti Village" (Mokos, Taneo, Selan \& Bano 2024) の まとめ と "Kure': Sebuah Tradisi Religius di Kote-Noemuti" (Andreas Tefa Sa'u 2013) の まとめ をつくった。
オリジナルの論文は、 「千の唇、百の舌」 (merapano)である。
ChatGPT に比べるとものすごい速さだった。 もっとも、 ChatGPT も最初の翻訳はすぐにやり遂げたので、まだ結論を出すのは早い。 なお、できあがりはこれだ --- A Thousand Lips, A Hundred Tongues (merapano) 。 読んでみると、いろいろ気になるところがある。
ここ数日、胃が痛かった。 日本文化人類学会の研究大会発表要旨登録の 〆切り(2026-01-12)が近づいていたからだ。 今日、なんとかまとまりのある文章(1500字)を書き上げた。 タイトルは(三島由紀夫をひねって) 「よろめきの美徳」 (merapano) だ。 要旨登録もすませた。 [--MSWord は拷問だ--]
やることはやったので、 あとは、「夜が教えてくれる」(啓示が来る)のを待つばかり。 なんとかなるでしょう。
なお、直前の発表は 「いじめの誘惑」 (merapano) である。
最初に宣言するが、 「えらい人が言ったことを正確に把握する」のは、 ぼくはとても苦手とする分野だ。 しかしながら、今回は、それをやってみようと思っている。
ダニエル・デネットが何をいっているのかをまとめたい。 このような設問には、 何か焦点がないと答えるのは難しい。 「デネット的な人類学はどのようなものか」、 この問いに答える形で、 デネットの議論をまとめてみたい。
『思考の技法: 直観ポンプと77の思考術』 (デネット 2015) の項目から、 人類学の定義に関連して、 重点的に参考にすべきは、以下の二つの項目だ。
一つは「ヘテロ現象学」(VII 意識について考える道具)、 もう一つが「素朴自己人類学としての哲学」 (IX 哲学者であるとはどのようなことか) である。 [--括弧の中はその項目の属している章の名前である--]
さらに、 道具としてもっとも人類学に関係するのが「日常的イメージ」 (「外見的イメージと科学的イメージ」 III 意味あるいは 心的内容について思考する道具)だろう。
この項つづく(たぶん)。
パブリッシュしたバージョンに、 よけいな箇条書きがのこっていた 以下の三論文に手をいれた: 「象牙をたどる」、 「とうもろこしを搗く」、 「頭をつかむ」。
[16:17:32] 退職 (2019-03) 以降、 毎年3つの学会で発表している。 KAPAL(インドネシア研究懇話会)(7月)、日本文化人類学会(6月)、東南アジア学会、である。 [--今年は KAPAL がなかったので2回だったが--] 日本文化人類学会(九州)の発表の申し込み〆切りが1月である。 簡単なものでいいのだが、 そろそろ内容を考えておかなければいけない。
タイトルは予定どおり「よろめきの美学」で発表する。 ただし、内容がまだ決まっていない。 なにをすべきか考えている。 「よろめき」(二つの複相の話)に何を絡めるか、だ。
心の議論をもってくるか? すでに何度もやっている、次のような話だ。 システムが単純なインプット・アウトプット (刺激と反応、原因と結果)をもっているならば、 それは観察者に物理姿勢を呼び起こさせる、 原因・結果でわりきれない時に (説明不能の時に)、 観察者はシステムの影の部分を (なにか複雑な処理をしている)「心」と呼ぶのである。
新鮮さがない。 いままで「ダンゴムシ」 (『ダンゴムシに心はあるのか(PHPサイエンス・ワールド新書)』 (森山 2011) )を例にだしていたが、 あらたにミミズ (『ミミズによる腐植土の形成』 (ダーウィン 2020))と 粘菌 (『粘菌 その驚くべき知性 (PHPサイエンス・ワールド新書)』 (中垣俊之 2010))を出す・・・くらいが新鮮味だ。
リアリズムのはなしとして、 「何が存在するか」みたいな議論をするのも面白いかもしれない。 --- どのように単相・複相とからめるかは今から考える。 セラーズの日常的イメージ (manifest image) や、 アリストテレスの存在論とかと絡めて議論すると面白いかも。 繰り返すが、 どのように「絡める」のかは、今の時点では、 全く見当がついていない。