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Anthropology - 残日録 --- The Remains of the Day

最終更新時間: 2025-11-04 13:02

2025-10-18 Sat

 パングロス論文を読み終えて考える---もっと勉強しなくては: [Anthropology]

以下は、 「進化学界においては、 パングロス論文は間違ったものとされ、中間説は定説になっている」という 理解にもとづいて書きます。

グールドとルウォンティンが パングロス論文、 すなわち、 "The Spandrels of San Marco and the Panglossian Paradigm: A Critique of the Adaptationist Programme" (Gould \& Lewontin 1979) の 中で目指すのは、適応至上主義はまちがっており、 進化にはそれ以外の道もあるのだ、ということを示すである。 そこで出された様々な具体的な案はどれも面白いが、 それらはさておき、 野望は以上のとおりだ --- すなわち、 適応で説明するのがいかんというのではなく、 それだけではないよ、という議論だ。

中間説とは、まさにそのような答えじゃないのだろうか?

分子レベルだと中間説(自然淘汰じゃないよ)はよくて、 表現型レベルだと中間説(自然淘汰じゃないよ)はよくない、というのだろうが、 その辺の議論が、ぼくにはよく分かっていない。

2025-10-15 Wed

 Pangloss 論文を読み終わる---とてもよく出きている論文だ;「終わっている」論文のようには思えない: [Anthropology]

The Spandrels of San Marco and the Panglossian Paradigm: A Critique of the Adaptationist Programme (Gould \& Lewontin 1979) を読みおわった。 ぼくがずっと思っていた疑問を、 明解に(いささか余計な衒いが多いが・・・)述べた論文だ。 以下、感想をかねた Todo と自分への設問。

Pangloss を読み終わって

  • なぜ「遺伝子がそれ自身を再生産することが、それにとっての 生きる目的になる」ことが、 トートロジー(問答無用の真理)になるのか、を証明せよ。
  • 群淘汰 (group selection) 説が正しくないことを、 証明せよ。
  • 「学習」はダーウィン主義の根本をくずしてしまうわけではないことを 証明せよ。
  • 性淘汰の議論は (1) 淘汰と整合しないわけではない、 そして、 (2) 同語反復になっているわけではない --- ことを証明せよ。
  • 以上、Pangloss 論文とはとくに関係ない。 これまで僕が進化論に関して理解していないこと (疑問に思っていること)を列挙しただけである。
  • 『ダーウィンの危険な思想 --- 生命の意味と進化』 (デネット 2000)、とくに 第10章をよんで、 グールドの議論がどのように論駁されているのかを確認せよ。
  • 『進化論の何が問題か --- ドーキンスとグルードの論争』 (垂水 雄二 2012) を再読して、 ドーキンスがグールドにどのように反論しているのかを確認せよ。 --- デネットの議論は、たぶん(おぼろげな記憶だが)、 グールドに負けたくないので、 余計な衒学趣味・もってまわった議論がおおかったと思う。 たぶんドーキンスの方がストレートに議論を展開してくれていると思う。
  • この論文で説明ぬきで導入されている Bauplan の考え方は、 人類学の機能主義にとりいれることができるのではないか。

2025-09-23 Tue

 flores-web の「交換」の項を書き始める---flores-web は実験的に公開しています: [Anthropology]

flores-web(フローレス島の民族誌ウェブ) (flores-web) を しばらくの間公開している。 いずれ行なう本格的な公開のための準備である。 あと1週間ほどでまた閉じる予定だ。

エンデの交換についての総説、 「交換(総説)」 (flores-web) を書きはじめた。 アフリカの民族誌から「情愛の経済」 ("economy of affection") の 言葉を導入した。 それに対応することばとして「非情の経済」を作った。 [--これは、ぼくの造語だ--] なかなか。

ただし、「情愛の経済」と「非情の経済」とは、 「生活に埋め込まれた経済」と「離床した経済」に対応することを、 どこかで述べなければいけない。

[15:22:53] ChatGPT との会話 (phil-web) を作る。

2025-07-22 Tue

 コンピューターに入力していない手書きのフィールドワーク資料を ChatGPT に 読みとりしてしてもらった---こんなに簡単に出来るんだ。これからフィールドで入手した物語をいくつかアップロードしていきたい: [Anthropology]

まだコンピューターが普及していない頃(1980年代)、 フィールドノーツのまとめをルースリーフに丁寧に書き写していた。 それらの手書きのまとめに対して OCR を試したこともあるが、 まるで失敗だった。 なんというか、文字化けのような結果がでてくるのだ。

ダメモトで ChatGPT に読みとりができるか尋ねてみた。 「丁寧に書かれたものなら可能性はある」ということ。

pdf を送ると、「OCR をかけていない」と却下される。 「いまから、OCR をかけるのに・・・」。 しかたないので jpg で一枚づつ (1枚が現地語、1枚が日本語)おくる。

びっくり。 かなりの精度で読み取っていた。

まずは、いささかスカトロジックな 「オンド戦役」 のトランスクリプションと、 その翻訳を flores-web にアップロードした。

2025-07-18 Fri

 本日「とうもろこしを搗く」の英語への翻訳を終了!---今月にはいってから(20日弱で)わたしの書いた日本語論文の英語への翻訳 3本(「いじめの誘惑」、「象牙をたどる」、そして「とうもろこしを搗く」)、おより英語論文のインドネシア語訳1本(「フローレス島の歴史」)をおえた。ChatGPT、有能!: [Anthropology]

「いじめの誘惑」の原稿は以下を、それぞれ、クリックせよ: 日本語英語

「フローレス島の歴史」は: 英語インドネシア語

「象牙をたどる」は: 日本語英語

「とうもろこしを搗く」は: 日本語英語

2025-07-01 Tue

 こないだ学会で発表した論文「いじめの誘惑 --- ヒト、空気を読む」を ChatGPT をつかって英語に翻訳した---内容チェックはとにかく、とりあえず英語版を発表してしまうことにした。いつものところにアップロードしてあります: [Anthropology]

ChatGPT をつかって、 「いじめの誘惑」の原稿を翻訳する。 形式的にはうまくやってくれた。 1時間ちょっとで完了した。 これから内容のチェックをするところなのだが、 はやめに発表したかったので、とりあえずアップロードした。 ここです --- bully.en.html

つぎはエンデ関係の論文だ!

2025-05-28 Wed

 学会まであと10日;発表予定の原稿、「いじめの誘惑 --- ヒト、空気を読む」のファースト・ドラフト完成---15分の持ち時間だが、読んでみたら30分かかった (- -;): [Anthropology]

6月8日の日本文化人類学会の研究大会での発表原稿、 難産だったが、なんとかおわった。 〆切りの魔力だ。 内容もよいと思う。 ここ にあります。

とはいうものの、 長過ぎる。 いまから10日間でなんとか半分にしなければ・・・。

2025-03-15 Sat

 こんどは「科学」と「民主主義」という概念を(それぞれ)一つの基準で定義できてしまうように、細工してみよう---そうすると原発反対論や環境主義がポピュリズムになる: [Anthropology]

さて、ポピュリズムについて先日書いた文章では、 「科学と疑似科学の間に線引きができないように、 民主主義と疑似民主主義(ポピュリズム)の間にも 線引きができない」 --- こんな結論がでるかもしれない、という議論をしてみた。

今回は「線引きはできる」というアイデアを 追ってみよう。 要するに、 手頃な基準を選んで、 それにあわせて概念を細工しようというのだ。 (パトナム風に言えば民主主義を〈一基準語〉にしてしまうのだ)

科学の線引き問題で参考にした ラウダン (Laudan 1983) に戻ろう。 彼が 議論の中で取り上げた(そして取り下げた) さまざまな基準がある --- 「検証可能である」、 「反証可能である」(ポパー)、 「よくテストされている」などなどだ。 そのうちの一つに 「進歩や成長」という基準がある。 これについては (伊勢田の論文 (伊勢田 2019)から孫引きするが) 「進歩や成長を科学の要件としてし まうと、ニュートン力学のように完成されてそれ自体として はもはや発展の余地がない分野が科学でなくなってしまう」 (だから基準として採用できない)と (ラウダンは)言うのだ。

私はここでラウダンから袂を分かちたい。 ラウダンの直前の議論は、 (1) 「これこれの基準をつかうと、私たちが直観的に「科学」だとしてきた 理論まで「科学」ではなくなってしまう」というものである。 そして、(2) 「(だから)私たちが直観的に「科学」と呼んでいるものをテストする 基準はない」と結論する。 私がやりたいのは、(1) を認めた上で、 (2')「私たちが「科学」という概念を変えていく必要があるのだ」という 結論とすることである。

これこそが戸田山・唐沢の言う「概念工学」 ((戸田山・唐沢(編) 2019)) (「概念のエンジニアリング」)であろう(知らんけど)。

これから じっさいに工作(エンジニアリング)を行ないたいのは「民主主義」という概念である。

まず「科学」という概念に工作してみよう。 ラウダンの議論の前提はこうだった --- (1) 「進化と成長の基準をつかうと、 ニュートン力学まで「科学」ではなくなってしまう」。 「だからこの基準は採用しない」というのだが、 私が提案するのは「だからニュートン力学は科学ではない」と結論しよう、というのだ。 より正確に言えば、 「18世紀・19世紀にはニュートン力学は科学だったが、 現在は科学ではない」と。 これならば、 通常の「科学」という語の使用とはかけ離れてはいない、と私は思う。

さて、民主主義を一基準語にしよう。 「民主主義」という概念を、 ある基準でテスト可能なように作り替えよう。

候補としては 数えきれない数の基準(なにが民主主義と疑似民主主義を分けるのかを決める基準)があろう。 馬鹿らしい基準、「その思想に賛成する人が100人以上の思想」とか、 「その思想を最初に言い出した人の名前が「あ」で始まる」とかもあるだろう。 また、まっとうな基準もある。 水島のあげているこれまでのポピュリズムの定義を例として出しておこう。 「カリスマがいる」とか、 「人民に重きを置く」などなどの基準が考えられる。

私は「進歩や成長」をその基準としたい --- ラウダンが 科学と疑似科学を分ける基準として取り上げた あの「進歩や成長」である。 私は、 「進歩や成長」は、 民主主義と疑似民主主義を分ける基準として十分に意義があると思う。 「民主主義」とよびたい思想、運動があったとき、 それ自身が進歩や成長するものであれば「民主主義」と呼び、 そうでなければ「疑似民主主義(ポピュリズム)」と呼ぼうというのだ。 そのように「民主主義」という概念を変更していきたい。

これから、 「進歩や成長」を「民主主義」の基準として 採択することを擁護していくわけだが、 まずは、関連する一つの現象を指摘したい --- 水島は言う、 「ポピュリズムの特徴として最後に挙げるべきは、 そのイデオロギーにおける「薄さ」である」 (水島 2016) と。 ポピュリズムと呼ばれる思想を構成する一つひとつの単位、 たとえば「移民排斥」、「反科学主義」などなどは、 それについて皆で議論するようなテーマではない。 それは信じるか、信じないかというテーゼなのだ。 信じていれば「真」、信じていなければ「偽」となる。 それだけだ。 それ以上に議論は発展しない --- 「進歩」も「成長」もないのだ。

「民主主義はみなで議論することで成長する思想だ」というのではなく、 「みなで議論することで成長する思想を民主主義と呼ぶ」というのだ。 そして、そうでないものが「疑似民主主義(ポピュリズム)」なのである。

この新しく工作した(エンジニアした)概念、 「民主主義」そして「疑似民主主義(ポピュリズム)」では、 これまでの直観的な使い方とのずれも生まれることになる。 たとえば、 (トランプの大嫌いな)「環境運動」や(清く正しい)「原発運動」もまた 「疑似民主主義(ポピュリズム)」に分類されることになるのだ。 [--深入りしないが、「良い」ポピュリズム、「悪い」ポピュリズムがあるのだろう--] そのずれを引き受けた上で、 これからこの新しい「民主主義」および「疑似民主主義(ポピュリズム)」の 概念の有用性を示していきたい。

(続く)

2025-03-13 Thu

 科学と疑似科学の間、デモクラシーとポピュリズムの間に境界線をひくことができるのか?---「できない」という議論をつくってみよう: [Anthropology]

この頃「ポピュリズム」と「陰謀論」が気になっている。 思いつくことを書きとめておこう。

わたしの辞書で "populism" を引いてみた。 訳は1つだけ「人民主義」(ナロードニキの思想)である。 これにはびっくりした --- 直観的に「良き政治思想」と考えられる思想もまた、 「ポピュリズム」のラベルのもとに分類されるのだということにびっくりしたのだ。 「ポピュリズム」というコトバは最近作られたコトバで、 悪しき思想へのラベルだとばかり思っていたのだ。

というわけで、 『ポピュリズムとは何か --- 民主主義の敵か、改革の希望か』 (水島 2016) をぱらぱらと読んでいる。 民主主義とポピュリズムをどうやって区別するのか、が 大問題であることがわかった --- そうか、 線引き問題 (demarcation problem) だ。

この言葉、「線引き問題」を使ったのは、 〈民主主義対ポピュリズム〉の対立を 〈科学対疑似科学〉の対立に重ねたかったからだ。 科学対疑似科学の線引きの難しさは、 伊勢田(2003)が『疑似科学と科学哲学』で議論している 通りだ。

この本を読んだのはずい分前なので記憶が曖昧だが・・・

はっきりと疑似科学と(直観的に)わかるもの (たとえば UFO 論)を 「非科学的」だと論証する (or vice versa) のは とても難しいのである。 伊勢田は「科学と判断するための」 いろいろな操作的な基準を出してくるのだが、 (たとえば学術雑誌があるか、などなど) UFO 論はこれらの基準をすべてクリアしてしまうのだ。

けっきょく科学と疑似科学を区別するすべはないだろう、 というのが現代の哲学の趨勢だと伊勢田は おしえてくれる。(伊勢田自身の結論はそのような趨勢とは異るのだが、 彼の議論はここでは触れない。) ラウダンという哲学者は 満足できる基準をみつけることは不可能であり、 「科学の線引き問題は疑似問題だ」 (Laudan 1983)と 宣言した(という)。 ある理論が科学か疑似科学かという問いは意味がなく、 われわれがすることが可能なのは 「それがいい科学か、悪い科学か」と問うことだけだというのだ。

水島の『ポピュリズム・・・』の冒頭部分を読んで学んだのは 同じようなことが 民主主義(デモクラシー)とポピュリズムの間の線引き問題にも 言えそうだということだ。 (以降、「ポピュリズム」の同義語として 「疑似民主主義」を使用する。) 当該の本から一節を引用しよう。 「西欧のポピュリズムでは、 右派であっても民主主義や議会主義は基本的な前提とされており、 暴力行動を是認する、 いわゆる極右の過激主義とは明らかに異なる。 ポピュリストの多くは、 少なくとも主張においては、 「真の民主主義者」を自任し、 人民を代表する存在と自らを位置づけている」(location232)。 このように水島は言う。

こう聞くと、ラウダンといっしょに言いたくなる --- 「ある理論が民主主義か疑似民主主義(ポピュリズム)かという問いは意味がなく、 われわれがすることが可能なのは 「それがいい民主主義か、悪い民主主義か」と問うことだけだというのだ」と。

(続く)

2024-12-08 Sun

 東南アジア学会二日目、「千の唇、百の舌」原稿を発表する: [Anthropology]

きょうは東南アジア学会の二日目、 ぼくの発表がある日だ。

この頃のぼくの発表は(計画としては)一年にできるだけ三種類の発表を したいと思っている: 民族誌的なもの、理論的なもの、その中間の三種類だ。 KAPAL での発表が最も民族誌的なもので、 日本文化人類学会での発表が最も理論的なもの、 そして、東南アジア学会ではその中間を発表しようと考えている。 先日 KAPAL で 「酸っぱくなっても飲み、腐っても食べる --- エンデにおける先行と階層」を 発表した。 これが民族誌的なものだ。 きょうの発表は 「千の唇、百の舌 --- エンデにおける無記名性の悪意」 である。 これが(民族誌と理論の)中間地点となる。 もっとも理論的ないずれ日本文化人類学会での発表(2025年の6月ころ)になる --- テーマは「冗談」となる予定だ。

さて、今日の日誌に戻ろう。

発表はほぼ定刻(午前11時ちょうど)に始まる。 原稿は、ここ数週間七転八倒でとりくんでいた 「千の唇、百の舌」 である。 時間が来たので、原稿を読み上げる --- 途中から調子があがって、 一気に読み通した。

あ・・・気持ちよかった。

みなさんのコメント・質問もいい感じ。

ぼくの発表がお昼休み前の最後の一本だった。 その後にも数人が演壇までやってきて質問してくれた。

今週中にこの質疑応答をとりいれたバージョンアップを行ないたい。

2024-12-05 Thu

 「千の唇、百の舌」の最終形態を発見する!---これで発表予定日の一日前の懇親会、および二次会に出席できそうだ: [Anthropology]

日曜日(しあさって)に迫った 東南アジア学会の 第106回研究大会でのぼくの発表 「千の唇、百の舌」が再び沈滞している。 こないだの「夜の教え」もうまくいかなかった。 「責任」・デフィージビリティ (defeasibility) 論で終えるのも 「なんだかなぁ・・・」なのだ。

今朝の散歩の途中でこんな風な筋を思いついた。 「とりあえず」としてはまぁまぁかな。

(1)結論は「属性的分類と関係的分類」にする。 責任の問題系となじむ --- 意図をもって行為する個(属性的分類)vs 空気を読んで動く孤(関係的分類)。

(2) 「属性的・・・は説明論だ」ということで、 ニーダムの心理主義批判とも結びつく。

(3) ディフィージビリティ (defeasibility) には 言及しない。 責任の問題は軽く触れるにとどめる。

なんとか今日中に 第1ドラフトを終わらせることができそうだ。 明日チューンナップすれば、 明後日(あさって)の懇親会に余裕で出席できそうだ --- 発表は明々後日(しあさって)だ。

2024-12-04 Wed

 「千の唇、百の舌」から冗談の議論は削除し、責任の問題に集中する---なんとかなるかも: [Anthropology]

東南アジア学会の 第106回研究大会でのぼくの発表原稿 「千の唇、百の舌」がスタックしている。 朝の散歩で、この原稿に関してのいろいろアイデアが浮かんだ。 基本的には一気にダイエットして、 議論を絞るということだ。

第一に(理論篇第3章で展開する予定だった)「冗談」の議論は 日本文化人類学会での発表(来年の6月) 「いじめの誘惑」に移動することとする。 日本文化人類学会の発表で、それ(冗談)だけを徹底的に議論したい。

そうすると、 理論篇は「無記名性」の問題だけになる。 これを「黙約から規約へ」の問題に接木すると、 とてもとても長くなる。 「黙約・規約」の問題は、 (「冗談」問題と同様に) 「いじめの誘惑」(日本文化人類学会発表)で扱うことにする。

さて「無記名性」の問題だ。 この問題は、 むしろ「責任」の問題に接木すべきだろう。 そうすることで、 これまでの defeasibility の僕の議論 (たぶん既発表の論文は 「不倫と肥満」 (中川 2017) だけだろう)と 対比させる。

責任の問題が結論部になるのかな。 ともかく、 結論部の本論にはいる前に、 お蔵入りさせた「ニーダムとホマンズとシュナイダー」議論を 復活させるべきだろう。 「これで心理主義ではない」言い訳の部分だ。 (「魔法の瞬間」への言及は削除する。)

無記名性の問題を責任とからめて書くのが結論部となるだろう。

その手前で、 「個と孤」の問題をつぎのように説明する。 鹿川くん事件のいじめの主体が「孤」であること、 それが近代の「個」と対比される。 このような書き方の中で、 多くの読者が西洋(個)対日本(孤)という図式をあたまに 描いただろう。 別役はその誘惑には負けていない。 彼の図式はむしろ、 近代(個)対ポスト近代(孤)である。 こちらの方が魅力的ではある。

わたしはこの対立は時間順に配置されるものではないと思う。 それはむしろ(どの時代、どの地方においても) 人間の頭の中にインプリメントされていると、 わたしは考える。

この議論から「不倫と肥満」の 責任の問題(まるちゃんなどなど)にもっていく。

なんとかなりそうかな。

第1章の「プッウからタウへ」の流れをもっと 洗練させる必要がある。

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