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Anthropology - 残日録 --- The Remains of the Day

最終更新時間: 2025-12-10 13:51

2025-12-06 Sat

 東南アジア学会で「根幹から枯れ枝へ」を読む---発表をはじめると恍惚状態になってしまう;神 空にしろしめす: [Anthropology]

ぼくの発表は 12時50分から13時25分までだ。 「根幹から枯れ枝へ」 (merapano)を読む。 さいごはわりと余裕があったので、 ゆっくり読んだ。 残り時間「あと5分」で読み終わった。 (本来は 13時10分、「あと 15分」までに読み終わることが期待されている)

「神 空にしろしめす。すべて世はこともなし」って感じ。 しあわせ、しあわせ。

2025-12-04 Thu

 土曜日の午後の発表(20分&15分)のための原稿「根幹から枯れ枝へ」を読み上げる---昨日は70分かかったが、今日は 40分;あと少し;でも、もう削る箇所がない・・・: [Anthropology]

ずっと 「根幹から枯れ枝へ」 (merapano) の作業をしていた。 4時過ぎにいったん作業をとめる。 Zoom をつかって読み上げてみる(疑似発表)。 ほんとうに滑舌がわるくなっている。 どもりながら発表を終える。 40分だった。 ちゃんと時間内で読み終わる可能性がでてきた。

2025-11-22 Sat

 東南アジア学会発表の「根と幹から枯れ草まで」の流れ---公理(「原理」)をはっきりさせる: [Anthropology]

数学のように、 公理(あらかじめ与えられたもの)から、 なにかを証明する。 そのような「公理」に相当するもので、 「原理」と呼ぶ。

(1)「モースの原理」、交換が関係をつくる。

(2)「生命の流れの原理」、ワイフ・ギバーが ワイフ・テイカーに生命を与える。

(3)「アキカエシの原理」、 負債が紐帯をつくる。

ロティなどの「生命の路」"Path of Life" は 「生命の流れ」を二回適用したものだ。 エンデの「婚資で結ばれたキョウダイ」は、 (1)と(3)から導出される。

2025-11-19 Wed

 学会発表まであと16日;答が浮かばない---「夜」が来るのをじっと待つ: [Anthropology]

12月6日の東南アジア学会の発表が進まない。 問題ができたので、安心していたのだが・・・。 たいていは、問題さえ作ることができれば、 答は自ずと出てくるものなのだが、 どうも、安心し過ぎたようだ。 もう1ヶ月ほど渋滞したままだ。

エンデでは、寝ているときに「夜」が教えてくれるという (エンデ語で「コンベ・ソッド」と言う)、 まだ夜は来ていない。

去年の同じ頃の日誌を調べると、 KAPAL (インドネシア研究懇談会)では 10日前に「夜」がやってきていた。 東南アジア学会では、 なんと 3日前にやっと夜の訪れがあった。 そのわりに全然あせっていない・・・。

今年もどっしり構えて、 夜が来るのを待とうかしらん。

2025-10-18 Sat

 パングロス論文を読み終えて考える---もっと勉強しなくては: [Anthropology]

以下は、 「進化学界においては、 パングロス論文は間違ったものとされ、中間説は定説になっている」という 理解にもとづいて書きます。

グールドとルウォンティンが パングロス論文、 すなわち、 "The Spandrels of San Marco and the Panglossian Paradigm: A Critique of the Adaptationist Programme" (Gould \& Lewontin 1979) の 中で目指すのは、適応至上主義はまちがっており、 進化にはそれ以外の道もあるのだ、ということを示すである。 そこで出された様々な具体的な案はどれも面白いが、 それらはさておき、 野望は以上のとおりだ --- すなわち、 適応で説明するのがいかんというのではなく、 それだけではないよ、という議論だ。

中間説とは、まさにそのような答えじゃないのだろうか?

分子レベルだと中間説(自然淘汰じゃないよ)はよくて、 表現型レベルだと中間説(自然淘汰じゃないよ)はよくない、というのだろうが、 その辺の議論が、ぼくにはよく分かっていない。

2025-10-15 Wed

 Pangloss 論文を読み終わる---とてもよく出きている論文だ;「終わっている」論文のようには思えない: [Anthropology]

The Spandrels of San Marco and the Panglossian Paradigm: A Critique of the Adaptationist Programme (Gould \& Lewontin 1979) を読みおわった。 ぼくがずっと思っていた疑問を、 明解に(いささか余計な衒いが多いが・・・)述べた論文だ。 以下、感想をかねた Todo と自分への設問。

Pangloss を読み終わって

  • なぜ「遺伝子がそれ自身を再生産することが、それにとっての 生きる目的になる」ことが、 トートロジー(問答無用の真理)になるのか、を証明せよ。
  • 群淘汰 (group selection) 説が正しくないことを、 証明せよ。
  • 「学習」はダーウィン主義の根本をくずしてしまうわけではないことを 証明せよ。
  • 性淘汰の議論は (1) 淘汰と整合しないわけではない、 そして、 (2) 同語反復になっているわけではない --- ことを証明せよ。
  • 以上、Pangloss 論文とはとくに関係ない。 これまで僕が進化論に関して理解していないこと (疑問に思っていること)を列挙しただけである。
  • 『ダーウィンの危険な思想 --- 生命の意味と進化』 (デネット 2000)、とくに 第10章をよんで、 グールドの議論がどのように論駁されているのかを確認せよ。
  • 『進化論の何が問題か --- ドーキンスとグルードの論争』 (垂水 雄二 2012) を再読して、 ドーキンスがグールドにどのように反論しているのかを確認せよ。 --- デネットの議論は、たぶん(おぼろげな記憶だが)、 グールドに負けたくないので、 余計な衒学趣味・もってまわった議論がおおかったと思う。 たぶんドーキンスの方がストレートに議論を展開してくれていると思う。
  • この論文で説明ぬきで導入されている Bauplan の考え方は、 人類学の機能主義にとりいれることができるのではないか。

2025-09-23 Tue

 flores-web の「交換」の項を書き始める---flores-web は実験的に公開しています: [Anthropology]

flores-web(フローレス島の民族誌ウェブ) (flores-web) を しばらくの間公開している。 いずれ行なう本格的な公開のための準備である。 あと1週間ほどでまた閉じる予定だ。

エンデの交換についての総説、 「交換(総説)」 (flores-web) を書きはじめた。 アフリカの民族誌から「情愛の経済」 ("economy of affection") の 言葉を導入した。 それに対応することばとして「非情の経済」を作った。 [--これは、ぼくの造語だ--] なかなか。

ただし、「情愛の経済」と「非情の経済」とは、 「生活に埋め込まれた経済」と「離床した経済」に対応することを、 どこかで述べなければいけない。

[15:22:53] ChatGPT との会話 (phil-web) を作る。

2025-07-22 Tue

 コンピューターに入力していない手書きのフィールドワーク資料を ChatGPT に 読みとりしてしてもらった---こんなに簡単に出来るんだ。これからフィールドで入手した物語をいくつかアップロードしていきたい: [Anthropology]

まだコンピューターが普及していない頃(1980年代)、 フィールドノーツのまとめをルースリーフに丁寧に書き写していた。 それらの手書きのまとめに対して OCR を試したこともあるが、 まるで失敗だった。 なんというか、文字化けのような結果がでてくるのだ。

ダメモトで ChatGPT に読みとりができるか尋ねてみた。 「丁寧に書かれたものなら可能性はある」ということ。

pdf を送ると、「OCR をかけていない」と却下される。 「いまから、OCR をかけるのに・・・」。 しかたないので jpg で一枚づつ (1枚が現地語、1枚が日本語)おくる。

びっくり。 かなりの精度で読み取っていた。

まずは、いささかスカトロジックな 「オンド戦役」 のトランスクリプションと、 その翻訳を flores-web にアップロードした。

2025-07-18 Fri

 本日「とうもろこしを搗く」の英語への翻訳を終了!---今月にはいってから(20日弱で)わたしの書いた日本語論文の英語への翻訳 3本(「いじめの誘惑」、「象牙をたどる」、そして「とうもろこしを搗く」)、おより英語論文のインドネシア語訳1本(「フローレス島の歴史」)をおえた。ChatGPT、有能!: [Anthropology]

「いじめの誘惑」の原稿は以下を、それぞれ、クリックせよ: 日本語英語

「フローレス島の歴史」は: 英語インドネシア語

「象牙をたどる」は: 日本語英語

「とうもろこしを搗く」は: 日本語英語

2025-07-01 Tue

 こないだ学会で発表した論文「いじめの誘惑 --- ヒト、空気を読む」を ChatGPT をつかって英語に翻訳した---内容チェックはとにかく、とりあえず英語版を発表してしまうことにした。いつものところにアップロードしてあります: [Anthropology]

ChatGPT をつかって、 「いじめの誘惑」の原稿を翻訳する。 形式的にはうまくやってくれた。 1時間ちょっとで完了した。 これから内容のチェックをするところなのだが、 はやめに発表したかったので、とりあえずアップロードした。 ここです --- bully.en.html

つぎはエンデ関係の論文だ!

2025-05-28 Wed

 学会まであと10日;発表予定の原稿、「いじめの誘惑 --- ヒト、空気を読む」のファースト・ドラフト完成---15分の持ち時間だが、読んでみたら30分かかった (- -;): [Anthropology]

6月8日の日本文化人類学会の研究大会での発表原稿、 難産だったが、なんとかおわった。 〆切りの魔力だ。 内容もよいと思う。 ここ にあります。

とはいうものの、 長過ぎる。 いまから10日間でなんとか半分にしなければ・・・。

2025-03-15 Sat

 こんどは「科学」と「民主主義」という概念を(それぞれ)一つの基準で定義できてしまうように、細工してみよう---そうすると原発反対論や環境主義がポピュリズムになる: [Anthropology]

さて、ポピュリズムについて先日書いた文章では、 「科学と疑似科学の間に線引きができないように、 民主主義と疑似民主主義(ポピュリズム)の間にも 線引きができない」 --- こんな結論がでるかもしれない、という議論をしてみた。

今回は「線引きはできる」というアイデアを 追ってみよう。 要するに、 手頃な基準を選んで、 それにあわせて概念を細工しようというのだ。 (パトナム風に言えば民主主義を〈一基準語〉にしてしまうのだ)

科学の線引き問題で参考にした ラウダン (Laudan 1983) に戻ろう。 彼が 議論の中で取り上げた(そして取り下げた) さまざまな基準がある --- 「検証可能である」、 「反証可能である」(ポパー)、 「よくテストされている」などなどだ。 そのうちの一つに 「進歩や成長」という基準がある。 これについては (伊勢田の論文 (伊勢田 2019)から孫引きするが) 「進歩や成長を科学の要件としてし まうと、ニュートン力学のように完成されてそれ自体として はもはや発展の余地がない分野が科学でなくなってしまう」 (だから基準として採用できない)と (ラウダンは)言うのだ。

私はここでラウダンから袂を分かちたい。 ラウダンの直前の議論は、 (1) 「これこれの基準をつかうと、私たちが直観的に「科学」だとしてきた 理論まで「科学」ではなくなってしまう」というものである。 そして、(2) 「(だから)私たちが直観的に「科学」と呼んでいるものをテストする 基準はない」と結論する。 私がやりたいのは、(1) を認めた上で、 (2')「私たちが「科学」という概念を変えていく必要があるのだ」という 結論とすることである。

これこそが戸田山・唐沢の言う「概念工学」 ((戸田山・唐沢(編) 2019)) (「概念のエンジニアリング」)であろう(知らんけど)。

これから じっさいに工作(エンジニアリング)を行ないたいのは「民主主義」という概念である。

まず「科学」という概念に工作してみよう。 ラウダンの議論の前提はこうだった --- (1) 「進化と成長の基準をつかうと、 ニュートン力学まで「科学」ではなくなってしまう」。 「だからこの基準は採用しない」というのだが、 私が提案するのは「だからニュートン力学は科学ではない」と結論しよう、というのだ。 より正確に言えば、 「18世紀・19世紀にはニュートン力学は科学だったが、 現在は科学ではない」と。 これならば、 通常の「科学」という語の使用とはかけ離れてはいない、と私は思う。

さて、民主主義を一基準語にしよう。 「民主主義」という概念を、 ある基準でテスト可能なように作り替えよう。

候補としては 数えきれない数の基準(なにが民主主義と疑似民主主義を分けるのかを決める基準)があろう。 馬鹿らしい基準、「その思想に賛成する人が100人以上の思想」とか、 「その思想を最初に言い出した人の名前が「あ」で始まる」とかもあるだろう。 また、まっとうな基準もある。 水島のあげているこれまでのポピュリズムの定義を例として出しておこう。 「カリスマがいる」とか、 「人民に重きを置く」などなどの基準が考えられる。

私は「進歩や成長」をその基準としたい --- ラウダンが 科学と疑似科学を分ける基準として取り上げた あの「進歩や成長」である。 私は、 「進歩や成長」は、 民主主義と疑似民主主義を分ける基準として十分に意義があると思う。 「民主主義」とよびたい思想、運動があったとき、 それ自身が進歩や成長するものであれば「民主主義」と呼び、 そうでなければ「疑似民主主義(ポピュリズム)」と呼ぼうというのだ。 そのように「民主主義」という概念を変更していきたい。

これから、 「進歩や成長」を「民主主義」の基準として 採択することを擁護していくわけだが、 まずは、関連する一つの現象を指摘したい --- 水島は言う、 「ポピュリズムの特徴として最後に挙げるべきは、 そのイデオロギーにおける「薄さ」である」 (水島 2016) と。 ポピュリズムと呼ばれる思想を構成する一つひとつの単位、 たとえば「移民排斥」、「反科学主義」などなどは、 それについて皆で議論するようなテーマではない。 それは信じるか、信じないかというテーゼなのだ。 信じていれば「真」、信じていなければ「偽」となる。 それだけだ。 それ以上に議論は発展しない --- 「進歩」も「成長」もないのだ。

「民主主義はみなで議論することで成長する思想だ」というのではなく、 「みなで議論することで成長する思想を民主主義と呼ぶ」というのだ。 そして、そうでないものが「疑似民主主義(ポピュリズム)」なのである。

この新しく工作した(エンジニアした)概念、 「民主主義」そして「疑似民主主義(ポピュリズム)」では、 これまでの直観的な使い方とのずれも生まれることになる。 たとえば、 (トランプの大嫌いな)「環境運動」や(清く正しい)「原発運動」もまた 「疑似民主主義(ポピュリズム)」に分類されることになるのだ。 [--深入りしないが、「良い」ポピュリズム、「悪い」ポピュリズムがあるのだろう--] そのずれを引き受けた上で、 これからこの新しい「民主主義」および「疑似民主主義(ポピュリズム)」の 概念の有用性を示していきたい。

(続く)

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