論文は、 「千の唇、百の舌」 (merapano)である。
ChatGPT に比べるとものすごい速さだった。 もっとも、 ChatGPT も最初の翻訳はすぐにやり遂げた。 できあがりはこれだ --- A Thousand Lips, A Hundred Tongues (merapano) 。 読んでみると、いろいろ気になるところがある。
ここ数日、胃が痛かった。 日本文化人類学会の研究大会発表要旨登録の 〆切り(2026-01-12)が近づいていたからだ。 今日、なんとかまとまりのある文章(1500字)を書き上げた。 タイトルは(三島由紀夫をひねって) 「よろめきの美徳」 (merapano) だ。 要旨登録もすませた。 [--MSWord は拷問だ--]
やることはやったので、 あとは、「夜が教えてくれる」(啓示が来る)のを待つばかり。 なんとかなるでしょう。
なお、直前の発表は 「いじめの誘惑」 (merapano) である。
最初に宣言するが、 「えらい人が言ったことを正確に把握する」のは、 ぼくはとても苦手とする分野だ。 しかしながら、今回は、それをやってみようと思っている。
ダニエル・デネットが何をいっているのかをまとめたい。 このような設問には、 何か焦点がないと答えるのは難しい。 「デネット的な人類学はどのようなものか」、 この問いに答える形で、 デネットの議論をまとめてみたい。
『思考の技法: 直観ポンプと77の思考術』 (デネット 2015) の項目から、 人類学の定義に関連して、 重点的に参考にすべきは、以下の二つの項目だ。
一つは「ヘテロ現象学」(VII 意識について考える道具)、 もう一つが「素朴自己人類学としての哲学」 (IX 哲学者であるとはどのようなことか) である。 [--括弧の中はその項目の属している章の名前である--]
さらに、 道具としてもっとも人類学に関係するのが「日常的イメージ」 (「外見的イメージと科学的イメージ」 III 意味あるいは 心的内容について思考する道具)だろう。
この項つづく(たぶん)。
パブリッシュしたバージョンに、 よけいな箇条書きがのこっていた 以下の三論文に手をいれた: 「象牙をたどる」、 「とうもろこしを搗く」、 「頭をつかむ」。
[16:17:32] 退職 (2019-03) 以降、 毎年3つの学会で発表している。 KAPAL(インドネシア研究懇話会)(7月)、日本文化人類学会(6月)、東南アジア学会、である。 [--今年は KAPAL がなかったので2回だったが--] 日本文化人類学会(九州)の発表の申し込み〆切りが1月である。 簡単なものでいいのだが、 そろそろ内容を考えておかなければいけない。
タイトルは予定どおり「よろめきの美学」で発表する。 ただし、内容がまだ決まっていない。 なにをすべきか考えている。 「よろめき」(二つの複相の話)に何を絡めるか、だ。
心の議論をもってくるか? すでに何度もやっている、次のような話だ。 システムが単純なインプット・アウトプット (刺激と反応、原因と結果)をもっているならば、 それは観察者に物理姿勢を呼び起こさせる、 原因・結果でわりきれない時に (説明不能の時に)、 観察者はシステムの影の部分を (なにか複雑な処理をしている)「心」と呼ぶのである。
新鮮さがない。 いままで「ダンゴムシ」 (『ダンゴムシに心はあるのか(PHPサイエンス・ワールド新書)』 (森山 2011) )を例にだしていたが、 あらたにミミズ (『ミミズによる腐植土の形成』 (ダーウィン 2020))と 粘菌 (『粘菌 その驚くべき知性 (PHPサイエンス・ワールド新書)』 (中垣俊之 2010))を出す・・・くらいが新鮮味だ。
リアリズムのはなしとして、 「何が存在するか」みたいな議論をするのも面白いかもしれない。 --- どのように単相・複相とからめるかは今から考える。 セラーズの日常的イメージ (manifest image) や、 アリストテレスの存在論とかと絡めて議論すると面白いかも。 繰り返すが、 どのように「絡める」のかは、今の時点では、 全く見当がついていない。
ぼくの発表は 12時50分から13時25分までだ。 Conoha サーバーを読む。 さいごはわりと余裕があったので、 ゆっくり読んだ。 残り時間「あと5分」で読み終わった。 (本来は 13時10分、「あと 15分」までに読み終わることが期待されている)
「神 空にしろしめす。すべて世はこともなし」って感じ。 しあわせ、しあわせ。
ずっと Conoha サーバー の作業をしていた。 4時過ぎにいったん作業をとめる。 Zoom をつかって読み上げてみる(疑似発表)。 ほんとうに滑舌がわるくなっている。 どもりながら発表を終える。 40分だった。 ちゃんと時間内で読み終わる可能性がでてきた。
数学のように、 公理(あらかじめ与えられたもの)から、 なにかを証明する。 そのような「公理」に相当するもので、 「原理」と呼ぶ。
(1)「モースの原理」、交換が関係をつくる。
(2)「生命の流れの原理」、ワイフ・ギバーが ワイフ・テイカーに生命を与える。
(3)「アキカエシの原理」、 負債が紐帯をつくる。
ロティなどの「生命の路」"Path of Life" は 「生命の流れ」を二回適用したものだ。 エンデの「婚資で結ばれたキョウダイ」は、 (1)と(3)から導出される。
12月6日の東南アジア学会の発表が進まない。 問題ができたので、安心していたのだが・・・。 たいていは、問題さえ作ることができれば、 答は自ずと出てくるものなのだが、 どうも、安心し過ぎたようだ。 もう1ヶ月ほど渋滞したままだ。
エンデでは、寝ているときに「夜」が教えてくれるという (エンデ語で「コンベ・ソッド」と言う)、 まだ夜は来ていない。
去年の同じ頃の日誌を調べると、 KAPAL (インドネシア研究懇談会)では 10日前に「夜」がやってきていた。 東南アジア学会では、 なんと 3日前にやっと夜の訪れがあった。 そのわりに全然あせっていない・・・。
今年もどっしり構えて、 夜が来るのを待とうかしらん。
以下は、 「進化学界においては、 パングロス論文は間違ったものとされ、中間説は定説になっている」という 理解にもとづいて書きます。
グールドとルウォンティンが パングロス論文、 すなわち、 "The Spandrels of San Marco and the Panglossian Paradigm: A Critique of the Adaptationist Programme" (Gould \& Lewontin 1979) の 中で目指すのは、適応至上主義はまちがっており、 進化にはそれ以外の道もあるのだ、ということを示すである。 そこで出された様々な具体的な案はどれも面白いが、 それらはさておき、 野望は以上のとおりだ --- すなわち、 適応で説明するのがいかんというのではなく、 それだけではないよ、という議論だ。
中間説とは、まさにそのような答えじゃないのだろうか?
分子レベルだと中間説(自然淘汰じゃないよ)はよくて、 表現型レベルだと中間説(自然淘汰じゃないよ)はよくない、というのだろうが、 その辺の議論が、ぼくにはよく分かっていない。
The Spandrels of San Marco and the Panglossian Paradigm: A Critique of the Adaptationist Programme (Gould \& Lewontin 1979) を読みおわった。 ぼくがずっと思っていた疑問を、 明解に(いささか余計な衒いが多いが・・・)述べた論文だ。 以下、感想をかねた Todo と自分への設問。