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Anthropology - 残日録 --- The Remains of the Day

最終更新時間: 2025-11-04 13:02

2024-06-03 Mon

 講義録速報:『環境主義と人類学(仮題)』の「序」(intro)を書いている---v0.1.1 とする: [Anthropology]

先日公開した講義録の第1弾、 『環境主義と人類学(仮題)』 (environment) に、 全体の構成を示した章、 『序』 (intro) を書いてアップロードした。

バージョンを(v0.1.0 から)v0.1.1 とした。

2024-06-03 Mon

 講義録速報:『セックス・アンド・ジェンダー』をアップロードした---これは、いわば、試供品だ: [Anthropology]

私がはじめて授業をした時 (1988) に作った講義ノート、 『セックスとジェンダー』 (sex_and_gender)を 公開します。 公開するような内容ではないのですが (「出版」については考えていなかったので、 自分の文章と引用とが区別できないという大欠陥がある)、 オンライン出版の流れを説明する材料として使おうと思います。

バージョンは v0.1.0 です。

2024-06-03 Mon

 講義録のオンライン出版は3つのステップからなっている---3つ目のステップとして leanpub での商業出版をかんがえている: [Anthropology]

講義録のオンライン出版は 3つの段階(場所)からなっている。 以下の通りだ: (1) わたしの 私設ウェブ (www.merapano.net)、 (2) わたしの github-pages (merapano.github.io)、 そして最後に (3) leanpub を通じての出版である。

いくつかの例外はあるが、 ほとんどの講義録の License は Creative Commons Attribution-NonCommercial-NoDerivatives 4.0 International CC BY-NC-ND 4.0 である。

(1) 一つの講義録が最低限の形をなしたら、 私設ウェブ (www.merapano.net) で公開する。 形式は章ごとの html となる。 現在のところ、 『環境主義と人類学』、 および 『セックスとジェンダー』 の 二つの講義録が、 私設ウェブ上で公開されている。 なお、 バージョンは v0.1.0 から始まる。 ローカルでの細かい改善はすぐに公開版に反映させ、 改善の程度に応じてバージョン番号を増やしていく --- v0.1.0 から v0.1.1 など。 「ファーストドラフト」と呼べるようになった時点で、 バージョン番号を v1.0.0 として、 つぎの段階(2)に進む。 できればこの段階の原稿の引用は控えていただきたい。

(2) 「ファーストドラフト」としてのバージョン (v1.0.0) は わたしの github-pages で公開する。 この段階では章ごとにばらばらではなく、 すべてをまとめて本として(epub そして pdf として) アップロードする。 この段階に達した講義録はまだないが、 試供品として、 『セックスとジェンダー』をアップしておく。 epub は こちら(直接リンク)で、 pdf は こちら(直接リンク)である。 原稿の引用は、この段階からお願いしたい。 ページ数が必要な引用に関しては PDF バージョンを 使用していただきたい。 (なお github-pages に公開済および公開予定の 全講義録のインデックスは 現在 作成中である) なお、この段階になっても (1) の私設ウェブでの公開 (HTML) は 続いており、 細かいバージョンアップは主に HTML に対して行われる。 HTML のバージョンアップがある程度まとまった時に github-pages 版のバージョンアップを行なう。 バージョン番号は、例えば、 v1.0.0 から v.1.0.1 へとあがる (mastodon および bluesky を通じて速報を流す)。 バージョン番号が v1.1.0 になれば 次の段階 (leanpub) へ進むこととなる。

(3) ほぼ完成した原稿は v1.1.0 として leanpub に発表する。 この段階ではほとんどバージョンアップの作業はしない。

2024-05-05 Sun

 ゲームの規則があるのはゲームを面白くするため---『ブルーイー』の教え (^_-): [Anthropology]

日曜日のひるさがり『ブルーイー』を見た。 きょう見たエピソードは "Shadowlands" (「かげわたり」)だ。 ブルーイーとスニッカーズそしてココの 友達3人で「かげわたり」ごっこをするエピソードだ。 ごっこのルールは簡単で、 影があるところが陸で、 それ以外は海なのだ。 ポイントは海にはワニがいっぱいいる、ということだ。 さてじっさいに遊びはじめると、 問題に遭遇するたびに、 友達のココがすぐにルールを変えよう、変えようとするのだ。 ブルーイーとスニッカーズが「変えちゃだめ」と言う。 「なんで?」とココがせまるが、 二人はうまく答えられない。

さいごにはココも、 ルールを変えないほうが遊びが面白いことに気づく。 そして彼女は言う --- Rules make it fun!

こんど論文に引用しよ!

2024-01-08 Mon

 年末からの現実逃避を終え、しぶしぶ仕事をはじめた---6月の日本文化人類学会の申請書に手をつけた: [Anthropology]

去年の12月の半ばくらいから全く勉強をする気を失なっていた。 ひたすら現実逃避に走っていた。 Wombles の他に、 藤沢周平の本をもう一度読み返していた。 『三屋清左衛門残日録』(なんど読んでも素晴しい)、 『用心棒日月抄』そして『春秋の檻』などを読んでいた。

それから新しいコンピューター、 Chuwi Minibook X N100 を買い、 Linux 化をこころみた。

そんなこんなの現実逃避を終え、 やっと仕事にとりかかった。 まずは一週間で日本文化人類学会の研究大会の 申請書(抄録と要旨の作成)にとりかかる。 たまっていた分、進み具合が速いような気がする。

2023-12-12 Tue

 今週の土曜日の KAPAL (インドネシア研究懇話会)で発表予定の「頭をつかむ --- エンデで歴史を書き換える方法」の原稿がほぼ完成した---構成がいまいちなので、もう少し手を入れる必要があるかしらん: [Anthropology]

今回の発表「頭をつかむ」はエンデの「アキカエシ」三部作の最終回だ。 一回目「象牙を辿る」(旧題「従われない規則を守る方法」)では、 エンデでは (1) いわゆる「母方交叉イトコ婚」という規則が親族のイディオムではなく、 交換のイディオムで語られること、 (2) その交換の規則が守られないことによる負債が、 人と人とを結び付けている(「アキカエシ」の原理)ことを語った。 二回目「杵を搗く」(旧題「従われない規則を破る方法」)では、 その規則(母方交叉イトコ婚)を破った際にしなければならない さらなる交換について語る。 ポイントはその交換の規則が破られる、ということだ。 そうすることが負債をつくり、その負債こそが 人と人とを結び付けている(「アキカエシ」の原理)のである。

今回は過去においては規則が破られていないのにもかかわらず、 あたかも過去において規則が破られているかの如き状況を、 エンデの人が作りだすことについて述べている。 ここでもまた、負債によって 人と人とが結び付けられている(「アキカエシ」の原理)ことを 語る。

こないだの「ベクの認識論、レッダの存在論」(東南アジア学会)が 話題がてんこ盛りだったのに比べて、 こちらはポイントは1つ、 とてもすっきりした構造だ。 その分、ちょっと寂しい感じもある。

2023-11-27 Mon

 12月の東南アジア学会で発表予定の原稿、「ベクの認識論」の構成を考えついた: [Anthropology]

さっきの散歩のときに、 東南アジア学会(12-09)での発表 の構成を考えついた。 先日にも書いたように、 予告編を書いた時点での構成では、 とても30分で発表できないのだ。

タイトルは「ベクの認識論」。 ベク/レッダからオースティンの言語行為論(規約) (発語内の力から構成的規則へ --- 発語媒介行為などは省略する) に至るまでは これまでの考え方と同じ。 例としてはまず野球をだす。 それから1円玉を「歩」にする宣言などを出す。

「しかし、どこか違うような気がする」とつづける。

違うのは野球や将棋が「遊び」にすぎないのに、 ベクやレッダが実生活にかかわっている、という点である。 たしかに(オースティンによる)法廷での有罪の宣言などは 実生活にかかわっている。 しかし、有罪の宣言は(ベクやレッダのように)実生活に埋め込まれている [--いいコトバがない--]ようには見えない。

→ 資本主義社会の「公私」の区別と ギアツの lek の舞台恐怖症 (stage fright) の議論と重ねる。

ファインバーグの「無効化可能性」(ディフィージビリティ)の 概念を使う。 (ほんとうは、必要ない・・・ような気がする) あとで公私の話をもってくるので、 その話と無効化可能性あわないかもしれない。 たとえばいつもの(『ちびまるこちゃん』経由の) 「卑怯」と「小心者」の例は、公私の話とあわない。

→ レナの牛、レッダ。「公」としてのレッダについての フィールドワークのエピソードはどう使えばいいのだろうか・・・。

「ゲームに取り込む」議論 (両さん、在日韓国人、ンガンベ)はどこにあてはめる。 → 【ここはつながっている】 魚売り。

「意図」の話題がでてこないなぁ・・・。

2023-09-11 Mon

 特集「文化人類学を自然化する」の序文が完成した!---特集や論文集の序文はがらじゃない・・・: [Anthropology]

きょう一日かけて、 特集の自然主義への序文の 第一ドラフトが完成した。

上から目線で人の論文をまとめるのはどうも苦手だ。

とまれ、序文も完成し、 IT 大先生の八面六臂の活躍で原稿の(とりわけ引用の)体裁も 整えられて、 あともう少しで編集委員会に申請書を提出できそうだ。

2023-08-30 Wed

 12月のKAPAL(インドネシア研究懇話会)の研究大会での申請書がほぼできた---題名は「頭をつかむ:破るための規則を作る方法」: [Anthropology]

今年の12月には東南アジア学会の他に KAPAL (インドネシア研究懇話会)の例会もある。 申請の〆切りは 10月なのだが、 現実逃避(じつは明日〆切りの重要な原稿がある)で一気に 書き上げた。

前々回が「従われない規則を守る」 、 前回が「従われない規則をやぶる仕方」だ。 いささか分かりにくいので、 つぎのように改題する: 「象牙の路をたどる --- エンデで規則が破られるわけ」、 「とうもろこしを搗く --- エンデで規則を破るし方」。 そして、今回の発表が: 「頭をつかむ --- エンデで破るための規則を作るし方」 (Grasp a head --- how to make a rules so as to breach it) である。 題してエンデの規則三部作。 なお、「規則」は母方交叉イトコ婚の規則のことであり、 決してエンデの人は規則があると、何であろうとそれを破る --- という意味ではない。

2023-08-23 Wed

 東南アジア学会の12月の研究大会にむけての申請書の第一ドラフトを書き上げた---いつもの通りか「鬼面ひとを驚かす」類のタイトルです : [Anthropology]

発表のタイトルは「ベクの認識論、レッダの存在論: 東インドネシア、エンデにおける意図と規約」だ。 「意図と規約」は30年前(1992年)のぼくの本、 『異文化の語り方』であつかったテーマだが、 今のぼくのもっているあたらしい視点からじっくり語りたい。

2023-07-18 Tue

 『聖なるもの』(オットー)を読んでいる---ぼくの思惑とは 対象がずれていた: [Anthropology]

『聖なるもの』 (オットー 2010)を読んでいる。 フェティッシュや芸術関連の議論で「属性」について かんがえる脈絡だ。 「聖なる」という属性が、 一種の原初的な属性なのではないかと考えたのだ(とくに理由はない)。 そういう意味では いささか落胆した --- この本はキリスト教における 「聖なる」の意味をさぐる試みなのだ。 (「聖なる」という属性一般の話ではない) エンデのピレ (pirE) とか、 東ティモールの lulik などの属性と 比較したいのだが、 これでは比較がうまくできない。

また、この本で問題にしている 「キリスト教における聖なるもの」とは、 キリスト教が社会を覆い尽している時代の (あるいはそう思っている人の書いた)「聖なるもの」だ。 西洋に限定しても、キリスト教以前の時代とか、 宗教の衰退以降の時代とでは 「聖なる」もずいぶん意味が違うような気がする。 そのあたりも視野にいれて分析してくれれば、 ぼくにも役にたっただろう。 無条件でキリスト教を受け入れている人による、 キリスト教における「聖なる」属性の意味の分析は、 ぼくにとってはいささか狭過ぎる。

たとえば、 (オットーも書いているが) 「聖なる」の意味が「善なる」の意味と通底するのは、 エンデや東ティモールではあり得ないはなしである。 キリスト教限定の現象だろう(もしかしたらイスラム教も?)。

別の話題かもしれないが・・・ 社会がキリスト教に覆われた時代とは、 ポランニーの「経済に埋め込まれた社会」 (「頭山」状態)と同じような意味で、 「宗教に埋め込まれた社会」と言えるような状況なのかもしれない。 「宗教に埋め込まれた社会」を記述したらしい『聖なる天蓋』 (バーガー 2018)を 読み直してみようかしらん。

2023-07-12 Wed

 来年の人類学の学会発表は「いじめの悦楽」とする---今年の発表(「裏切りの美徳」)とスムーズにつながるぞ!: [Anthropology]

人類学の学会での発表、 2022年が「覗き見の美徳」、 2023年が「裏切りの美徳」だった。 来年(2024年)は「いじめ」をテーマにする。 さすがに「いじめの美徳」は PC ではないので、 「いじめの悦楽」とする。

なお、後日シリーズの統一がとれるように、 すべてのタイトルを変更しよう。 愉悦、悦楽、快楽などをつかおう。 「覗き見の美徳」は「覗き見の悦楽」 「裏切りの美徳」を「裏切りの愉悦」とするのはどうだろうか。 これで三部作は「覗き見の悦楽」、 「裏切りの愉悦」、「いじめの快楽」となる --- 「悪徳三部作」と呼ぶこととしよう。

読まなくてはいけないのは (含再読): 『ベケットと「いじめ」』 (別役 実 2005)が最重要文献だ。 この別役のすばらしい議論を、 デネットの志向姿勢の議論 ((デネット 2004)、 (デネット 1996))と むすびつけるとだいたいの枠組ができる。 さらに、「高次の志向システム」の議論とむすびつけると、 今回の「裏切りの愉悦」の類人猿の裏切りとつよく 結び付くこととなる。 できれば、Grice の議論をうまく組みこめれば最高だ --- Studies in the Way of Words (Grice 1989) など。

なんだか、本が書けてしまいそうでこわい (^_^)

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