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Anthropology - 残日録 --- The Remains of the Day

最終更新時間: 2025-04-28 11:12

2023-09-11 Mon

 特集「文化人類学を自然化する」の序文が完成した!---特集や論文集の序文はがらじゃない・・・: [Anthropology]

きょう一日かけて、 特集の自然主義への序文の 第一ドラフトが完成した。

上から目線で人の論文をまとめるのはどうも苦手だ。

とまれ、序文も完成し、 IT 大先生の八面六臂の活躍で原稿の(とりわけ引用の)体裁も 整えられて、 あともう少しで編集委員会に申請書を提出できそうだ。

2023-08-30 Wed

 12月のKAPAL(インドネシア研究懇話会)の研究大会での申請書がほぼできた---題名は「頭をつかむ:破るための規則を作る方法」: [Anthropology]

今年の12月には東南アジア学会の他に KAPAL (インドネシア研究懇話会)の例会もある。 申請の〆切りは 10月なのだが、 現実逃避(じつは明日〆切りの重要な原稿がある)で一気に 書き上げた。

前々回が「従われない規則を守る」 、 前回が「従われない規則をやぶる仕方」だ。 いささか分かりにくいので、 つぎのように改題する: 「象牙の路をたどる --- エンデで規則が破られるわけ」、 「とうもろこしを搗く --- エンデで規則を破るし方」。 そして、今回の発表が: 「頭をつかむ --- エンデで破るための規則を作るし方」 (Grasp a head --- how to make a rules so as to breach it) である。 題してエンデの規則三部作。 なお、「規則」は母方交叉イトコ婚の規則のことであり、 決してエンデの人は規則があると、何であろうとそれを破る --- という意味ではない。

2023-08-23 Wed

 東南アジア学会の12月の研究大会にむけての申請書の第一ドラフトを書き上げた---いつもの通りか「鬼面ひとを驚かす」類のタイトルです : [Anthropology]

発表のタイトルは「ベクの認識論、レッダの存在論: 東インドネシア、エンデにおける意図と規約」だ。 「意図と規約」は30年前(1992年)のぼくの本、 『異文化の語り方』であつかったテーマだが、 今のぼくのもっているあたらしい視点からじっくり語りたい。

2023-07-18 Tue

 『聖なるもの』(オットー)を読んでいる---ぼくの思惑とは 対象がずれていた: [Anthropology]

『聖なるもの』 (オットー 2010)を読んでいる。 フェティッシュや芸術関連の議論で「属性」について かんがえる脈絡だ。 「聖なる」という属性が、 一種の原初的な属性なのではないかと考えたのだ(とくに理由はない)。 そういう意味では いささか落胆した --- この本はキリスト教における 「聖なる」の意味をさぐる試みなのだ。 (「聖なる」という属性一般の話ではない) エンデのピレ (pirE) とか、 東ティモールの lulik などの属性と 比較したいのだが、 これでは比較がうまくできない。

また、この本で問題にしている 「キリスト教における聖なるもの」とは、 キリスト教が社会を覆い尽している時代の (あるいはそう思っている人の書いた)「聖なるもの」だ。 西洋に限定しても、キリスト教以前の時代とか、 宗教の衰退以降の時代とでは 「聖なる」もずいぶん意味が違うような気がする。 そのあたりも視野にいれて分析してくれれば、 ぼくにも役にたっただろう。 無条件でキリスト教を受け入れている人による、 キリスト教における「聖なる」属性の意味の分析は、 ぼくにとってはいささか狭過ぎる。

たとえば、 (オットーも書いているが) 「聖なる」の意味が「善なる」の意味と通底するのは、 エンデや東ティモールではあり得ないはなしである。 キリスト教限定の現象だろう(もしかしたらイスラム教も?)。

別の話題かもしれないが・・・ 社会がキリスト教に覆われた時代とは、 ポランニーの「経済に埋め込まれた社会」 (「頭山」状態)と同じような意味で、 「宗教に埋め込まれた社会」と言えるような状況なのかもしれない。 「宗教に埋め込まれた社会」を記述したらしい『聖なる天蓋』 (バーガー 2018)を 読み直してみようかしらん。

2023-07-12 Wed

 来年の人類学の学会発表は「いじめの悦楽」とする---今年の発表(「裏切りの美徳」)とスムーズにつながるぞ!: [Anthropology]

人類学の学会での発表、 2022年が「覗き見の美徳」、 2023年が「裏切りの美徳」だった。 来年(2024年)は「いじめ」をテーマにする。 さすがに「いじめの美徳」は PC ではないので、 「いじめの悦楽」とする。

なお、後日シリーズの統一がとれるように、 すべてのタイトルを変更しよう。 愉悦、悦楽、快楽などをつかおう。 「覗き見の美徳」は「覗き見の悦楽」 「裏切りの美徳」を「裏切りの愉悦」とするのはどうだろうか。 これで三部作は「覗き見の悦楽」、 「裏切りの愉悦」、「いじめの快楽」となる --- 「悪徳三部作」と呼ぶこととしよう。

読まなくてはいけないのは (含再読): 『ベケットと「いじめ」』 (別役 実 2005)が最重要文献だ。 この別役のすばらしい議論を、 デネットの志向姿勢の議論 ((デネット 2004)、 (デネット 1996))と むすびつけるとだいたいの枠組ができる。 さらに、「高次の志向システム」の議論とむすびつけると、 今回の「裏切りの愉悦」の類人猿の裏切りとつよく 結び付くこととなる。 できれば、Grice の議論をうまく組みこめれば最高だ --- Studies in the Way of Words (Grice 1989) など。

なんだか、本が書けてしまいそうでこわい (^_^)

2023-06-01 Thu

 学会の原稿の試読、第一回目にしてはほぼ合格---めでたし、めでたし: [Anthropology]

明日からはじまる学会で発表する原稿、 「裏切りの美学」(二日目)を試し読みをしたところ、 20分だった。 発表時間は20分、その内できれば5分の質疑応答の時間をとることが 期待されいている。 1回目の読みとしてはほほ完璧だった。

2023-05-26 Fri

 午後はずっと広島での研究発表の原稿に手をいれていた---まずまずの進捗だ: [Anthropology]

午後はずっと、06-02/03 に開催される 研究大会@広島での原稿、 「裏切りの美徳」に手をいれていた。

結論の目論見はこんな風だ --- メイナード・スミスとサトマーリの 『生命進化8つの謎』の表に 「霊長類社会へ」の謎をつけくわえて、9つの謎にする。 「心の理論」(theory of mind) を 8. の閾問題の解とし、 模倣を複雑さへのアクセルとして、 裏切りを複雑さへのブレーキとする。 芸術を二重の裏切りとして、 それを 9. の閾問題の解とする。

2023-03-08 Wed

 民博の特別展『ラテンアメリカの民衆芸術』を見た---『偶然のアフリカ』につづいて今日も楽しい人類学!: [Anthropology]

きょうは民博の特別展 『ラテンアメリカの民衆芸術』の内覧会に参加した。 身内だけのバーゲン会場みたいで、ちょっと 気がひける。 短い開会式のあと、 会場をめぐる。 どの作品も素晴しい。 いまアーサー・ダントウの現代芸術の哲学を読んでいるのだが、 ぜんぜんわくわくしない。 [--議論自身は興味深い--] もともとぼくが現代芸術を嫌いだ、というのが その(「つまらんと感じる」ことの)第一の理由かもしれない。 しかし・・・ 現代芸術と(ふつうの)芸術を それらが「同じようなものである」として 議論するのは、 ちょうど 客体化された文化と(ふつうの)文化を、 いっしょに議論しているみたいで、聞いていて居心地がわるい。 もっと端的に言えば、 間違っていると思う。 「芸術」という言葉の外延から 『泉』以降のいわゆる「現代芸術」は除外すべきだ。 (同時に「文化」という学術用語の外延から 〈客体化された文化〉を除外すべきであるように。) 「現代芸術」は鑑賞するためにあるのではなく、 それについて議論するためにあるのだと思う。 というわけで、 コンセプチュアル・アートのアイデアは とてもいい --- 作品もいらないから場所の節約になる。 ちょっぴり『パタリロ』の「バーチャル落語」を思い出す (^^:)

サイエンスウォーズのきっかけとなった ソーカル事件みたいな「いたずら」を誰かしないかな ;-P

もとに戻ろう。 民博の特別展『ラテンアメリカの民衆芸術』の話をしていたのだ。 ここに並んでいる「民衆芸術」は (議論は二の次で)ともかく鑑賞するためにある。 どれもこれも素晴しい。 うっとりとしてしまう。 いくつか模写してみた。 [--感動のあまり『泉』を模写する人っているのかしらん--]

先日の『アフリカの冒険的現代』といい、 この頃とてもついている --- 面白い人類学を満喫できた。

2023-03-07 Tue

 今井むつみの『ことばと思考』を読みおわった ---わくわくドキドキ;めっちゃ面白い: [Anthropology]

言語が違うと世界の認識の仕方が違うという、 とても魅力的なウォーフの仮説を、 観察と実験から判断しようという、 これもまた魅力的な目的をもった研究だ。 結論からいうと、 ウォーフの仮説は、それなりに正しい。 ただし、それほど華々しい話ではないよ、ということ。

ウォーフの仮説をビジュアルに再現すると、こんな感じになるだろう --- 言語以前の世界は、 混沌とした万華鏡のようなイメージとしてわたしたちの前に広がる; 言語がそれを整理して意味あるものとするのだ、と。 だから言語が違う人は、違う世界に住んでいるということになる。 これがウォーフの仮説だ。 あるいはクーンのことばをつかえば、 二つの言語が作る世界の間には(おどろおどろしい) 「共約不可能性」の壁がそそりたっているのである。

さて、今井氏の本の内容にはいっていこう。

さまざまな世界の認識の仕方の例(および実験)があがっていたが、 いちばん鮮明に記憶に残っているのが空間認識の話だ。

空間を絶対枠組で区分する言語と、 相対枠組で区分する言語とがある。 日本語や英語は後者であり、 空間(とりわけ話者の身近な空間)は 話者との相対的な枠組(右や左など)をつかって把握される。 たとえば、ポスターを壁にはっている人に指示するのに、 わたしたちは「もっと右」とか「もっと左」とかいうのだ。 対照的に絶対的な枠組(話者相対ではない枠組)、 たとえば東や西、をつかう言語がある。 わたしの調査地のフローレス島のエンデ語話者がそうである。 かれらは家の中でも「もっと北」「もっと西」といった 指示をするのだ。

つぎにデッドレコニングという能力が紹介される --- 自分のいる場所を絶対座標で記憶する能力だ。 たいていの動物はこの能力をもっているのだが、 人間にはないという。 ぼくらは車などにのって、遠いところに来た場合、 出発点がどちらの方角あるのか示すことができない。 ただし例外があって、 空間を絶対枠組で区分する言語をしゃべる話者には デッドレコニングがあるのだ、という。 [--もっとも出発点となる違いは語用論レベルでの違いだが--] たしかに、エンデの人の空間把握能力はすばらしいものがある。

「なーる」と思わせる実験エピソードにこんなんがある。 (細部は創作) 左から右へ、「1」「2」「3」と書いた3枚の板を被験者の前に並べる。 その3枚の板をもって、被験者に後をむいて(180度まわって)もらう。 そこにある机の上に「板をさきほどと同じ順で並べて」と依頼する。 相対枠組の言語話者は左から右に「1」、「2」、「3」と並べる。 ところが絶対枠組の言語話者は東西南北の軸で「同じ順」になるように ならべるので、相対枠組の言語話者とは逆に並べる、というのだ。

「そーか」・・・これは納得してしまった。

おもしろいのは 赤ちゃんや幼児をつかった実験だ。 相対枠組の言語話者の七歳以上の子供は、 大人と同じようにデッドレコニングの能力はない。 しかし、四歳の子供達は(どちらの言語話者も) デッドレコニングの能力を示したというのだ。 要するに、 どの言語の共同体であっても、 四歳までの幼児にはこの能力が備わっている、ということである。 しかし、自分の言語がその能力を必要としないとなると、 その能力は消えてしまうのだ。

「ふーん」

まとめると、(1) どのタイプの言語を喋るにも必要な能力を、 赤ちゃんはあらかじめ持っている、 しかし、じっさいに言語を学習していく中で、 (2) その言語に必要な能力をのこして、 不必要な能力はなくなっていく、ということだ。

利根川進 (2001) が 『私の脳科学講義』の中で(p. 59)、 世界には120の言語があり、 のべで70から80の母音が区別されており、 赤ちゃんは、じつは、 生まれたときにはそれをすべて区別する能力を持っているというのだ。 母語を学んでいく中で、不必要な能力は消えていくという。 [--もの言わない赤ちゃんが「〜に気付く」のをどうすれば分かるのかは、今井の本を読んでください--]

というわけで、 言語以前の世界は「混沌」などではなく、 緻密に分類された世界などだ。 言語以後の世界も、それぞれ 「共約不可能」なのではなく、 十分に共約可能なのだ。 (共通の単位がある、という意味で)

まだまだいろいろ紹介したい実験・観察・議論があるのだが、 きょうはこれだけにしておこう。

(後日の2023-03-16の議論も参照せよ。)

2023-03-04 Sat

 『アフリカの冒険的現代』でぼんやりと考えたこと---あ・おもしろかった: [Anthropology]

ひさしぶりに楽しいテーマの人類学のカンファレンスに参加した。 関西外大の近藤さんが主催した(たぶん)カンファレンス, 『アフリカの冒険的現代』だ。

ここに書くのは感想以前のもの、 発表をききながらぼんやりと考えていたことだ。 たいした話ではないのだが、 ひさしぶりに楽しい話をきかせてもらえたお礼として 整理しておこう。

さて、話のとっかかりはどっかで読んだことがある (教科書かしらん)一般論だ。 いわゆる「伝統的な」文化では、 文化の中心である威信経済 (アフリカじゃないけど、有名なところではクラなんか)は 男が握っている。 男たちは互いに威信を競いあい、 肩で風を来って村の中を歩くのだ。 さて・・・ そんな村に市場経済がはいると、 ぶいぶい言わせている男たちは言う --- 「そんなどうでもいいことは『女子供』のやることだ」と。 んで、女性が市場経済活動を担うこととなる。 というわけで暫くすると(市場経済的な視線から言えば) 女性の経済力があがり(こんどは女たちがブイブイ言わせている)、 というわけだ。 ・・・とまぁ、こんな話を聞いたことがある。

ところが、きょうの話にでてくる商人たちは、ほとんど男性ばかりだ。 どうしてだろう?と考えた。

「あ・そうか、舞台が(人々の本拠地である村じゃなくて) 町だからなんだ」

(ぼくの調査地、東インドネシアの)エンデの人々にとって、 出稼ぎの場(ほとんどがマレーシア)は「非場所」であり、 文化果つることころとされている。 というわけで出稼ぎを理解するには(すくなくともエンデでは) 「非場所」であるマレーシアを つねに場所である故郷の村と対照させなくっちゃいけない。

「アフリカでは場所と非場所の関係はどうなんだろう?」

そう言えば・・・ カンファレンスの中で、 「町での商売の評価は、村に家を建てたことだった」という 事例が紹介されていた。 これってとてもエンデと似ている。

かくして、 構造主義者の大好きな (私の大好きな)二項対立のオンパレードとなった --- (1) 男性:女性、(2) 威信経済:市場経済、 (3) 場所(町):非場所(村)。 これらを組合せたり、 順番を引っくり返したりして、 いろいろ議論ができそうだ (^o^)

ひさしぶりに頭をつかったので、 きょうはここまで。

閑話休題。

・・・ 「やっぱり人類学っていいですね。おもしろいですねぇ」

2021-07-02 Fri

 ひさしぶりの発表;あやうく大失敗しそうになる---教訓:「事前読み上げは本番一日前に」: [Anthropology]

ぼくが代表者となっていた民博研究会が、 今年の3月で終了した。 3年半続いたわけだ。 その民博への成果発表会がきょうある --- オンラインで13時からである。 たかだか5分の発表だから、 予習(原稿の読み上げ)をまったくしていなかった。 だらだらして出る時間を待っていた --- 時計をみると11時だった。 じっと待っているのも芸がないので、 ためしに原稿を読みあげてみた。

!!!!!

5分ではとても終わらない! たぶん15分、もしかしたら 20分くらいかかる

おおあわてで原稿を改稿する。 ぎりぎりでなんとか間に合った・・・。

練習風景は ここ (YouTube) にあります。 あわてていたので、 カーテンが背景を全部カバーしておらず、 バーチャル背景(「のび太の研究室」)が切れてます・・・。

2020-11-28 Sat

 オンライン学会で発表した;無人島でパントマイムしているみたいな・・・なかなか慣れない: [Anthropology]

きょうはKAPAL(インドネシア研究懇話会)の研究大会の日だ。 1時からぼくの発表がある。 すごく緊張している --- その緊張がぼくのマシンにうつったのだろうか、 とつぜん Linux で Zoom が動かなくなった (カメラが作動しない!マイクが作動しない!音がでない!)。 おおあわてで、 サブマシンの Chromebook (Pixelbook) をつかうことにした。 Crostini の Zoom をインストールしていないので、 Android の Zoom を使うことになる。

問題なく動いた。

ぎりぎりセーフ!

13:10 より発表だ。 画面共有したスライドが全画面を覆ってしまっているので、 みながどんな顔をしているのか (そして自分の様子さえ)見えなくなった。 孤立無援で無人島に漂着して、 一人でパントマイムをしているような気分だ。 30分のわりあて時間で、30分ちょうどで終わった --- 発表原稿「従われない規則」は ここ にあります。 練習の様子は ここ (Youtube)ここです。

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