言語が違うと世界の認識の仕方が違うという、 とても魅力的なウォーフの仮説を、 観察と実験から判断しようという、 これもまた魅力的な目的をもった研究だ。 結論からいうと、 ウォーフの仮説は、それなりに正しい。 ただし、それほど華々しい話ではないよ、ということ。
ウォーフの仮説をビジュアルに再現すると、こんな感じになるだろう --- 言語以前の世界は、 混沌とした万華鏡のようなイメージとしてわたしたちの前に広がる; 言語がそれを整理して意味あるものとするのだ、と。 だから言語が違う人は、違う世界に住んでいるということになる。 これがウォーフの仮説だ。 あるいはクーンのことばをつかえば、 二つの言語が作る世界の間には(おどろおどろしい) 「共約不可能性」の壁がそそりたっているのである。
さて、今井氏の本の内容にはいっていこう。
さまざまな世界の認識の仕方の例(および実験)があがっていたが、 いちばん鮮明に記憶に残っているのが空間認識の話だ。
空間を絶対枠組で区分する言語と、 相対枠組で区分する言語とがある。 日本語や英語は後者であり、 空間(とりわけ話者の身近な空間)は 話者との相対的な枠組(右や左など)をつかって把握される。 たとえば、ポスターを壁にはっている人に指示するのに、 わたしたちは「もっと右」とか「もっと左」とかいうのだ。 対照的に絶対的な枠組(話者相対ではない枠組)、 たとえば東や西、をつかう言語がある。 わたしの調査地のフローレス島のエンデ語話者がそうである。 かれらは家の中でも「もっと北」「もっと西」といった 指示をするのだ。
つぎにデッドレコニングという能力が紹介される --- 自分のいる場所を絶対座標で記憶する能力だ。 たいていの動物はこの能力をもっているのだが、 人間にはないという。 ぼくらは車などにのって、遠いところに来た場合、 出発点がどちらの方角あるのか示すことができない。 ただし例外があって、 空間を絶対枠組で区分する言語をしゃべる話者には デッドレコニングがあるのだ、という。 [--もっとも出発点となる違いは語用論レベルでの違いだが--] たしかに、エンデの人の空間把握能力はすばらしいものがある。
「なーる」と思わせる実験エピソードにこんなんがある。 (細部は創作) 左から右へ、「1」「2」「3」と書いた3枚の板を被験者の前に並べる。 その3枚の板をもって、被験者に後をむいて(180度まわって)もらう。 そこにある机の上に「板をさきほどと同じ順で並べて」と依頼する。 相対枠組の言語話者は左から右に「1」、「2」、「3」と並べる。 ところが絶対枠組の言語話者は東西南北の軸で「同じ順」になるように ならべるので、相対枠組の言語話者とは逆に並べる、というのだ。
「そーか」・・・これは納得してしまった。
おもしろいのは 赤ちゃんや幼児をつかった実験だ。 相対枠組の言語話者の七歳以上の子供は、 大人と同じようにデッドレコニングの能力はない。 しかし、四歳の子供達は(どちらの言語話者も) デッドレコニングの能力を示したというのだ。 要するに、 どの言語の共同体であっても、 四歳までの幼児にはこの能力が備わっている、ということである。 しかし、自分の言語がその能力を必要としないとなると、 その能力は消えてしまうのだ。
「ふーん」
まとめると、(1) どのタイプの言語を喋るにも必要な能力を、 赤ちゃんはあらかじめ持っている、 しかし、じっさいに言語を学習していく中で、 (2) その言語に必要な能力をのこして、 不必要な能力はなくなっていく、ということだ。
利根川進 (2001) が 『私の脳科学講義』の中で(p. 59)、 世界には120の言語があり、 のべで70から80の母音が区別されており、 赤ちゃんは、じつは、 生まれたときにはそれをすべて区別する能力を持っているというのだ。 母語を学んでいく中で、不必要な能力は消えていくという。 [--もの言わない赤ちゃんが「〜に気付く」のをどうすれば分かるのかは、今井の本を読んでください--]
というわけで、 言語以前の世界は「混沌」などではなく、 緻密に分類された世界などだ。 言語以後の世界も、それぞれ 「共約不可能」なのではなく、 十分に共約可能なのだ。 (共通の単位がある、という意味で)
まだまだいろいろ紹介したい実験・観察・議論があるのだが、 きょうはこれだけにしておこう。
(後日の2023-03-16の議論も参照せよ。)
ひさしぶりに楽しいテーマの人類学のカンファレンスに参加した。 関西外大の近藤さんが主催した(たぶん)カンファレンス, 『アフリカの冒険的現代』だ。
ここに書くのは感想以前のもの、 発表をききながらぼんやりと考えていたことだ。 たいした話ではないのだが、 ひさしぶりに楽しい話をきかせてもらえたお礼として 整理しておこう。
さて、話のとっかかりはどっかで読んだことがある (教科書かしらん)一般論だ。 いわゆる「伝統的な」文化では、 文化の中心である威信経済 (アフリカじゃないけど、有名なところではクラなんか)は 男が握っている。 男たちは互いに威信を競いあい、 肩で風を来って村の中を歩くのだ。 さて・・・ そんな村に市場経済がはいると、 ぶいぶい言わせている男たちは言う --- 「そんなどうでもいいことは『女子供』のやることだ」と。 んで、女性が市場経済活動を担うこととなる。 というわけで暫くすると(市場経済的な視線から言えば) 女性の経済力があがり(こんどは女たちがブイブイ言わせている)、 というわけだ。 ・・・とまぁ、こんな話を聞いたことがある。
ところが、きょうの話にでてくる商人たちは、ほとんど男性ばかりだ。 どうしてだろう?と考えた。
「あ・そうか、舞台が(人々の本拠地である村じゃなくて) 町だからなんだ」
(ぼくの調査地、東インドネシアの)エンデの人々にとって、 出稼ぎの場(ほとんどがマレーシア)は「非場所」であり、 文化果つることころとされている。 というわけで出稼ぎを理解するには(すくなくともエンデでは) 「非場所」であるマレーシアを つねに場所である故郷の村と対照させなくっちゃいけない。
「アフリカでは場所と非場所の関係はどうなんだろう?」
そう言えば・・・ カンファレンスの中で、 「町での商売の評価は、村に家を建てたことだった」という 事例が紹介されていた。 これってとてもエンデと似ている。
かくして、 構造主義者の大好きな (私の大好きな)二項対立のオンパレードとなった --- (1) 男性:女性、(2) 威信経済:市場経済、 (3) 場所(町):非場所(村)。 これらを組合せたり、 順番を引っくり返したりして、 いろいろ議論ができそうだ (^o^)
ひさしぶりに頭をつかったので、 きょうはここまで。
閑話休題。
・・・ 「やっぱり人類学っていいですね。おもしろいですねぇ」
ぼくが代表者となっていた民博研究会が、 今年の3月で終了した。 3年半続いたわけだ。 その民博への成果発表会がきょうある --- オンラインで13時からである。 たかだか5分の発表だから、 予習(原稿の読み上げ)をまったくしていなかった。 だらだらして出る時間を待っていた --- 時計をみると11時だった。 じっと待っているのも芸がないので、 ためしに原稿を読みあげてみた。
!!!!!
5分ではとても終わらない! たぶん15分、もしかしたら 20分くらいかかる
おおあわてで原稿を改稿する。 ぎりぎりでなんとか間に合った・・・。
練習風景は ここ (YouTube) にあります。 あわてていたので、 カーテンが背景を全部カバーしておらず、 バーチャル背景(「のび太の研究室」)が切れてます・・・。
きょうはKAPAL(インドネシア研究懇話会)の研究大会の日だ。 1時からぼくの発表がある。 すごく緊張している --- その緊張がぼくのマシンにうつったのだろうか、 とつぜん Linux で Zoom が動かなくなった (カメラが作動しない!マイクが作動しない!音がでない!)。 おおあわてで、 サブマシンの Chromebook (Pixelbook) をつかうことにした。 Crostini の Zoom をインストールしていないので、 Android の Zoom を使うことになる。
問題なく動いた。
ぎりぎりセーフ!
13:10 より発表だ。 画面共有したスライドが全画面を覆ってしまっているので、 みながどんな顔をしているのか (そして自分の様子さえ)見えなくなった。 孤立無援で無人島に漂着して、 一人でパントマイムをしているような気分だ。 30分のわりあて時間で、30分ちょうどで終わった --- 発表原稿「従われない規則」は ここ にあります。 練習の様子は ここ (Youtube) と ここです。
《More . . .》来週の土曜日(2020-11-28)にオンライン開催される KAPAL の 第2回研究大会で 発表予定の論文、 「従われない規則を守る仕方」の第一ドラフトを完成させた。 一人 Zoom で録画してみた。 予定時間は30分(発表は20分、質疑応答が10分)で、 こんかいは30分弱だ --- まぁまぁかな。 Youtube に アップロードした。 もう少しいい声だと思ってのだが・・・…
日本文化人類学会の第54回大会が Zoom による オンラインカンファレンスとなった。 今日だ。 ぼくの発表は午後の2時15分から。 発表の前にドキドキするのは対面カンファレンスと 同じなのだが、 一人でドキドキするので、とってもへんな感じだ。 「無観客ドキドキ」っていやや。
そして、いよいよ発表 --- 観客に画像が見えているのか、 ぼくの声がむこうに聞こえてくるのか・・・ そのへんが全然分からない。 まったく反応がない。 しかたなく、 ハイテンションで突っ走る。
終わった。
バッティングセンターに一人で行って (行ったことはないが)、 ハイテンションで、 ずっと空振りをして、 一人で寂しく家に帰ったようだ・・・。
Eさんがちょっとなぐさめてくれた。
もやもやするので、 練習風景を Youtube に アップした。 ひょんなことから YouTuber デビュー (^^;)。
それでも、なんとか完成した。 「MSWord で出せ」というのもうやめてくんないかな・・・。 ファイルは 「文化を自然化するための覚書」だ。
オーストラリアから Andrew McWilliam が CSEAS(京大)に来ている。 きょうは彼のセミナー、Redemptive Legacy (何て 訳せばいいのかな・・・「あがなりの遺産?」)。 けっこう面白かった。
終わったあとの飲み会に来たのは アンドリューとモデレータのアンドレイ (クパン人)、Eさん、UT (OB)くん、それに ぼくだ。 ほとんどがANUマフィアで、かつ、 東インドネシア研究者ばっかり。 スラウェシは「東インドネシア」に含めるか、って 話題でけっこう盛り上がった。 結論は標題のとおり (^^;)
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ちょっぴり自慢話・・・
一番左の奥にある小さいのが Galaxy Note 9 (Android)、 そして、Note 9 は その隣に見える13インチのモバイルモニターに つながっている。 Note 9 は主として termux on dex として使っている。 同じモニターに、 (その右隣にある)小さな小さな Windows マシン、 Higole Gole1も繋っている。 Windows マシンは SV-600 を使うのにどうしても必要なので、しょうがない。 Windows マシンで WSL (Windows Subsystem for Linux) をためしに使ってみた --- 使えなくはない。 Linux box (Ubuntu) 本体は映っていないが、 右側(上段)の大きなモニターが Linux のつながっているモニターである。 右端(中段)の白いのは Sony ebook reader Sony DPT-CP1 である。 ここにさらに Raspberry pie が加わるはずである。 Rapberry pie は ALife や 機械学習の勉強に使う予定である。
やることはいっぱいある。
30年以上講師をしていて、 そうとうの数の講義ノーツがたまっている。 これを電子出版してみようと考えついた。 未定ではあるが、 Leanpubを使ってみようかなと 思っている。 Leanpub にしたいと思った第一の理由は Markdownでの 原稿を受け付けている、という点だ。 講義ノーツはすべて(ぼくの作った) markup 言語、 yyaml --- yet yet another markup language [--もともと YAML だったが、先を越されていた--]で 書かれている --- make 一発で markdown に変換できる。 もう一つの理由は、(間違いでなければ)何度も (バージョンアップして)出版できるという点だ(要確認)。 発展途上のバージョンをパブリッシュするのも OKのようだ [--たぶん--]。
お金もいただける --- 「わたしが提案する金額がこれこれ、 最低はこれこれ」という形で 価格を提示するみたいだ。 慈悲出版 (^^;)
とりあえず Canvaで カバーを作ってみた。 徹夜してしまった。 どうだろうか?
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タイトルから見当がつくように、 入門書と専門書にわかれている。 入門書のほうは githubを つかって、 友だちの協力で作るのも面白いかも・・・。
04-07 (Sat) に予定されている リレー集中講義の準備をやっとはじめた。 大学院への新入生(M1)全員(80名ほどかしらん)に 「院での勉強の仕方」を教えるのが目的だそうだ。 4名の講師が4コマずつ担当し、 わたしは3番目となる。
論文になるわけでもない講義なので、 スライドを使うこととした。 いつもの通り Beamer を使うことも考えたが、 emacs の org-mode だけで原稿を書くことにした。 調べてみると、 Reveal.js を利用する org-mode、 org-reveal を見つけた。 これがなかなかに使いやすい。
公開するような段階ではないのだが、 楽しいので公開してしまおう。 題して 『学問のすゝめ』。
とうとう日付がかわり土曜になりました。 日曜の国際シンポ(ぼくが主催者)の自分の 発表論文 を推敲してた。 とうとう完成しました。 構成があまりに美しいので、 目次だけここに挙げておきます。
Nationalism of Absence Satoshi Nakagawa 1 Prologue --- TL and Indonesia, past and present 1.1 Metonymy and Metaphor 1.2 Church and Tetun 1.3 Epochalism and Essentialism 2 Indonesia as Metonymy --- Church 2.1 Goa, Dili and Jakarta 2.2 Holland, Indonesia and TL 2.3 1970s, 1990s and 2010s 3 Indonesia as Metaphor --- Tetun 3.1 If Wehale Had Been Destructed 3.2 If Wehale Were Inside TL 3.3 If I Were a Structuralist 4 Epilogues --- TL and Indonesia, future
美しいシンメトリー(1章と4章、2章と3章)、そし て章毎の計算し尽くされた反復(三つの couplets、三つの triplets、そして三つの「歴史の if」)・・・。
なかみはなんてこたぁない論文です・・・。