書き始めたばかりだが、 ここにアップしてある。
題名は『千の唇、百の舌』である --- これは、エンデの言い回し wiwi riwu // rhema ngasu の直訳である。 エンデにおいてたいていの場合、 あなたを襲う突然の不幸は妖術 (witchcraft) のせいだと言われる。 あなたが成功したことを、 妖術師 (ata porho) が妬み、 あなたを襲う(tau)のである。 今回の発表でとりあげるのは、 そのバリエーションとも言える考え方だ。 妖術の文脈では、 妖術師こそがあなたの不幸をもたらした主体である。 ところが「千の唇」シナリオの中にはっきりした主体はない。 不幸をもたらしたのは、 噂話なのだ。 まさに、「千の唇、百の舌」が不幸をもたらしたのである。
この状況は、 近年のいじめについて別役実が 『ベケットといじめ』で指摘した構造、 「無記名性の悪意」と正確に重なる。
以上を出発点にして、 物語をつむいでみたい。 1つのバージョンは 贈与の社会は理想的な社会ではないよ、という 結論にいたる話、 もう1つは、 コミュニケーションの基礎は 規約か意図かの議論に貢献するような筋である。 どっちになるかはまだわからない。
論文集は民族誌篇と理論篇にわけて刊行する予定です。 まずは 民族誌篇 を刊行します。 ここに目次があります。
民族誌篇のディレクトリには 82 のファイルがあります。 そのうち 50 ほどが刊行できそうだと思います。 とりあえず、 退職後(COVID-19 後)の 東南アジア学会(1ヶ)と KAPAL (インドネシア研究懇話会)での発表(3ヶ)を 公開しました。
序文は ここ にあります。
なお、本の PDF は ここ (直接リンク)にあります。
わたしの約30年の教員生活の中で つくりあげた講義録(その他)をすべて オンラインで刊行していく予定です。 手元にあるファイルを表にしました --- 大阪国際大学時代が4つ(その内2つが書籍として出版)、 阪大時代が19ありました(その内1つが書籍として出版)。 (合計23)。 それらすべてをリストにして わたしの github pages に アップロードしました。 紙の本として刊行されている3つをのぞいて、 残り20の講義をすべてオンラインで刊行していく予定です。
現在6ヶがオンラインで公開されています。 さきほどのリストには それぞれのエントリーに1つ "[目次] " という ボタンが用意されています。 それらのうちの6ヶがクリッカブルに(青く)なっています。 sそれをクリックすると、 目的の本の目次に到達します。 オンラインで読むこともできますし (HTML)、 ダウンロードすることもできます (EPUB/PDF)。
完成版をアップロードすると時間がかかり過ぎますので、 未完成のバージョンがアップロードされています。 すなわち、頻繁にバージョンアップがされる、ということです。 大きなバージョンアップがあった場合には、 このブログ、 そして mastodon (@merapano@mastodon.social)および bluesky (@merapano.bsky.social) で 告知いたします。
ある程度完成したところで バージョンアップをフリーズして、 アップロードする場所を leanpub (https://leanpub.com) に移行します。 この段階では、 各講義録は有料で販売されることになります。
2015年に吹田で行なった授業、 『異文化の見つけ方 --- 相対主義の可能性』、 および翌年(2016年)の続編 『異文化の遊び方 --- 引用と人生』 です。 二つの講義にはかなり自信があったのですが、 ざんねんながらどの出版社からも積極的な反応はありませんでした。 自費出版とします。
なお、中川の個人史を述べておくと: この二つの授業で相対主義の人類学/ 構造主義の人類学にいったんピリオドを打ちます。 2017年からは「自然主義転回」にとりかかります。 これらの相対主義・構造主義に、 自然主義の考えを対立させていこうというプロジェクトです。 2018年に『模型論』、 2019年に『呪物論』を展開しました。
なお、蛇足ですが、2019年は私の退職の年です。
豊中キャンパスで 1年生、2年生を対象に パンキョウ(一般教養)をほぼ毎年担当してきました。 基本的に同じ内容の授業で、 毎年バージョンアップをしていました。 2008年くらいまでは『科学の人類学』というテーマで 授業をしてきました。 それが『言語ゲームが世界を創る』(世界思想社)として 刊行されたのをきっかけに、 まったく新しいテーマに切り替えました。 たぶん2009年だと思います。 それ以来いくつかのテーマを取り上げましたが、 最初にとりあげたのが経済と交換です。 わたしの『交換の民族誌』(世界思想社)の続編として 構想したものです。 筋を何度も練り直したのですが、 いまだにもっとも良いストーリーを見つけることが できていません。 ここ からアクセスできます。 仮題を『開発の民族誌』としておきます。
先日公開した講義録の第1弾、 『環境主義と人類学(仮題)』 (environment) に、 全体の構成を示した章、 『序』 (intro) を書いてアップロードした。
バージョンを(v0.1.0 から)v0.1.1 とした。
私がはじめて授業をした時 (1988) に作った講義ノート、 『セックスとジェンダー』 (sex_and_gender)を 公開します。 公開するような内容ではないのですが (「出版」については考えていなかったので、 自分の文章と引用とが区別できないという大欠陥がある)、 オンライン出版の流れを説明する材料として使おうと思います。
バージョンは v0.1.0 です。
講義録のオンライン出版は 3つの段階(場所)からなっている。 以下の通りだ: (1) わたしの 私設ウェブ (www.merapano.net)、 (2) わたしの github-pages (merapano.github.io)、 そして最後に (3) leanpub を通じての出版である。
いくつかの例外はあるが、 ほとんどの講義録の License は Creative Commons Attribution-NonCommercial-NoDerivatives 4.0 International CC BY-NC-ND 4.0 である。
(1) 一つの講義録が最低限の形をなしたら、 私設ウェブ (www.merapano.net) で公開する。 形式は章ごとの html となる。 現在のところ、 『環境主義と人類学』、 および 『セックスとジェンダー』 の 二つの講義録が、 私設ウェブ上で公開されている。 なお、 バージョンは v0.1.0 から始まる。 ローカルでの細かい改善はすぐに公開版に反映させ、 改善の程度に応じてバージョン番号を増やしていく --- v0.1.0 から v0.1.1 など。 「ファーストドラフト」と呼べるようになった時点で、 バージョン番号を v1.0.0 として、 つぎの段階(2)に進む。 できればこの段階の原稿の引用は控えていただきたい。
(2) 「ファーストドラフト」としてのバージョン (v1.0.0) は わたしの github-pages で公開する。 この段階では章ごとにばらばらではなく、 すべてをまとめて本として(epub そして pdf として) アップロードする。 この段階に達した講義録はまだないが、 試供品として、 『セックスとジェンダー』をアップしておく。 epub は こちら(直接リンク)で、 pdf は こちら(直接リンク)である。 原稿の引用は、この段階からお願いしたい。 ページ数が必要な引用に関しては PDF バージョンを 使用していただきたい。 (なお github-pages に公開済および公開予定の 全講義録のインデックスは 現在 作成中である) なお、この段階になっても (1) の私設ウェブでの公開 (HTML) は 続いており、 細かいバージョンアップは主に HTML に対して行われる。 HTML のバージョンアップがある程度まとまった時に github-pages 版のバージョンアップを行なう。 バージョン番号は、例えば、 v1.0.0 から v.1.0.1 へとあがる (mastodon および bluesky を通じて速報を流す)。 バージョン番号が v1.1.0 になれば 次の段階 (leanpub) へ進むこととなる。
(3) ほぼ完成した原稿は v1.1.0 として leanpub に発表する。 この段階ではほとんどバージョンアップの作業はしない。
日曜日のひるさがり『ブルーイー』を見た。 きょう見たエピソードは "Shadowlands" (「かげわたり」)だ。 ブルーイーとスニッカーズそしてココの 友達3人で「かげわたり」ごっこをするエピソードだ。 ごっこのルールは簡単で、 影があるところが陸で、 それ以外は海なのだ。 ポイントは海にはワニがいっぱいいる、ということだ。 さてじっさいに遊びはじめると、 問題に遭遇するたびに、 友達のココがすぐにルールを変えよう、変えようとするのだ。 ブルーイーとスニッカーズが「変えちゃだめ」と言う。 「なんで?」とココがせまるが、 二人はうまく答えられない。
さいごにはココも、 ルールを変えないほうが遊びが面白いことに気づく。 そして彼女は言う --- Rules make it fun!
こんど論文に引用しよ!
去年の12月の半ばくらいから全く勉強をする気を失なっていた。 ひたすら現実逃避に走っていた。 Wombles の他に、 藤沢周平の本をもう一度読み返していた。 『三屋清左衛門残日録』(なんど読んでも素晴しい)、 『用心棒日月抄』そして『春秋の檻』などを読んでいた。
それから新しいコンピューター、 Chuwi Minibook X N100 を買い、 Linux 化をこころみた。
そんなこんなの現実逃避を終え、 やっと仕事にとりかかった。 まずは一週間で日本文化人類学会の研究大会の 申請書(抄録と要旨の作成)にとりかかる。 たまっていた分、進み具合が速いような気がする。
今回の発表「頭をつかむ」はエンデの「アキカエシ」三部作の最終回だ。 一回目「象牙を辿る」(旧題「従われない規則を守る方法」)では、 エンデでは (1) いわゆる「母方交叉イトコ婚」という規則が親族のイディオムではなく、 交換のイディオムで語られること、 (2) その交換の規則が守られないことによる負債が、 人と人とを結び付けている(「アキカエシ」の原理)ことを語った。 二回目「杵を搗く」(旧題「従われない規則を破る方法」)では、 その規則(母方交叉イトコ婚)を破った際にしなければならない さらなる交換について語る。 ポイントはその交換の規則が破られる、ということだ。 そうすることが負債をつくり、その負債こそが 人と人とを結び付けている(「アキカエシ」の原理)のである。
今回は過去においては規則が破られていないのにもかかわらず、 あたかも過去において規則が破られているかの如き状況を、 エンデの人が作りだすことについて述べている。 ここでもまた、負債によって 人と人とが結び付けられている(「アキカエシ」の原理)ことを 語る。
こないだの「ベクの認識論、レッダの存在論」(東南アジア学会)が 話題がてんこ盛りだったのに比べて、 こちらはポイントは1つ、 とてもすっきりした構造だ。 その分、ちょっと寂しい感じもある。
さっきの散歩のときに、 東南アジア学会(12-09)での発表 の構成を考えついた。 先日にも書いたように、 予告編を書いた時点での構成では、 とても30分で発表できないのだ。
タイトルは「ベクの認識論」。 ベク/レッダからオースティンの言語行為論(規約) (発語内の力から構成的規則へ --- 発語媒介行為などは省略する) に至るまでは これまでの考え方と同じ。 例としてはまず野球をだす。 それから1円玉を「歩」にする宣言などを出す。
「しかし、どこか違うような気がする」とつづける。
違うのは野球や将棋が「遊び」にすぎないのに、 ベクやレッダが実生活にかかわっている、という点である。 たしかに(オースティンによる)法廷での有罪の宣言などは 実生活にかかわっている。 しかし、有罪の宣言は(ベクやレッダのように)実生活に埋め込まれている [--いいコトバがない--]ようには見えない。
→ 資本主義社会の「公私」の区別と ギアツの lek の舞台恐怖症 (stage fright) の議論と重ねる。
ファインバーグの「無効化可能性」(ディフィージビリティ)の 概念を使う。 (ほんとうは、必要ない・・・ような気がする) あとで公私の話をもってくるので、 その話と無効化可能性あわないかもしれない。 たとえばいつもの(『ちびまるこちゃん』経由の) 「卑怯」と「小心者」の例は、公私の話とあわない。
→ レナの牛、レッダ。「公」としてのレッダについての フィールドワークのエピソードはどう使えばいいのだろうか・・・。
「ゲームに取り込む」議論 (両さん、在日韓国人、ンガンベ)はどこにあてはめる。 → 【ここはつながっている】 魚売り。
「意図」の話題がでてこないなぁ・・・。