東南アジア学会の 第106回研究大会でのぼくの発表予定の原稿、 「千の唇、百の舌」の進捗がはかばかしくない。
今朝、起きてからベッドで夢現(ゆめうつつ)の時に、 「夜」がやってきて、答を教えてくれた(「コンベ・ソッド」)。 [--エンデ語です。夜の精霊(?)からの啓示のことを言います--]
まず、当該の論文の現時点でのだいたいの枠組を紹介しておこう。 第1章はエンデの妖術信仰(「千の唇、百の舌」は一種の妖術信仰である)について、 第2章は日本のいじめ(別役の議論)についてである。 そして第3章が理論篇(結論)となる。 思いつかないのは、結論としての第3章でどのようにまとめるか、 その方法である。
さて、夜の教えは次のようなものだ。 ニーダムをもちだしたらどうだ、というのだ。
いじめから千の唇を説明するのは ちょうど ニーダムが批判したホマンズとシュナイダーと同じ間違いをしているように見えるだろう。 ホマンズとシュナイダーは次のように説明する。 父系制のなかの個人がしばしば訪問する 母方のオジに、父親に対するより深い愛情をいだくことになる。 さらにその愛情はその娘、すなわち母方のオジの娘へと延長されることとなる、と。 ニーダムはこのような個別の心理学的な事象によって、 制度を説明するのは間違っているという。
もちろん、 ニーダムはデュルケムの金言に従っているのだ --- Whenever a social phenomenon is directly explained psychological phenomenon, we may be sure that it is false.
このニーダムの指摘が正しいとして、 一つの言抜けは、 「わたしは因果論を述べてはいない」と逃げることだ。じっさいまだ述べていない。 そして、最後に、 適当なレトリックで逃げるという手がある。
しかし、もうひとつの対応策がある。 ニーダムの師匠としてデュルケムではなく、 レヴィ・ストロースを持ち出してくるのである。 すなわち、 シンボルの思考が出現するという (デネットの言葉を敢えて使えば)「魔法の瞬間」の後は、 自然主義的(心理主義も含まれる筈だ)説明はいっさい使用禁止となる という、レヴィ=ストロースのあの御宣託である。 ニーダムはレヴィ=ストロースの忠実な弟子なのであるから。
わたしが言いたいのは「冗談」は この魔法の瞬間に関わっている。ということだ。
《More . . .》5ヶ月くらい前から苦吟していた論文がとうとう完成した。 英語で書いた論文(書かれたものとしてはまだ発表していない)を日本語にすれば いいと思っていたのだが、 じっさいに日本語にしてみて、 真っ青になった --- 日本語で書いたことを、あらためて英語にしていたのだ。 (もちろん物語の筋は違うのだが)
インドネシアで調査している間(7月から8月)に書けるだろうと思ったが だめだった。 インドのCちゃんちに行っている間(10月から11月)に なんとかなるだろうと思っていたが、 だめだった。
インドから帰った翌日(11-06)に天から啓示があった。
「〆切りの魔力」はすごい。 なんとかなるもんだ。 タイトルは「酸っぱくても飲み、腐ってもお食べる」、 サブタイトルは「東インドネシア、フローレス島、エンデにおける 階層と先行」だ。
ぼくのウェブにアップロードしました。 ここです。
11月に KAPAL(インドネシア研究懇話会)で発表予定の 「先行と階層」をおおはばに改訂しなければいけない、ということについては、 何度か書いた。
だいたい、以下のようにしようかしらん・・・
《More . . .》2024-11-16 に開催される KAPAL(インドネシア研究懇話会)の 研究大会で発表する原稿を作成している。 もともとは、 2016年7月にジャカルタのインドネシア大学で開催された ジム・フォックスの業績を記念する大会で発表した "Between Precedence and Hierarchy" を翻訳して発表する予定だった。
そこではジムの業績の1つ、 「先行」("Precedence") をとりあげた。 それを (ルイ・デュモンの)「階層」("hierarchy") と対比したのは、 (ジムのもと学生の一人)グレッグ・アチアイオリである。 ぼくは 1992年の本 『交換の民族誌』で、 「属性的分類」と 「関係的分類」という二つの分析概念を提出したことがある。 2016年の発表ではこの四つ (先行、階層、属性的、関係的分類)を使いながら、 フローレス島のエンデの民族誌を整理する、という作業をした。
これはこれで「記念論文集 (Festschrift)」向けの書き方でよかったと 思う。
さて、 その発表を KAPAL 用に翻訳しているうちに、 2016年版の筋は必要以上に複雑だ・・・ということに気がついた。
というわけで、 ここ数日、「先行」・「階層」を KAPAL 発表の議論から削除する作業をしていた。
ところが、 削除してしまうと、それはそれで不自然な議論の運びになっていることに 気がついた。
さて・・・どうしよう・・・
今日一日頭をかかえてしまった。
7月に ICAS-13 という国際会議がインドネシアのスラバヤであった。 インドネシアに出発する前につくった mp4 動画を youtube にアップした --- ここ だ。
ICAS-13@スラバヤで発表する原稿がどうやら形がついた。 ここで HTML 版がみれます。
7月29日にスラバヤ開催の ICAS (International Conventions of Asian Scholars) で 発表する予定の原稿、 Crossroads of Legitimacy and Illegetimacy (Web) をかなり書き進んだ。 今回は理論はほぼゼロ、 ひたすら民族誌を紹介するだけ。
書き始めたばかりだが、 ここにアップしてある。
題名は『千の唇、百の舌』である --- これは、エンデの言い回し wiwi riwu // rhema ngasu の直訳である。 エンデにおいてたいていの場合、 あなたを襲う突然の不幸は妖術 (witchcraft) のせいだと言われる。 あなたが成功したことを、 妖術師 (ata porho) が妬み、 あなたを襲う(tau)のである。 今回の発表でとりあげるのは、 そのバリエーションとも言える考え方だ。 妖術の文脈では、 妖術師こそがあなたの不幸をもたらした主体である。 ところが「千の唇」シナリオの中にはっきりした主体はない。 不幸をもたらしたのは、 噂話なのだ。 まさに、「千の唇、百の舌」が不幸をもたらしたのである。
この状況は、 近年のいじめについて別役実が 『ベケットといじめ』で指摘した構造、 「無記名性の悪意」と正確に重なる。
以上を出発点にして、 物語をつむいでみたい。 1つのバージョンは 贈与の社会は理想的な社会ではないよ、という 結論にいたる話、 もう1つは、 コミュニケーションの基礎は 規約か意図かの議論に貢献するような筋である。 どっちになるかはまだわからない。
論文集は民族誌篇と理論篇にわけて刊行する予定です。 まずは 民族誌篇 を刊行します。 ここに目次があります。
民族誌篇のディレクトリには 82 のファイルがあります。 そのうち 50 ほどが刊行できそうだと思います。 とりあえず、 退職後(COVID-19 後)の 東南アジア学会(1ヶ)と KAPAL (インドネシア研究懇話会)での発表(3ヶ)を 公開しました。
序文は ここ にあります。
なお、本の PDF は ここ (直接リンク)にあります。
わたしの約30年の教員生活の中で つくりあげた講義録(その他)をすべて オンラインで刊行していく予定です。 手元にあるファイルを表にしました --- 大阪国際大学時代が4つ(その内2つが書籍として出版)、 阪大時代が19ありました(その内1つが書籍として出版)。 (合計23)。 それらすべてをリストにして わたしの github pages に アップロードしました。 紙の本として刊行されている3つをのぞいて、 残り20の講義をすべてオンラインで刊行していく予定です。
現在6ヶがオンラインで公開されています。 さきほどのリストには それぞれのエントリーに1つ "[目次] " という ボタンが用意されています。 それらのうちの6ヶがクリッカブルに(青く)なっています。 sそれをクリックすると、 目的の本の目次に到達します。 オンラインで読むこともできますし (HTML)、 ダウンロードすることもできます (EPUB/PDF)。
完成版をアップロードすると時間がかかり過ぎますので、 未完成のバージョンがアップロードされています。 すなわち、頻繁にバージョンアップがされる、ということです。 大きなバージョンアップがあった場合には、 このブログ、 そして mastodon (@merapano@mastodon.social)および bluesky (@merapano.bsky.social) で 告知いたします。
ある程度完成したところで バージョンアップをフリーズして、 アップロードする場所を leanpub (https://leanpub.com) に移行します。 この段階では、 各講義録は有料で販売されることになります。
2015年に吹田で行なった授業、 『異文化の見つけ方 --- 相対主義の可能性』、 および翌年(2016年)の続編 『異文化の遊び方 --- 引用と人生』 です。 二つの講義にはかなり自信があったのですが、 ざんねんながらどの出版社からも積極的な反応はありませんでした。 自費出版とします。
なお、中川の個人史を述べておくと: この二つの授業で相対主義の人類学/ 構造主義の人類学にいったんピリオドを打ちます。 2017年からは「自然主義転回」にとりかかります。 これらの相対主義・構造主義に、 自然主義の考えを対立させていこうというプロジェクトです。 2018年に『模型論』、 2019年に『呪物論』を展開しました。
なお、蛇足ですが、2019年は私の退職の年です。
豊中キャンパスで 1年生、2年生を対象に パンキョウ(一般教養)をほぼ毎年担当してきました。 基本的に同じ内容の授業で、 毎年バージョンアップをしていました。 2008年くらいまでは『科学の人類学』というテーマで 授業をしてきました。 それが『言語ゲームが世界を創る』(世界思想社)として 刊行されたのをきっかけに、 まったく新しいテーマに切り替えました。 たぶん2009年だと思います。 それ以来いくつかのテーマを取り上げましたが、 最初にとりあげたのが経済と交換です。 わたしの『交換の民族誌』(世界思想社)の続編として 構想したものです。 筋を何度も練り直したのですが、 いまだにもっとも良いストーリーを見つけることが できていません。 ここ からアクセスできます。 仮題を『開発の民族誌』としておきます。