この頃「ポピュリズム」と「陰謀論」が気になっている。 思いつくことを書きとめておこう。
わたしの辞書で "populism" を引いてみた。 訳は1つだけ「人民主義」(ナロードニキの思想)である。 これにはびっくりした --- 直観的に「良き政治思想」と考えられる思想もまた、 「ポピュリズム」のラベルのもとに分類されるのだということにびっくりしたのだ。 「ポピュリズム」というコトバは最近作られたコトバで、 悪しき思想へのラベルだとばかり思っていたのだ。
というわけで、 『ポピュリズムとは何か --- 民主主義の敵か、改革の希望か』 (水島 2016) をぱらぱらと読んでいる。 民主主義とポピュリズムをどうやって区別するのか、が 大問題であることがわかった --- そうか、 線引き問題 (demarcation problem) だ。
この言葉、「線引き問題」を使ったのは、 〈民主主義対ポピュリズム〉の対立を 〈科学対疑似科学〉の対立に重ねたかったからだ。 科学対疑似科学の線引きの難しさは、 伊勢田(2003)が『疑似科学と科学哲学』で議論している 通りだ。
この本を読んだのはずい分前なので記憶が曖昧だが・・・
はっきりと疑似科学と(直観的に)わかるもの (たとえば UFO 論)を 「非科学的」だと論証する (or vice versa) のは とても難しいのである。 伊勢田は「科学と判断するための」 いろいろな操作的な基準を出してくるのだが、 (たとえば学術雑誌があるか、などなど) UFO 論はこれらの基準をすべてクリアしてしまうのだ。
けっきょく科学と疑似科学を区別するすべはないだろう、 というのが現代の哲学の趨勢だと伊勢田は おしえてくれる。(伊勢田自身の結論はそのような趨勢とは異るのだが、 彼の議論はここでは触れない。) ラウダンという哲学者は 満足できる基準をみつけることは不可能であり、 「科学の線引き問題は疑似問題だ」 (Laudan 1983)と 宣言した(という)。 ある理論が科学か疑似科学かという問いは意味がなく、 われわれがすることが可能なのは 「それがいい科学か、悪い科学か」と問うことだけだというのだ。
水島の『ポピュリズム・・・』の冒頭部分を読んで学んだのは 同じようなことが 民主主義(デモクラシー)とポピュリズムの間の線引き問題にも 言えそうだということだ。 (以降、「ポピュリズム」の同義語として 「疑似民主主義」を使用する。) 当該の本から一節を引用しよう。 「西欧のポピュリズムでは、 右派であっても民主主義や議会主義は基本的な前提とされており、 暴力行動を是認する、 いわゆる極右の過激主義とは明らかに異なる。 ポピュリストの多くは、 少なくとも主張においては、 「真の民主主義者」を自任し、 人民を代表する存在と自らを位置づけている」(location232)。 このように水島は言う。
こう聞くと、ラウダンといっしょに言いたくなる --- 「ある理論が民主主義か疑似民主主義(ポピュリズム)かという問いは意味がなく、 われわれがすることが可能なのは 「それがいい民主主義か、悪い民主主義か」と問うことだけだというのだ」と。
(続く)
きょうは東南アジア学会の二日目、 ぼくの発表がある日だ。
この頃のぼくの発表は(計画としては)一年にできるだけ三種類の発表を したいと思っている: 民族誌的なもの、理論的なもの、その中間の三種類だ。 KAPAL での発表が最も民族誌的なもので、 日本文化人類学会での発表が最も理論的なもの、 そして、東南アジア学会ではその中間を発表しようと考えている。 先日 KAPAL で 「酸っぱくなっても飲み、腐っても食べる --- エンデにおける先行と階層」を 発表した。 これが民族誌的なものだ。 きょうの発表は 「千の唇、百の舌 --- エンデにおける無記名性の悪意」 である。 これが(民族誌と理論の)中間地点となる。 もっとも理論的ないずれ日本文化人類学会での発表(2025年の6月ころ)になる --- テーマは「冗談」となる予定だ。
さて、今日の日誌に戻ろう。
発表はほぼ定刻(午前11時ちょうど)に始まる。 原稿は、ここ数週間七転八倒でとりくんでいた 「千の唇、百の舌」 である。 時間が来たので、原稿を読み上げる --- 途中から調子があがって、 一気に読み通した。
あ・・・気持ちよかった。
みなさんのコメント・質問もいい感じ。
ぼくの発表がお昼休み前の最後の一本だった。 その後にも数人が演壇までやってきて質問してくれた。
今週中にこの質疑応答をとりいれたバージョンアップを行ないたい。
日曜日(しあさって)に迫った 東南アジア学会の 第106回研究大会でのぼくの発表 「千の唇、百の舌」が再び沈滞している。 こないだの「夜の教え」もうまくいかなかった。 「責任」・デフィージビリティ (defeasibility) 論で終えるのも 「なんだかなぁ・・・」なのだ。
今朝の散歩の途中でこんな風な筋を思いついた。 「とりあえず」としてはまぁまぁかな。
(1)結論は「属性的分類と関係的分類」にする。 責任の問題系となじむ --- 意図をもって行為する個(属性的分類)vs 空気を読んで動く孤(関係的分類)。
(2) 「属性的・・・は説明論だ」ということで、 ニーダムの心理主義批判とも結びつく。
(3) ディフィージビリティ (defeasibility) には 言及しない。 責任の問題は軽く触れるにとどめる。
なんとか今日中に 第1ドラフトを終わらせることができそうだ。 明日チューンナップすれば、 明後日(あさって)の懇親会に余裕で出席できそうだ --- 発表は明々後日(しあさって)だ。
東南アジア学会の 第106回研究大会でのぼくの発表原稿 「千の唇、百の舌」がスタックしている。 朝の散歩で、この原稿に関してのいろいろアイデアが浮かんだ。 基本的には一気にダイエットして、 議論を絞るということだ。
第一に(理論篇第3章で展開する予定だった)「冗談」の議論は 日本文化人類学会での発表(来年の6月) 「いじめの誘惑」に移動することとする。 日本文化人類学会の発表で、それ(冗談)だけを徹底的に議論したい。
そうすると、 理論篇は「無記名性」の問題だけになる。 これを「黙約から規約へ」の問題に接木すると、 とてもとても長くなる。 「黙約・規約」の問題は、 (「冗談」問題と同様に) 「いじめの誘惑」(日本文化人類学会発表)で扱うことにする。
さて「無記名性」の問題だ。 この問題は、 むしろ「責任」の問題に接木すべきだろう。 そうすることで、 これまでの defeasibility の僕の議論 (たぶん既発表の論文は 「不倫と肥満」 (中川 2017) だけだろう)と 対比させる。
責任の問題が結論部になるのかな。 ともかく、 結論部の本論にはいる前に、 お蔵入りさせた「ニーダムとホマンズとシュナイダー」議論を 復活させるべきだろう。 「これで心理主義ではない」言い訳の部分だ。 (「魔法の瞬間」への言及は削除する。)
無記名性の問題を責任とからめて書くのが結論部となるだろう。
その手前で、 「個と孤」の問題をつぎのように説明する。 鹿川くん事件のいじめの主体が「孤」であること、 それが近代の「個」と対比される。 このような書き方の中で、 多くの読者が西洋(個)対日本(孤)という図式をあたまに 描いただろう。 別役はその誘惑には負けていない。 彼の図式はむしろ、 近代(個)対ポスト近代(孤)である。 こちらの方が魅力的ではある。
わたしはこの対立は時間順に配置されるものではないと思う。 それはむしろ(どの時代、どの地方においても) 人間の頭の中にインプリメントされていると、 わたしは考える。
この議論から「不倫と肥満」の 責任の問題(まるちゃんなどなど)にもっていく。
なんとかなりそうかな。
第1章の「プッウからタウへ」の流れをもっと 洗練させる必要がある。
東南アジア学会の 第106回研究大会でのぼくの発表予定の原稿、 「千の唇、百の舌」の進捗がはかばかしくない。
今朝、起きてからベッドで夢現(ゆめうつつ)の時に、 「夜」がやってきて、答を教えてくれた(「コンベ・ソッド」)。 [--エンデ語です。夜の精霊(?)からの啓示のことを言います--]
まず、当該の論文の現時点でのだいたいの枠組を紹介しておこう。 第1章はエンデの妖術信仰(「千の唇、百の舌」は一種の妖術信仰である)について、 第2章は日本のいじめ(別役の議論)についてである。 そして第3章が理論篇(結論)となる。 思いつかないのは、結論としての第3章でどのようにまとめるか、 その方法である。
さて、夜の教えは次のようなものだ。 ニーダムをもちだしたらどうだ、というのだ。
いじめから千の唇を説明するのは ちょうど ニーダムが批判したホマンズとシュナイダーと同じ間違いをしているように見えるだろう。 ホマンズとシュナイダーは次のように説明する。 父系制のなかの個人がしばしば訪問する 母方のオジに、父親に対するより深い愛情をいだくことになる。 さらにその愛情はその娘、すなわち母方のオジの娘へと延長されることとなる、と。 ニーダムはこのような個別の心理学的な事象によって、 制度を説明するのは間違っているという。
もちろん、 ニーダムはデュルケムの金言に従っているのだ --- Whenever a social phenomenon is directly explained psychological phenomenon, we may be sure that it is false.
このニーダムの指摘が正しいとして、 一つの言抜けは、 「わたしは因果論を述べてはいない」と逃げることだ。じっさいまだ述べていない。 そして、最後に、 適当なレトリックで逃げるという手がある。
しかし、もうひとつの対応策がある。 ニーダムの師匠としてデュルケムではなく、 レヴィ・ストロースを持ち出してくるのである。 すなわち、 シンボルの思考が出現するという (デネットの言葉を敢えて使えば)「魔法の瞬間」の後は、 自然主義的(心理主義も含まれる筈だ)説明はいっさい使用禁止となる という、レヴィ=ストロースのあの御宣託である。 ニーダムはレヴィ=ストロースの忠実な弟子なのであるから。
わたしが言いたいのは「冗談」は この魔法の瞬間に関わっている。ということだ。
《More . . .》5ヶ月くらい前から苦吟していた論文がとうとう完成した。 英語で書いた論文(書かれたものとしてはまだ発表していない)を日本語にすれば いいと思っていたのだが、 じっさいに日本語にしてみて、 真っ青になった --- 日本語で書いたことを、あらためて英語にしていたのだ。 (もちろん物語の筋は違うのだが)
インドネシアで調査している間(7月から8月)に書けるだろうと思ったが だめだった。 インドのCちゃんちに行っている間(10月から11月)に なんとかなるだろうと思っていたが、 だめだった。
インドから帰った翌日(11-06)に天から啓示があった。
「〆切りの魔力」はすごい。 なんとかなるもんだ。 タイトルは「酸っぱくても飲み、腐ってもお食べる」、 サブタイトルは「東インドネシア、フローレス島、エンデにおける 階層と先行」だ。
ぼくのウェブにアップロードしました。 ここです。
11月に KAPAL(インドネシア研究懇話会)で発表予定の 「先行と階層」をおおはばに改訂しなければいけない、ということについては、 何度か書いた。
だいたい、以下のようにしようかしらん・・・
《More . . .》2024-11-16 に開催される KAPAL(インドネシア研究懇話会)の 研究大会で発表する原稿を作成している。 もともとは、 2016年7月にジャカルタのインドネシア大学で開催された ジム・フォックスの業績を記念する大会で発表した "Between Precedence and Hierarchy" を翻訳して発表する予定だった。
そこではジムの業績の1つ、 「先行」("Precedence") をとりあげた。 それを (ルイ・デュモンの)「階層」("hierarchy") と対比したのは、 (ジムのもと学生の一人)グレッグ・アチアイオリである。 ぼくは 1992年の本 『交換の民族誌』で、 「属性的分類」と 「関係的分類」という二つの分析概念を提出したことがある。 2016年の発表ではこの四つ (先行、階層、属性的、関係的分類)を使いながら、 フローレス島のエンデの民族誌を整理する、という作業をした。
これはこれで「記念論文集 (Festschrift)」向けの書き方でよかったと 思う。
さて、 その発表を KAPAL 用に翻訳しているうちに、 2016年版の筋は必要以上に複雑だ・・・ということに気がついた。
というわけで、 ここ数日、「先行」・「階層」を KAPAL 発表の議論から削除する作業をしていた。
ところが、 削除してしまうと、それはそれで不自然な議論の運びになっていることに 気がついた。
さて・・・どうしよう・・・
今日一日頭をかかえてしまった。
7月に ICAS-13 という国際会議がインドネシアのスラバヤであった。 インドネシアに出発する前につくった mp4 動画を youtube にアップした --- ここ だ。
ICAS-13@スラバヤで発表する原稿がどうやら形がついた。 ここで HTML 版がみれます。
7月29日にスラバヤ開催の ICAS (International Conventions of Asian Scholars) で 発表する予定の原稿、 Crossroads of Legitimacy and Illegetimacy (Web) をかなり書き進んだ。 今回は理論はほぼゼロ、 ひたすら民族誌を紹介するだけ。
書き始めたばかりだが、 ここにアップしてある。
題名は『千の唇、百の舌』である --- これは、エンデの言い回し wiwi riwu // rhema ngasu の直訳である。 エンデにおいてたいていの場合、 あなたを襲う突然の不幸は妖術 (witchcraft) のせいだと言われる。 あなたが成功したことを、 妖術師 (ata porho) が妬み、 あなたを襲う(tau)のである。 今回の発表でとりあげるのは、 そのバリエーションとも言える考え方だ。 妖術の文脈では、 妖術師こそがあなたの不幸をもたらした主体である。 ところが「千の唇」シナリオの中にはっきりした主体はない。 不幸をもたらしたのは、 噂話なのだ。 まさに、「千の唇、百の舌」が不幸をもたらしたのである。
この状況は、 近年のいじめについて別役実が 『ベケットといじめ』で指摘した構造、 「無記名性の悪意」と正確に重なる。
以上を出発点にして、 物語をつむいでみたい。 1つのバージョンは 贈与の社会は理想的な社会ではないよ、という 結論にいたる話、 もう1つは、 コミュニケーションの基礎は 規約か意図かの議論に貢献するような筋である。 どっちになるかはまだわからない。