エンデにおける無記名性の悪意
2024-12-07
The night has a thousand eyes, |
And the day but one; |
Yet the light of the bright world dies |
With the dying sun. |
(by F. W. Bourdillion) |
この発表のテーマは、東インドネシア、フローレス島のエンデの妖術信仰の一種、 「千の唇、百の舌」(ヴィヴィ・リヴ、ズマ・ンガス)<<(wiwi riwu // rhema ngasu) >> (エンデの人の「経験に近い概念」 (Geertz 1983))を私達にとってわかりやすくすることである。 その為にわたしのとる作戦が(1)まず、私たちにとって経験に近い概念である「いじめ」と「千の唇、百の舌」を並列することである。 さらに、(2)その二つをまとめるものとして、(「経験に遠い概念」として)分析哲学から説明論そして責任の問題をとりあげながら、議論を発展させたい。
この章では、エンデにおける「千の唇、百の舌」(ヴィヴィ・リヴ//ズマ・ンガス)信仰について簡単にまとめよう。 エンデの人は「千の唇、百の舌」が妖術(ポゾ)<<(porho) >>の一種だと説明する。 この章の前半では、それゆえ、まずエンデの妖術信仰を紹介する。 続いて後半部では妖術信仰の一種とされる「千の唇、百の舌」を紹介する。 「千の唇、百の舌」の重要な特徴は、そこには行為者である妖術師がいないという点である。 「千の唇、百の舌」の舞台上に展開されるのは主体なき行為なのだ。
冒頭で述べたように「千の唇、百の舌」について聞かれれば、「それは妖術(ポゾ)である」とどのエンデ人も答える。 というわけで、(「千の唇、百の舌」を紹介する前に)まずは妖術一般について説明しよう。1
妖術の行為者、妖術師(アタ・ポゾ)(ata porho) について簡単に説明しよう。妖術師は、人間(アタ・ムジ) (ata murhi) に混じって生きている。妖術師は外見では人間と変わるところはないが、実際は人間とは全く違う。彼らは人間を呪詛する(タウする)(tau) 2力をもっている。彼らは人を病に落しいれ、そして死に至らしむことができるのだ。このようにして殺した死者を、妖術師は(ほかの妖術師仲間といっしょに)喰らうと言われる。
ひとが妖術師になるにはさまざまな路を通ると言われる。ある特定の禁忌に違犯した結果妖術師になる人もいれば、3 知らない間に妖術師になってしまう人もいる。4 さらには高名な妖術師に弟子入りして妖術師になる人もいる。
妖術師が呪詛をする(タウする)のは、嫉妬(ズネ)(rhen'e) がその理由であると言われる。たとえば、あなたの今年の収穫が豊作であった時、あなたの隣人である妖術師は嫉妬心(ズネ)を抱くことになる。しかし、この状態では未だ呪詛(タウ)は起こらない。呪詛のためにはきっかけ(プッウ、「原因」) (pu’u) が必要だ、とエンデの人は言う。一つのエピソードを紹介しよう。
私がズパドリ村のある家に招かれて話をしていた時のことだ。玄関で人の声がするので、主人が玄関に出ていった。しばらくして帰ってきた彼は、怒りながら、「ダキのやろうだ。米を借りれないかと聞いてきたんだ。」。
私は「ダキは妖術師だ」という噂があるのは知っていた。しかしながら、どうして家の主人がそこまで怒っているのか、よく分からなかった。私が不得要領(ふとくようりょう)の顔をしているのを見て、彼はつづけて説明してくれた — 「やつはプッウ(きっかけ)を探しているんだ」と。
それでもまだよく分からない私に、その家の主人は丁寧に説明してくれた。妖術師は単に嫉妬しているだけでは呪詛(タウ)することはできないのだという。そのために必要なのが「プッウ」(原因、きっかけ)である。たとえば、彼が「米なんかない、帰れ!」と大声で対応すると、それは妖術師の思う壺となる。この出来事(主人が怒鳴る)こそがきっかけ/原因(プッウ)を提供するのである。プッウを得た妖術師は、いよいよ呪詛を行なう準備ができたこととなるのだ。
次に妖術告発について述べたい。わたしの45年に渡る調査期間の中で一度だけ、妖術告発(ペー・ポゾ)(p'e'e porho) が起きたことがある。ズパドリ村のある若い女性が突然気が狂ったように村の中を走りまわった。しばらくして、彼女はくたびれきって寝床についた。彼女は譫言(うわごと)の中で隣り村の男、ジョガの名を何度も叫んだという。みなは、ジョガこそが妖術師だと信じた。
ここ迄はよくある出来事だ。しかし、なりゆきで今回、事(こと)は大きく展開してしまった。告発が公になり、ジョガおよび隣村のおもだった人たちが全員降りてくるということになったのだ。二日間の話し合いがあったが、とくに何も決まらなかった。その後も、ズパドリ村の人々と、ジョガも含めた隣り村の人たちとの付き合いもそのまま続いている。
じつは、かつての妖術告発はもっと深刻な結果をもたらしていた。村人たちの話の端々から伺えるのは、かつては告発された妖術師は、しばしば殺されたという事実である。少なくとも、何人かの村人は、そのような告発・処刑を経験している(ようである)。ズパドリ村の近くに「コザ・ポゾ」(「妖術師ころがし」)という名の崖があり、ここでポゾ(妖術師)を処刑したという。
妖術のシナリオをまとめておこう。発端は妖術師のもつ嫉妬(ズネ)である。しかし、それだけでは物語は起動しない。きっかけ/原因(プッウ)が必要なのである。そのために妖術師はプッウを探しにいく(ンガエ・プッウ)。プッウを得た妖術師は、呪詛し(タウ)、犠牲者は病に落ちる。犠牲者側ではさまざまな形で「誰がやったのか(タウ)」が探られる。その探索の結果、告発(ペー・ポゾ)がなされ、妖術師への報復が行なわれる。妖術師は、言わば、自らの行為の責任を取ることになるのである。
もしプッウが探されず、ズネ(嫉妬)が、直接タウ(呪詛)へと直結するならば、妖術師は自動機械のようなものとみなされるだろう。自動機械にとっては責任は問題にならない。掃除をする人間にはその行為に責任が生じるが、自走掃除機には責任はない。「プッウさがし」という契機によって、はじめて、タウ(呪詛)という行為が、告発され、責任を追求されるべき行為となるのである。5
以上で通常の妖術信仰の記述を終える。つづいて妖術信仰の一種とされる「千の唇、百の舌」を紹介しよう。ポイントは呪詛の主体である。 妖術において呪詛の主体、妖術師は(前節で強調したように)責任をもった有名(ゆうめい)の個人である。 それに対して、「千の唇、百の舌」では主体は名指されない。 その名の示すように何百名、何千名の無名の人びとが、ある個人の目立った行動について陰口をいう。 その陰口が犠牲者への呪詛として働くのである。 それ故、告発もありえない。
三つ「千の唇、百の舌」の事例を挙げたい。たぶん、最初にこの言葉、「千の唇、百の舌」に遭遇したのは、最初の調査の時(1979/1981)だったと思う。共同調査者であるAさんがいささか調子をわるくしたのを見て、ぼくらの養い親であるアプさんとパマさんが「それは千の唇、百の舌だろう」といったのだ。ほのめかされているのは嫉妬(ズネ)、およびそれに基づく陰口だと思う。その陰口が呪詛としてAさんの身の上にふりかかってきたとパマさんたちは言っていたのだ。
もう一つの例を出してみよう。ある日パマさんが心配そうな顔をしているのに気がついた。どうしたのか聞いてみると・・・ラウがきょうも共同作業(道路工事)に出ないで、自分の畑に行っているというのだ。「ラウは、いまに千の唇、百の舌につかまってしまうよ」パマさんは心配そうに言う。
ぼくの妹、オトは校長として、ズパドリ村の小学校に戻ってきた。立派な出世だ。数年前のことだが、彼女は、「この頃どうも体の調子がわるい」とこぼしていた。病気になったり、なおったりを繰り返していたのだ。「たぶん『千の唇、百の舌』なのよ」というのがオトの自己診断だった。ここでも、ズネ(嫉妬)が暗示されているのだと思う。
冒頭に述べたが、エンデの人はだれもが「千の唇、百の舌」は妖術の一種だという。妖術のように、犠牲者はあたかも呪詛されたかのような症状を呈するのである。しかしここに主体としての妖術師はみあたらない。強いて言えば、それは千の唇、百の舌、すなわち、無名の人たちなのである。しかし、そこには「プッウを探す」行為はない — 「千の唇、百の舌」は一種自動機械の様相を呈すのだ。有名(ゆうめい)の責任者がいないのだから。プッウさがしについての言及はない。そして妖術告発も、もちろん、あり得ない。「千の唇、百の舌」は不気味な主体なき呪詛なのである。
この論文で問題にしたい点は、「千の唇、百の舌」のもつ主体なき行為(呪詛)という不思議な特徴である。 いかにして、意図する主体を特定しない行為が想像可能なのか、 それを考えていきたい。
「千の唇、百の舌」の背後に垣間見える、薄気味わるい、名前の無い主体を世間と呼んでみよう。そうすると、それは匿名掲示板による良識の押しつけ、そしてそれに負けてしまった犠牲者という最近のニュースを思い出させるかもしれない。しかし、「無名」を作るために用意された匿名掲示板という装置ができる前から匿名の呪詛は存在した。それがいじめである。
私が「千の唇、百の舌」にあらためて注目したのは、劇作家である別役実による労作、 (別役 実 2005) 『ベケットといじめ』(別役 2005) (初版は 1987年)を読んで以来のことである。 この本で別役がとりあげるのは、じっさいに起きたいじめ事件である。 彼の議論のキーワードは二つある。 一つは「無記名性の悪意」であり、そしてもう一つは「冗談」である。 二つは密接に関連しているのだが、この発表では、「無記名性の悪意」だけに絞って述べたい。
【蛇】なお「冗談」については来年6月の日本文化人類学会で触れたい。
別役が取り上げるのは 1986年に東京都の中学校で起きた事件である。いじめが原因で一人の生徒(鹿川くん)が自死をとげたのだ。 マスメディアをつうじて事件は大きく、そして詳細に報道された。 いじめは陰湿に続き、「お葬式ごっこ」でそのクライマックスを迎える。そこには教師も参加している。
別役はこの物語の不思議さを、近代の「個」を中心とした劇と対照させることで明らかにする。
それでは順を追って鹿川くんの物語を見ていこう。
日々のいじめは陰湿に続いたらしい。ここでは鹿川くんの自死の原因となったと(多くのマス・メディアが)考えている「お葬式ごっこ」をみてみよう。この「お葬式ごっこ」の中には、私たちの日常感覚とのずれを感じさせる多くのエピソードがある。まず、簡単にストーリーを追っていこう。
鹿川くんは怪我をして、暫く学校を休んでいた。数日ぶりに鹿川くんが登校する日に、鹿川くんの「お葬式」が行なわれたのである。
彼の机は教室の前に出され、彼の写真がそこに置かれていた。黒板にはさまざまな模様が描かれて、葬式の雰囲気をだしていた。さらに色紙が用意され、その真ん中に「さようなら鹿川くん」と書かれていた。そのまわりに「安らかに眠ってください」などの寄せ書きがあったという。その寄せ書きの中には教師によるものもあったという。(41)
登校した鹿川くんは、この様子を見て、次のように言ったという。「何だ、これ!」「オレが来たら、こんなの飾ってやんの!」
このストーリー、とりわけ鹿川くんの反応を聞いた読者はある種の違和感を感じるだろう。その違和感を、別役はあざやかに抉りだしてくれる。 本来なら反応は 「なぜこんなことをしたんだ」あるいは 「誰がこんなことをしたんだ」 という反応になる筈なのだ、と。 「本来」というのは、「(近代の)個人」を前提とするドラマツルギーの中での議論である。 すなわち、ここに見られるのは「近代の個人」ではない、と別役は言うのだ。
別役の言葉を引こう。
☆ 個から孤へ
かつて演劇の主人公というのは、近代以前のことを別にすれば、「個」が主体であったという感じがするのですが、今日ではむしろ関係のほうが主体になっていて、 しかも関係の中でのみ人間性が確かめられるという意味で、現在では、人間というのは「個」ではなくて「孤」であるという感じ方に変わってきた。 人間というものを「個」ではなくて「孤」であると考えることによって、むしろ人間性みたいなものが確かめられるようになってきた。 (別役 実 2005: 28–29) (別役 2005: 28–29)
この孤と関係(社会)からなる世界がいじめを呼ぶのである。だれか有名(ゆうめい)の個人がいじめをするのではなく、指差すことのできない孤のあつまり(社会、世間)がいわば阿吽(あうん)の呼吸で鹿川くんへのいじめをつくりだすのだ。これを別役は「無記名性の悪意」と呼ぶ。そして無記名性の悪意といじめの関係を、別役は次のように述べる。
☆ 主体のない悪意
この無記名性の悪意の性格とそれに対する戦術をざっといいますと、 まずこれは、おれが気に入らない、おれはおまえを好きじゃないよという形で主体をはっきりさせた悪意とは完全に違う。 主体がない。悪意そのものが、リモートコントロールされているということになってる。 つまり悪意が作動する現場には、その悪意を発動させた主体は存在しない。 (別役 実 2005: 103–104) (別役 2005: 103–104)
別役の議論を、敢えて今風(いまふう)に言い換えれば、無記名性とは「空気」なのである、と言えよう。それのもつ一種の圧力に関係する言葉として、たとえば、「忖度(そんたく)」あるいは「空気を読む」というイディオムを考えることができる筈だ。この脈絡で、教員がいじめに加わった一つの説明が可能である。6 彼らは個として、「鹿川くんをいじめよう」という意図のもとに行動したのではない。そうではなく、彼らの行動は、孤として、すなわち、空気を読んだ結果なのである。
この節では、別役の議論を、前章のエンデの「千の唇、百の舌」に重ねながらまとめたい。
別役によるいじめの分析、とりわけ「無記名の悪意」、そしてそれを支える「孤」としての個人の考え方は、いじめの理解を大きく推し進めたと、私は考える。その舞台に展開されるのは一人ひとりの意図をもった個が主体となる近代劇ではない。別の種類の劇がここで演じられているのである。意図をもった個が行動するのではなく、それ自体の内実をもたない孤があつまり無記名性の悪意として(個における意図にかわって)行動を起こさせていくのである。責任の主体はどこにもない。
以上のいじめの想像力は、「千の唇、百の舌」の想像力とみごとに重なりあう。(「千の唇、百の舌」以外の)妖術の想像力の舞台では、意図をもった個/妖術師が(責任をとる)主体として行動する(呪詛する)。それは「プッウからタウへ」の流れとして物語られる。しかし「千の唇、百の舌」においては、一つひとつの唇、一つひとつの舌が問題となるのではなく、それらが集まった千の唇、百の舌が(責任の主体ではないがしかしながら)主体として行動する(呪詛する)のである。
この章では、第1章のエンデの「千の唇、百の舌」と第2章の日本のいじめの問題とを重ねあわせる。
ここですこしの廻りみちを我慢していただきたい。
1992年に出版した本、『交換の民族誌』(中川敏 1992) (中川 1992) の中で、私は人々が世界を整理する二つの方法を示した。 私は一つを「属性的分類」、もう一つを「関係的分類」と呼んだ。
私が1章(エンデの妖術)と2章(日本のいじめ)を並べることによって示唆したのは普通の妖術 vs 「千の唇、百の舌」そして近代のいじめ vs 鹿川くんいじめの背後に属性的分類 vs 関係的分類という世界の見方における対立があるんだということである。答を先取りすれば、つぎの図のような構図が念頭におかれていたのである。
☆ 妖術といじめ
中川 | 属性的分類 | 関係的分類 |
---|---|---|
妖術 | ふつうの妖術 | 千の唇、百の舌 |
いじめ | ふつうのいじめ | 鹿川くんいじめ |
別役 | 個 | 孤 |
ここで属性的分類と関係的分類との簡単な説明をこころみたい。まず、イメージを掴んでもらうために、次の図を見てほしい。この世界ではノード(結節点)が主人公となる。ノードの色が属性、ノード同士を結ぶ線が(ノード間の)関係である。
この世界を「属性(色)」が「関係(線)」をつくりだしたと見るのが属性的分類である。たとえば N1 の色(青)、N2の色(緑)はあらかじめ与えているので、「なぜ N1 は青いか」の問いには答えられない。「なぜ N1 と N2 が結ばれているか」(関係)は属性をつかって説明される。「N1 と N2 は違う色だから」と。
関係的分類は、線(関係)が与えられていると見る。それゆえ属性への問い、「N1 と N2 はなぜ違う色(属性)か」には答えられる。「線で結ばれているからだ」と。
たとえば、親族理論におけるある論争を、この対立(属性的・関係的分類)をつかって整理してみよう。出自理論は、出自を同じくする人がグループをつくり、そのグループが婚姻関係をむすぶという。すなわち、出自理論とは、出自という属性が、婚姻関係という関係を説明する、属性的分類である。
レヴィ=ストロース以来の縁組理論は、婚姻関係(関係)こそが集団(属性)をつくると主張する。すなわち関係的分類なのである。
属性的分類の構図の中では、各ノードは属性(意図、責任)を割り当てられた充実した個である。そして、関係的分類の中の各ノードは、それ自身属性をまったく持たないたんなる関係の結節点である。それは孤なのである。
私が言いたい事は次のとおりである。エンデにおけるふつうの妖術、日本におけるふつうの(近代的)いじめは属性的分類という構図に基づくものであり、エンデにおける「千の唇、百の舌」、日本における「鹿川くんいじめ事件」は、関係的分類という構図に基づくものである。
1章で述べたエンデの二つの妖術(「千の唇、百の舌」とその他の妖術)、 2章で述べた二種類のいじめ(鹿川くん事件とその他のいじめ)、 この二つは、じつは二つの世界の見方、関係的分類と属性的分類とにそれぞれ支えられたものだったのである。
かくして、私たちは「千の唇、百の舌」と鹿川くん事件を重ねる事の出来る段階に達したのである。先程の表(「答を先取り」する形で示した表)を(すこしだけ変形して)再掲しよう。今度はこの表を、みなさんは理解できるであろう。
☆ 妖術といじめ
分類 | 属性的分類 | 関係的分類 |
---|---|---|
妖術 | ふつうの妖術 | 千の唇、百の舌 |
いじめ | ふつうのいじめ | 鹿川くんいじめ |
各ノード(人格)に属性(意図)があらかじめ満たされている属性的分類においては、 すなわち「ふつうの妖術」(エンデ)とか「ふつう(近代)のいじめ」(日本)では、責任が問われ、告発が行なわれる。 しかしからっぽの属性からなる体系をもつ関係的分類に支えられた構図、 すなわち「千の唇、百の舌」(エンデ)と「鹿川くんへのいじめ」(日本)においては、責任の付与もなければ、告発もない。 各ノード(人格)の背後には 「無記名性の悪意」が、 あるいは薄気味のわるい「千の唇、百の舌」が横たわっているのである。