いじめの誘惑

ヒト、空気を読む

Satoshi Nakagawa

2025-06-08

はじめに

この論文1の目的は、ある種のいじめの文脈にあらわれる「冗談」を論理的に分析することにある。 2 この類の冗談は、それ自身が高度なレトリックであると同時に、 複雑なコミュニケーションの技術が使われている、そのような現象である。 この複雑さの故に、それは大きな効果をもたらすことができるのである。 犠牲者を自死に至らしめるほどに。

この論文はいじめの一般論を展開するわけではない。いじめにも、おそらく、様々なバリエーションがあるだろう。「のび太のくせに生意気だ!」といって、弱いものをなぐりつける、単純きわまりないいじめもあるだろう。ここでとりあげるのは、もう少し高度ないじめである。菅野のことばをかりれば、「遊びに紛らわしたいじめ」 (菅野 1986: 16) である。 最近の新聞からそのようないじめに関する見出しを二つ引用してみよう。「市立小でいじめ 「じゃれあい」と捉え児童が不登校に」 (朝日新聞 2025-05-16 付)。「学校側が「いじり」と捉え深刻化 大阪市の中3自死でいじめ認定」 (朝日新聞 2025-05-12) 。 これらの「じゃれあい」や「いじり」を、「冗談」というキーワードでくくりたい。このような冗談の論理を探るのがこの論文の目的である。なお、以降、「いじめ」と言うときは、基本的には、「冗談を武器にしたいじめ」の意味で使う。

1 いじめと冗談

この章では、この論文でとりあげる特殊なタイプのいじめ、冗談を武器にするいじめについて具体例を挙げて、詳細に紹介したい。 そのようないじめを取り上げる中で、この論文で何を問題としようとしているのかを明かにしたい。

1.1 鹿川くん事件

別役実は、『ベケットといじめ』 (別役 2005 (1987)) の中で、ある一つのいじめ事件を詳細に分析している。 とりあげられたのは、1986年に起きた「鹿川くん事件」である。 級友にいじめられた中学生が自殺をするに至った事件である。

別役による記述を軸に、このいじめの物語を辿っていこう。ここでは鹿川くんの自死の原因となった(と多くのマス・メディアが考えている)「お葬式ごっこ」に焦点をあてたい。まず、簡単に事件のストーリーを追おう。

鹿川くんは怪我をして、暫く学校を休んでいたという。数日ぶりに鹿川くんが登校する日に、鹿川くんの「お葬式」が行なわれたのである (別役 2005 (1987): 40)。 彼の机は教室の前に出され、彼の写真がそこに置かれていた。黒板にはさまざまな模様が描かれて、葬式の雰囲気をだしていた。さらに色紙が用意され、その真ん中に「さようなら鹿川くん」と書かれていた。そのまわりに「安らかに眠ってください」などの寄せ書きがあったという。その寄せ書きの中には先生によるものもあったという。 登校した鹿川くんは、この様子を見て、次のように言ったという。「何だ、これ!」「オレが来たら、こんなの飾ってやんの!」そして、数日後に鹿川くんは自殺をすることとなる。

このお葬式ごっこをめぐる記述を、物語として理解しようとする時、ストレートな理解を妨げる箇所がいくつかあるだろう。ひとつは、「先生もまた寄せ書き」を書いたという部分と、もう一つは、鹿川くんのヘラヘラとした反応(「こんなの飾ってやんの!」)である。どちらの態度も、すぐには私たちの理解を拒む類の反応である。 たとえば、単純ないじめ(ジャイアンとのび太)の場合ならば、先生は「こら、弱いものいじめはいかん!」というだろう。あるいは、(のび太くんには期待すべくもないが)もし出木杉くんがいじめの対象だったならば、「なにをするんだ!いじめはやめろ」と毅然として、ジャイアンを諭すだろう。なぜ先生たちは、そして鹿川くんは「のび太のいじめ」物語のような反応をしなかったのだろうか?これが、解くべき謎である。

1.2 冗談

出木杉くんであってさえも、鹿川くんの置かれた状況では「毅然」とした態度は、おそらく取れなかっただろうと私は思う。 それは、このいじめの場のもつ特殊な雰囲気(「空気」)のせいである。 それは、「冗談」から生じてくるのである。

別役は「冗談」について次のように言う:

「冗談だよ」

「冗談だよ」という形でいろいろな遊びが あるわけです。 ポカリと殴っておいて 「冗談、冗談」とかね。 冗談という前提にたってかなり残酷なことを したりなんかしている。 そしてその場合冗談であることを理解しない人間は致命的なんです。 仲間はずれにされてしまうというぐらいですから ・・・・・。 (別役 2005 (1987): 70)

冗談が作り出す場の状況、それが先生たちや鹿川くん(そして、その他の参加者たち)の言動に深く影響を与えているのである。冗談が、「仲間はずれ」をつくり、「仲間」を作る。言わば、「空気」をつくるのだ。トランプの冗談(たとえばカナダについて言及)もまた同じような構造をもっている。

トランプによる「カナダはアメリカの五一番目の州である」発言もまた、同じ類の「冗談」であると、わたしは思う。ここで、2025-05-19 付の『毎日新聞』に記載された、ヤシャ・モンク(政治学)による、「トランプ発言への正しい反応の仕方」を紹介しよう。モンクは言う:

トランプの冗談

・・・問題は、領土拡張に意欲を示すトランプ氏が本当に世界地図を書き換える意思があるかだ。トランプ氏はよくとっぴなことを冗談半分で語る。 すべてをまともに受け取って批判すると、わなにはまる。 「ユーモア」の分からない支配階級を嫌う支持層からの反発を招くことになるからだ。 一方で、トランプ氏は冗談を通じて本音を伝える場合も少なくない。(ヤシャ・モンク 2025)

このような発言によって、トランプは絶対に負けないゲーム(「わな」)へと相手を誘っているのだ。「真面目になること」が負けであるようなゲームだ。敵が挑発に真面目に答えれば、彼は「マジになんなよ」と嘲笑して、自らのゲームでの勝利を支持者(たとえば、エリート嫌いの QAnon 支持者たち)に誇示することができるだろう。トランプはこのような冗談によって、空気をつくり、そして相手が空気を読んでも、読まなくても負けのような状況に、相手をひきこんでいるのである。

2 嘘と虚構

「お葬式ごっこ」にせよ、トランプの発言にせよ、ここで取り上げる冗談は、参加者の間の複雑なコミュニケーションがかかわっている。

この章では、冗談の問題を、コミュニケーションの問題と接合して述べていく。 とりわけ、デネットによる「志向性の(埋め込みの)深さ」の考え方を導入して、冗談の謎を解く第一歩としたい。

冗談を武器とするいじめの場とは複雑なコミュニケーションの場であると言った。それは、下世話に言えば、「腹のさぐり合い」の場である。相手のメッセージのうち、何が本音で、何が冗談(一種の)なのかのさぐり合いなのである。参加者は、常に「空気」を読まなくてはいけないのだ。

最初からこのような複雑きわまりない過程を分析するのは困難な作業である。わたしは、進化論的に、単純きわまりないコミュニケーションから、議論をすすめていきたい。その際に役にたつ考え方がデネットによる「志向性の深さ」 (デネット 1996 など) の議論である。 ここでは、デネット自身も寄稿した論文集、『マキャベリ的知性と心の理論の進化論』 (バーン&ホワイトン 2004) を題材に、サルからヒトへのコミュニケーションの進化についてのこれまでの議論を紹介したい。3 『マキャベリ的知性・・・』は、多くの進化論的霊長類学者たちが「サルとヒトは決定的に違うのか」問題、すなわち「閾(いき)問題」に、それぞれが出した回答を集めた論文集である。本の題名(「マキャベリ的知性」)が示すように、彼らは「嘘をつく能力」をその閾に設定する。すなわち、サルが嘘をつけるならば、ヒトとサルに閾はない、ということである。

2.1 心から嘘へ

デネットは当該の本へ寄稿した論文、「志向姿勢:その理論と実態」 (デネット 2004) の中で、 マキャベリ的知性(嘘)を、志向性(何かを思ったり、希望したり、意図したりすること)の埋め込みの深さと関連させている。 この節では、嘘がどのように志向性の深さと関係するかについて、述べよう。

ここで、簡単に、「志向性の深さ」の考え方を説明しよう。 1次の志向性のシステムの例としてクーラーを考えよう。クーラーは「いま気温が30度だ」と信じている。クーラーは「気温を 26度に下げる」ことを欲している。クーラーは内的表象、すなわち心をもっている。 2次の志向性のシステムはネズミを考えよう。ネズミには(クーラー同様に)心がある —ネズミは「(自分が)エサを食べる」ことを欲しているのだから。ネズミは、クーラーの上を行く。ネズミは「ネコが「ネズミを食べる」ことを欲している」ことを知っている。ネズミは心をもっているだけでなく、「他者もまた心をもっている」という信念(「心の理論」)ももっているのだ。 そして3次のシステムがヒト(もしかしてサルも)である。 S は 「H が 「S が p と意図している」と理解する」ことを意図する」のである。(こう書けば、あきらかだが、この図式はグライスのコミュニケーション理論 (Grice 1957)である。) S(ヒト、もしかしたらサル)は、(1) 心を持ち、 (2) 心の理論を持ち、 (3) コミュニケートするのである。もちろん、コミュニケートできるシステムのみが、嘘をつく(他者を欺く)ことができるのである。

志向性の深さ

次元 システム 例文
1次 クーラー A knows that p
2次 ネズミ B knows that A knows that p
3次 サル/ヒト C knows that B knows that A knows that p

3次のシステム(ヒト、もしかしてサル)はコミュニケーションのシステムであり、そこに悪意をくわえれば、コミュニケーションは嘘になる。嘘(マキャベリ的知性)に特別な能力は必要とされない。それは3次の志向性であり、コミュニケーションと同じレベルにとどまる。コミュニケーションは「実を実として」伝えるのに対し、嘘は「虚を実として」伝えるのだ。

閾問題を整理しておこう。『マキャベリ的知性・・・』への寄稿者たちは 3次の志向性(マキャベリ的知性)をもって、閾とみなしている。経験的問題だが、さまざまな報告を読むと、サルもマキャベリ的知性をつかいこなしているようである。4 というわけで、もし3次の志向性が閾ならば、閾はないことになろう。

私は閾は別のところに設定すべきだと考えている。 3次の志向性は閾ではない、と考えている。ヒトは3次の志向性を越える、ある能力 X をもっているのだ。その能力 X こそが閾であり、サルとヒトを分ける境界線であるのだ。以上がわたしの閾問題であり、その回答である。

それではヒトのもつこの特別な能力 X とは、 4次の志向性をあやつることか?とあなたは問うかもしれない。そうではない。 1次から2次、2次から3次は、それぞれが質的な変化である。しかしいったん3次の志向性を獲得すれば、それ以上の高次の(4次の、5次の)志向性の獲得は単なる時間の問題、量の問題なのである。そこに新しい展開はない。

デネットは自問自答する。「ヒトはどこまで高次なシステムであり得るだろうか」と。そして、「原理的には無限であることは疑いがない」と答える。

めっちゃ深い志向性

しかし本当のところ, 最良の環境のもとでさえ, われわれの多くがついていけるのはせいぜい5次か6次くらいまでであることをあなたが私に説明して欲しいと 私が信じていることを あなたが認識できると 私が言おうとしているのかどうかを あなたが理解していると あなたが確信を持って言うことがどれほど難しいかを 私がわかっているのだろうかと あなたは思っている。 (デネット 2004: 210)

私は、能力 X とは、演劇の能力であると主張したい。ヒトは「演じる」ことができるのだ。サルには「演じる」能力はないこの能力が、ヒトに大きなジャンプを、「文化の獲得」というジャンプを可能にしたのだ。

私の閾問題

2.2 嘘から虚構へ

この節の目的は、演劇の特徴について簡単にまとめることにある。 演劇はたしかに現実とは違うことを表現している、という意味で嘘と言えるかもしれない。 しかし、演劇は『マキャベリ的知性』でテーマとなった「嘘」・「欺き」とは異なる。 『マキャベリ的知性』の嘘は欺くための嘘である。 それに対し、演劇の嘘は欺く意図のない嘘(虚構)である。 この違いの重要性を、この節で示したい。

すでに述べたようにコミュニケーション(実を実として伝えること)は 3次の志向性である。嘘をつくこと(虚を実として伝えること)も3次の志向性である。演劇(あるいは芸術一般)は嘘をつくことではない。演劇は虚を虚として伝えるのだ。それがいかにして可能なのかを見ていこう。

演劇は二つの世界を作りあげることでそれ(虚を虚として伝えること)を成し遂げる。一つの世界は「現実」と呼ばれ、そこで成立する状態が「真実」である。現実という世界を生きる中で、そうでない状態を伝えれば、それは「嘘」と呼ばれる。演劇はもうひとつの世界をつくりだす;「虚構」である。現実の中で成り立たない状況が、虚構の中で成り立つのである。これが「虚を虚として伝える」演劇の仕掛けである。 そしてヒトは、この二つの世界を生きる能力、すなわち、「ごっこを遊ぶ」 (make-believe) (Walton 1993) 能力を有しているのである。

3 虚構と冗談

この章では、これまでの嘘そして虚構の議論をふまえて、冗談はそれら以上に複雑な構造をもっていることを示したい。

まず演劇における虚構(嘘)について分析する。 そして、それと対照させながら、いじめの中にあらわれる冗談を分析したい。 焦点は、それぞれの現実と虚構の配置の仕方である。 そして、冗談による現実と虚構の作り方を解説したい。

3.1 虚構から冗談へ

演劇は、3次の志向性(コミュニケーション、嘘)ではなく、 3次の志向性そのものを対象化する仕方である。 演劇は、現実世界の中に、それとは独立した虚構世界を作り出すことによって、その対象化を可能にする。

役者は舞台の上で人を「殺す」ふりをするが、もちろん、彼は(現実世界では)人を殺していない。 冗談においては、事態はさらに複雑になる。 冗談において、子どもたちは仲間をいじめているふりをしながら、 いじめるのだ。

この違いは、演劇と冗談における現実と虚構の配置の仕方の違いに起因する。演劇では、上演の時点で現実と虚構線引きはあらかじめ終わっている。「第4の壁」(舞台と観客席の間の想像上の壁)がそれである。観客は現実に位置し、俳優は虚構に位置するのである。基本的に現実は虚構に干渉しないし、また、虚構は現実に干渉しない。舞台(虚構)で何がおきても、それに観客(現実)はそれに干渉しないのだ。

いじめの中での現実と虚構の境界は曖昧模糊としている。先生たちは口をそろえて言う、「『いじめ』ではなく、『いじりあい』だと思っていた」、「『じゃれあい』だと思っていた」と。「いじめ」(現実)ではなく、「いじめごっこ」(虚構、演劇、ごっこ)だと思っていたというのだ。子どもたちはいじめているふりをしながら、いじめていたのだと言えよう。冗談では、いじめという実を、あたかまものごとくに伝えていると言えよう。

虚と実の進化論

虚実
コミュニケーション 実を実として伝える
虚を実として伝える
演劇 虚を虚として伝える
冗談 実を虚として伝える

3.2 虚実の皮膜

しかし、この結論(「実を虚として伝える」)はすべてが終わった時点でこそ言えることであろう。 いじめ(冗談)が続いている最中の状況は、さらに複雑である。

別役は「葬式ごっこ」に関する資料を読みながら、つぎのように言う。

葬式ごっこ

彼ら[級友たち]にもまた、それ[葬式ごっこ]がどのような性格のものであるか、わからなかったのだ。 というより、一面では「ほんの冗談」に見えて、一面では「悪意ある企み」と見えるそれに対して、 統一して見通す視点をついに持ちえなかったのであろう。 (別役 2005 (1987): 42)

騙し絵

舞台上の俳優が「人を殺す」場面を考えよう。もちろん、俳優は人を殺してはいない。それに対して、いじめでは「出来事が虚構なのか、現実なのか分からない」のが通常の状況なのである。そこでは、虚構のような、現実のような冗談が幅をきかすのである。

ある出来事が、ある時は虚(虚構の中の出来事)と見え、一瞬の後には実(現実世界の中の出来事)と見える。第四の壁は、ある時はなくなり(すべてが現実世界となる)、ある時は突然出現する。ある時は観客であった人間が、ある時は舞台の上俳優(当事者)となったりするのだ。 いじめとは、このような虚実皮膜の往復運動なのである。いじめの中で、意味は常に反転しているのだ。

結論の図解

おわりに

このような意味の反転こそが異文化理解であることについては、私は何度か(「嘘の美学」 (中川 2017)、「引用と人生」 (中川 2016b)、「異文化の見つけ方」 (中川 2015) などなどで)述べてきた。 そして、「冗談」の項で述べたように、意味の反転は、じつは、きわめて不安定なものである。 ウサギと見えた図が、しばらくすると、またアヒルと見えるだろう。 そしてまた、ウサギに見えるようになるかもしれない。 そのような往復運動を、わたしは「よろめき」と呼びたい。 次回の発表、「よろめきの美徳」はそのような意味の反転のメカニズムをより詳細に解明することが目標とする。

たぶん・・・

References


  1. License is: CC-BY-NC-ND 4.0 (Creative Commons).↩︎

  2. その意味で、わたしは菅野と同じスタンスである。菅野は言う、「ここでは心理的あるいは社会的な次元の手前でというか、もっと論理的な次元で、 [いじめという]現象を見つめてみたい」 (菅野 1986: 156) と。↩︎

  3. 詳細はわたしの「裏切りの快楽」 (中川 2024) を見よ。↩︎

  4. とりわけ、ヒトと近しく生活するサル (例えば、サベージ=ランボー 1992) には、「欺く」能力を見いだすことができそうである。↩︎