エンデで規則をやぶる仕方
2024-12-04
この発表は、前回の発表、「象牙の路をたどる — 従われない規則を守る仕方」 の続編となる。 おなじく東部インドネシアのフローレス島のエンデの人々における生活を律する規則、*母方交叉イトコ婚についてである。前回は母方交叉イトコ婚 をしないことによる負債が絆をつくる様を紹介した。
エンデでは、母方交叉イトコ婚をしなかった時に、行わなければいけない交換がある。 今回の発表は、この交換の意味について考えたい。
前回の発表で示したのは、エンデの人たちが母方交叉イトコ婚の規則をやぶるのは、そうすることによって負債を負い、それが当該の人たちの絆をつくりあげるからだ、ということを示した。この考え方は、古代日本のアキカエシの論理 1(折口信夫)に重ねることができる。アキカエシのロジッによれば、負債がある間、絆は続くのである。
今回の発表も同じく母方交叉イトコ婚をめぐる議論である。今回は、エンデの人たちが 2 じっさいに母方交叉イトコ婚の規則を破る仕方をみていく。それは、いつも通り、贈与交換によるのだ。そして、その不思議な贈与交換の背後に横たわるのは、やはりアキカエシの論理であることを示したい。
この小節では、前回の発表(「なぜ規則を破るのか」)と関連づけながら、この論文であつかう問題、「どのように規則を破るのか」を紹介したい。
前回の問題設定はこうだ:インドネシア東部のフローレス島のエンデの人々の間で、もっとも重要な規則は母方交差イトコ婚の規則である。ところが、この規則はほとんど守られていない。そのような結婚はほとんど行なわれていないのだ。にもかかわらず、その規則は消えることはなく社会の中で生きている。何故だ?これが問題であった。
わたしが民族誌の中にさがしあてた答は、エンデの人々は母方交差イトコ婚を遂行しないことによって一種の負債をつくり、その負債こそが人と人を結んでいるのだ、ということである。この負債に相当するエンデ語はないが、日本古代の「アキカエシ」の考え方がそれに近いと、発表では指摘した— 貸し借り関係をわざと清算しないことによって、人間関係を維持する古代日本の考え方である。アキカエシの論理とは、「負債が絆である」と考える論理である
(折口信夫 2006)
母方交叉イトコ婚は、言わば、人々がそれに従わないために存在する、そのような規則である。日本でも事実としては「母方交差イトコ婚をしていない」のだが、それが不作為(「しない」という行為)とみなされないのは、そのような規則がないからなのだ。交通規則がなければ交通規則に違犯はできない。「母方交叉イトコ婚」の規則がない限り、それに違犯することはできないのだ。 繰り返そう。母方交叉イトコ婚の規則は、それに違犯するためにあるのだ。それに違犯することによって負債をつくり、その負債によって絆をつくるのである。
今回の発表は、そのような規則の違犯(母方交叉イトコ婚をしないこと)は、具体的にはどのような形でしるしをつけられるのか/可視化されるのか、という問いをめぐって展開する。それは、贈与交換 によってしるしづけられるこの贈与交換を貫く論理をみていこうこれが今回の発表である
本文に入る前に、この発表で使われるいくつかの人類学の用語と、議論の背景となるエンデの民族誌的事実を一つ復習したい — 婚資でつながれたキョウダイ(ナラ・ウェタ)<<nara weta>>である。
前回の発表のなかで、今回の議論にも関連する重要な民族誌的事実がある。それは母方交叉イトコ婚、あるいは(エンデ風に言えば)ンブズンドゥー・ヴェサスンダ婚は、系譜(母方交差イトコ、父方交差イトコ)よりも、婚資で説明をされる、という事実である。ある女性(b1 としよう)のために支払われた婚資を、男(B1 としよう)が自分の婚資として使ったとしよう。このような出来事をエンデでは「ワッウ・スイム//ナイ・スイム」(グループから)一人でて、(そのグループに)一人はいると表現する。 この関係にある二人(エンデ語はないのだが、この論文では、「婚資でむすびつけられたキョウダイ」と呼ぶ)はそれぞれの子供同士が結婚することが期待される — 具体的には男性の娘が、女性の息子と結婚することが期待されるのだ。 B1 と b1 はたいていの場合、じっさいのキョウダイなので、この結婚は「母方交差イトコ」となるのである
いまから・・・
以上で復習をおえる。以下の部分は、復習というより、前回の結論をさらに言い換えてみる試みである。さて、「負債が絆をつくる」という考え方が「アキカエシ」の論理である民族誌的事実を踏み越えてしまう危険を敢えておかして、わたしは次のように言いたい — 婚資で結ばれたナラ・ヴタ(交差するキョウダイ)にはある種の負債関係があるのだ、と。すなわち、兄は妹(の婚入したグループ)へ女性(自分の娘)を送らなければならない負債があるのだ。母方交叉イトコ婚をすることにより、その負債(すなわち、絆)は消失する。母方交叉イトコ婚をしないということは、その負債(絆)をそのままにする。ということである。
今回の発表で、アキカエシにくわえてわたしがスポットライトをあてたい考え方は生命の流れという考え方である。それは東インドネシア全体にわたって見られる考え方であり、エンデにも存在する。エンデにおいて、しかしながら、この考え方はある捻(ひね)りが加えられている。 エンデの生命の流れ観念は、つねに財の流れ観念と裏表となって捉えられているのだ。この二つの観念こそが、エンデの「母方交叉イトコ婚」を支える考え方なのである。
戦後の東インドネシアの研究のエポックメイキングとなった論文集『生命の流れ』(Flow of Life) (Fox 1980a) のなかで、編者フォックスは「民族誌的研究領域」 (field of ethnological study) (Josselin de Jong 1977) としての東インドネシアを宣言し、その特徴をいくつか挙げている。儀礼歌にみられるパラレリズム(並行表現)((Fox 1971a) (Nakagawa 1988) など)そして植物の隠喩 (Fox 1971b) と並んで重要なのが、この論文集の題名ともなっている「生命の流れ」という考え方だ。婚姻による女性の流れが生命の流れとして考えられているのである (Fox 1980b: 12)。
生命の流れの源は、ワイフ・ギバーである。とりわけ、母の兄弟 が最も重要な人物となる。ここでは、エンデの母の兄弟に関する民俗をいくつか紹介したい。
母の兄弟の不思議な重要性は、(そしてそれと関連して母方交叉イトコ婚の奇妙さ)は、人類学の歴史のなかで何度もとりあげられてきた。母権の名残りであるとか、父系・父権の中で「男の母」としての母の兄弟があり、甥は彼に特別の愛情をいだく(Radcliffe-Brown 1952)、であるとか。そして、母方交叉イトコ婚は、母の兄弟への愛情がその娘へと転化されたものであるといった説明 (Homans and Schneider 1955) までされるようになった。レヴィ=ストロースは、構造主義宣言のような論文 (レヴィ=ストロース 1972) の中で、親族の原子の1つとしての B/Z、H/W、F/S そして MB/ZS の関係に注目して、たとえばつぎのような等式、 MB/ZS:B/S::F/S:H/W をうちだしている。 (Rodney Needham 1962)
KAPAL のメンバーの方には、おそらくこのような大風呂敷に違和感を感じるであろう。わたしもそうであったし、今でもそうである。 30年前に博論が煮詰まってしまったわたしに、わたしの指導教員であるジム・フォックスが次のようなエヴァンス=プリチャードの言葉を伝えてくれた。3 EP は民族誌の書き方に関してかつて次のように言ったというのだ — 「その人たちの文化の木目 (grain) をみつける必要があるんだよ」と。わたしには、いささか禅問答じみた、この言葉の意味を理解することはできなかったが、それなりに感じたものがあった — 「とりあえず大風呂敷はやめて、エンデの人の物言いに集中しよう」と決心した。
ある一つの文化の木目を見るとは言え、ある種の比較が必要であろう。同じく EP によれば、比較だけが人類学の方法であるという。しかし、EP は続ける、「それ(比較)は不可能である」と (R. Needham 1975) 。それでも人類学は比較にとり組んできた。そのうちの一つのパラダイムがヨセリン・デ・ヨングの提唱した「民族学的研究領域」である (Josselin de Jong 1977) (初出 1935)。ある程度伝播を自然に想定できる範囲をもって比較の範囲としよう、というアイデアだ。そして民族学的研究領域の一つとして彼が挙げるのが Maleische archipel である — ある意味、KAPAL のメンバーはヨセリン・デ・ヨングの使徒であると言えよう。フォックスは類似がより鮮明になるように範囲をせばめた「東インドネシア」を民族学的研究領域として考えようと提唱した (Fox 1980b)。
ここで、東インドネシアという研究領域にあるロティ島の母の兄弟に関する民族誌を紹介しよう。「植物としての姉妹の息子」(Fox 1971b) という論文の中で、フォックスはロティの母の兄弟について次のように言う。彼は(甥に対して)フック fuk であるのだ。フックとは、インドネシア語の “pokok” と同根であり、幹、基本という意味である。すなわち、姉妹の息子は、母の兄弟がいなければこの世にいなかったのだ。
エンデでは「母の兄弟はプッウ pu’u である」と考えられている。「プッウ」とはインドネシア語の “pokok” と同根であり、「木の幹」を意味する。「プッウ」は、さらに、「原因」や「水源」の意味もある。母の兄弟は、人にとって根幹であり、原因であり、源なのだ。プッウのいない人(たとえばロッイ(義絶)によってプッウと関係を断った人)は「奴隷 (ata xo’o) とおなじだ」あるいは「妖術師 (ata porho) と同じだ」と言われる。プッウがいないのは人間じゃないのである。さらに、母の兄弟は姉妹の子供に対して、呪的力をもっているとと信じられている。彼がプイシク (pui siku) という特別な動作(片方の肘をもう片方の手ではらうような所作)をすると、姉妹の息子は死んでしまうと言う。それほどに母の兄弟は重要なのだ。
母の兄弟はプッウ(水源)であり、生命(水)はそこから姉妹の息子へと流れるのである。この生命の流れは、「頭」の流れとして可視化される。エンデの社会ではどの人も母の兄弟(母の出自集団)から頭をうけとっている。そして、その人が死んだ時、その人の頭が母の兄弟(母の出自集団)へと返されるのである。具体的には、「頭」は婚資と同種の財(ンガヴ)である
エンデでは、生命の流れは、その流れに反対の財の流れ(頭の支払い)によって可視化されるのだ。
エンデの母方交叉イトコ婚をめぐるイディオムの一つ、ンブズンドゥー・ヴェサスンダ (mburhu nduu//wesa senda) は、まさにこの考え方(表裏一体となった生命の流れと財の流れ)を表わしている。そのことを、この小節で示していこう。
このイディオムをエンデの人はつぎのように説明する。
☆ ンブズンドゥー・ヴェサスンダとは(その1)
「ンブズ」は「道」の意味だ、そして、「ヴェサ」もまた「道」(獣道のような狭い道)を指す。「ンドゥー」は「辿る」、「スンダ」は「縫いあわせる」という意味である。このイディオムは「道を辿る」という意味なのだ。より具体的に言えば、女性が彼女の おばさん(FZ)の道 を辿る結婚の仕方を指しているのだ。
「おば(父親の姉妹)の道」とは、おばの結婚のことをいう。図中の b2 に焦点をあてよう。彼女のおば (b1) は、BグループからCグループへの道をつくったのだ。そして、私がいま焦点をあてている女性 (b2)はその道を辿って、Cグループへと嫁ぐ(C2 と結婚する)のである。
かくして、エンデにおいては、生命の流れ(女性の流れ)が「道」として表現されるのである。
母の兄弟および頭の流通の項で、生命の流れは、反対方向に流れる財の流れによって可視化される、と書いた。エンデの生命の流れは、女性の流れ(ワイフ・ギバーからワイフ・テイカーへの流れ)であると同時に、それの反対方向の財の流れ(ワイフ・テイカーからワイフ・ギバーへの流れ)であるのだ。 この財(ンガヴ)の流れがエンデの人々の生活を律している。その様子をボウの描写を通して、ここで、示したい。
さきほど、「ンブズンドゥー・ヴェサスンダ」というイディオムのエンデの人の解釈について紹介した。じつは、このイディオムはもう一つの意味が重ねられている。エンデの人のコトバを引用しよう。
☆ おばさんの路は象牙の路
ンブズンドゥー・ヴェサスンダにはもう1つの意味がある。「ンブズ」は「十」の意味でもある。婚資支払いにおいて、象牙は10本単位で支払われる。「ヴェサ」は象牙の長さの1つだ。両腕を広げた長さ(ルパ)の半分を越える長さの象牙を「ヴェサ」という。
さて、いよいよ母方交叉イトコ婚をしない不作為の議論である。二種類に分けられる。女性が期待される結婚相手、FZS と結婚しなかった場合と、男性が期待される結婚相手、MBD と結婚しなかった場合とである。 すでに述べたように、不作為を可視化するのは贈与交換である。それぞれの場合にわけて、どのような贈与交換がされるのかを見ていこう。
□(コメント) 再確認
最初は女性が FZS と結婚しなかった場合である。すなわち、女性が「おば/象牙の道」を辿らなかった場合である。この時、その女性と結婚した男が、その女性のおば(そしてその夫)に対して財(ンガヴ)をわたす。この贈与をジャワ・トサ(「臼でひいたトウモロコシ」)と呼ぶ。
□(コメント) ジャワ・トサ
じっさいには、ジャワ・トサ支払いは、D3 が B2 へ払うものである。その婚資を B2 が b2/C2 へと渡すことになる。
しかし、話はこれで終わらない。インフォーマントは続ける — ジャワ・トサを受け取った C2 (b2) (灰色グループ)は、すぐに b2 の兄弟たち(青色グループ)に贈与を贈るというのだ。 まるで債務がなくなることに恐怖しているかの如くである
もう一つの可能な違犯は、男が、彼が結婚すべき女性(MBD)と結婚しなかった場合だ。違犯は、その男が他の女性と結婚した時におかされたことになる。「母方交叉イトコ婚をしない」という不作為、行為をしたわけだ。
このようなゼゾ・ウズ支払いの要求を受けた灰色グループ(C)は、彼らのワイフ・ギバー、青色グループ (B) にたいして、それなりの返礼をするようにと要求する。この小節では、この返礼について述べたい。
このようなゼゾ・ウズ支払いの要求を受けた灰色グループ(C)は、彼らのワイフ・ギバー、青色グループ (B) にたいして、それなりの返礼をあたえるように言う。この返礼をトッウ・ジョプ(「頭をつかまえる」)という。より正確には、トッウ・ジョプ//デオ・ンゲロ (to’u jopu//dh'eo ng'ero) (頭をつかまえ//頭頂をとらえる)という。
B がゼゾ・ウズを受け取りながら、トッウ・ジョプを与えるのを拒否すると、 B と C の間に kombE weta// rhera nara 「夜は姉妹、昼は兄弟」の関係はなくなるという。トッウ・ジョプは、いわば、(貸し借り関係を清算しないように)あらたな貸し借り関係を作り出すためにおこなわれるのだ
屋上屋を架すようだが、負債/負い目をめぐって、つぎのようにまとめることができるだろう。以下の言い回しは人類学者によるものだ。出出し(婚資でむすばれがキョウダイ)の時点で、 B2 は b2 に負債がある。母方交差イトコ婚をしてしまえば、この負債=絆(「夜は姉妹、昼は兄弟」)は切れてしまうのだ。これが「母方交差イトコ婚をしない」ことの意味である。妹の息子が、兄の娘以外の娘と結婚して、ゼゾ・ウズ支払いをすると、負債=絆はなくなる。トッウ・ジョプ支払いは、もう一度負債=絆をつくるための支払いであるのだ。
かくしてンデの社会は、負債が清算されそうになると、れを清算しないようにしたり(前回の発表)、るいは清算した上で、あらたに負債の関係を作ることによって、すます相互の絆をつよめていくのであるこにおいても、作動しているのは *アキカエシ** の論理なのだ
□(コメント) 40年前
いささかおくればせながら(フィールドワークを開始して40年以上たって)わたしは、やっとエンデの文化の木目をみつけたような気がするアキカエシという木目を
□(コメント) いまはほとんど聞かない □(コメント) カニスがボウに行く □(コメント) 「変だぞ!?」 □(コメント) ボウのトッウ・ジョプ □(コメント) さいごのさいご