きょうは民博の特別展 『ラテンアメリカの民衆芸術』の内覧会に参加した。 身内だけのバーゲン会場みたいで、ちょっと 気がひける。 短い開会式のあと、 会場をめぐる。 どの作品も素晴しい。 いまアーサー・ダントウの現代芸術の哲学を読んでいるのだが、 ぜんぜんわくわくしない。 [--議論自身は興味深い--] もともとぼくが現代芸術を嫌いだ、というのが その(「つまらんと感じる」ことの)第一の理由かもしれない。 しかし・・・ 現代芸術と(ふつうの)芸術を それらが「同じようなものである」として 議論するのは、 ちょうど 客体化された文化と(ふつうの)文化を、 いっしょに議論しているみたいで、聞いていて居心地がわるい。 もっと端的に言えば、 間違っていると思う。 「芸術」という言葉の外延から 『泉』以降のいわゆる「現代芸術」は除外すべきだ。 (同時に「文化」という学術用語の外延から 〈客体化された文化〉を除外すべきであるように。) 「現代芸術」は鑑賞するためにあるのではなく、 それについて議論するためにあるのだと思う。 というわけで、 コンセプチュアル・アートのアイデアは とてもいい --- 作品もいらないから場所の節約になる。 ちょっぴり『パタリロ』の「バーチャル落語」を思い出す (^^:)
サイエンスウォーズのきっかけとなった ソーカル事件みたいな「いたずら」を誰かしないかな ;-P
もとに戻ろう。 民博の特別展『ラテンアメリカの民衆芸術』の話をしていたのだ。 ここに並んでいる「民衆芸術」は (議論は二の次で)ともかく鑑賞するためにある。 どれもこれも素晴しい。 うっとりとしてしまう。 いくつか模写してみた。 [--感動のあまり『泉』を模写する人っているのかしらん--]
先日の『アフリカの冒険的現代』といい、 この頃とてもついている --- 面白い人類学を満喫できた。