8月31日の夜9時半にデンパサールをテイクオフする。 チャンギで乗り継いで、 関空に着いたのは朝の 9時ころである。 飛行機を降りたところで、 航空会社のグランドスタッフによびとめられる。 なんと、ぼくの荷物 (2つあるうちの1つ)がチャンギで乗り継ぎができなかったそうだ。
ラゲージクレームのところで JAL の職員さんといっしょに (問題の航空会社は JAL でありません)書類を作成する。
去年につづき、□□航空の失態・・・。 来年は JAL か ANA にしようかな(羽田乗り換えになる)。
いよいよズパドリ村を出る日である。 ミルスのトゥーバンダの後にも、 数え切れない程のトゥーバンダがあった。 誰が誰に何を贈ったかをメモするだけで、 疲れきってしまったが、 (せこい言い方だが)論文1本は簡単に書けそうだ。
カニスの車(軽トラ)でエンデの町まで送ってもらう。
ここ数年は、 町では、 中国人(中国系のインドネシア人)の家に泊めてもらうことにしている。 豪華なおうちでゆっくりする。
夜は、 車(乗用車)でエンデの町を案内してもらう。 洒落たレストランで食事 --- おいしゅうございました。
明日、エンデを出て、バリへ行く。
きょうはミルスのトゥーバンダ(「婚資を運ぶ」儀)の日だ。 夕方でかけるということだったので、 4時ころから、 ぼくらもミルスの家で待機している。 なんや・かんや・いろいろあって、出発したのは夜の7時半だ。 むかしは歩いていったが、この頃は車(軽トラ)である。 3台に分乗して出発する。
目的地の村には30分ほどで着く。
なんや・かんや・いろいろあって、 ンバッボがはじまったのは、10時近くだ。
カニスが婿(ミルス)側を代弁する。 贔屓目かもしれないが(彼はぼくの「弟」となる)、 なかなかうまく交渉を進めていた。
交渉はほぼ決定したので、 (この後、まだまだいろいろプロセスがあるのだが) 一足さきに失礼した。 やはり先に帰りたがってた おばちゃんたちといっしょに軽トラに乗り、 ズパドリ村に帰る。
ねむい・ねむい。
この10年くらいの間、 カトリック教会は結婚式は(1年に1度)教会が決めた日にだけ行なうという、 「集団結婚式」(ニッカ・マッサル)の制度を採用している。 というわけで 8月に結婚が沢山ある、というのには慣れていた。 「それにしても多過ぎる!」・・・というのが今年の状況である。
ハニ先生やリヴァ、カニスたちに質問してみて、納得した。 カトリックにとって、今年は 25年に1度の 「ユビリウムの日」にあたるのだそうだ。 いままでカトリック教会が認めなかった結婚 (親の許しがない結婚などなど)も、 まとめて認可する、ということだ。
ふつうはトゥーバンダ(「婚資を運ぶ」儀)は、 その名のとおり、 婿側の親族が「婚資を運ぶ」、 すなわち、婿側の親族が嫁側の家に行くのが普通なのに、 マーの例のように、 嫁側が受け取りにでかけるという事例もけっこうあった。
ルールは実はこうなのだ、という --- (1)嫁が まだ両親といっしょにいるのなら、 婿が(嫁のいる家に) 「トゥーバンダ(婚資を運ぶ)」のだが、(2)嫁が すでに婿側の家で暮しているときは、 嫁側の親族が婿側の親族(嫁のいる場所)にでかけていくことになるそうだ。
きょうはマーの娘のンバッボ(婚資交渉)の日である。 夫もまたズパドリ村の住人である。 どちらからも招待がきた。
ぼくは、リヴァやハニやカニスといっしょに、 まずマーの家(嫁側の家)へ行く。 そこでお昼ご飯をごちそうになる。 ここから皆で婿側の家に行くのだ。 その出発の前に、 ハニとカニスとぼくは失礼する。
そこから、こんどは婿側の家に行くのだ。 ハニとカニスも嫁側とも、また婿側とも、 それなりの親族関係がある。 今回は、主に婿側として行動することを決めたようだ。
さてしばらくすると、 嫁側の親族が行列をなして、 贈り物(豚や寝台や米や衣服などなど)をもってやってくる。 婿側が豪勢な食事をもってかれらをもてなす。
夜中になって、やっとンバッボ(婚資交渉)がはじまる (婚資は婿側の親族が嫁側の親族に渡すものであふ)。 婿側が用意した婚資(象牙が2本、牛、などなど)は、 ぼくが見ても「まぁまぁ」の量があった。 しかし、嫁側はなかなか納得しない。
12時をすぎても、まだまだンバッボは続きそうなので、 私は一足先に帰ることにした。
ミルスは、 ぼくの「父親」だったアプさん(1990年代に亡くなっている)と 同じ父系親族(ワジャ・ビッサ)に属す、村の若者である。 今月の19日(きょうは 10日)に婚資をもって妻方の村へ行く予定である。 これを「トゥーバンダ」と呼ぶ。 さて、アプさんの後を継いでいるのは、 末っ子のカニスだ。 彼がミルスの「仲間」のリーダーとなる。 「仲間」とは、ミルスの父系親族と、 彼の「ウェタ・アネ」と呼ばれる姻戚である。 リヴァはカニスの姉妹(ウェタ)なので、リヴァとハニは このウェタ・アネとなる。
19日にぼくら(ミルスの親族とウェタ・アネたち)が婚資をもって、 妻方の家を訪れるのだ --- トゥーバンダである。 そして、その夜、婚資の支払いの交渉(ンバッボ)が行なわれる。 このンバッボのための戦略について考えよう、というのだ。
集会には、女もいれれば40人、50人はいただろう。
いったん解散して、また夜あつまる。 だいたいの作戦が決まったようだ。
COVID-19 以来バリからエンデまでの直通便 (途中で寄港はするが、フライトナンバーがかわらない便)が なくなった。 今回は DPS/LBJ (デンパサール/ラブアンバジョ)をバティックエア、 LBJ/ENE (エンデ)をウィングスエアで飛んだ。
なお、DPS/LBJ の乗客はブレ(白人)ばっかりだった。 中国人がいない。 そう言えば、 バリに二泊したが、 街中を「ジャラン・ジャラン」しても会うのはブレ(白人)ばっかりだった。 この10年くらいは中国人ばっかりで、 去年はインド人であふれかえっていたのだが --- 一気に「インド料理屋」が増えた --- 今年はむかしのバリに戻ったみたいだ。
それはさておき、閑話休題・・・ 無事、エンデに到着した。 そして、空港から一目散にズパドリ村へ向かった。
毎年お世話になっているリヴァとハニ先生に迎えられる。
COVID-19 以来、 大阪からデンパサールへの直通便がなくなってしまっている。 去年も SQ を使った。 いろいろと不手際があったので、今回は別の便にしようかと思ったが、 やはり一番信頼できるので SQ にした。 午前11時に関空をでて、 チャンギで乗り継いで、 夜の 9時に到着する便だ。
とくに問題もなくデンパサールに到着する。
いつもの宿に着き、 ぐっすり。
CちゃんとEMちゃんがインドから到着する。 1ヶ月ほどのバケーションだ。 日本の夏も暑いが、 インドはもっと暑いという。
空港で「じーっちゃん!」とかけてくるEM、 映画みたくてかわいかった。 「ばっちゃん」も来ているのに気がついて、 おお喜び。
1時間ちょっとで家にかえりつく。 タクシーの中で寝て、 家について起きたのだが、 にこにこがつづいている。
先日MY (OB)くんの写真展でのことだが、 HM (OG)さんの音頭でぼくの(1月以上おくれになるが)誕生会をしようという 話になった。 というわけで、今日、四人の元学生さん (HM (OG)さん、MY (OB)くん、UT (OB)くん、NF (OG)さん)が集まってくれた。
日本一長いと有名な天神橋筋商店街をぶらぶらと歩く。
しばらくすると、目的の中華料理屋さんに着く。 店員さんが中国人というのは、もう慣れたが、 お客さんも(ぼくら以外は)ぜんいん中国人だった。
さすがに中国人の客の多い料理屋さん、 とてもおいしい料理でした。
9時ころまで食って、飲んで、喋って・・・。だいまんぞく。
腹ごなしに喫茶店にいく。 誕生日っぽくパフェを頼んだら、 みんなもパフェで、なかなか強的(ごうてき)だった。
しばらくして、一人ひとりからプレゼントをもらった。
感激・・・。
みななかなかに僕の趣味を知っている!
とっても楽しい「お誕生会」でした (^o^)/
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ぼくの発表は11時台だ。 発表予定の会場に行き、ぼくの前の発表を聞く。 大きな会場だ。
いよいよ発表だ。 「いじめの誘惑 --- ヒト、空気を読む」 を一気呵成に読んだ。 ロレツがまわらない。滑舌がわるい。まいった、まいった。 それでも無事に17分喋った。 とってもすばらしい質問もでたし、 時間外の質問も楽しかった。 そこで帰ろうと思ったが、 OW (OG)さんが「次の発表も聞いていきなさい」というので、 聞いた。
MK (OG)さん、NO (OB)くん、 筑波のもと学生さんたちとおいしい中華料理屋さんに行く。 おいしゅうございました。
秋葉原で寄り道。
新幹線で無事帰宅しました。
JASCA、去年の大会に参加しなかったので、 2年振りだ。 知っている顔にあい、 じゃれあうのは楽しい。
訃報をいくつか聞いた。 寂しい。
懇親会[--研究大会での懇親会はCOVID-19以降はじめてだそうだ--]で 若い人たちともおしゃべりする。 数ヶ月に一度、社会とコンタクトを持つのはいいことだ。