きのうから 『メグレの途中下車 Kindle版』 (2015) (グーテンベルク21)を読んでいる。 枚方市図書館から借りたやつだ。 今度も(『黄色い犬』のとき同様に) 小さな街での捜査である。 一種の巻き込まれ型だと言えよう。 田舎町に住む幼な友達(予審判事)に会いにいくと、 その街の有力者のからむ事件が起きており、 メグレが否応なしに事件にまきこまれるのだ。
[1445] 『途中下車』読了。 『メグレの退職旅行』 (シムノン 2015) を借り出す。 これは短編集だ。 はちゃめちゃな若い娘のでてくる短編がおもしろかった。
さらに レックス・スタウトのネロ・ウルフものを借り出す。 『死の招待』 (レックス・スタウト 2015) を読む。
ネロ・ウルフの中短編集『ねじれたスカーフ』読了。 一つ目が「血が語る」 --- ある日、(ウルフ宛ではなく)アーチー宛にふしぎな郵便が届く。 差出人は聞いたことのない「ジェイムズ・ネヴィル・ヴァンス」からだ。 けっこうややこしい話だが、 中編の長さできれいに方がつく --- 「お見事!」
二つめは「ねじれたスカーフ」 --- その日はウルフの家にのべ200名以上の客がおとずれた特別の日だ。 その日に殺人んが起きる。 どの物語も気持ちがいい。
南洋もの。 第1話は「この世の果て」。 モームの短編はすべて英語で読んでいる。 途中で筋をおもいだした。 でも語り手がこんな嫌なやつだったのは忘れていた。 日本語で読むのと英語で読むのは、 印象に残る部分が違うような気がする。 単に英語の読解力が足りないだけかもしれないが。 第2話が「書物袋」 --- どれもこれも嫌らしい主人公だな。
モームの短編集、英語でもう一度読み直そうかしらん。
[17:12:49] 『港の酒場にて』(シムノン)読了。 ほんとうに素晴しいなぁ。 ぼくは文章がとても下手だ --- 小学生の読書感想文くらいの文章を書きたい。
「グラスを食う男」、プチ・ルイの造形がいい。 それと、ちんけな少年、 ジャン=マリのいやらしさが深い。
ぼくの住んでる市が電子図書館を開始していた。 さっそく利用を開始した。 借り出した内の一冊がフレデリック・ブラウンの 『73光年の妖怪』だ --- (最初に読んだSFではないかもしれないが) 5番目くらい迄には入っていると思う。 おそらく中学生のときだ。 冒頭にとんでもなくエロティックな部分があって、 それだけで頭がクラクラして、 筋をまったく覚えていない。 隠れて、その部分だけを何度も読んだ覚えがある・・・。
さてさて・・・
50年以上たって「エロティックな部分」を読み返してみると、 まったく何でもなかった。 いったい「ちゅうに」の僕は何に興奮したのだろうか?
物語は73光年の彼方からやってきた (流刑にされた)「知性体」と、 地球の科学者(「博士」と呼ぼう)との知恵比べである。 筋の展開の中に知性体側からの描写が挿入され、 彼(?)がなぜここに来たのか、 いま何を目標にして行動しているのか、 彼の特別な能力(動物に憑依できること)、 そして(もっとも大事なことなのだが) 彼の弱点(その能力のさまざまな限界)が 読者に知らされる。 推理小説でいえば、倒叙ものである。 博士がコロンボとなって、 一連の奇怪な事件の背後に一人の犯人がいるということを (もちろん読者はすでに知っている)、まず、 推理する。 さらに、彼は、 読者にはすでに知らされている 知性体の目的、 行動原理(何ができて、何ができないか)を推理していくのだ。 推理がいささか飛んでおり、 御都合主義的に的中するのだが、 そこは倒叙の利点で、 推理のジャンプは気にならないのだ。
コロンボと違い、 博士は絶対的な優位には立っていない。 推理が遅れると自分が殺されてしまうのだ。 知性体の矢継ぎ早の攻撃、 それをなんとか避けながら、そして 眠気に絶えながら、正解を考えつづける博士、 「勝つのはどっちだ!」・・・ 「手に汗にぎって」最後まで読んでしまった。
ドラマツルギーの文脈でいうと、 博士の助手となるオールドミス、ミス・タリーがとてもいい。
The Book of Fires (The Brother Athelstan Mysteries 14) (Doherty 2020) を読んでいる。 このシリーズ、これで14作目だ。 歴史学の先生が書いており、 14世紀のきたないロンドンの描写が耐えられないほどに グロテスクだ。 そして、今回のテーマは「火」による死、 読むのがつらい・・・。 しかし、物語はとうとう 1381年まで来たので 読むのをやめるわけにはいかない --- 農民叛乱がすぐそこに迫っているのだ。 スポイラーだけど・・・ 農民叛乱軍がロンドンに入るのは 1381年の6月だ。 シリーズの「いま」は2月だ。 いま止めるわけにはいかない。
Mrs. Jeffries Rocks the Boat (Mrs.Jeffries Mysteries Book 14) (Emily Brightwell 1999) を読みおわった。 ジェフリーズものの第14作である。 ビクトリア朝時代のロンドンを舞台に、 あまり警察仕事が得意じゃない警部、 ウィザースプーン警部を 彼の家の召使たちが(彼には知られないように) 助ける、という設定である。 家政婦(というのかしらん、 執事がいない家なので、召使たちのボス)ジェフリーズ夫人 (未亡人)がリーダーとなって、 召使たちがあちこち飛び回って手掛かりをさがす。 このシリーズは、いわゆるコージーミステリーの典型で、 たいへんに読み易い。 これといった悪者(さいしょの頃は ニヴンズ警部という、なかなかの悪者がいたのだが、 この頃登場回数がぐっと減っている)も登場せず、 これといったトリックもなく、 いつも同じメンバーが和気藹々と謎をとく。 パンデミックの時に読むのには最適かな。
ただ、今回は物語の筋にしかけられた トリックがなかなかのものだった。 ちょっぴりアガサ・クリスティ風だった。 何も期待していなかったので、ちょっと驚いた --- そして、楽しめた。
クリスティ(とても面白い)と 江戸川乱歩(興醒め)の違いがどこにあるかは、 いずれ述べたい。
午後はだらだらと読書して過ごす。 アセルスタン修道士シリーズ(イギリス14世紀)のシリーズ12作目、 The Straw Men (The Brother Athelstan Mysteries Book 12) (Doherty 2020) と ジェフリーズ家政婦シリーズ(イギリス19世紀)のシリーズ13作目、 Mrs Jeffries Takes The Cake (Mrs.Jeffries Mysteries Book 13) (Emily Brightwell 2015) と (ともに買ったばかりの本だ)をいったり来たりしている。 『ハーメルンの笛吹き男 ――伝説と その世界』 (阿部 謹也 1988) もぱらぱらと読んでいる。 Athelstan の時代、 ヨーロッパ中世(後期)を知りたくて、読みはじめた本だ。 --- もっとも、 笛吹き男事件は13世紀のドイツで、 Athelstan は14世紀のイギリスなのだが。 1970年代にこの本が話題になったときに (網野史学と同時期だ) 一度読んだとは思う。 その時にはとりわけて特別な感慨はなかった。 今あらためて読み直してみると、じつに面白い。 阿部が寡婦や未婚の母親の苦境を嘆くときには、 まるで自分のことのように饒舌になる。 また賤民差別を告発する、その口調は、 なつかしい横井の 『中世民衆の生活文化』 (横井 清 1975)や、 網野を思い出させる若さ・そして・熱さがある。
さて、 Athelstan ものは、12作目だ。 物語は1381年の1月、 いよいよ人々の日々の 生活の中に The Great Realm の脅威が目に見えてくる。 [--農民叛乱は 1381年の5月だ--] このあと、どうなるのだろう。 わくわくドキドキ。
ジェフリーズ家政婦シリーズは、ただただ、 マンネリを楽しむ。
泡坂妻夫の書くものは ミステリーとして欠けているものはない。 謎も、謎解きもすばらしく、 小道具や、蘊蓄もたいしたものだ。 小説自体への仕掛けもびっくりするような出来である。 登場自分の性格の書き込みは(すばらしいわけではないが) とくに問題はないと思う。 にも関わらず・・・ どの作品も物足りない。 「かけ違い」とでも言いたくなるような、 もどかしい感じがするのだ。 そのような感じがまったくしないのが この作品だ。 一言でいうと「粋」である。 他の作品では「いっしょうけんめい」というコトバが あてはまるような書き方だったのだが、 この作品はごくごく自然に粋が浮き出てくる。 『夢裡庵先生捕物帳』も同じように いい出来であることを考えると、 おそらく「時代小説」という枠組が、 作者にとって必須なんじゃないかしらん、と考えた。
[20:34] Brother Athelstan の教区ではいつもの通りいろんな問題が起きている。 Ranulf the Rat-catcher が、 ネズミ取り組合(Guild)を作りたいという。 そしてそのギルドの本拠地を Athelstan の教会 St Erconwals としたいという。 豚はいつもの通り教会の畑をあらしている。 一番の問題は、 教区の大物、 Watkin the dung-collector と Pike the ditcher が巻き込まれた Great Realm (農民の叛乱軍)関連の陰謀だ。 さらに、 Sir John Cranston が拾ってきて、 Athelston の庇護のもとに置いた 山羊 Judah (Thaddeus に名前を変えた)と ホームレスの Godbless たちが、 教区で展開する裏の筋を支える。 表の筋、Athelstan が Sir John の相棒として 関わる筋は: Sir Maurice の率いる船が拿捕し、沈めた 2隻のフランス船の捕虜をめぐる 英仏のやり取りだ。 ここには 摂政 John of Gaunt と 英国スパイの総大将 Gervase Talbot とが 深くかかわる。 そして、三つめの物語は Sir Maurice と、 大富豪 Thomas Parr の娘 Lady Angelica の間の恋の物語だ。
この幾重にもこんぐらがった 物語と謎を、 Athelstan が(Sir John そして黒猫 Boventure 、 山羊の Thaddeus、もとホームレスの Godbless といっしょに)解いていく。 ひどくこんがらがった話にもかかわらず 謎はすっきりと解けた。 とても嬉しかったのは、 いつもの14世紀ロンドンの汚なさの描写が あまりなかったことだ。 作者が歴史学者で、 描きたくてしようがないのだろうが・・・ やめてほしい。 美しき未亡人 Benedicta がほとんど 出てこなかったのが寂しい。
第1ラウンド「植物対植物」から静かに始まる。 とても品のある書き方だ。 第2ラウンド(植物対環境)で筆がかなり乗ってきた。 第3ラウンド「植物対病原菌」では最高潮・・・かと思ったら、 以降「対昆虫」、「対動物」、「対人間」はさらに ノリノリだった! 一気に読みおわってしまった。 ポピュラーサイエンス本としては、 『歌うかたつむり』(千葉)に迫るおもしろさだ。 「あとがき」が、また、 とっても洒落ていた --- 二酸化炭素で覆われていた地球にあらわれた 植物は、 二酸化炭素をすって、 強力な毒物である酸素を作りだした。 それ以来30億年をかけて、植物は地球のもともとの環境を徹底的に破壊した。 いま人類がすべてをもとに戻すべく、 地球を、 酸素も生物もない、きれいな環境に戻すべく 努力をつづけているのだ、という。
話は19世紀、 ハワイの「歌うカタツムリ」伝説から始まる。 このカタツムリの歌を聞いたことがあるという宣教師がいた --- 名前をギュリックという。 ギュリックこそ、 これから長く続く 偶然(中立説)と必然(適応主義)の論争を開始した人間なのだ。 彼はハワイでのカタツムリの観察を通して、 自然選択とは無関係に、 種のもつ性質が(ランダムに)変化することによって 種分化が起こると主張したのだ。 すぐに適応主義者(生物のあらゆることが 自然選択から説明できると考える人間)ウォレスからの 反論を迎える。
この論争と日本との関係は深い。 中立説の立役者木村資生はもちろんだが、 カタツムリと日本の関係はもっともっと前に 遡る。 じつは、ギュリックは後に宣教師として日本に来ているのだ。 彼は日本の学会に大きな影響を与えた。 また、あのモース (『日本その日その日』(すばらしい民族誌だ)の、 あるいは「貝塚を発見した」モース)もまた 貝類学者である。 そのような歴史的背景をもつ日本の学会があるからこそ、 敗戦直後でありながら 二人の日本人(駒井卓と江村重雄)が、 その当時のカタツムリ論争に参加できたのである。 この二人によって、 螺旋はさらに大きく広がってゆく。
著者の千葉のライフヒストリーもまた カタツムリ論争の螺旋に巻き込まれながら語られる。 彼および彼の先生(麻雀をめぐる小話は笑ってしまう)、 そして彼の弟子たちが論争にかかわっているのは 当然だが、 面白いのは彼の「幼少の時分」の母に関する思い出である。 母はよく千葉に、彼女が心酔していた理科の先生 (中山伊兎)のはなしをしたという。 この先生、およびその夫の中山駿馬(しんま)は、 駒井に多くの試料(カタツムリ)を提供した人物なのだという。 ・・・因果はめぐる・・・。
螺旋はぐるぐると巡り、ひろがってゆく --- ある時点で中立説(偶然派)が勝利し、 つぎの時点でまが適応主義が勝利する。 しばらくするとまた中立説が勝つ。 けっきょく適応主義が完全勝利をおさめるのだが、 中立説は(木村資生の)「分子進化の中立説」として 適応主義と手をたずさえて、 現代の進化の総合説を支えることとなるのだ。
あの壮大で血沸き肉踊る 『社会生物学論争史〈1〉〈2〉 --- 誰もが真理を擁護していた』 (セーゲルストローレ 2005)、 以上に(スケールでは負けるが)面白い本だった。
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