岩田は人類学者をつぎのように非難する --- 「たいていの場合は、「○○族は木に魂が宿っているというが、 私(=人類学者)はそうは思わない」というデータの 後半部を切り落として、 その前半部分を○○族の宗教観念としているのである」 (p. 312) と。 ぼくにはこの指摘に問題が見出せない --- 「問題はないだろう、木に魂は宿っていないのだから」。 岩田はそうは思わない --- 「木に魂が宿る」のだと彼は言う。 でも、そうなってしまえば、 彼はもはや人類学者ではないだろうと、ぼくは言う。 いや、それこそが人類学なのだ、と岩田は言う。 「参与するということは --- ほんとうに参与するということは そこで死ぬということであろう、 --- 調査するものと調査されるものとの 共通の場をつくりだすことである。共通の場というのは、対話の場、〈問 えば答えるところ〉といってもよい」 (p. 22)。 ここで僕は「畸人」の 話(『説話の中の民衆像』 (小林 豊 1980)) を思いだす。 岩田はこちらの社会では畸人かもしれないが、 天上(あちらの社会)では君主なのだろうと。
とは言うものの、岩田の目はけっこうクールである。 彼はまだ「世捨て人」 (『世捨て奇譚 --- 発心往生論』 (馬場 あき子 1979)) にはなっていないからだ。 彼は(まだ)木に魂が宿っていると信じることができていないのだ。 ただし、彼はそう信じたいのだ。 そこが僕と違う。 僕は普通の人間で、岩田は畸人なのだ。 その信じる道を探る分析の仕方は (動機は違うのだろうが)とても冷静沈着な人類学者のやりかたとなる。 「一般に伝統社会の 人びとは現世と他界、この世とあの世の実在を信じている。信じていると いうのは、われわれのいわゆる信仰、摩訂不思議なものの存在を半ば疑い ながらも、なお、そうあれかしと願って己れの判断を停止しているような 状態ではない。この世とあの世、生者の世界と死者の世界の実在が眼に見 えているのである。二つの世界の実在が血肉化しているのである」 (p. 115)。 この問題は、 ぼくが、 「異文化の見つけ方」(中川 敏 2015)から 「引用と人生」(中川 敏 2016)、 「異文化の遊び方---美学と人類学の 出会う時」(中川 敏 2016)、 「嘘の美学---異文化を理解するとは どういうことか」(中川 敏 2017)で えんえんと検討してきた問題だ。 出発点は岩田と同じだ。 信念に関する2つの態度である --- 半信半疑の状態と信念を血肉化している状態とである。 僕はその二つの論理的な状況を分析するが、 岩田は(岩田らしく)血肉化するにはどうすればいいのかを 考える。 彼が挙げるのが:「強いる」「くりかえす」「さとる」の サイクルである --- これは (フーコー好きでなくても言うだろう)「訓練」だ!
この本の中で岩田はある宣言をする --- 「カミを訪ね当てられないであろうことを承知のうえで、私はこれからカミ を訪ねようとする。現代はカミと呼ばれる最後の価値を必要としているか らである。新たなカミが見つからなければ、人間と世界の統一は回復され ないからである。カミに背を向けてカミを訪ねに行く」 (p. 185)。 それは畸人から世捨への旅だったのではないだろうか? ぼくは岩田とは一度も会う機会はなかった[--だから「岩田さん」とも 「岩田先生」とも言う資格はもっていない--] --- 岩田はカミを見つけたのだろうか?
彼は畸人から世捨人になったのだろうか? そんなことを考えた。
小林が 中世、近世の説話集からピックアップするさまざまな人間が とてつもなく面白い。 中には、 網野 (『中世の非人と遊女』 (網野 善彦 2005)) や横井 (『中世民衆の生活文化』 (横井 清 1975)) が好きそうな「悪党」もいる。 田沼意次が失脚しての引越しを指揮する家臣などは 「悪党」であろう --- 彼は 「なんでおれも一緒に零落しなけりやならないんだ」と考えて、 引越し荷物を持逃げするのだ。 えらそうな人(だいたい僧侶)が失敗する話は、 他人事として楽しい --- 餅が好きで好きでたまらなく、 訪問先で餅つきの音が聞こえると身悶えする お坊さんのエピソード(『沙石集』)には、 「かわいい」という声が聞こえてきそうだ。 ぼくが一番好きなのは、 ちょっとだけズレている人たちだ。 例えのしかたがどこかぼけていて、 清少納言に馬鹿にされる源方平とか、 自分の名前が「こどもっぽい」と言われ、 考えた末に「バチギ」とした人 (「どういう意味だい?」「おれにも分からんがかっこういいだろう」) (『寓意草』)だとか・・・。
最後に 小林は『荘子』をもちだして「畸人」について語る。 「「畸」とはそもそも何か。 整然と区画されていない、 半ばな田のことだ、と漢和辞典は教える」(p. 201) 「畸人」とは世間の基準にあわぬ人たちなのだ。 地上の畸人はもしかしたら天上の君主なのかもしれないと 『荘子』は続ける。
ぼくは、 この本に描かれた畸人たちは、 馬場あき子の描く 世捨て人 (『世捨て奇譚 --- 発心往生論』 (馬場 あき子 1979))と 繋ると思う。 二人の論者の目線が交差するのが、おそらく 『沙石集』ではないだろうか (小林はこの説話集を「求道者の風狂」と言う)。
『沙石集』、読んでみようかな。
霊長類の記号獲得の議論以上に、 乳幼児の言語獲得の議論は面白い。 しばらく発達心理学系の話を読もうかな。 著者の「一般化」に関する議論を読んでいると (とってもあたり前の議論なのだが)、 意味の自然化の選言問題が、間違った前提で 議論されているように思えてきた --- 初期ドレツケ [Dretske] の議論(意味の因果論)で問題ないんじゃないのだろうか。 これからよく考えてみよう。
さっそく KoboCloudに アクセスした。 git でプロジェクトを clone した。 あとは言われるとおりに (1) コンパイルして、(2) インストールした。 具体的な手順は以下の通りだ。
まず、Google Drive で適当な名前 (例えば KoboCloud )のディレクトリを作る。 そのディレクトリの名前の部分を右クリックして、 メニューから「共有」を選ぶ。 さらに、 「リンクを知っている人全員に変更」をクリックする。 「リンクをコピー」をクリックする。
(1)コンパイルは次の通り: git clone した Project の中の src/usr/local/kobocloud/kobocloudrc.tmpl をエディットする。 そこに、さきほどコピーしたリンクをペーストする。 その上で sh ./makeKoboRoot.sh とする --- KoboRoot.tgz ができあがる。
(2) この KoboRoot.tgz を kobo 端末に インストールすればよい。 端末を母艦に USB 接続する。 端末の中にある .kobo ディレクトリをさがし、 そのディレクトリの中に KoboRoot.tgz をコピーする。
その後 端末をはずして、 再起動する。 これでOK!
Google Drive の指定したディレクトリ (ぼくの場合は KoboCloud)に epub ファイルを置く。 端末の「同期」ボタンではうまくいかないようだ。 端末を再起動した --- さきほどの Google Drive に置いた epub ファイルが、 無事に kobo 端末にコピーされた。
というわけで、まずは期待した最低限のことは できた。 もうしばらく使ってみて、また報告したい。
(まだまだつづく)
楽天という点を除けば、じつは Kobo はいいマシンである。 なんといっても、 Linux ボックスだ! そして、もちろん、 USB で母艦(ぼくの場合は Linux)に繋げれば、 素直に外部ストレージになる。 [--Sony は、 何を考えてる! --]
まずはストア以外からの本(自炊などなど) (このカテゴリーを 「パーソナルドキュメント」と呼ぶことにする [--kindle の用語である--]) をターゲットにして、 Kobo を積極的に使うことから考えてみよう。
あらためてウェブで Kobo の情報を集めてみると、 Kindle Oasis (7.0 in) (188g) に対抗した Kobo Forma (8.0 in) (197g) という機種が (2018年に)発売されたという。 値段は Oasis とほぼ同じ(3万5千円くらい)だという。 これはなかなかに魅力的だ。
もう一つの重要な情報は(こちらはソフトウェアに関する情報だが) GitHub に KoboCloud というプロジェクトがあり、 kobo のコンテンツをクラウド(Google Drive や Dropbox)と同期できるという。
まずは KoboCloud を試してみることとする。 (とりあえずは 手元に残っている Kobo Aura を使ってみる。) KoboCloud が便利であれば、 Kobo Forma を買ってしまってもいいかなと考えている。
(まだつづく)
ぼくは囲い込まれるのが大嫌いだ。
・・・というわけで、ぼくは Apple の製品は いっさい使わない。 [--かつて、iPod を使ったことがある。 あまりに恥かしいので、その事実は自分にも隠していた。--] Amazon と、とりわけ Kindle からはなんとかして 脱出したい、いや、脱出しなればならない! 脱 Kindle の選択肢は (すくなくとも常識的な選択肢は) 今となっては Kobo だけである。 じつは、ぼくはこれまで何度か kobo を試している --- 問題は楽天なのだ。 最初の Kobo ("Kobo Touch" だったけ・・・)の時の 楽天の対応はひどかった。 さらに言えば、 ぼくが楽天のページを見ていられない、ということもある --- あの色使い、デザインは正視に耐えられない。
・・・しかし・・・ ・・・ Kindle からは何としても脱出しなければならない。
(つづく)
きょうで Kindle Limited を解約した。 Kindle Limited を契約していた3ヶ月間に 77冊を読んだ。 前回 ほどではないが、今回もまた十分にもとがとれたなぁ。 今回の収穫は『メグレ』シリーズだ --- 『メグレ』がこんなに面白かったとは・・・。 このシリーズの多くを既にフランス語で読んでいたのだが、 じつは、フランス語で読んでいたときにはずい分と 大切な部分を読み落としていたようだった(汗あせ)。
昼休みに How To Train Your Dragon の第10巻、 How to Seize a Dragon's Jewel を 読み終わった。 第9巻から感じていたことだが、 「大義」がでてきたので、息苦しい。 第6巻までの行きあったりばったりの、楽しい物語展開がない。 [--第7巻、第8巻はまだ手元に届いていない。--] あと2巻で終わりなのだが・・・もうやめようかしらん。
『平泉 --- 北方王国の夢』(斎藤利男) を読み終わった。 いまいち食い足りなくって、そして、 当時の中央(京都)のことを知りたくて、 手元にころがっていた 石母田正の『平家物語』 を読む。 ビミョーに専門違いのところなのに(石母田は古代史の専門)、 素晴しい『平家物語』の入門書だ。 歴史家の石母田はほとんど顔を出さず、 [--ちょっとがっかりしたけど--] すばらしい文学批評をつくりあげている。 分析の仕方もきわめてモダンだ(1957年とは思えない) --- というより、 ぼくが今まで読んだなかで最良の文芸批評だ。
そう言えば、たまたま同時に読んでいるのが 『十二世紀ルネサンス』(ハスキンズ) --- みんな12世紀だぁ。 12世紀の専門家になろうかしらん。
ちなみに、インドネシアは・・・と思って調べたら、 シュリヴィジャヤの末期だった。 マジャパヒトは13世紀の末にならないと出てこない。 説話によれば、人々がフローレス島にやってきた時代だ。 12世紀といえば、 単純計算して、36世代くらい前の話 --- エンデの人の系譜もそこまで長くない(せいぜい20世代だ)。
How to be a pirate (by Cressida Cowell)を 読みおわった。 How to train your dragon の二冊目だ。 映画、テレビシリーズのもとになった本なのだが、 映画やテレビよりもずっといい。 テレビシリーズは、 過激エコロジー軍団のはなしで、 主人公のヒカップは(4作目以降の) Harry Potter みたいな はなもちならない独裁的な子供リーダーだ。 [--ぼくは Ruffnut、 Tuffnut の双子が大好き。--] 本のほうはもっともっと楽しい。 ヒカップはのび太みたいで、 Toothless は小さくて、力が無いくせに、 非協力的なドラゴンだ。 Snotlout はのび太をいじめるジャイアンだ。
面白くて面白くて、一日で読み終わってしまった。
ただ・・・
これからヒカップがだんだんヒーローに なってゆく、という予告があった・・・とっても不安だ。
《More . . .》2014年の大入院のときの 一冊目が『火星の人』だった。 うんちく科学知識がつみ重なっていくのが 読んでいて快感だった。
ウィアーの第2作、 『アルテミス』を読みおわった。 第1作から がらっと変わった場所、登場人物でありながら、 期待の範囲内(いい意味で)でとっても嬉しい。
女の子の一人称がたりを、 違和感なしで使いこなすのってすごいなぁ。 何も知らなければ、読者は 女性作家だと思うんじゃないかしらん。
最後の最後は、いささか つめこみすぎているので(映画化を意識したんじゃ ないかしらん)、 飛ばし読みになってしまった。 ここだけ、ちょっと残念。
クレイグ・ライスの 『時計は三時に止まる』(ライス 1992)を 読み終わった。 酔っ払ってしまった。
「なんだか頭がおかしい。 ものすごくへんだ。 ずきずき痛んで自分の頭とは思えない。 たまたま通りかかった誰かが、 この頭を運んできて、 枕の上に忘れていったにちがいない。 こんな頭、誰が押しつけていったんだ? 胃はまだあるにはあるが、場所は定かではない。 彼と一緒にベッドの中にあるのではなさそうだ --- 隣りの部屋あたりかも。 居所など知りたくもない。 あんな胃袋とはかかわらないほうがいい。 ないかいやなことがあの胃袋に起こっている。 知らんぷりをしていればそれだけ楽だ。」 (p.141)
ヘレンはマリリン・モンローに是非!