[20:34] Brother Athelstan の教区ではいつもの通りいろんな問題が起きている。 Ranulf the Rat-catcher が、 ネズミ取り組合(Guild)を作りたいという。 そしてそのギルドの本拠地を Athelstan の教会 St Erconwals としたいという。 豚はいつもの通り教会の畑をあらしている。 一番の問題は、 教区の大物、 Watkin the dung-collector と Pike the ditcher が巻き込まれた Great Realm (農民の叛乱軍)関連の陰謀だ。 さらに、 Sir John Cranston が拾ってきて、 Athelston の庇護のもとに置いた 山羊 Judah (Thaddeus に名前を変えた)と ホームレスの Godbless たちが、 教区で展開する裏の筋を支える。 表の筋、Athelstan が Sir John の相棒として 関わる筋は: Sir Maurice の率いる船が拿捕し、沈めた 2隻のフランス船の捕虜をめぐる 英仏のやり取りだ。 ここには 摂政 John of Gaunt と 英国スパイの総大将 Gervase Talbot とが 深くかかわる。 そして、三つめの物語は Sir Maurice と、 大富豪 Thomas Parr の娘 Lady Angelica の間の恋の物語だ。
この幾重にもこんぐらがった 物語と謎を、 Athelstan が(Sir John そして黒猫 Boventure 、 山羊の Thaddeus、もとホームレスの Godbless といっしょに)解いていく。 ひどくこんがらがった話にもかかわらず 謎はすっきりと解けた。 とても嬉しかったのは、 いつもの14世紀ロンドンの汚なさの描写が あまりなかったことだ。 作者が歴史学者で、 描きたくてしようがないのだろうが・・・ やめてほしい。 美しき未亡人 Benedicta がほとんど 出てこなかったのが寂しい。
第1ラウンド「植物対植物」から静かに始まる。 とても品のある書き方だ。 第2ラウンド(植物対環境)で筆がかなり乗ってきた。 第3ラウンド「植物対病原菌」では最高潮・・・かと思ったら、 以降「対昆虫」、「対動物」、「対人間」はさらに ノリノリだった! 一気に読みおわってしまった。 ポピュラーサイエンス本としては、 『歌うかたつむり』(千葉)に迫るおもしろさだ。 「あとがき」が、また、 とっても洒落ていた --- 二酸化炭素で覆われていた地球にあらわれた 植物は、 二酸化炭素をすって、 強力な毒物である酸素を作りだした。 それ以来30億年をかけて、植物は地球のもともとの環境を徹底的に破壊した。 いま人類がすべてをもとに戻すべく、 地球を、 酸素も生物もない、きれいな環境に戻すべく 努力をつづけているのだ、という。
話は19世紀、 ハワイの「歌うカタツムリ」伝説から始まる。 このカタツムリの歌を聞いたことがあるという宣教師がいた --- 名前をギュリックという。 ギュリックこそ、 これから長く続く 偶然(中立説)と必然(適応主義)の論争を開始した人間なのだ。 彼はハワイでのカタツムリの観察を通して、 自然選択とは無関係に、 種のもつ性質が(ランダムに)変化することによって 種分化が起こると主張したのだ。 すぐに適応主義者(生物のあらゆることが 自然選択から説明できると考える人間)ウォレスからの 反論を迎える。
この論争と日本との関係は深い。 中立説の立役者木村資生はもちろんだが、 カタツムリと日本の関係はもっともっと前に 遡る。 じつは、ギュリックは後に宣教師として日本に来ているのだ。 彼は日本の学会に大きな影響を与えた。 また、あのモース (『日本その日その日』(すばらしい民族誌だ)の、 あるいは「貝塚を発見した」モース)もまた 貝類学者である。 そのような歴史的背景をもつ日本の学会があるからこそ、 敗戦直後でありながら 二人の日本人(駒井卓と江村重雄)が、 その当時のカタツムリ論争に参加できたのである。 この二人によって、 螺旋はさらに大きく広がってゆく。
著者の千葉のライフヒストリーもまた カタツムリ論争の螺旋に巻き込まれながら語られる。 彼および彼の先生(麻雀をめぐる小話は笑ってしまう)、 そして彼の弟子たちが論争にかかわっているのは 当然だが、 面白いのは彼の「幼少の時分」の母に関する思い出である。 母はよく千葉に、彼女が心酔していた理科の先生 (中山伊兎)のはなしをしたという。 この先生、およびその夫の中山駿馬(しんま)は、 駒井に多くの試料(カタツムリ)を提供した人物なのだという。 ・・・因果はめぐる・・・。
螺旋はぐるぐると巡り、ひろがってゆく --- ある時点で中立説(偶然派)が勝利し、 つぎの時点でまが適応主義が勝利する。 しばらくするとまた中立説が勝つ。 けっきょく適応主義が完全勝利をおさめるのだが、 中立説は(木村資生の)「分子進化の中立説」として 適応主義と手をたずさえて、 現代の進化の総合説を支えることとなるのだ。
あの壮大で血沸き肉踊る 『社会生物学論争史〈1〉〈2〉 --- 誰もが真理を擁護していた』 (セーゲルストローレ 2005)、 以上に(スケールでは負けるが)面白い本だった。
《More . . .》岩田は人類学者をつぎのように非難する --- 「たいていの場合は、「○○族は木に魂が宿っているというが、 私(=人類学者)はそうは思わない」というデータの 後半部を切り落として、 その前半部分を○○族の宗教観念としているのである」 (p. 312) と。 ぼくにはこの指摘に問題が見出せない --- 「問題はないだろう、木に魂は宿っていないのだから」。 岩田はそうは思わない --- 「木に魂が宿る」のだと彼は言う。 でも、そうなってしまえば、 彼はもはや人類学者ではないだろうと、ぼくは言う。 いや、それこそが人類学なのだ、と岩田は言う。 「参与するということは --- ほんとうに参与するということは そこで死ぬということであろう、 --- 調査するものと調査されるものとの 共通の場をつくりだすことである。共通の場というのは、対話の場、〈問 えば答えるところ〉といってもよい」 (p. 22)。 ここで僕は「畸人」の 話(『説話の中の民衆像』 (小林 豊 1980)) を思いだす。 岩田はこちらの社会では畸人かもしれないが、 天上(あちらの社会)では君主なのだろうと。
とは言うものの、岩田の目はけっこうクールである。 彼はまだ「世捨て人」 (『世捨て奇譚 --- 発心往生論』 (馬場 あき子 1979)) にはなっていないからだ。 彼は(まだ)木に魂が宿っていると信じることができていないのだ。 ただし、彼はそう信じたいのだ。 そこが僕と違う。 僕は普通の人間で、岩田は畸人なのだ。 その信じる道を探る分析の仕方は (動機は違うのだろうが)とても冷静沈着な人類学者のやりかたとなる。 「一般に伝統社会の 人びとは現世と他界、この世とあの世の実在を信じている。信じていると いうのは、われわれのいわゆる信仰、摩訂不思議なものの存在を半ば疑い ながらも、なお、そうあれかしと願って己れの判断を停止しているような 状態ではない。この世とあの世、生者の世界と死者の世界の実在が眼に見 えているのである。二つの世界の実在が血肉化しているのである」 (p. 115)。 この問題は、 ぼくが、 「異文化の見つけ方」(中川 敏 2015)から 「引用と人生」(中川 敏 2016)、 「異文化の遊び方---美学と人類学の 出会う時」(中川 敏 2016)、 「嘘の美学---異文化を理解するとは どういうことか」(中川 敏 2017)で えんえんと検討してきた問題だ。 出発点は岩田と同じだ。 信念に関する2つの態度である --- 半信半疑の状態と信念を血肉化している状態とである。 僕はその二つの論理的な状況を分析するが、 岩田は(岩田らしく)血肉化するにはどうすればいいのかを 考える。 彼が挙げるのが:「強いる」「くりかえす」「さとる」の サイクルである --- これは (フーコー好きでなくても言うだろう)「訓練」だ!
この本の中で岩田はある宣言をする --- 「カミを訪ね当てられないであろうことを承知のうえで、私はこれからカミ を訪ねようとする。現代はカミと呼ばれる最後の価値を必要としているか らである。新たなカミが見つからなければ、人間と世界の統一は回復され ないからである。カミに背を向けてカミを訪ねに行く」 (p. 185)。 それは畸人から世捨への旅だったのではないだろうか? ぼくは岩田とは一度も会う機会はなかった[--だから「岩田さん」とも 「岩田先生」とも言う資格はもっていない--] --- 岩田はカミを見つけたのだろうか?
彼は畸人から世捨人になったのだろうか? そんなことを考えた。
小林が 中世、近世の説話集からピックアップするさまざまな人間が とてつもなく面白い。 中には、 網野 (『中世の非人と遊女』 (網野 善彦 2005)) や横井 (『中世民衆の生活文化』 (横井 清 1975)) が好きそうな「悪党」もいる。 田沼意次が失脚しての引越しを指揮する家臣などは 「悪党」であろう --- 彼は 「なんでおれも一緒に零落しなけりやならないんだ」と考えて、 引越し荷物を持逃げするのだ。 えらそうな人(だいたい僧侶)が失敗する話は、 他人事として楽しい --- 餅が好きで好きでたまらなく、 訪問先で餅つきの音が聞こえると身悶えする お坊さんのエピソード(『沙石集』)には、 「かわいい」という声が聞こえてきそうだ。 ぼくが一番好きなのは、 ちょっとだけズレている人たちだ。 例えのしかたがどこかぼけていて、 清少納言に馬鹿にされる源方平とか、 自分の名前が「こどもっぽい」と言われ、 考えた末に「バチギ」とした人 (「どういう意味だい?」「おれにも分からんがかっこういいだろう」) (『寓意草』)だとか・・・。
最後に 小林は『荘子』をもちだして「畸人」について語る。 「「畸」とはそもそも何か。 整然と区画されていない、 半ばな田のことだ、と漢和辞典は教える」(p. 201) 「畸人」とは世間の基準にあわぬ人たちなのだ。 地上の畸人はもしかしたら天上の君主なのかもしれないと 『荘子』は続ける。
ぼくは、 この本に描かれた畸人たちは、 馬場あき子の描く 世捨て人 (『世捨て奇譚 --- 発心往生論』 (馬場 あき子 1979))と 繋ると思う。 二人の論者の目線が交差するのが、おそらく 『沙石集』ではないだろうか (小林はこの説話集を「求道者の風狂」と言う)。
『沙石集』、読んでみようかな。
霊長類の記号獲得の議論以上に、 乳幼児の言語獲得の議論は面白い。 しばらく発達心理学系の話を読もうかな。 著者の「一般化」に関する議論を読んでいると (とってもあたり前の議論なのだが)、 意味の自然化の選言問題が、間違った前提で 議論されているように思えてきた --- 初期ドレツケ [Dretske] の議論(意味の因果論)で問題ないんじゃないのだろうか。 これからよく考えてみよう。
さっそく KoboCloudに アクセスした。 git でプロジェクトを clone した。 あとは言われるとおりに (1) コンパイルして、(2) インストールした。 具体的な手順は以下の通りだ。
まず、Google Drive で適当な名前 (例えば KoboCloud )のディレクトリを作る。 そのディレクトリの名前の部分を右クリックして、 メニューから「共有」を選ぶ。 さらに、 「リンクを知っている人全員に変更」をクリックする。 「リンクをコピー」をクリックする。
(1)コンパイルは次の通り: git clone した Project の中の src/usr/local/kobocloud/kobocloudrc.tmpl をエディットする。 そこに、さきほどコピーしたリンクをペーストする。 その上で sh ./makeKoboRoot.sh とする --- KoboRoot.tgz ができあがる。
(2) この KoboRoot.tgz を kobo 端末に インストールすればよい。 端末を母艦に USB 接続する。 端末の中にある .kobo ディレクトリをさがし、 そのディレクトリの中に KoboRoot.tgz をコピーする。
その後 端末をはずして、 再起動する。 これでOK!
Google Drive の指定したディレクトリ (ぼくの場合は KoboCloud)に epub ファイルを置く。 端末の「同期」ボタンではうまくいかないようだ。 端末を再起動した --- さきほどの Google Drive に置いた epub ファイルが、 無事に kobo 端末にコピーされた。
というわけで、まずは期待した最低限のことは できた。 もうしばらく使ってみて、また報告したい。
(まだまだつづく)
楽天という点を除けば、じつは Kobo はいいマシンである。 なんといっても、 Linux ボックスだ! そして、もちろん、 USB で母艦(ぼくの場合は Linux)に繋げれば、 素直に外部ストレージになる。 [--Sony は、 何を考えてる! --]
まずはストア以外からの本(自炊などなど) (このカテゴリーを 「パーソナルドキュメント」と呼ぶことにする [--kindle の用語である--]) をターゲットにして、 Kobo を積極的に使うことから考えてみよう。
あらためてウェブで Kobo の情報を集めてみると、 Kindle Oasis (7.0 in) (188g) に対抗した Kobo Forma (8.0 in) (197g) という機種が (2018年に)発売されたという。 値段は Oasis とほぼ同じ(3万5千円くらい)だという。 これはなかなかに魅力的だ。
もう一つの重要な情報は(こちらはソフトウェアに関する情報だが) GitHub に KoboCloud というプロジェクトがあり、 kobo のコンテンツをクラウド(Google Drive や Dropbox)と同期できるという。
まずは KoboCloud を試してみることとする。 (とりあえずは 手元に残っている Kobo Aura を使ってみる。) KoboCloud が便利であれば、 Kobo Forma を買ってしまってもいいかなと考えている。
(まだつづく)
ぼくは囲い込まれるのが大嫌いだ。
・・・というわけで、ぼくは Apple の製品は いっさい使わない。 [--かつて、iPod を使ったことがある。 あまりに恥かしいので、その事実は自分にも隠していた。--] Amazon と、とりわけ Kindle からはなんとかして 脱出したい、いや、脱出しなればならない! 脱 Kindle の選択肢は (すくなくとも常識的な選択肢は) 今となっては Kobo だけである。 じつは、ぼくはこれまで何度か kobo を試している --- 問題は楽天なのだ。 最初の Kobo ("Kobo Touch" だったけ・・・)の時の 楽天の対応はひどかった。 さらに言えば、 ぼくが楽天のページを見ていられない、ということもある --- あの色使い、デザインは正視に耐えられない。
・・・しかし・・・ ・・・ Kindle からは何としても脱出しなければならない。
(つづく)
きょうで Kindle Limited を解約した。 Kindle Limited を契約していた3ヶ月間に 77冊を読んだ。 前回 ほどではないが、今回もまた十分にもとがとれたなぁ。 今回の収穫は『メグレ』シリーズだ --- 『メグレ』がこんなに面白かったとは・・・。 このシリーズの多くを既にフランス語で読んでいたのだが、 じつは、フランス語で読んでいたときにはずい分と 大切な部分を読み落としていたようだった(汗あせ)。
昼休みに How To Train Your Dragon の第10巻、 How to Seize a Dragon's Jewel を 読み終わった。 第9巻から感じていたことだが、 「大義」がでてきたので、息苦しい。 第6巻までの行きあったりばったりの、楽しい物語展開がない。 [--第7巻、第8巻はまだ手元に届いていない。--] あと2巻で終わりなのだが・・・もうやめようかしらん。
『平泉 --- 北方王国の夢』(斎藤利男) を読み終わった。 いまいち食い足りなくって、そして、 当時の中央(京都)のことを知りたくて、 手元にころがっていた 石母田正の『平家物語』 を読む。 ビミョーに専門違いのところなのに(石母田は古代史の専門)、 素晴しい『平家物語』の入門書だ。 歴史家の石母田はほとんど顔を出さず、 [--ちょっとがっかりしたけど--] すばらしい文学批評をつくりあげている。 分析の仕方もきわめてモダンだ(1957年とは思えない) --- というより、 ぼくが今まで読んだなかで最良の文芸批評だ。
そう言えば、たまたま同時に読んでいるのが 『十二世紀ルネサンス』(ハスキンズ) --- みんな12世紀だぁ。 12世紀の専門家になろうかしらん。
ちなみに、インドネシアは・・・と思って調べたら、 シュリヴィジャヤの末期だった。 マジャパヒトは13世紀の末にならないと出てこない。 説話によれば、人々がフローレス島にやってきた時代だ。 12世紀といえば、 単純計算して、36世代くらい前の話 --- エンデの人の系譜もそこまで長くない(せいぜい20世代だ)。