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Book-ACAD - 残日録 --- The Remains of the Day

最終更新時間: 2025-04-28 11:12

2020-08-29 Sat

読了… 『草木虫魚の人類学 --- アニミズムの世界』 (岩田 慶治) ---畸人は世捨て人となったのだろうか? [_Author-岩田 慶治][Book-ACAD][Book]

岩田は人類学者をつぎのように非難する --- 「たいていの場合は、「○○族は木に魂が宿っているというが、 私(=人類学者)はそうは思わない」というデータの 後半部を切り落として、 その前半部分を○○族の宗教観念としているのである」 (p. 312) と。 ぼくにはこの指摘に問題が見出せない --- 「問題はないだろう、木に魂は宿っていないのだから」。 岩田はそうは思わない --- 「木に魂が宿る」のだと彼は言う。 でも、そうなってしまえば、 彼はもはや人類学者ではないだろうと、ぼくは言う。 いや、それこそが人類学なのだ、と岩田は言う。 「参与するということは --- ほんとうに参与するということは そこで死ぬということであろう、 --- 調査するものと調査されるものとの 共通の場をつくりだすことである。共通の場というのは、対話の場、〈問 えば答えるところ〉といってもよい」 (p. 22)。 ここで僕は「畸人」の (『説話の中の民衆像』 (小林 豊 1980)) を思いだす。 岩田はこちらの社会では畸人かもしれないが、 天上(あちらの社会)では君主なのだろうと。

とは言うものの、岩田の目はけっこうクールである。 彼はまだ「世捨て人」 (『世捨て奇譚 --- 発心往生論』 (馬場 あき子 1979)) にはなっていないからだ。 彼は(まだ)木に魂が宿っていると信じることができていないのだ。 ただし、彼はそう信じたいのだ。 そこが僕と違う。 僕は普通の人間で、岩田は畸人なのだ。 その信じる道を探る分析の仕方は (動機は違うのだろうが)とても冷静沈着な人類学者のやりかたとなる。 「一般に伝統社会の 人びとは現世と他界、この世とあの世の実在を信じている。信じていると いうのは、われわれのいわゆる信仰、摩訂不思議なものの存在を半ば疑い ながらも、なお、そうあれかしと願って己れの判断を停止しているような 状態ではない。この世とあの世、生者の世界と死者の世界の実在が眼に見 えているのである。二つの世界の実在が血肉化しているのである」 (p. 115)。 この問題は、 ぼくが、 「異文化の見つけ方」(中川 敏 2015)から 「引用と人生」(中川 敏 2016)、 「異文化の遊び方---美学と人類学の 出会う時」(中川 敏 2016)、 「嘘の美学---異文化を理解するとは どういうことか」(中川 敏 2017)で えんえんと検討してきた問題だ。 出発点は岩田と同じだ。 信念に関する2つの態度である --- 半信半疑の状態と信念を血肉化している状態とである。 僕はその二つの論理的な状況を分析するが、 岩田は(岩田らしく)血肉化するにはどうすればいいのかを 考える。 彼が挙げるのが:「強いる」「くりかえす」「さとる」の サイクルである --- これは (フーコー好きでなくても言うだろう)「訓練」だ!

この本の中で岩田はある宣言をする --- 「カミを訪ね当てられないであろうことを承知のうえで、私はこれからカミ を訪ねようとする。現代はカミと呼ばれる最後の価値を必要としているか らである。新たなカミが見つからなければ、人間と世界の統一は回復され ないからである。カミに背を向けてカミを訪ねに行く」 (p. 185)。 それは畸人から世捨への旅だったのではないだろうか? ぼくは岩田とは一度も会う機会はなかった[--だから「岩田さん」とも 「岩田先生」とも言う資格はもっていない--] --- 岩田はカミを見つけたのだろうか?

彼は畸人から世捨人になったのだろうか? そんなことを考えた。

2020-08-13 Thu

読了… 『説話の中の民衆像』 (小林 豊) ---畸人は世捨ての一歩手前だ [_Author-小林 豊][Book-ACAD][Book]

小林が 中世、近世の説話集からピックアップするさまざまな人間が とてつもなく面白い。 中には、 網野 (『中世の非人と遊女』 (網野 善彦 2005)) や横井 (『中世民衆の生活文化』 (横井 清 1975)) が好きそうな「悪党」もいる。 田沼意次が失脚しての引越しを指揮する家臣などは 「悪党」であろう --- 彼は 「なんでおれも一緒に零落しなけりやならないんだ」と考えて、 引越し荷物を持逃げするのだ。 えらそうな人(だいたい僧侶)が失敗する話は、 他人事として楽しい --- 餅が好きで好きでたまらなく、 訪問先で餅つきの音が聞こえると身悶えする お坊さんのエピソード(『沙石集』)には、 「かわいい」という声が聞こえてきそうだ。 ぼくが一番好きなのは、 ちょっとだけズレている人たちだ。 例えのしかたがどこかぼけていて、 清少納言に馬鹿にされる源方平とか、 自分の名前が「こどもっぽい」と言われ、 考えた末に「バチギ」とした人 (「どういう意味だい?」「おれにも分からんがかっこういいだろう」) (『寓意草』)だとか・・・。

最後に 小林は『荘子』をもちだして「畸人」について語る。 「「畸」とはそもそも何か。 整然と区画されていない、 半ばな田のことだ、と漢和辞典は教える」(p. 201) 「畸人」とは世間の基準にあわぬ人たちなのだ。 地上の畸人はもしかしたら天上の君主なのかもしれないと 『荘子』は続ける。

ぼくは、 この本に描かれた畸人たちは、 馬場あき子の描く 世捨て人 (『世捨て奇譚 --- 発心往生論』 (馬場 あき子 1979))と 繋ると思う。 二人の論者の目線が交差するのが、おそらく 『沙石集』ではないだろうか (小林はこの説話集を「求道者の風狂」と言う)。

『沙石集』、読んでみようかな。

2020-08-11 Tue

読了… ことばの発達の謎を解く (今井むつみ) ---発達心理学は盲点だった;こんな面白い学問があるんだ [_Author-今井むつみ][Book-ACAD][Book]

 霊長類の記号獲得の議論以上に、 乳幼児の言語獲得の議論は面白い。 しばらく発達心理学系の話を読もうかな。 著者の「一般化」に関する議論を読んでいると (とってもあたり前の議論なのだが)、 意味の自然化の選言問題が、間違った前提で 議論されているように思えてきた --- 初期ドレツケ [Dretske] の議論(意味の因果論)で問題ないんじゃないのだろうか。 これからよく考えてみよう。

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