異化と科学革命---リアリズムとリアリティ再考

中川 敏

1 前回までのおはなし

2 異化
2.1 山口昌男
2.2 シクロフスキー

3 リアリズムと表象
3.1 写実主義
3.2 自然的類似の否定
3.3 自然的類似ふたたび

4 リアリズムと知覚
4.1 透明性テーゼ
4.2 すべりやすい坂道
4.3 反事実的条件法
4.4 知覚

5 リアリティと知覚
5.1 知覚論
5.2 鑑賞者の態度
5.3 模型の人類学
5.4 延長された知覚
5.5 自然的類似
5.6 知覚と現実

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(C) Satoshi Nakagawa
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1. 前回までのおはなし

【おことわり:学会発表を忠実に再現するための 原稿です。 どう考えても「異化」の部分は余計ですが、 ご容赦あれ。】

2014年の 「異文化の見つけ方」 ( [中川 2014]、 [中川 2015])、 2015年の 「拡張引用論」 ( [中川 2015]、 [中川 2016])、 そして2016年の 「異文化の遊び方」 ( [中川 2016]、 [中川 2016] [中川 (印刷中)])の発表の 一貫したテーマは「二世界物語」 (A Tale of Two Worlds) とまとめることが できるだろう。 「二つの世界をいかにして一つの視点から 語るのか」ということだ。 「異文化の見つけ方」において、 それは人類学という視点と 「自文化と異文化」という世界であった ( [中川 2015])。 つづいてそれを芸術鑑賞の視点 (現実世界と虚構世界)、 そして 遊びの遊びかた (現実世界とごっこの世界)に拡大していった ( [中川 2016]、 [中川 in press])。

今回の発表で焦点をあてたいのは _MARK(科学的探求)である。 二つの世界とは現実世界と理論の世界である。

山口昌男によって人類学に導入された 芸術論の用語、「異化(オストラネーニェ)」を 科学論へと拡大するのがもともとの 目標であった。 書き始めて気がついたのだが、 「異化」について述べるためには、 それと対照される「リアリズム」についての 述べる必要がある。 さらには「リアリズム」が前提としている 「リアリティ(現実)」について 述べる必要があることに気づいた。

というわけで、 今回の発表は (あわてて付け加えた)副題、 「リアリズムとリアリティ」を軸に 展開する。 [1]

この論文の結論は、 「リアリティはリアルである/存在する」。 これはある意味では当たり前すぎる、 しかし、ある文脈に置けば挑戦的である主張であろう。 さらに続ければ、 リアリティがリアルであることは、 知覚によって保証される。 そして、知覚はリアリティによって保証されるのでだ。 この循環論法そのものであるテーゼが、 この論文の結論となる。

2. 異化

「異化(オストラネーニェ)」は ある年代の日本の人類学者にはなつかしい響きを もっているかもしれない。 山口昌男が使ったいくつかのキーワードの一つなのだ。 今回の発表は、 もともと芸術の哲学由来の「異化」の考え方を 科学論へと接木する作業の第一歩である。

2.1 山口昌男

たとえば「文化記号論における「異化」の概念」 ( [山口 1983])を見ると、 「異化」という語は、 彼のその他のキーワード、 「活性化」「周縁」「徴(しるし)つき」などなどと渾然一体となって 使われている。 山口が「異化」という語でかもし出そうとした 雰囲気はなんとなく理解できる。 「硬直化したシステムを乱す仕掛け」とでも 言うようなものとして理解すればいいのだろう。 しかし、「異化」がじっさい何を指すのか、 そしてその語をどのように使用すればいいのかは、 曖昧なままである。

2.2 シクロフスキー

というわけで、 ここではオリジナルに遡ることとしたい。 すなわち、シクロフスキーである。 [2]

シクロフスキーは『散文の理論』 ( [シクロフスキー 1971]) の中で次のように言う: 「知る ことしてではなく見ることとして事物に感覚を与えることが芸術の目的で あり、日常的に見慣れた事物を奇異なものとして表現する《非日常化》の 方法が芸術の方法で」 [シクロフスキー 1972: 15] あると。 ここで「非日常化」と訳されている原語が 「オストラネーニェ」、すなわち「異化」である。

3. リアリズムと表象

山口昌男風に言うならば、 「異化」は徴 [しるし]つき (marked) の項である。 すなわち「異化」を理解するには 徴 [しるし]なし (non-marked) の項を理解することが 先である。

3.1 写実主義

「異化」とは なじみのことをなじみのない風に (非日常化して)表象(描写/記述)することである。 「異化」に対する徴なしの項とは、すなわち、 なじみのことをなじみのままに、 あるがままに表象することとなる。 リアリズム(写実主義) [3] である。

このリアリズムの定義の中はに 自然的類似、 表象と表象されるモノ(表象の対象)の 類似が前提とされている。

3.2 自然的類似の否定

多くの芸術の哲学は、このような リアリズムに自然的類似を措定することを 否定することから始まる。 グッドマンは『芸術の言語』 ( [Goodman 1969])の中で、 リアリズムとは表象と対象の関係ではなく、 表象・対象そしてその時代の表象体系との 関係であると宣言する。 同じことを、 (シクロフスキーと同じく 「ロシアフォルマリスト」である) ヤコブソン( [Carney 1993])は 写実性とは伝統にもとづく、 あるいはカーニー( [ヤコブソン 1971]) は、 類似とはスタイル(様式)相対である、と表現する。 言われていることは 自然的な類似などないということである。

これらの芸術哲学で言われている 「表象体系」(グッドマン)、 「伝統」(ヤコブソン)そして 「様式」(カーニー)を 「理論体系」に置き換えれば、 科学哲学と重なることになる。 ハンソン( [ハンソン 1986]) の「観察の理論負荷性」が、 そしてクーン ( [クーン 1971])の 「共約不可能性」が示す考え方なのだ。 科学論に限らず わたしたちの生活世界自身がそのようである (自然的類似が存在しない世界である) ことを、 たとえば野矢は 「われわれはすでに分節化された世界に生きている」 ( [野矢 2011: 13]) と表現する。 そして、この考え方こそが、 人類学が長く親しんできた 「概念枠組」(cf [中川 2015]) の考え方の示すものなのである。

これらの考え方が、 言わば、哲学の、 芸術論の、 科学論の、 そして人類学の常識である。 「無垢の眼」を神話として否定するのである。 これらを「反実在論」と呼ぶことに 問題はないであろう。 たとえばわたしの 『言語ゲームが世界を創る』 ( [中川 2009])は、 このような反実在論 (anti-realism) を徹底的に おし進めた論考である。

『言語ゲームが世界を創る』の結論は、 いささか荒唐無稽とも見えるものであった。 そのこと自身に問題があるわけではない。 [4] しかし、 もう少し実感に沿った議論をしてみよう、 というのが今回の発表の動機である。

個人的なことを言わせてもらえば、 この論文をして、 実在論者そして自然主義者の中川、 改宗者中川への第一歩としたいと 思っている。

3.3 自然的類似ふたたび

実在論者ハッキングは言う: わたしは「自然的類似がある」と言うほどに 哲学的素養がないわけではない。 しかし、自然的類似は認めざるを得ないのではない だろう、と。 ( [ハッキング 1986] ) [5] クワインも言うように、ハッキングは続ける、 自然的類似を把握できないような種に 生き延びる余地はない。 [6]

このタイミングで、 エピソード的に、 ある進化心理学者 (ニコラス・ハンフリー)の 面白い議論 ( [ハンフリー 2004]) を紹介しておこう。 彼は先史時代の天才が描いたと言われる 洞窟壁画と、 天才と言われることもある、 ある自閉症児の描いた絵画について 次のように語る。 これらはどちらも天才の描いた絵画ではない、と。 なぜならば、どちらもスタイルに基づいていないからだ、 と。

次の節では、 この素朴な実感に基づく 実在論(「無垢の眼」)へと舵を切っていく。

4. リアリズムと知覚

ウォルトンによる 「透明な絵 (Transparent Pictures)」 ( [Walton 1984])という 短かい論文を実在論への叩き台としたい。 この論文は、副題(「写真のリアリズムの性格 (The Nature of Photographic Realism)」)が 示すように写真について、 とりわけその「リアリズム」 (写実主義/実在論)についての議論である。

4.1 透明性テーゼ

この論文の主張は直截である: ウォルトンは「写真は透明だ」と主張する。 わたしたちは写真を見るとき被写体を (字義通り)見ている、と彼は主張するのだ。 わたしたちが絵画を見ているとき、 たとえばダヴィンチの『モナリザ』を見るとき、 比喩的には「わたしはジョコンダ夫人を見ている」と 言うことがあるかもしれない。 しかし、それはじっさいにジョコンダ夫人に会うのとは 違う。 それは飽くまで比喩的な物言いに過ぎない。 それに対し、 写真を見る時 わたしたちは被写体を見ている、とウォルトンは言う。 『モナ・リザ』は表象だが、 写真は表象ではない、 それは現実(リアリティ)である、と。

この一見「とんでも」主張とも言えるかもしれない 「写真は透明だ」テーゼ (清塚 [清塚 2003] になら い「透明性テーゼ」と呼ぼう)を、 ウォルトンは二つの方法で 擁護していく。

4.2 すべりやすい坂道

一つは「すべりやすい坂道議論」 (slipperly slope argument)である。 わたしたちは眼鏡を通して物を見るとき、 眼鏡を表象とは考えないだろう。 眼鏡は透明であり、 わたしたちは眼鏡を通して現実を見ていると 考える。 同じことが双眼鏡、望遠鏡、 顕微鏡に言えるようになった。 以上の透明であるモノの拡張は、いわば、 坂道をすべっていっているようなものだ。 写真をこれらの延長上にあると考えても いいだろう。 これが「すべりやすい坂道議論」による 「透明性テーゼ」の擁護である。 デジタルカメラを例として取れば より説得的になるかもしれない。 すなわち、 一眼レフでファインダーを覗いている時、 わたしたちは「現実を見ている」と考えるだろう。 すなわちファインダーは透明なのだ。 ここで一眼レフを液晶をつかったカメラに 取り替える。 ファインダーが透明ならば、 液晶もまた透明と言うことに抵抗はそれほど ないだろう。 そしてシャッターを押そう。 わたしたちは、写真は、 その液晶の画面のコピーであると考える。 それならば、 すなわち写真もまた透明なのだ、と。

4.3 反事実的条件法

ウォルトンによる 第二の擁護作戦は「反事実的条件法」によるものである。 この議論に詳細には入らないが、 ポイントは次の通りである。 すなわち、 被写体と写真との間に因果的な関係がある、 ということである。

因果的関係のひとつの言い換えは、 現実世界において似ている二つの個物は、 写真の世界においても似ている、となろう。 このように言い換えれば分かるように この議論の中には自然類似性が前提とされている。 そのことを指摘しておきたい。

「絵画においても世界と絵画の 間に因果関係があるだろう」という反論が あるかもしれない。 その反論は成立しない、とウォルトンは言う。 世界と絵画の間に 作者による意図や欲望などが 介在するから、 因果関係は切断されているのだ。 絵画は飽くまで表象なのである。 それは透明ではない。

4.4 知覚

ここでウォルトンは現実世界との コンタクトという考え方を示す。 知覚とは、ウォルトンは言う、 現実世界とのコンタクトを維持することなのだ。 描写(depiction)(たとえば絵画)では、 このコンタクトは作者の存在によって切断される。 記述 (description)(たとえば文学)では、 このコンタクトは二重に切断される--- 最初に作者によって、 そしてつぎに言語という恣意性のシステムによってだ。

5. リアリティと知覚

「透明性テーゼ」は挑戦的であり、 見ようによっては「とんでもテーゼ」でもある。 予想されるように多くの反論がなされた。 それらの反論、そしてそれに対するウォルトンの答えを 清塚( [清塚 2003])が 手際よくまとめている。

5.1 知覚論

論争は、もちろん、 原著者の意図に沿いながら、 透明性テーゼについて語る。 わたしの主張は、 ウォルトンの論文は写真についてではなく、 むしろ知覚についてである、 すくなくともそのように読むことが より興味深い議論に発展する、というものである。 そのような読み替えに向けての第一歩を、 原著における予想される反論への譲歩の中に見て とりたい。

その譲歩は仮想上の反論に対したものだ。 その反論は「すべりやすい坂道」議論に対する反論であ る。 すなわち「坂道はどこで止まるのか?」ということだ。 ウォルトンはこの(仮想上の)反論を受けて、 坂道のさらに先まですべってみせる。 「絵画の中にも透明なものがある」というのだ。 ウォルトン自身は具体的な例を出してはいない 【・・・と思う】。 これまでの議論から言えば、 透明な絵画とは、 作者の意図が介在しない類の絵画であるはずだ。 たとえば、 高校の時に行なった生物の授業での 左目で顕微鏡を見ながら、 右目で見たものを描いていく実習が いい例となろう。 ここには被写体とスケッチの間に 因果関係があることが重要な点である。

ここで先程エピソード的に紹介した ハンフリー ( [ハンフリー2004])の 洞窟絵画と自閉症児の絵画の 議論を思い出してほしい。 ハンフリーが主張しているのは、 これらもまた被写体と因果的な関係があると 言うのだ。 たしかに、 これらにはスタイルがなく写実性(因果性)が 見受けられるというのは、それなりに 説得力のある議論である。 しかし、顕微鏡を使ってのスケッチと違い、 自信をもって「それらが透明だ」と言えるかというと、 わたしたちは躊躇してしまう。 なぜ顕微鏡でのスケッチに因果性があると言え、 洞窟絵画にそれが言えないのだろうか。

5.2 鑑賞者の態度

この違いを齎すのは 描き手の意図の問題である。 わたしたちが描き手である顕微鏡のスケッチでは、 意図はそこにある。 わたしたちは(スケッチが対象と)因果関係をもつように 注意しながら、 スケッチを描く。 顕微鏡の中の被写体が違えばどうなるかと問われれば、 それに応じて違うスケッチができると、 わたしたちは答えるであろう。

このような絵画にはある種の雰囲気 (「写実性」)があるのは確かである。 その雰囲気がハンフリーの挙げる 洞窟絵画と自閉症児の絵に、わたしたちは、 たしかに感じる。 しかし、自信をもってこれらが 透明だと言うことはできない。 なぜなら 作者の意図が不明だからだ。 どちらの場合も、 作者の意図を確認できないだろう (洞窟絵画の作者はすでに死亡しているし、 自閉症児とのコミュニケーションは難しいだろう)。

わたしたちは、しかしながら、 作者の意図を想像できる。 それが顕微鏡スケッチの作者と同じ意図だと 考えれば、 洞窟絵画は透明になる。 そこにスタイルや意図を想像すれば、 洞窟絵画は普通の、すなわち 透明ではない絵画となる。 [7]

わたしが主張したいのは、 「透明である」というのは絵を分類する属性ではない、 ということだ。 ある絵が透明であるかどうかを決めるのは、 その絵が持っている属性ではなく、 わたしたちがその絵に対して持つ態度によって 決まるのだ。 ある態度においては、 ある絵画を透明であるとするだろうし、 他の態度の中では、 ある写真を透明でないとするだろう、 ということだ。 鑑賞者の態度によって、 特定の絵画が透明になったり、 不透明になったりするのだ。

5.3 模型の人類学

ここで、 現在わたしがとりくんでいる「模型の人類学」への 予告編を書いておきたい。 模型にも、それに接する態度によって 透明、不透明が決定されるのである。 ある模型を透明と見ることは、 それを現実世界と法則論的な関係の中に見ることである。 すなわち、 そのような態度(模型を透明だとする態度)で 模型を見るとき、 科学者は、いわば、 法則の確認を行なっているのである。 それに対して、 同じ模型を不透明なものとして見るときにこそ、 科学者は新しい発見へと導かれることになる。 いずれ(別稿で)、宮崎・上野の『視点』 ( [宮崎 2008])を 引きながら、 この点(模型の透明から不透明への転換と 発見)を詳細に述べたい。 そして、 望むらくは、 この転換が「異化(オストラネーニェ)」と 密接に関連していることをも示していきたい。

シェイピアはあるものが直接観察可能かどうかはそ の時々の知識の状態に依存することに注意している。受 容器の働きについての、あるいはニュートリノによる情 報伝達についてのわれわれの理論はすべて膨大な量の理 論を仮定している。それゆえわれわれは、理論が分かり きったものとみなされるにつれて、われわれが観察と呼 ぶ領域が拡張されると考えてもよかろう。とはいえ、諸々 の区別をすることなしに理論について語るという誤りの 犠牲にならないようにしなければならな い。 [ハッキン グ 1986: 357]


5.4 延長された知覚

議論の本筋に戻ろう。

あるモノが透明であるとは、 そのモノが人間と現実世界との間のコンタクト(知覚)を 遮らない、ということである。 あるモノが透明でないとは、 そのモノが 人間と現実世界の間のコンタクトを遮るということ である。 このときそのモノは表象となる。

このように知覚と表象を捉え直したうえで、 わたしはウォルトンの「透明な絵」論文を 次のように読みたい。 すなわち、 (すでに述べたが) この論文は写真についての論文ではなく、 知覚、とりわけ視覚(見ること)についての論文なのだ、と。 そしてその論文の主張は(わたしの読みかたでは) 「見ることは進化する」となる。 「すべりやすい坂道議論」こそが 進化の道程なのである。 ウォルトンの論文のポイントは、 「これまでわたしたちは 眼鏡、顕微鏡、望遠鏡などを視覚の 延長として捉えてきた。 さぁ、写真もその延長としようではないか」 という呼びかけだと考えるのだ。

この呼びかけの根底にある考え方は リアリティと知覚が同一であるとの考え方である。 それは、 ウォルトンが 写真が現実世界と因果的関係にあると述べた箇所を 紹介するときに指摘しておいた。 わたしは 次のように言った筈である: 「ここではは自然的類似性が前提とされている」と。

5.5 自然的類似

自然的類似性は二つに分けて考える必要がある。 一つは現実世界の中の個物の間の類似と、 もう一つは現実世界と知覚の中の類似である。

前者は、現実世界の中で 個物 a が 個物 b とが「似ている」と言えるという 主張である。 そして写真が知覚であるという時に 措定されているのは、 後者の主張、すなわち、 (ab が似ているならば) a の写像 a'b の写像 b' とが 「似ている」と言えるという主張である。 [8] あるいは ab が似ていないならば、 a'b' も似ていない、 ということになる。

現実世界の中の自然的類似はある。 適当な自然的類似を把握できない種は 生き残ることができなかったであろう、という 意味で。 [9]

5.6 知覚と現実

問題は現実世界と知覚のあいだの 写像的類似、すなわち因果論的関係である。

ウォルトンの論文に示唆的な箇所がある。 すでに述べたように、彼は、 記述 (description) は、 言語の恣意性によって人間と現実世界の間の コンタクトを切断すると主張した。 ライオン(個体 a)と 豹(個体 b)とは、 世界において似ている にもかかわらず記述(「ライオン」と「ヒョウ」)に おいてその相似はあらわれない。 あるいは 兎(個体 a)と 鰻(個体 b)とは 世界において似ていないにも関わらず 記述(「ウサギ」と「ウナギ」)において似ている、 という議論である。 その箇所からかなり後の部分で、彼は 自分の議論をくつがえす。 いささかSF的な状況を考えてみよう、と 彼は言う。 マッドサイエンティストがあなたを改造して、 あなたは記述のみによって外界とつながるように なったのだ。 この箇所で、ウォルトンは、 もし世界とのコンタクトが記述のみになってしまったら、 いずれ写像における類似(「ライオン」と「ヒョウ」) を、あなたは感じとれるようになる、と議論する。

ウォルトンの議論の可否はおいておく。 利用したいのはこのSF的状況だ。 ここで知覚を視覚のみに限定して、 このSF的状況を考えてみよう。 それはSF的状況というより、 生物の原初の状況にかなり近いものと 言えるだろう。 当初、 生物はバークレー的な考え方をもて遊ぶかもしれない。 「ここに石がある」という知覚をわたしは持っている。 しかし、それはわたしの中の出来事であり、 けっして世界の中の出来事ではない、と。 超越論的観念論である。 あるいは、彼は カント的な言い方を好むかもしれない。 わたしは世界の写像として知覚をもっている。 しかし世界それ自体はわたしには把握できないのだ、 と。 そんな哲学的瞑想にふけっていた生物も、 自分が腹をへらしていることに、いずれ、気づくだろう。 彼は生きのびていかねばならない。 餌を捕食し、 捕食者から逃げなければいけないのだ。 彼はもはやカント的な世界に遊んでいる余裕はない。 そして頼りになるのは知覚だけである。 彼はとりあえず知覚が世界と因果的関係をもっている、 写像的な類似性を維持していると仮定するしかない。 その仮定にたよって、 いわば知覚に賭けて彼は行動する。 もし失敗すれば、彼の子孫は生き残らないだろう。 を擬人化して語ることを許してもらえば、 知覚への賭けは、 自然淘汰を通して信頼へと変化するだろう。 進化論の枠組で言うならば、 定義によって知覚は現実そのものであるのだ。

わたしたちが知覚しているのは現実であり、 現実はわたしたちが知覚するものである。 知覚と現実は二つの現象ではなく、 一つの現象というコインの裏表なのだ。 裏と表を接着しているがであり、 そして信頼である。 そして、信頼は 自然淘汰のなかでその真理性を証明されるのである。

ハッキングの引用するカントのことばでこの 論考の結論としたい--- 「超越論観念論は経験的実在論なのだ」と。

[バークレー 1990 (1709)]

[ギブソン 1986] [下條 1990]

Bibliography

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ENDNOTES

[1] なお、「抄録」で言及している 「嘘」については、 間も無く出るわたしの論文「嘘の美学」 (『社会人類学年報』43号)を参照していただきたい。 [Back]

[2] ブレヒトの「異化」 (Verfrumdung) もまた 山口のイデアの源泉であったろう。 この論文ではシクロフスキーに限定する。 [Back]

[3] リアリズムには「実在論」の意味もあることを 忘れてはいけない。 [Back]

[4] わたしは論理的である限り、 荒唐無稽であることは大好きである。 [Back]

[5] 当該の箇所がみあたらない・・・。 [Back]

[6] 【ひとり言】ハッキングの本のどの箇所だったけかな・・・。 [Back]

[7] この部分の議論が、期せずして ダントーのアートワールド [ダントー 1964] の議論に重なった。 ダントーは、絵画の鑑賞には スタイルと、そのスタイルをめぐる雰囲気 (さまざまな批評)などなど(「アートワールド」) を知ることが必須だと述べている。 ここで述べているのは、 ある絵画に「アートワールド」を措定できない場合の 一つの帰結である。 すなわち、その絵画は透明になるのだ。 [Back]

[8] aa' が似ているという 主張ではない。 [Back]

[9] そのメカニズムの中の基本的戦略は 渡辺 ( [渡辺 1978])の言う 属性への重みづけであろう。 [Back]