人類学的引用論

中川 敏

1 要旨

2 ウェブ要旨

Draft only ($Revision$ ($Date$)).
(C) Satoshi Nakagawa
Do not quote or cite without the author's permission.
Comments are welcome

1. 要旨

演題:

人類学的引用論

副題:

発表者氏名

中川敏(大阪大学)

今回の発表は、 前回(2013年第48回大会)からの発展である。 前回、 わたしは「異文化の見つけ方」と題して、 文化相対主義を擁護した。 その発表において敵である普遍主義は、 独我論として提示された。 2012年の発表「ダンゴムシに怒りを覚えるとき」は、 他者のいない独我論の議論のなかから どのようにして他者を見つけるかについて述べた。 前回(2013年)は、 異文化のない独我論(則天去私の共同体)という パースペクティブの中から異文化を見つける仕方について 述べた。 その方法とは、二重構造の把握、すなわち アスペクト把握である。

かくして、われわれは 安心して文化相対主義を標榜して 人類学を行なうことが可能になった。 人類学者のもつアスペクト把握こそが 文化相対主義を可能にするのである。 今回の発表で強調したいポイントは、 アスペクト把握の能力は 決して人類学者だけに備わっているのではなく、 人間全体に、 人類学の対象である人間全体に 備わっていることである。 わたしは、 アスペクト把握という概念は民族誌を描く際に おおいに活用されるべき道具であると考えている。 多くの民族誌的事実が アスペクト把握を引き合いに出すことで その意味を説明できると考えているのだ。

そのためには、 この概念の抽象度をさらに上げる必要があるだろう。 わたしは、 「アスペクト把握」を「引用」の一種として とらえたい。

引用の議論をする前に、 わたしが『言語ゲームが世界を創る』の中で展開した ある議論を取り込んでおきたい。 それはゲームに対する二つの態度、 「のめりこむ」と「一抜ける」に関する議論だ。 二つの態度の対照は、 ゲームのルールの可視性に関連する。 将棋にのめりこめば、 ルールは見えなくなる。 それは言わば自然法則のようなものとなるのだ。 ところが、そこから一抜ければ、 ルールがありありと見えてくる。 これが当該の本での描写である。

プレイヤーがゲームにのめりこめば、 世界は単相状態になる。 言い換えればプレーヤーはアスペクト盲となるのだ。 「私は、自分が従っている意味や規則といった 規範など意識してはいない。 なめらかな生活と実践の中にあって、 私はまさにアスペクト盲として、 盲目的にそうしているのである。」 (野矢 1999, 168) ところが、いったん一抜けると世界は複相状態になる。 プレイヤーは、 「これは遊びだ」というメタ・メッセージを 了解した上でプレイをすることになるのだ。

以上の単相・複相の議論を引用論へと 接木する作業を行ないたい。 まず引用論について簡単に紹介する。

引用について、 入門書的に説明すれば、 次のようになるであろう。 言葉には二つの使い方がある。 使用 (use) と言及 (mention) である。 言及の典型的な例こそが引用である。

引用論には膨大な蓄積があるが、 基本的には、引用を言及の典型として見る議論であった。 その流れに転機をもたらしたのが、 デイヴィドソンによる引用論である。 彼は、引用とは言及と同時に使用でもあることを 指摘したのだ。

デイヴィドソンによる引用論が、 これまで述べてきたアスペクトの議論と重なるであろう ことが直観的に見てとれるであろう。 わたしの行ないたいことは、 一方で、 引用論を修辞学から解放してより 広い範囲をカバーできるように拡張すること、 他方で、 アスペクト(のめりこむ・一抜ける)の議論を 修辞学としての引用の中に取り込む、という 作業である。 これを仮に「人類学的引用論」と名付けよう。

人類学的引用論の中で、 博物館は引用符として語られることになる。 単相状況では(引用の内部の視点では) 電車は電車である(使用されている)。 しかし博物館を十全に理解するためには、 電車が引用されているものである (言及されている)という複相の視点をも 同時に見なければならないである。 将棋を十全に遊ぶためには、 のめりこむ(使用する)と同時に 一抜ける(言及する)必要があるのだ。 ポイントは「同時に」にある。 この二つの態度を同時に取ることが、 (拡張された意味での)引用理解の 必要条件なのだ。

信念文を考えてみよう。 「エンデの人たちは 『死は妖術のせいだ』と信じている」という文である。 それは典型的な引用である。 その引用を言及にとどめるならば、 人類学者は珍奇な慣習を報告する旅人と変わらない。 引用が使用として使われるとき、 人類学者はエンデ人になりきってしまう。 人類学者は、この文を拡張した意味での 引用としてあやつるのである。 彼女は引用を言及する(それから一抜ける)と同時に、 使用する(それにのめりこむ)のである。

この人類学的引用論は、 たとえば芸術(自然の引用)を、 とりわけ現代芸術(芸術の引用、すなわち 引用の引用)を考察するのに 大きな武器となるだろう。 伝統的な人類学的対象としては、 たとえば、儀礼を挙げることができよう。 人類学的引用論の中で、 儀礼は世界の引用として理解することができるかもしれない。 壮大な予感ではあるが、 社会を成り立たせているのは、 じつは引用ではないかと わたしは考えている。

キーワード: 引用、のめり込む、一抜ける、アスペクト、 使用、言及、遊び、アイロニー

2. ウェブ要旨

アスペクトとりわけ単相・複相の議論を、ゲームへの 2つの態度、「のめり込む」と「一抜ける」と関連させ ながら、分析哲学におけるレトリックとしての引用論に 合流させる。結果として出来上がった理論を「人類学的 引用論」と呼ぶ。この発表で、「人類学的引用論」が様々 な民族誌の分析に応用可能であることを示す。最後に、 人間の社会の成立というものが「引用」によっているこ とを示唆したい。

登録番号 100089

暗証番号 7170

* * * * *

ENDNOTES