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1.1 Preamble
1.2 なかみ
1.3 参考文献
1.4 キーワード
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(C) Satoshi Nakagawa
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演題名:異文化の遊び方
副題:(副題なし)
発表者:中川 敏(大阪大学)
去年の発表の目標は 複相把握が二種類あることを示すことだった。 それを浅い複相把握、深い複相把握と呼ぶ。 ポイントは2つの把握の間は 不連続だということである。
自文化に生きる状況、 異文化に気づく状況、 異文化にとらわれている状況、 そして異文化を生きる状況という 物語を考えよう。 ラベルとして「平穏」、 「出会い」「誘惑」そして 「転落」というラベルを貼っておく。 出発点の平穏と終着点の転落が単相状況であり、 途中の二つが複相状況である。 出会いが浅い複相、 誘惑が深い複相だ。
単相から浅い複相状況へ、 深い複相状況からもうひとつの単相へ、 あるいは 平穏から出会い、誘惑から転落へ、 この発表では、この理解の図式を 何度も重ね書きをしていきたい。
この図式はそのまま引用の構造に重ねうることを 示したのが去年の発表である。 日常の語句の使い方を「使用」と呼ぼう。 「中川は阪大教授である」という文のすべての 語句は使用されている。 引用は語句の特別な使い方をする---言及である。 「『中川』は漢字二文字である」。 「中川」という語はここで言及されているのだ。 デイヴィドソンは、引用が言及だけでなく、 使用と言及を同時に 行っていることを示した。 例えば「中川は『相対主義が可能だ』と言った」という 文における引用(「相対主義が可能だ」)は、 言及されているだけでなく、 それは通常の使い方、すなわち使用も されているのだ。 使用が単相で、 言及が浅い複相である。 引用とは単相(使用)と浅い複相(言及)を 同時に行なうことが深い複相把握なのである。
日常の中にいる子供は単相状況を生きている。 ままごとを外側から観察している子供は、 ままごという異文化に気づいている 浅い複相状況にいる。 「遊びから一抜けている」彼女は、 「かれらは石をケーキと信じている」と 報告するだろう。 「ケーキをめしあがれ」と言われ、 その石をほんとうに食べてしまう自閉症児は、 転落の状況、もうひとつの単相にいるのだ。 これを融即の状況と呼ぼう。 融即の状況は、もちろん、遊びではない。 それは現実である。 どれも正しい遊びではない。 石を石と知覚しながら(一抜けて観察しながら)、 それをケーキとであると(融即)するのが 正しい遊び方である。
自文化を単相状況で生きている人間が、 異文化に気づき、それを観察し、 「エンデでは妖術を信じている」と 報告するとき、彼女は 浅い複相状況にいる旅人である。 異文化を現実として、 もう一つの単相状況の中に生きてしまえば、 彼女は石を食べる自閉症児、 すなわち融即の状況にあることになる。 先人が、 人類学者の営為とは「参与観察」であると言った--- 至言である。 人類学の営為とは、 観察 (observation) であると同時に 参与、すなわち融即 (participation)でも あるのだ。 人類学者は異文化を生きると同時に それから一抜けてもいるのだ。 人類学者は異文化を遊んでいるのである。
ウォルトンは映画を見ている人間の 恐怖について語る。 鮫が来たときの恐怖と、 ジョーズがせまってくるときの恐怖は、 多くの点で似ている。 それら二つは 映画の中の俳優の「恐怖」とは全く違う。 俳優は恐怖を感じていない--- 彼女らは恐怖を演じているだけだ。 それは浅い複相状況でしかない。 映画の観客は、 恐怖のふりをしているわけではない。 じっさい、恐怖を感じているのだ。 ほんものの恐怖と観客の恐怖には 決定的に違う点がある --- 映画を見て感じる恐怖には対象がないのである。 現実の(単相状況の)恐怖には、 現実の鮫という対象がある、 観客の恐怖には対象がない。
この恐怖を、ウォルトンは、 観客は映画という虚構の中に降りていっているのだ、 と説明する。 彼女は現実の鮫を現実に怖がっているのだ。 ただし、 その状況すべてが、彼女を含めて、 虚構なのである。 その状況すべてが、 「これは虚構だよ」というメタメッセージのもとに、 あるいは「ごっこ的に」という 内包オペレーターの作用域の中にあるのだ。
彼女は自分自身を演じているのだ。 それは恐怖のふりではない。
参与観察を行なう理想の 人類学者は、 原住民のように妖術師を怖がる(融即)のではなく、 ましてや「妖術師などいない」と 一抜けるのではない(観察)。 異文化という虚構の中で 現実の妖術師を怖がる自分自身を演じるのだ。 これが異文化の遊び方であり、 正しい人類学のありかたである。
ベイトソン、G. 2000 「遊びと空想の世界」
Davidson, D. 1985 "Quotation"
三浦俊彦 1995 『虚構世界の存在論』
Walton, K. 1993 *Mimesis as Make-Believe*
融即、異文化、ゲーム、虚構、参与観察