2 姿勢からアスペクトへ
2.1 アスペクト入門
2.2 単相状態と複相状態
2.3 信念の発生
3 水源地モデルとその否定
3.1 【蛇足かも】アスペクトとしての意味
3.2 規則はアスペクトである
3.3 水源地モデルは妥当ではない
3.4 生活の形式
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(C) Satoshi Nakagawa
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前回の講義で 扱った還元主義と創発主義の対立は、 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
・・・・・ 【じょじょと一気】 ・・・・・
この講義の目的は、 内的視点としての 創発主義をいかに 人類学に取り込むか、 という問題に答えることだ。 端的に言えば、 「他者の 内的視点」の問題である。
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
デネット1の 「姿勢」の議論からこの講義を 始めたい。 姿勢の議論を (とりあえず)「見掛けの議論だ」と 特徴づけるのは正しいであろう。
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
・・・・・ 【【いつもの話】】 ・・・・・
図 ahiruを見てほしい。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
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・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
アスペクトの議論が 全体論、創発主義に関わる議論である ことは自明だと思う。 点や線の集りであるにすぎない絵が ウサギを、 そしてアヒルを表しているのだから。
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
【BEGIN --- カット&ペースト】
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
野矢は うさぎあひるの図を見るという 知覚状況から考え得る 二つの種類の発話を考えることにより ウィトゲンシュタインの アスペクトの議論を深めていく。
すなわち、 「これはうさぎだ」 1 と「うさぎに見える」 である。
「うさぎに見える」言明こそが、
【END --- カット&ペースト】
以上、野矢の議論を追ってきた。 野矢は単相状態と複相状態を、 それぞれ 対象の発見と意味の発見の言明と 特徴づけた。
複相状態の言明を復習しておこう --- Bは「ぼくにはアヒルに見える」と言うのだ。
人類学者としてわたしは、 この二つの状態は、 原住民の言明と 人類学者の言明であると言い換えたい。
Bの複相状態の言明を、 「ぼくにはアヒルが見える」から 「Aにはアヒルに見えている」という 言明に変えるのだ。 この言明とは、 「Aは『これはアヒルだ』と信じている」という 信念文なのである。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
・・・・・ 【複相は信念文だ「彼は『これは ウサギだ』と信じている」】 ・・・・・
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
前節では、 アスペクトの中で出てくる 二つの状態、単相状態と 複相状態に焦点をあてた。 そして、 単相状態とは存在論的言明を導き出す状態であり、 複相状態とは認識論的言明を導き出す状態である と結論づけた。 そして、 いささか印象主義的な物言いではあるが、 前者が文化の内側からの言明、 そして 後者が文化の外側からの言明であると 指摘した。
この節では、 その「文化」とは何かについて 明かにしていきたい。
この節で、まず直接取り扱う問題は、 「なにがアスペクトを作り出しているのか」 という問題である。
この問題を、 野矢 [ noya-mind-bunko ]による 『哲学探求』 [ wittgenstein-pi ]の 解読の中に見ていこう。 2
野矢は 『哲学探求』の二部構成の謎、 前半の「アスペクト議論」と 後半の「規則の議論」との繋りの謎を つぎのように解き明かす: 規則に従うとはアスペクトを見ることなのだ、と。
まずアスペクトと規則をむすび つける前にアスペクトと「意味」とを 結び付けておこう。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
さて、 それでは規則の問題、 あるいはいかに規則が アスペクトと同一視されるのかを 見ていこう。
野矢は次のような例から始める。 「1、2、3、5」という数列を見せられたら あなたは「5」の次に何を続けるだろうか。 次に「7」を続ける人もいるだろう。 「なぜ」と聞かれれば、 「素数を並べているのだ」とあなたは 答えるであろう。 その人から「いや、じつは「8」が答えだ」と 聞いて、 あなたはしばし首をかしげる。 そして、「あは!」と声をだす。 「これはフィボナッチ数列なのですね」と [ noya-mind-bunko: 287 ]。 「多少誇張して言えば」と野矢はつづける、 「そのとき数列「1、2、3、5」の 表情が反転したのである」 [ noya-mind-bunko: 287 ]と。
野矢はこのようにして、 規則の把握をアスペクトに重ねる。 野矢のこの手続きは非常に説得的である。 規則とはアスペクトなのである。 かくして『哲学探求』の構成の謎は解明される。
さて、ウィトゲンシュタインの出す例は 奇怪な例である。 彼は「+2」という規則を教える場面を 考える。
教師は「2、4、6、8、10 ・・・・・ ・・・・・ 」以下同 様、 こんなふうに続けていきなさい、と 教える。 生徒は教えられたように ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・ ところが千以上で「+2」をやらせたら、 なんと「1000、1004、1008」と続けてしまうのだ。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・ [ noya-mind-bunko: 249 ]
彼には「1000以上ではこうすること」が自然に 見えるのだ。 野矢は問う、「このような感覚をもっている 生徒にどのように +2を教えられるか?」と。
いささか前後するが、 「ことばの意味」、 たとえば「『植物』ということばの意味」を 論じる際に、 野矢は「水源地モデル」という 考え方を登場させている。 こうだ。
水源地モデルに従えば、 事情はむしろこうなるだろう。 --- 正しい言語使用は、 正しくその後の意味を把握していることの 結果にすぎない。 そして正しく意味を把握することと、 正しくその語を使用することとは 別のことだ。 子供は「植物」という語を 正しく用いてさまざまな文を やりとりできるようになるには、 まず「植物」という語の意味を 理解しなければならない。 しかる後に、 正しい意味理解に基づいて、 それに背かぬように規制しながら 言葉を使うのである。 [ noya-mind-bunko: 242 ]
+2の奇怪な例で、 ウィトゲンシュタインが述べているのは、 この水源地モデルが 正しくない、ということなのだ。
水源地モデルで「規則に従うこと」を 説明できないならば、 どのように説明すればいいのだろうか。 ここでウィトゲンシュタインが出してくるのが 「生活の形式」である。 3
さきほどの+2の例に戻ろう。 また奇怪さの増した例だ。 わたしたちの直観、 すなわち 「1000」の次には「1002」を続けることが 間違っている、 すなわち+2の適用としては 「1000」の次には「1004」と続けることこそが 正しいような状況を考えてみるのである。 「私はごく自然に「1000」の次に「1002」と 書きたくなったのだが、 この・・・・・ 事態のもとでは、 私はそうすべきでなかったのである。 こうした場合、 私は誤った者として道を正され、 説得ないし再教育を 施される」 [ noya-mind-bunko: 22 ]。
野矢は言う、 「常識的に考えるならば、 行為аが規則Rの適用例であることは 規則Rをみれば ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・ [ noya-mind-bunko: 262 ]
このような一致こそが 「生活の形式」なのだ。 [ noya-mind-bunko: 263 ]
もとの問いに戻ろう、 「なにがアスペクトを 産み出しているのか」という問いだ。 ウィトゲンシュタインは、 あるいは野矢は言う、 「それは人間(行為者、実践者)の一致だ」と、 あるいは 「生活の形式の一致なのだ」と。
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
[1] 野矢は「うさぎが見える」の方を、 「これはうさぎだ」よりひんぱんに使うが、 わたしは、「これはうさぎだ」言明のほうが より適切な例と考える。 [Back]
[2] 後に野矢の『心と他者』に 本格的に取り組む。 ここではデッサンだけに留める。 [Back]
[3] あまりに頭ごなしの展開であり、 野矢の緻密な議論の説得性を伝えられていない まとめ方であることは自覚している。 後により詳しく述べていきたい。 [Back]