1 序---ゲームから論理空間へ
1.1 これまで
1.2 ポイント
1.3 キーワード
2 生活の形式と文化
2.1 偶数、クワス
2.2 こそあど---意味の反転
2.3 『こち亀』
2.4 ヒクイドリ---奇怪
3 論理空間
3.1 再び水源地モデルへ
3.2 論理空間としての文化
3.3 エピファニーの時
Draft only ($Revision$ ($Date$)).
(C) Satoshi Nakagawa
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さて人類学的、あるいは 民族誌的状況にもどろう。 これまで描いてきた状況、 「ゲーム摩擦」 [ nakagawa-gengo ]の状況 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
次の節に移動する前に、 アスペクト議論から導き出された 存在論と認識論の一つの特徴を 指摘しておこう--- 認識論は外側の視点であり、 存在論は内側の視点 [ hart-61 ] である、という点である。
何の外側と内側なのかが 問題となる。 もちろん、 人類学を出して 信念文に言及したときの わたしの魂胆は「文化」である--- 単相状態は文化の内部からの (原住民の)言明であり、 複相状態は文化の外部からの (旅人の)言明だ、と言いたいのだ。 とは言え、 問題は性質を変えていないだろう。 問題は「文化」とは何か、といういことなのだ。
・・・・・ 【自民族中心主義、エピファニーの時】 ・・・・・
わたしはゲームがアスペクトを作ると 主張した。 ウィトゲンシュタインの言葉を借りれば、 それは「生活の形式」かもしれない。 野矢は、 それを 「伝統と歴史」と呼んだ [ noya-mind-bunko-117--118 ]。
どこかにアスペクトの見方の虎の巻がある、 意味の源泉(水源地仮説)があるのではなく、 人びとの日々の使用こそが、 意味を固定していくのだ。
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・ もう「文化」という言葉をつかって いいだろう。 文化がアスペクトを産み出し、 意味を産み出しているのだ。
偶数の数列の例を思いだそう。 あの奇怪な数列を出す人間に 文化を付与するのだ。 彼はララントゥカで育った。 彼の文化ではラマホロット語を喋る。 彼の文化ではあの奇怪な数列は 「愚数」と呼ばれる。
さて、 「愚数」を 日本/ラマホロット語辞書で調べてみると つぎのように記載されている: 「1000未満では偶数で、1000 以上では4で割れる数」、 なるほど奇怪である。 納得はいかないけれども、 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
文化を導入したポイントは次の点にある。 ラマホロット語/日本語辞書を引いてみよう。 そこには「偶数」の定義が書いてある--- 「1000未満では2で割れるもので、 1000以上では愚数」と。 なんと奇怪なのだろうか!
英語と日本語とエンデ語
| Here | --- | There | --- | | ここ | --- | そこ | あそこ | | ndia | pena | sena | norE | | kami | kita | kau | ebE |
意味の反転。 世界の相貌が変わる。 【BEGIN from manabanai/cassawory】
ウィトゲンシュタインの「生活の形式」を 「文化」と言い換えれば、 わたしの当座の目的は達せられるかもしれない。 すなわち、「文化が アスペクトを生み出しているのだ」と。
野矢の議論の一つの弱みは、 「行為本能」ということばの 説得力の弱さであると私は思う。 この節は、 「行為本能」を別のかたちで、 願わくばより説得力のある形で 描写することである。
手始めに アスペクト議論を、 全体論という脈絡のなかで、 もう一段階上昇させる 必要がある。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
【BEGIN from ./aspect.yaml】
アスペクトという語が 「あひる・うさぎの図」に適用されているかぎり、 問題はないようにみえる。 破綻をきたしてしまうのは、 感情へと適用されたあたりである。 さらに複雑な例をだしてみよう。
[ kochikame-68 ]【『こち亀』挿入場所】
アスペクトの例としてことさらに
この例を出したのには意味がある。
ポイントは「翻堕羅拳」という言葉にある。
言いたいことは
「秘技砂かけばあさん」というアスペクト
ではなく、
それを包含する「翻堕羅拳」という体系のなのだ。
わたしが主張したいのは、
「アスペクトは、
単発的に、その場その場で生成されているのではない。
ある図にアスペクトが生じるとは
その図が
わたしは、
「理論」
あるいは「ルールの体系」
(そして「ゲーム」)こそが
「アスペクト」を産み出している、と
言いたいのである。
「意味」を作り出しているのは
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
パプア・ニューギニアのカラムと 呼ばれる人の間にあなたはいる。 それなりにコミュニケーションができている としよう。 いま、あなたは ある名詞、ヤクト (yakt) の使いかたを 学んでいるところだ。
カラム人はあなたに 一羽のスズメ 1 を示し、 「ヤクト」と言う。 あなたは、 「ふむ、『スズメ』という意味かな。 もしかしたら『鳥』かもしれない。 『生き物』かしらん。 『小さいもの』かもしれない」と考える。 つづいてカラム人の教師は、 カラスを示し、「ヤクト」と言う。 さらにハトもまた「ヤクト」だ。 あなたは、「『ヤクト』は 鳥という意味だ」と喜ぶ。
さて、後日あなたはカラム人と 森へ散歩に出掛ける。 極楽鳥がいた。 あなたは「ヤクト」という。 カラム人はうなずく。 ウズラそしてサイチョウと出会うたびに、 あなたは「ヤクト」と言い、 カラム人はうなずく。
ガサゴソという物音がする。 出てきたのはヒクイドリだ。 あなたは迷わず「ヤクト」と言う。 カラム人は「違う。なに言っているんだ。 あれはヤクトではない! あれはコビトイ kobity だ」と言う。
バルマー [ bulmer-cassowary ] は次のように ・・・・・ 【神話、儀礼、生態、分類の基準】 ・・・・・
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
この章で行なっていることは、 前章で行った野矢の議論を、 違った例を用いて辿っているだけに見えるかもしれない。
じつは大きく異なっているのだ、 ということを指摘しておきたい。 もちろん、文化の導入である。
文化を導入することは、 議論を分かりやすくしているだろうという 自負がある。 しかし、問題は、 そうすることによって、 アスペクトの議論は、 ウィトゲンシュタインや野矢の 目論見とは 違った方向へと進みはじめているのである--- 「人類学的」方向へと。
端的に言えば ここで規則の議論は再び 水源地モデルへと 先祖返りをしているのだ、 ということである。
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・ ここで クワスにせよ、 偶数にせよ、 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
果たして 野矢の議論全体を取れば、 本来、水源地モデル批判をすべきでなかった ということなのか、 すなわち、 有り体に言えば、野矢が議論を 間違っていたのか、 それともわたしが文化を導入することで、 議論を曲げてしまったのかを 判断する自信は、私にはない。
3.1.1 「じょじょ」と「一気」
示唆的なことだけ書きつけておこう。 わたしは「意味の水源地がある」と 主張している。 しかし「その水源地がどのように してできたか」については答えることは できない。 「あるとき一気に出きたのだ」としか 答えようがないのだ。
野田が水源地モデルを否定するとき、 彼はその歴史を考えているのだろう。
ここまで書けば、 私が議論をどのように進めたいのか理解された であろう。 私は意味の全体論を取り、 野矢は意味の還元論を取っているのだ、という ことを強調したいのである。
そのようにした上で、 指摘したいのは、 野矢の議論はそこここに「一気」論、 すなわち全体論をその基調としているように とれる箇所がある、ということである。
例えば、 『心と他者』において、 規範を自然的事実に還元し得るかという 古典的な問いに答えようとする場面がある。 彼は言う--- 「これ 2 は、 実は、 規範を自然的事実に還元しうるか否かという 昔からある哲学問題にほかならない。 そして、 私はこの問題に対してきわめて悲観的な見通しを もっている。 実践描写を行動描写に還元、 ないし翻訳することは不可能だと思うのである」 [ noya-mind-bunko: 304 ]と。
3.1.2 文化的独我論---概念枠組の問題
もとに戻ろう。 この章で文化を導入することによって 水源地モデルにかえった。 じつは、 それは大きな代償を必要とするものなのだ。
簡単に言うと 異文化理解が不可能になるということだ。
説明しよう。
第一部で取り上げた ローティの「反・反自民族中心主義」について を例にあげるのがいいだろう。 ローティは、 ギアツの、言わば「安易な」相対主義に 次のように反対する。 「それぞれの文化をそれぞれに文化として 大切にする」いうのは、 御題目としては、たしかに、 人聞きのいいものだ。 だが、 ぼくらはそんなことは出きない。 わたしは北アメリカの白人の 男性ブルジョワだ。 その立場からしか発言ができない。 まずは、 このことを、 自分の立ち位置を、 あるいは自分の文化を、 大切にすることから始めるべきではないだろうか、 と。
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
[ davidson-scheme ]
・・・・・ 【文化以外のゲームと文化というゲーム】 ・・・・・ ・・・・・ 【いちぬけられない】 ・・・・・
野矢は『他者の声、実在の声』 [ noya-mind ]で ウィトゲンシュタインの 『論理哲学論考』(トラクタートゥス) [ wittgenstein-tractatus ]に基づいて つぎのような他者論を展開する。
『論考』を独我論に位置づけようとするのであれば、それ は言語と 世界を 同等視するよう[101/2]な、すなわち、論 理空間[footonote omitted]と世界の可能性の広がりとを 同じものと捉えるようなところに成立する独我論でなけれ ばならない。そこでこれを、現象主義的独我論と区別して、 言語的独我論と呼ぶことにしよう。
「論理空間」とは、 野矢の簡単なまとめによれば 「いまの私に開かれている 思考可能なものの総体」である。
3.2.1 独我論の中の他者
そして野矢は この独我論における他者を次のように 位置づける--- 「言語的独我論のもとでは、 そこで拒否される他者とは、 この論理空間の外ということになる。 他者がこの論理空間の外にいるというのではなく、 この論理空間の外部、 それがすなわち、言語的独我論における 他者にほかならない。 かくして言語的独我論は 通常の他我問題とはまったく異なった 形で他者の問題を呼び起こすことになる。 あえてそれを名づければ、 それは「意味の他者」である。 [ noya-mind: 102 ]」。 外部こそが他者、 他者こそが外部なのだ。
3.2.2 文化的独我論の中の異文化
3.3.1 他者は謎である
そのとき他者はまさに 「語り得ない」者である。 それは
謎 として わたしたちに立ち現われる。 それは、 数学の問題のように 立ち現われるのだ、と野矢は言う。数学の問題は事実調査の問題と異なるきわだった特徴をもっ ている。事実調査の問題とは、論理空間に用意された可能 な命題の真偽を確定することにほかならない。たとえば、 「このキノコは食べても死なないだろうか」と問う。可能 性としてはどちらの可能性もある。・・・・・ ++
++ 他方数学の問題は論理空間の設定そのものに関わって いる。数学において、可能であることと真であるころは等 しい。それゆえ、ある定理の真理性が証明されるというこ とが、たんなる計算問題とは異なり、ある意味で知の拡大 と呼びうるものであるならば、それは、論理空間そのもの が拡大されたことを意味する。数学の問題は手持ちの論理 空間のもとでは謎でしかない。それは証明されるまで意味 不明だである。たとえばゴールドバッハの予想 ・・・・・ [103/4] を位置づける論理空間をわれわれはもち合わせて おらず、それゆえいまの段階ではゴールドバッハの予想は 意味不明なのである。++
なお、ゴールドバッハの予想とは、 いかなる 0 以外の整数 x y z n に対しても n > 2 なら ば、等式 x^n + y^n = z^n は 成立しないというものである。
++ 事実調査の場合には、意味の確定した命題の真偽が問 われたが、ここでは意味そのものが問われる。それゆえ、 数学の問題のひとつの形式は「私に意味を与えてみよ」と いうものとなる。その挑戦、その誘惑の声に引きずられて、 数学者は論理空間そのものと格闘する。
私は、意味の他者のあり方において、数学の問題のこう したあり方はたんなる比喩以上の同型性をもっていると考 える。他者もまた、謎として、挑戦として、そして誘惑と して、私の前に現れるのである。 [ noya-mind: 103--104 ]
「他者は欲望の対象である」とも 野矢は言う [ noya-mind: 108 ]。 それは「欲求」ではない。 「欲求」ならば、われわれは 何を欲求しているのかを あらかじめ知っている。 それは手持ちの論理空間の中に 位置づけられているのだ。 「欲望」はそうではない。 「欲望が欲望として私を襲うかぎり、 それは私の思考を、 すなわち私の手持ちの論理空間を越えている のである」 [ noya-mind: 108 ]。
・・・・・ 【超越数】 ・・・・・
3.3.2 意味の他者としての異文化
・・・・・ 【野矢と中川の違い】 ・・・・・
野矢の議論をまとめよう。 意味の他者は論理空間の外側として、 あるいは 「謎」として、 あるいは「欲望」の対象として存在する。
意味の他者は数学の謎と同型である。 それが解かれたとき、 手持ちの論理空間は変質することになるのだ。 【END---カット&ペースト】
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
3.3.3 エピファニーの時はあるのか?
・・・・・ 【わたしが言いたいのは、 論理空間こそ「文化」だ、ということだ。】 ・・・・・
・・・・・ 【人類学的営為とは 謎としての他者の論理空間をシミュレートするこ とだ。】 ・・・・・
これまでの議論を パラドクスとしてまとめてみよう。
中山先生の 「ある程度の生活の基盤の 共有」説
[1] パプア・ニューギニアにスズメや これから例に出す鳥はいないかもしれない。 気にしないで読み進めてほしい。 [Back]