2 「二つのコンベンション」再訪
2.1 社会の二つの見方
2.2 還元論
2.3 全体論
2.4 黙約と規約
2.5 ルールとパターン
2.6 信頼と信用
3 一つの社会の中のルールとパターン
3.1 差別
3.2 境目
3.3 ハイパーインフレ
3.4 ムラ
3.5 内から外へ
3.6 外から内へ
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(C) Satoshi Nakagawa
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この部の冒頭の数章 (3章、4章、5章、6章)において、 わたしは 二つの種類の語り方、 そしてそこに記述される二つの世界、 すなわち ナマの事実と制度的事実について 語ってきた。 とりわけその微妙だが 絶対的な区別について強調した。
さまざまなやり方で ナマの事実と制度的事実の 違いについて述べてきた。 ここでは、 一つだけ挙げよう。 ナマの事実を見てとるには (すなわち観察言明を発話するには) とくに訓練はいらない。 人間でありさえすれば、 ある出来事を 観察言明の中に捉えること、 すなわちナマの事実として見ることはできるのである。 「木片を動かす」というナマの事実は、 誰にでも見てとれるのだ。
制度的事実に関して 同じことは言えない。 ある出来事を制度的事実として 捉えるためには、 ゲームを知らなくてはいけないのである。 「4三金とした」という制度的事実を 見てとるためには、 将棋というゲームを知らなくてはいけないのだ。
前章(7章)において、 わたしたちは 三つ目の語り方、 解釈を導入した。 制度的な世界と 対照させながら、 解釈の中にあらわれる世界を 描いていった。
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この章は一種の応用編として見てもらいたい。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
第1章「二つのコンベンション」と 第2章「火星人の視点」を、 現在の脈絡から復習しておきたい。
第1章は、言わば、学説史的展望と 言えるかもしれない。 「社会」を対象にしたこれまでの議論を、 その視点から二つに分けて述べたのだ。 「還元論」と「全体論」という視点である。
「社会」という抽象的な物言いはやめ、 ここでは「社会的なもの」という 言い方を採用しよう。 学校、お金、結婚、儀礼、道徳などなどの 現象である。
それらを説明する中で、 還元論も全体論も「コンベンション」を そのキーワードとして使用した。 ただし、その語に付与された 意味は対照的なものだったのだ。
第一の見方は、 それら社会的なものがいかにして 出来上がったのか、 その起源を問う。 「社会的なもの」を説明しようとするのだ。 その説明に「社会」は使えない。 当然、 議論は個人から出発することになる。
ボート漕ぎの例をもう一度出そう。 二人の人間が一艘のボートを漕ぐ。 A が左側で、B が右側に座る。 向こう岸に着くという共通の目的をもって、 協力して漕いでいくのだ。 最初のうちは A の力が強すぎて右側に曲がっていくかもしれない。 それに気がついた A が力を弱める。 同時に B がより速く漕ごうとする。 今度は左に曲がっていくだろう。 しばらくすれば、 A と B はお互いの呼吸をつかみ、 適当な速さでボートを漕ぐようになる。
この時の「お互いの呼吸」を、 還元論者は「コンベンション」と呼ぶ。 わたしたちは、この意味での 「コンベンション」を「黙約」と訳すこととした。 「黙約」とは、流行りの言葉を使えば、 「空気」なのだ。 人々が「空気を読む」中で強調のパターンが 生まれる。 そしてそのような空気に、 人びとは従っていく。 その中で「社会的なもの」と呼ばれる現象が 生じるのだ。 そのように還元論者は主張する。
起源を問う 還元論者の議論が進化論的な 響きをもつのは当然であろう。 じっさい、ボート漕ぎの例を出発点にして、 デビッド・ルイスは ゲーム理論の中でコンベンションを 説明していく [lewis.dk-69b]。
還元論者は、 すべての社会的なものを このような黙約をもとに説明していくのである。 ミルによる 「約束」の起源はその最たるものであろう。
「社会的なもの」を問う第二の見方、 全体論は、「社会」をすでに そこにあるものとして扱う。 その見方は、 は当該の社会の中に生きる人々の 見方に重なる。 全体論は内側からの見方なのだ。
わたしたちは、 お金や 結婚という制度、 あるいは交通法規を、 これから作り出すものとしてではなく、 そこにあるものとして扱っている。
約束は、 損得勘定をした上で守るものではない。 それは守らなければいけないものなのだ。 言わば、 社会的なものは根拠を問うものではない のである。
このような性格をもつ現象を、 オースティンは 「コンベンション」という言葉で説明した。 この意味での「コンベンション」を、 わたしたちは「規約」と訳すことにした。
第1章と第2章で言ったことは、 外からの視点での研究、 すなわち還元論では黙約が、 内からの視点での研究、 すなわち全体論では規約がキーワードとなる、 ということだった。 そして、 わたしの人類学は内からの視点を 大切にする人類学である、と 宣言した。 その上で第3章からの議論が展開されたのだ。
第7章まで来て明かになったことは、 内からの視点の探求においても (規約はもちろん)黙約も議論の 枠内にある、ということである。 すなわち、 外からの視点では黙約のみが問題となるが、 内からの視点では規約と黙約の両方が 問題となるのである。
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2.5.1 模様
2.5.2 文字
黙約と規約、 あるいはルールとパターンを、 さらに「信頼」というキーワードから 眺めてみよう。
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科学論に適用することも可能だ。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
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ここで一つの例として わたしたちの社会における差別について 考えてみよう。 わたしが主張したいのは、 差別には二種類がある、という事である。 ある種の差別は、 ルールとしての、 規約としての 制度的事実としての差別である。 もう一つの種類の差別は、 パターンとしての、 黙約としての、 解釈の中にあらわれるものとしての差別である。
江戸時代に生きている人にとって、 「なぜ非人が差別されるのか?」という 問いは思い浮かばない問いであっただろう。 それは「あらかじめ、そこにある」差別、 ルールとしての差別なのだ。 規約は根拠が問われることはない。 ユダヤ人差別・黒人差別そして 女性差別は、そのような差別だった (あるいは「である」)とわたしは 考える。
これらのルールとしての差別に わたしが対応させたいのが、 いじめである。
いじめのメカニズムを単純に述べると 次のようになるだろう。 性格、見た目、出自、その他の さまざまな要因から、 グループの中で「弱い子」が選びだされ、 いじめの対象になる。 そして、クラスには 「空気」が作られ、 子供達はその「空気を読み」ながら、 いじめられっ子をいじめるのである。
いじめている子どもにとっても、 いじめられている子どもにとっても 「なぜいじめるのか」 「なぜいじめられるのか」は 常に念頭を離れない問いです。
いじめは、 いわばボス猿の決定と同じように、 生物学的な進化論、 ゲームの理論の中でつくられていくのである。
還元論の復習をしよう--- 外から見ている限り、 パターンとルールの間に違いはない。 すべてがパターンなのだ。
しかし、 これまで述べたように、 内から見れば、 パターンとルールの間には大きな違いがある。
この違いが見えなくなるような、 例外的な状況(飽くまで「内側から見て」であるが) も、しかしながら、 出現することがある。 境界の揺らぐ時があるのだ。
そのような 例外的な状況は、 いくつかに分類できるのでは ないかとわたしは考える。
ひとつはルールであったものが、 ある日突然パターンになってしまったという 状況である。
早川は、 ジンバブエの ハイパーインフレをテーマとした 秀逸な博士論文を書いている。 早川の記述の中に見られる ジンバブエの様子こそ、 ルールとパターンの区別が溶解していく 状況なのである。 それは、 「ある日とつぜんルールがパターンに変わる」 典型的な例なのである。
ある時まで、ジンバブエでは (ほかのどこの国とも同様に)自国の貨幣、 10ドル札や100ドル札に対する 信頼は絶対のものであった。 それはルールなのだ。 根拠を問われる現象ではない。 給料として紙切れをもらっても それに文句を言うひとはいない。 その紙切れが店に行けば、 相応の食料に交換されることが 当たり前だったのである。 「お金を信頼している」という 意識さえないような、 それほど当たり前のことだったのである。
そしてある日ハイパーインフレが起きた。 それに巻き込まれた 人々にとってお金はもはや信頼できるものでは なくなったのだ。 時間がたつにつれ、 お金の価値が減っていく。 きょう10セント玉一枚で買えたパンが、 一ヶ月後には二枚が必要になる。 きょう10ドルだった食用油が、 明日には20ドルになってしまうだろう。 並ぶときには1ドルだったバスの値段が 乗るときには2ドルになってしまうのだ。 高額紙幣が嫌がられ、 定額紙幣が(たとえ同じ額面だとしても) 喜んで受け取られるのだ。 銀行の口座にあるお金と いま手元にある現金とが違ってくる。
ハイパーインフレの終了直前に 発行された10兆ドル札は、 道路にばら撒かれたそうです。 1 もはや誰も貨幣を信頼しなくなったのです。
ハイパーインフレの間、 人々は他の人々がどのようにお金を 使うかを観察し、 そのパターンに合わせる必要があります。 人びとは、お金を使うのにさえ、 空気を読まなればいけないのです。
パターンとルールが峻別できない状況の もう一つのタイプが、 現代の部落差別ではないかと わたしは考えている。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
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・・・・・ 【民族】 ・・・・・ [nakagawa-nationalism]
・・・・・ 【規約と黙約】 ・・・・・ ・・・・・ 【ルールとパターン】 ・・・・・
[1] 10兆ドル札、 早川さんからお土産としていただきました。 こんどお見せしましょう。 いろいろと感慨深いものがあります。 [Back]