2 内的視点と外的視点
2.1 外在的分析と内在的分析---ソシュール
2.2 外側の視点と内側の視点---ハート
3 外的視点と内的視点
3.1 私の人類学
3.2 内的視点を踏まえた外的視点
3.3 「ほんとうは」
3.4 内的視点の方法論
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(C) Satoshi Nakagawa
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第2部の「二つのコンベンション」で 展開された還元論と全体論の対立を思い出して ほしい。 まず認めなければいけないのは 「還元論は正しい」ということである。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
これに対し、 わたしが主張したのは、 還元論と全体論の対立は、 言わば関心のありか [在処]の 問題である、という点である。 ・・・・・ 【外側、歴史、内側、力】 ・・・・・
「約束」という制度を説明したいとしよう。 ある人々は、 約束がどのように成り立ったのかをもって、 「約束の説明」と考えるだろう。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
他の人びとは、約束の成立の歴史的経緯ではなく、 その制度の持っている「掟」としての力に 関心があるかもしれない。 ・・・・・ 【全体論】 ・・・・・
ポイントは、 還元論と全体論の対立は、どちらかが 正しく、どちらかが間違っているという、 そのような対立ではないのである。 ある関心のもとに眺めれば 還元論が正しい(あるいは 「採るべき」)方法論であり、 別の関心のもとでは 全体論が正しい方法論である、という ことなのだ。
そして私の関心は 「掟」としての約束、 あるいはより一般的に言えば 主観的に経験される「社会」の 解明にある。 そして、 必然的に論は全体論的方法論をとることになる。
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
還元論と全体論は関心の違いだと述べた。 たしかにそれは間違ってはいない。 約束という制度が どのように成り立ったのか、それに 関心のある者が還元論を採用する。 それに対して、そのような成り立ちの経緯ではなく、 今まさにわれわれが約束に対して「掟」のような モノとして対峙している、 その主観的体験を説明したいという関心を もった者が全体論を採用することになる。 このような説明は、 二つの方法論を採用する契機を説明するが、 その本質的な対照を説明していないだろう。 その対照を、わたしは次のように 説明したい。 還元論は、 客観的あるいは外側からの視点 [hart-61: 99]による方法であり、 全体論は 主観的あるいは内側からの視点に よる方法である、と。
そして私は、 原住民たちの主観的経験、 すなわち、彼らが社会を経験する仕方に 関心があるのだ。 それゆえ、 これ以降は内的視点からの議論になる。
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
サールのこの議論を念頭に 置きながら、 ソシュールの構造主義言語学の特徴付けの 議論を見ていこう。
・・・・・ 【外在的(歴史的、文献学的)、内在 的(全体論的、駒の価値)】 ・・・・・
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・ ハートによる内的視点と 外的視点の議論を見ていこう。
2.2.1 三振の歴史と力
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
2.2.2 交通規則
交通規則について考えてみよう。 火星人がやってきて、 東京のようすを観察していたとしよう。 火星人の文は 「東京では車は左側を通る。 運転者に向かう交差点にある機械が 赤を示すとほとんどの自動車は停まる。 青(緑)を示すと多くの自動車が進む。」 といった観察を本部に報告するだろう。 これが外的な視点である。
内部の視点は、 交通規則の存在を 知っているわれわれの 視点である。 その視点からの描写は、 これらの行為が が規則だということを前面に打ち出すはずです。 「信号が赤なので停まる」 「青なら進むのが規則である」などなどとなる。
・・・・・ 【黙約(傾向性)と規約】 ・・・・・ ・・・・・ 【「マナーから規則へ」】 ・・・・・ ・・・・・ 【イタリアの信号、黙約と規約】 ・・・・・ ・・・・・ 【黙約を破る、既約を破る】 ・・・・・ ・・・・・ 【オーストラリア、日本、インドネシアの 信号模様】 ・・・・・
2.2.3 約束を破ること、責任
・・・・・ 【功利主義の中で約束を 破ること、ゲーム理論】 ・・・・・ ・・・・・ 【カントの約束を破ること】 ・・・・・
・・・・・ 【心、熱さ、怒り、責任】 ・・・・・
もう一度宣言しよう、 わたしは、 原住民たちが いかに社会を経験するか、 そこに関心があるのだ。 わたしが20年前に書いた本がある。 『異文化の語り方--- あるいは猫好きのための人類学入門』 [nakagawa-cat]という本だ。 その中でわたしは次のように宣言している: 「人類学は社会を説明するのではなく、 人びとが社会を説明する仕方、それを説明するのだ」と。 「20年の長きにわたり軸の振れない」と誉めても けっこうだし、 「20年の長きにわたり進歩のない」と貶しても けっこうだ。
この20年前の宣言に関連して、 二点、述べておきたいことがある。
わたしは原住民がいかに社会を経験しているか、 その経験に関心があると宣言した。 そして、 それを還元論のもつ外的視点に対し、 内的視点と呼んだ。 続けて、わたしは次のように言った--- 「人類学は社会を説明するのではなく、 人びとが社会を説明する仕方、それを説明するのだ」と。 正確に言えば、 わたしの視点も外的視点ではある。 それは「内的視点」を踏まえての外的視点なのだ。
・・・・・ 【第1部「心」、説明と理解と第三の道】 ・・・・・
第二点は、 一見すると些細な点である。 「人類学は」という言い方は、 「わたしの人類学は」と直すべきだろう、 ということである。
いわゆる「人類学」にも外的な視点に立つ議論は たくさんある。 たとえば、 コマロフ夫妻は 「現代におけるアフリカにおける呪術や 妖術の突然の復興は、 千年紀資本主義という時代が原因である」 [z.comaroff-et-al-milleninial]と述べる。 クルーガーは、 「スラバヤ(インドネシアの大都市)での AIDS に関する都市伝説は、 新興の中産階級のもつ不安が原因だ」 [kroeger-aids]と主張する。 これらが間違った社会科学だと主張したいわけではない。 わたしは、 そのような呪術の成立の経緯や、 AIDS に関する都市伝説がなぜ 今スラバヤで流布したのかに興味がないだけである。 そうではなくて、 わたしは、 呪術や都市伝説を彼ら自身がどのように 受け止めているか、 それに興味があるのである。
・・・・・ 【「ほんとうは」がイヤなだけだ】 ・・・・・
・・・・・ 【生態人類学、抵抗論、モラルエコノミー論争】 ・・・・・
『祖先への豚』 [rappaport-pigs]において ラパポートは言う、 「Tsembaga Maring の カイゴ儀礼は、 増えすぎた豚を殺し、生態学的なバランスを 回復するために行なわれるのだ」と。 [rappaport-pigs]
あるいは、 インドネシア、スラウェシに住む ト・パモナ(「パモナの人びと」)は、 自分たちの生活を「互いに助けあう」生活と表現する。 じっさい、それはモラルエコノミーの 典型的な形をとる。 親族にもとづく社会組織、 そしてその親族のネットワークに沿った返礼を 期待しない交換などにいろどられているのだ。 生活に余裕のあるものは、 貧乏な親族をひきとる。 人類学者は、 ト・パモナの言葉には耳を傾けることない。 こんなおためごかしのきれいごとではないほんとうの理 由を捜すのである。 「ト・パモナでは資本の蓄積が出来なかった。 かくして「農民化」させられた農民たちは、 生活のぎりぎりで、 親族ネットワークから投入を最大に利用するのだ。 交換は、じっさいは、 綿密な計算にもとづいたものだし、 貧しい家族は余剰の人員をほうり出し、 富んだ親族がその人員を無報酬の労働力として リクルートするのだ」と。 [schrauwers-moral-economy]
余談だが、 「モラル・エコノミー」の提唱者、 ジェームズ・スコットの議論 [scott-moral-economy] は、 じつは、かなり「合理主義的な経済」の議論に 近いものだと私は思う。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
・・・・・ 【real vs folk nature, 虚偽意識】 ・・・・・
さて、わたしの方法、すなわち 内的視点(あるいは内的視点を踏まえた 外的視点)・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
この宣言は分析者、科学者の側の 論争から出てきた宣言である。 もう一度言おう、 「社会的なるもの」たちに対して わたしたちが感じている「力」は、 外側からの視点では説明できない。 原住民の視点(内的視点)を踏まえない 限り、「力」について述べることはできないのだ。 だから、 「力」を問題にする限り、 内的視点を採らなければならないのだ。
以上は復習である。 ここからは大転換である。
内的視点を採ることは、 還元論を、 パターンを、集合性を無視することではない。 上の言い換えの中で 「わたしたち」という言葉がでてきたが、 これは原住民としての「わたしたち」を指している。 さて、 原住民としてのわたしたちの「社会的なるもの」は 制度だけで出きているのだろうか。 そうではない。 「社会的なるもの」の中には、 原住民の視点から見ても、 還元論的なもの、 「じょじょに出きた」と思われているもの、 パターン、 集合性があるのだ。
前章で、 (科学者として見た) 還元論と全体論の対立を議論し、 還元論を捨て、 全体論を採用した。 しかしそれは、より正確には 内的視点を採用した、ということである。 そして、 内的視点からも、 還元論と全体論の二つのモノの見方 は生きているのだ。 捨てられた還元論は、 外側からの還元論であり、 内的視点からの還元論はまだ 生きている、ということ 強調しておきたい。
【具体例 ()】
【伝言ゲームをしてみる: 】
・・・・・ 【これまで方法論の対立が、 原住民の見方の中の対立となる】 ・・・・・