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2-3 藤木のひきょうは許せるか?

責任の民族誌

2013-11-07 21:53

中川 敏

Conventionality is not morality
---
Charlotte Bronte Jane Eyre


1 序
1.1 これまで
1.2 ポイントとキーワード
1.3 キーワード

2 ちびまる子ちゃん---性格論
2.1 藤木くんのひきょう
2.2 胃腸の弱い山根くん
2.3 デブの小杉くん
2.4 ひきょうな藤木くんの両親

3 殺人と盗み---行為論
3.1 性格と行為
3.2 行為と無効化可能性
3.3 意図と無効化可能性
3.4 「性格」再論
3.5 補論:民族誌

4 まとめと展望---悪口と世界、告発とゲーム、
4.1 まとめ
4.2 展望
4.3 大きな流れ

Draft only ($Revision: 1.4 $ ($Date: 2011-11-08 12:14:24 $)).
(C) Satoshi Nakagawa
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1. 序

1.1 これまで

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

1.2 ポイントとキーワード

この章から続くいくつかの章では、 力の典型例として、 「責任」の問題を考えていく。

1.2.1 責任と怒り

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・ もしあなたが 「せんせい、卒論の指導お願いします」と 言い、 わたしが「よし、明日の10時に、 わたしの研究室で指導をしよう」と 約束したとする。 しかし、 当日、わたしはめんどうくさくて 休んだとしよう。

還元主義者によれば、 このような戦略を取ること (フリーライダー)は、 けっきょくのところ 社会生活上不利になるという。 しかし、なにか抜けていないだろうか。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

このとき あなたは憤りを感じるだろう。 わたしの無責任さを 責めるだろう。 この憤り、 あるいは「責任」という概念を 黙約、あるいは還元主義者たちは どう説明するのだ、という

1.3 キーワード

2. ちびまる子ちゃん---性格論

「責任」がこの章のテーマだと言った。 「責任」について、しかしながら、 腕を組んで考えてもいいアイデアは浮かばないであろう。

責任が浮かびあがるような 日常的な場面を考えてみよう。 それは「告発」と「弁解」・「言い訳」の場である。 人は他人の「無責任」を告発し、 当人はその告発をなんとか回避しようとして 「弁解」を試みるのだ。

2.1 藤木くんのひきょう

『ちびまる子ちゃん』14巻 [sakura-maruko-14]に 「藤木のひきょうをなおす会」という 話がある。 それは告発と言い訳の宝庫である。 藤木くんが、友だちに次のように告発されるところから漫画 は始まる --- 「きのう小杉君が転んだとき/ キミは『先生を呼んでくる』と言って逃げただろ」と。

「ひきょう者」という告発に対し 藤木は次のように弁解する --- 「ちがうっ/ 逃げたわけじゃないよ/ 本当に先生を呼びに行ったんだ」と。 「だって戻ってこなかったじゃないか/仕方 ないからボクと山根君で小杉君を運んで保険室まで連れていったんだぞ/ あの重い小杉君を」

[「藤木のひきょうをなおす会」]

2.1.1 責任

まるちゃんたちが語りあっているのは 藤木の性格、「卑怯」という性質である。 そして その性格は負の価値を帯びているものとされている。 それは「告発」するに足るものなのだ。

人の性質のうち、 望ましくないような性質を「欠陥性質」と 呼ぼう。 告発の対象となるような性質(性格)、 たとえば藤木くんの「卑怯」は、 たしかに、確かに、欠陥性質である。 『ちびまる子ちゃん』にはいろいろな子供たちが登場す る。 それぞれが、それぞれの欠陥性質を持っている。 「意地悪な」永沢くん、 「胃腸の弱い」山根くん、 「デブの」小杉くん、 「暗い」野口さんなどなどである。 これらの欠陥性質を見て 感じる疑問は、 はたしてすべての望ましくない性質、 すなわちすべての欠陥性質が、 告発の対象になるのか、ということである。

いくつかの欠陥性質は、確かに、 告発の対象となりそうである。 しかし、同時に、「告発」の対象には なりそうもない性質もここにはある。

この二種類の欠陥性質、 すなわち告発する (責任を問う)ことのできる性質と そうではない性質の違いを、 明瞭に示すことができれば、 それは「責任」概念を解明する 重要な一歩となるであろう。

2.1.2 無効化可能性

二種類の欠陥性質の区分を 明瞭にすることのできる 理論的な道具立てを 法哲学者である ファインバーグの議論に求めたい。 彼は法廷用語である 「無効化可能性」 (defeasibility) という概念を 使って、告発には二種類あることを示す。 弁護側がその告発を打倒 (defeat) する、 あるいは無効化することができる(defeasibleな) 告発記述 と、 打倒、 あるいは無効化できない (non-defeasible な) 告発との、 二種類がある、というのである。

2.1.3 無効可能な性格とそうではない性格

彼が最初に性質の例として出すのはモノの 性質である。 おとぎ話でも聞いているつもりで、 ファインバーグの出す次の二つの例を聞いて ほしい。 モノへの告発である。

「卵が腐っている」という告発がされたとしよう、 とファインバーグは言う。 「そんな言い方は卵に酷だ。 その卵は一カ月も冷蔵庫に入っていたんだぞ」と言う 言い訳は、告発を無効化しない。 たとえ、卵として不本意な形であろうとも、 やはりその卵は腐っているのだ。 それは世界の中の事実なのである。

「このタイヤは壊れやすい」という記述は、 くさった卵の例とは違う、とファインバーグは 続ける。 「そんな言い方はないだろう。 あなたの運転のしかたがひどいのだ」という弁護を 考えてみよう。 もしこの弁護、あるいは言い訳 通ったならば、 もはや「壊れやすいタイヤ」という告発は取り下げられ ざるを得ないのだ。 たしかにそのタイヤが 通常のタイヤが壊れるより時期より前に壊れたのは 世界の中の事実ではあろう。 しかし、いったん先程の言い訳が 通れば、 「壊れやすい」という事実は成立しないのだ。 「壊れやすい」という 欠陥性質の描写は 無効化可能なのである。

議論の煩雑さを避けるために、 「告発」という語を一貫して使ってきた。 しかし、以上の議論から分かることは、 無効化不可能な性質は「告発」の対象ではないのだ。 それは単なる「悪口」なのである。 「告発」には弁解あるいは言い訳ができるだろう。 弁解・言い訳は、とりもなおさず、 その告発を取り下げさぜよう、 無効化させようという試みであるのだ。 「悪口」には弁解・言い訳はできない。 それは無効化不可能なのだ。

2.1.4 藤木くんの言い訳

さて、『まるちゃん』に戻ろう。

永沢くんの告発を受けて、 藤木くんは言い訳を試みる。

「だって---先生がなかなか見つからなくて・・」。 「そんなの言い訳さ/ キミはすぐ言い逃れするところもひきょうだ」

藤木くんの言い訳、 「先生が見つからなかった」は、 物語の中では、声の大きい 永沢くんによってあっさり否定されてしまっている。 言い訳が通った場合を考えてみよう。 もし、 みなが 「先生が見つからなかった」という言い訳が 正当なものだ、と認めたとしよう。 この時、 「藤木はひきょうだ」という告発はどうなるだろうか? この告発は取り下げられなければならないのだ。 たしかに、 「藤木がいなくなって帰ってこなかった」という 事実は残る。 しかし、「ひきょうだ」という告発は 成立しないのである。

* * * * *

さらに、まるちゃんが追い討ちをかける。 --- 「そうだよ藤木はひきょうだよ」と。 「まえに墓場で肝だめしやったときも 私をおいて逃げたじゃん」。

漫画の中の展開では 藤木はこの告発に答えられない--- 思考実験として、 藤木が「恐かったんだよ」と 言い訳をする場面を考えてみよう。 藤木のもう一つの有名な性格、 「小心者」を、 ここで言い訳に使ってみようというわけだ。 オースティンの言うように 言い訳はしばしば「大難から小難へ」 (この場合は、 「ひきょう者」から「小心者」へ)と 導くだけかもしれない。 しかし、この場合、その価値はある。 なぜなら、「ひきょう者」は告発であるが、 「小心者」は無効化ができないものなのだ。

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

2.1.5 責任

以上の無効化可能性の議論で、 わたしが言いたいことは、 無効化可能な性質・性格は、 責任と表裏一体である、ということである。

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

2.2 胃腸の弱い山根くん

同じ漫画からいくつか例を挙げて、 試みに分類をしてみましょう。 山根くんの「胃腸の弱さ」は無効化ができない性格であって、 もし使うとしても単なる悪口としてしか使えません。 永沢くんの「意地の悪さ」 (Feinberg) は無効化できる性格記述(告発)です。

2.2.1 差別

無効化可能な告発と 無効化不可能な告発との違いを説明するのに、 差別を例にして説明することが可能だ。 無効化不可能な属性に基いて人を 差別することはよくないことである (そして無効化可能な属性に 基づいての差別は構わないのである)。 卑怯者を差別してもいいが、 小心者を差別してはいけないのだ。

ロールズの『正義論』 [rawls-justice]を見てみよう。

彼が提唱する「無知のベール論」、 一つの公正な社会の原則を この脈絡に即して言い換えれば、 「社会は、悪口の対象になるような性質 (無効化できない記述が記述する性質)に基づいた 差別を行なってはならない」ということになります。 邪悪さで区別してもよいが、 胃腸の弱さで人を差別してはいけないのだ、ということ になる。

2.3 デブの小杉くん

それでは小杉くんの「デブ」はどうだろうか? 「デブ」はかつては世界に関わる、 単なる悪口、 すなわち無効化されない 欠陥性質記述でした。 チビと同じく、デブは差別してはならないものだったのです。 しかし、アメリカを源泉とした 「(タバコを吸うものと同じように) デブは自己管理のできない者である」という考えかたが 広がってきました。 新しいゲームが開発されたのです。 そのゲームの中で デブは告発の対象、 無効化できる記述となったのです。 おまけですが・・・ さらに興味深いのは、 近年、「メタボ症候群」という言葉が広がりつつあるという事実です。 デブは医療化され、 再びナマの世界へと押し戻されたのです。 「デブ」は「悪口」へと、「差別」へと回帰したのです。

2.4 ひきょうな藤木くんの両親

もう一度『ちびまる子ちゃん』に戻りましょう。 冒頭で引用した 「藤木のひきょうを直す会」は、 藤木くんの家の中の場面で終わっています。 ・・・・・ 【両親の会話】 ・・・・・

この会話を聞いて藤木くんは 叫びます 「おとうさんもおかあさんも卑怯だったんだ」と。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

3. 殺人と盗み---行為論

ハートの議論、 そしてファインバーグの議論がもともと 対象としていた行為について語っていこう。

3.1 性格と行為

行為は(直前の節で扱った) 性格と密接に関連している、という 事実を指摘することから 始めよう。 ギルバート・ライルは 「心はカテゴリー・ミステイクだ、 心は、出来事の集積の中のパターンなのだ」という [ryle-mind-ej]。 わたしも「性格は行為の集積だ、 その中に見えるパターンなのだ」と 主張したいのだ。 まずは、ライルの議論を追っていこう。

・・・・・ 【ライルの『心』】 ・・・・・

性格とは、 行為の集積、 そこから生まれるパターンなのだ。 他の言い方をすれば、 行為こそが性格を生むもの なのである。

3.2 行為と無効化可能性

ハートは1978年の論文 「責任と権利の帰属 (The Ascription of Responsibility and RIghts)」 [hart-78]、に おいて、 行為記述は決して記述的であるだけではない。 それは「帰属的」ascriptive であると主張した。 ハートは、すべての行為記述がそうであると 述べたのである。

ハートの言う「帰属的」「記述的」という区別を、 ファインバーグは「無効化可能性」から 説明し直す。 ファインバーグは舞台を(比喩的にだが) 法廷に据える。 記述を法廷における「告発」と考えるのだ。

弁護しなければならないような 欠陥行為記述として二つの記述、 「彼は窓ガラスを割った」と 「彼は約束を破った」という二つの記述を考えてみましょう。 [feinberg-68: 99] 「窓ガラスを破った」行為を弁護するために、 「彼はそうするつもりじゃなかったんだ」という 言い訳があり得ます。 しかしながら、そのような言い訳が通ったとしても、 「彼が窓ガラスを割った」という告発はとりさげられることは ありません。 理由はともあれ、彼は窓ガラスを割っているのですから。 しかし、 「約束を破った」 行為を弁護するために 「彼はそうするつもりではなかった」 (I didn't mean it) という 言い訳が通った場合には、 この告発は取り下げられねばなりません--- なぜなら「まちがって約束を破る」ことはあり得ないからです。 もしその言い訳が通れば、 もはや「彼は約束を破った」わけではないのです。 告発は無効化 (defeat) されたのです。

問題となるのは、 「人を殺そうとする」意図、 「盗み」という意図、 「インチキをしよう」という意図なのだ。

3.3 意図と無効化可能性

とりあえず、われわれは、 無効化可能性、すなわち「責任」は、 「意図」と表裏一体だ、という結論を 出すことは可能だろう。

この結論をつかって、 これまでに取り上げた いくつかの例をパラフレーズしてみよう。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

わたしが 「とりあえず」を繰り返しているのは、 次のような理由だ。

3.4 「性格」再論

さてこの節(行為論)の冒頭に述べた 性格と行為の関係を振り返ろう。 「性格とは関連する行為の集積の 中に見えるパターンだ」という、あの宣言である。

性格の無効化可能性に関連して、 この宣言を、いま、より正確に述べることができる。

無効化可能な性格とは、 ある種の行為、すなわち無効化可能な行為の 集積なのである。 そして無効化不可能な性格とは 無効化不可能な行為の集積から 生まれるものなのだ。

・・・・・ 【さまざまな例】 ・・・・・

この脈絡で「小心者」について 考えてみよう ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

・・・・・ 【パターンについては後の講義を参照せよ】 ・・・・・

3.5 補論:民族誌

ほんの暫くの脇道を許してほしい。 この脇道では、 疑問を提出するだけで、 答えることはない。 答は後の講義で行なうことになる。

この脇道の中で わたしが指摘したい点は、 わたしたちは『ちびまる子ちゃん』を使って 議論をすすめてきたという事実である。 すなわち、 わたしたち自身の日常的な 感覚から 議論を進めてきたのだ。 そのようにして得られた結論が、 はたして、異文化にも成り立つのだろうか? これが人類学が常に持つ疑問である。

「単純には成り立たない」というのが、 わたしが提供する答である。

3.5.1 不思議な民族誌

・・・・・ 【サモアとイロンゴット】 ・・・・・

これらの不思議な民族誌的事実に関しては、 後の講義で

3.5.2 エンデの天罰

インドネシア、フローレス島、エンデにおいて、 儀礼は禁忌 に満ちている--- 家の外に出てはいけない、話をしてはならない、唾を吐いては ならない、咳をしてはならない、おならをしてはいけない、排尿・排 便をしてはいけない、等々。 これらの禁忌に違反した者はつぎのような結末を引き受けることにな ると 語られす--- (1)不慮の死をとげる(マタ・リンボ)、 (2)体中血だらけになる皮膚病になる(ヌカ・ラー)、 (3)盗みをする(ナカ)、 (4)不義をする(ペザ)、 (5)呪術師(アタ・マジ)になる。 そしてそれも嫌ならば、 違反者は (6)妖術師(アタ・ポゾ)になる、と いうのだ。

ここで列挙された 禁忌違反の結末(「天罰」と呼ぼう)を聞くと、 われわれは、 落ち着きのなさを覚える。

3.5.3 日本の場合

試みに日本の「天罰」を列挙してみよう (1) ご飯を食べてすぐ横になると牛になる、 (2) 山梨小学校の12の秘密を全部知ってしまうと、 死んでしまう、 (3) 夜に口笛を吹くと、泥棒がくる。

「口笛を吹くと泥棒がくる」のは、 天罰としては、納得がいく。 しかし、 「口笛を吹くと泥棒をする」という天罰は、 とてつもなく不思議なのだ、 というわけなのだ。

3.5.4 問題は

不慮の死を遂げたり、 牛になったり、 病になったりするのは、 わたしたちが 「熟慮して」、あるいは「わざと」、あるいは「意図的に」 行なうことではないのだ。 (「インクをこぼす三つの方法」 [austin-ink])。 だれも熟慮して牛になるわけではないのです。 そのようなものこそが「天罰」にふさわしいのです。 それに対して、 (妖術師はしばらく置くこととしても) 不義をしたり、 盗みをしたりすることは、 わたしたちが 「熟慮して」あるいは「わざと」あるいは「意図的に」 行なうものなのです。 それはわたしたち自身の行為であり、 決して「天」から降ってくるものではありません。 「不慮の死」や「牛になること」あるいは 「泥棒に入られたこと」に対して、 人は、通常、責任は問われません--- そうなったことを告発されることはないのです。 それに対して、「泥棒をすること」「不義をすること」は 責任を問われる行為なのです --- それは厳しく追求され、 もしかしたら法廷に持ち出されるかもしれない行為なのです。

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

3.5.5 エンデの無効化不可能と日本の無効化可能

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

わたしがエンデの事例を出して言いたいことは、 無効化可能な行為と無効化不可能な行為のあいだの 境界線は、 文化によって異なるのだ、という点である。

4. まとめと展望---悪口と世界、告発とゲーム、

4.1 まとめ

4.2 展望

4.2.1 次章

次回の講義は行為論の精緻化、 とりわけ「意図」の問題に取り組んでいくこと となる。

問題は次のようなものだ。

4.3 大きな流れ

「内的視点」という、 第二部の冒頭での論点を踏まえているとは言え、 性格や行為に関する議論は、 いささか第二部のテーマ、 「社会」とかけ離れているように 感じているかもしれない。 ここで、 より大きな流れを図示しておきたい。 わたしたちは決して「社会」というテーマから 逸れていっているわけではないのだ、という ことを示しておきたい。

わたしは 「卑怯者」は制度、 「小心者」は集合性だと言いたいのですが、 まだ早すぎるだろう。 ここでは 次のようにまとめたい。 ともに人の評判に関わる性格帰属である。 一方は(「卑怯」は) 「社会的に登録された評判」であり、 もう一方は(「小心者」は) 「社会的に登録されない評判」である、と。


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Bibliography

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ENDNOTES