1 序
1.1 これまで
1.2 これから
1.3 キーワード
2 発語内行為の基準
2.1 規約
2.2 サールの構成的規則
2.3 構成的規則とゲーム
3 言語行為から行為へ
3.1 さまざまな記述
3.2 行為記述の等級について
3.3 制度的事実と生の事実
3.4 カウントとノーカン
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(C) Satoshi Nakagawa
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前章において わたしはオースティンの言語行為論を 伝達の仕方に焦点をあてながら 再説した。 明らかになったのは 伝達、すなわち記述こそが 行為を特定するのだ、という点である。
この章においては 議論を 言語行為に限らず、 さらに行為一般まで拡張する。 そこで問題になるのが 記述である。 記述こそが行為を特定する役割を担っているのである。
・・・・・ 【行為そのものに名前をつけない】 ・・・・・ ・・・・・ 【言明の種類に名前をつける】 ・・・・・
発語内行為を可能にするのは、 言い方を変えれば 発語内行為を その他の言語行為(発語行為そして発語媒介行為)と 区別するものは何だろうか。 オースティンは、それを コンベンションだと呼ぶ。 オースティンの本の 日本語訳では「慣習」と訳されているが、 ここでは「規約」と訳す。
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
オースティンは、 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
Convention は 「慣習」と訳されているが 「規約」と訳す。
A・1 ある一定の慣習的な効果をもつ、 一般に受け入れられた慣習的な手続きが 存在しなければならない。 そしてその手続きはある一定の状況のもとにおける、 ある一定の人々による、 ある一定の言葉の発言を 含んでいなければならない。 [austin-how2do-j: 46]
A・2 発動された特定の手続きに関し、 ある与えられた場合における人物および 状況がその発動に対して適当でなくては ならない。 [austin-how2do-j: 58]
オースティンの「規約」の議論は それなりに説得的だが、 わたしには、その議論がいささか 直観的に映る。 オースティンの議論のエッセンスを 理論的により精緻な形で整理したのが サールによる 規則論である。
やや長くなるので、 結論を先に述べよう。 サールは規則と呼ばれるものを 二種類に分類する--- 規制的規則と構成的規則である。 そして、 オースティンの言う「規約」、 すなわち発語内行為の持つ力を生んでいるものとは、 後者の「構成的規則」だ、というのである。
構成的規則としてすぐ思い浮かぶのは ゲームであろう。 野球、サッカー、将棋などのゲームである。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
・・・・・ 【エンデ】 ・・・・・
・・・・・ 【「同意」の重要性】 ・・・・・
ある意味で、 すべての言語行為が 発語内行為としての可能性を持っていると言える。 単純な「あれはヌートリアだ」という言明でさえ、 知識言明として捉えなおすことができるからだ。 とは言え、すでに述べたように、 そのような伝達は それは知識言明ではなかったとして 無効化可能である。
すべての発語行為が 発語内行為であると主張するのは、 ハート [hart-78] のすべての行為記述が (記述的のみならず) 帰責的であるという主張とパラレルであろう。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
行為が記述と 表裏一体の関係にあるのだ、 という点を強調しておきたい。 記述の中で、はじめて行為は 浮かび上がるのだ。
3.1.1 民族誌という伝達の仕方
ある現象を 記述しようと思えば、 いくつもの書き方がある、という点から議論を 始めたい。
人類学者ムアマンが語る 彼のフィールドでの初期の体験を見てみよう。 あるひとつの出来事に対してなされた二つの記述--- 彼自身の記述と、 フィールドで出会ったもう一人のフィールドワーカー によるもの---を比較している。
彼はコーネル大学でフィールドワークのトレーニングをうけていたが、こち らはまだであった。あるときわたしは次のように書いた首長の話が終わるころに、maj noo(家番号三六)がゆっくり と立ち上がり、背伸びをし、あくびをした」。
ところが彼のほうは、「中年の男が、非公式に、リーダーシッ プを発揮しはじめた」と書くことができたのであった。今になっ て、わたしは多少の優越感を抱いている。だがその当時は、どん なにうらやましかったことか。[ムアマン 1991: 304]
この引用は複数の民族誌家による複数の記 述だが、 インフォーマントたち(と民族誌家)による 複数の記述には、 どのようなものがあるのだろうか。
われわれ自身が簡単に「インフォーマント」となり うる状況、 すなわちわれわれ自身の文化が記述されるような状況を 例にとって、 議論を進めたい。
3.1.2 将棋というゲーム
例えば、 将棋の中原名人に関するある日の出来事を次のような形 で書くことができるかもしれない。 (現実に合致するかどうかはとも かく、われわれの仮定している世界では、これから述べるすべての記 述は「ほんとう」であるとしよう。)「中原は、四角い木片を動かし た」、「平成25年度名人戦第一局の第十二手が指された」、「中原は 4二銀とした」、「中原は、相矢倉を拒否した」、「中原は、挑戦者 をおどろかした」、「中原は、新戦法を採用して、戦いを有利にした」。 これだけではない。
これらの記述を分類していこう、 というのがこの章の目的である。
より簡単な行為記述から考えてみよう。 授業中に ある学生が手を挙げた状況を考えてほしい。 この学生にまつわる出来事あるいは彼女の行為を 同定したいのだ。
いささか天下り的な議論となるのを 覚悟で言うと、 わたしは行為記述は、 言語行為が記述される三つの等級と パラレルに、 三種類あると考える。 参照する言語行為として わたしが「明日学校に来る」と発話した事例を考えよう。
一つは 「『明日来る』と言った」という発語行為記述に相当する (1)「彼は手を上げた」という記述である。 二番目は「約束した」という発語内行為記述に 相当する 「彼は質問をした」という記述である。 そして三番目は 「彼を説得した」という発語媒介行為記述に相当する、 (3)「彼は授業を盛り上げた」という記述である。
3.2.1 観察言明
(1)の記述を考えよう。 ・・・・・ 【パタリロの釣り】 ・・・・・
手を挙げている彼女に 「何をしているんだ?」と聞いたとしよう。 彼女が (こんな風に答える学生はいないが) 「見れば分かるでしょ」と 言ったとしよう。 その答は、もちろん、私の 聞きたい答ではないが、それは 暫く置いておこう。 この時彼女が主張したいのは、 「見れば分かるでしょ。 手を挙げているのよ」である。 手を挙げる行為は見れば分かる行為なのだ。 外的視点でじゅうぶんなのである。 この言明を観察言明と名付けよう。 1
観察言明を使用するには、 すなわち「なになにと言う」あるいは 「手を上げる」と語るには、 民族誌家の努力を必要としない。 通りすがりの旅人でも そのように記述することは可能である。 旅人は、
単に 分かるのである。 インフォーマントに教えてもらわずに ---もっと端的に言ってしまえば、 インフォーマントと の対話的状況なしに--- そのように記述することを学びうるのだ。観察言明の中に現われる行為の 特徴は、その根源性である。
誰も、一度も手を上げたことのない人に、 「手を上げる」方法を教えることはできない。 「手を上げる」は それ程に人間としての基本的な 行為 [danto-68]の記述なのである。
あるいは、 視点を観察者から行為者に移した上で、 次のような言い回しで その根源性を示すことができるかもしれない。 自分自身の手を挙げるという行為は、 その行為の成就を観察しなくても 知りうる、そのような行為なのだ、と。 [anscombe-57]
3.2.2 規約言明
二番目の言明に現れる行為、 すなわち「質問をする」という行為は 観察言明の中に現れる行為、 すなわち「手を挙げる」という行為と ことごとく違っている。
第一に人は努力しない限り その出来事を「質問をする」と記述する ことは出来ないのだ。 第二に、いくら熱心に見ていても (観察しても)その出来事を 「質問する」と記述することは出来ないのである。 第三に、その質問するという行為は (手を挙げることができる人には)いつでも 教えることができるのである。
これらの特徴は、すべて、 「質問をする」という行為が規約あるいは 構成的規則に基くという事実から由来する。 問題になる構成的規則とは 「授業という脈絡では手を挙げることは 質問である」という規則である。 それゆえ、 この第二の言明を「規約言明」と名付けることは 全く妥当である。 それは授業という制度に基づく、 あるいは授業というゲームの中の 行為を記述する言明なのだ。
「質問をする」という 記述を採用するには、 それらの「行為」が基づいている
規約 に通暁 する必要がある。 「授業という脈絡では手を挙げることは 質問である」という構成的規則を知って始めて できる記述なのである。 それは観察を通じて、 あるいは経験を通じて獲得するものではない。 インフォーマントとの対話を通じて、 わたしたちはその規約を 学習するのである。 「約束する」ことあるいは 「質問をすること」は、 規約を通して 初めて意味のある行為記述なのであるから。野球の規則を知らないもの同士の間で、 (「ボールが舞い上がった」という記述は ともかく)「インフィールド・フライ」とい う 記述が出てくるはずもないように、 将棋の規則を知らないもの同士の会話で、 (「木片が動かされた」という記述はともか く) 「4二銀」という記述が出てこないように、 日本文化を知らないものに (「『射て』と言った」という記述 あるいは「手を上げた」という記述はともか く) 「命令する」、 「挙手をする」という 記述は出てこないのだ。
3.2.3 行為が失敗するとき
・・・・・ 【失敗---相手が必要】 ・・・・・
・・・・・ 【ウィトゲンシュタインの私的言語の不可能性 →『文化』の部にて】 ・・・・・
議論がここまでくれば、 観察言明に述べられている行為と 規約言明に述べられている行為とが、 ナマの事実と制度的事実 ( [searle-69])に相当することは 自明であろう。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
ここで制度的事実の下位区分としての 「制度的行為」、 そして ナマの事実の下位区分としての 「ナマの行為」という用語を 導入しておきたい。
3.3.1 素通り
エンデに「ズンガ」 (rhengga)という動詞がある。 これはザンガ (rhangga) 「通り過ぎる」という 語と(音も意味も)よく似ている。 2 しかし、 ズンガは極めて法的な含意を持つことばなのだ。 たとえば、 KDRの近くに、 みなが共有している泉がある。 いささか面倒なのは、この泉が道の途中にあるのだ。 泉が見える曲がり角に入る前に、 男は必ず大声をあげて、いまから泉のそばを通ることを 知らせなければいけない。 人が水浴びをしていれば必ず返答がある。 女性の声がすれば、 男はその曲がり角の前で女が行水が終わるまで 待たなければならない。 もし、そうせずに、女性が水浴びをしている横を 男が通れば、それはズンガとして厳しく告発される。 ズンガの告発は、 しかしながら、「そうするつもりではなかった」という 言い訳により、 取り下げられる--- 「無意識的にズンガする」ことは意味論的に 矛盾するからだ。 「ズンガ」は「ザンガ」(単に通り過ぎること)に 格下げされる、すなわち無効化されるのだ。 ズンガは無効化可能 (defeasible) なのである。
・・・・・ 【【あれれ、構成的規則でなくって、 規制的規則みたいだぞ・・・】】 ・・・・・ ・・・・・ 【【スカートの丈の問題かしらん・・・】】 ・・・・・
3.3.2 贈与と売買
・・・・・ 【贈与と売買の例】 ・・・・・
・・・・・ 【【贈与と非贈与、親族と非親族、場所と非 場所】】 ・・・・・
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
エンデの複雑な生活世界の状況を、 レッダは切り分け、 整理していくのである。
3.3.3 外的視点の人類学
『祖先への豚』 [rappaport-pigs]において ラパポートは言う、 「Tsembaga Maring の カイゴ儀礼は、 増えすぎた豚を殺し、生態学的なバランスを 回復するために行なわれるのだ」と。 [rappaport-pigs] ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
あるいは、 インドネシア、スラウェシに住む ト・パモナ(「パモナの人びと」)は、 自分たちの生活を「互いに助けあう」生活と表現する。 じっさい、それはモラルエコノミーの 典型的な形をとる。 親族にもとづく社会組織、 そしてその親族のネットワークに沿った返礼を 期待しない交換などにいろどられているのだ。 生活に余裕のあるものは、 貧乏な親族をひきとる。 人類学者は、 ト・パモナの言葉には耳を傾けることない。 こんなおためごかしのきれいごとではないほんとうの理 由を捜すのである。 「ト・パモナでは資本の蓄積が出来なかった。 かくして「農民化」させられた農民たちは、 生活のぎりぎりで、 親族ネットワークから投入を最大に利用するのだ。 交換は、じっさいは、 綿密な計算にもとづいたものだし、 貧しい家族は余剰の人員をほうり出し、 富んだ親族がその人員を無報酬の労働力として リクルートするのだ」と。 [schrauwers-moral-economy]
余談だが、 「モラル・エコノミー」の提唱者、 ジェームズ・スコットの議論 [scott-moral-economy] は、 じつは、かなり「合理主義的な経済」の議論に 近いものだと私は思う。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
・・・・・ 【real vs folk nature, 虚偽意識】 ・・・・・
ゲームの語彙を意図的に使用しよう。 制度的事実、 規約言明の中に現れる行為とは カウントされる行為、事実なのだ。
・・・・・ 【行為そのものに名前をつけてはいない】 ・・・・・ ・・・・・ 【言明の種類に名前をつけただけである】 ・・・・・
・・・・・ 【「公と私」について】 ・・・・・
観察言明と規約言明の違いに 時間をかけたが、 もう一つの種類の言明が残っている。 発語媒介行為に比すことのできる言明、 すなわち「彼は授業を盛り上げた」という 言明である。
[1] 「文」でもよいのだが、 「言明」という語を使用する。 言明とは特定の時刻・特定の場所で 発話された文である。 [Back]