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2-5 伝達いろいろ

オースティンの言語行為論

2013-12-03 21:52

中川 敏

良心に従って真実を述べ、
何事も隠さず、
偽りを述べないことを誓います。
【ランポールからの引用に換える】


1 序
1.1 これまで
1.2 これから
1.3 キーワード

2 言語行為論
2.1 三つの発語行為
2.2 発語内行為
2.3 記述

3 カルリの伝達の仕方
3.1 告発の可能性
3.2 ゲームの位置
3.3 カルリの生活世界

4 まとめと展望
4.1 まとめ
4.2 展望

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(C) Satoshi Nakagawa
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1. 序

1.1 これまで

1.2 これから

1.3 キーワード

2. 言語行為論

前章の議論はオースティンの 顕在的遂行発話から始めた。 議論をオースティンに戻そう。 顕在的遂行発話を出して オースティンが主張したかったのは、 人は、発話するとき、 発話するという行為のみを しているわけではない、という点である。

それは世界を変える力 を持つのだ、 というのが 前章のとりあえずの出発点であった。 エンデの事例を参照しながら 最終的にわたしたちが行き着いたのは、 顕在的遂行発語が行なっているのは ゲームの外から内への移動だ、ということである。 顕在的遂行発語は、ナマの事実を制度的事実へと、 言わば、調理(レッダ)しているのである。

・・・・・ 【エンデ、オースティン、サール、エンデ】 ・・・・・

これ移行、しばらくは、 オースティンの議論に忠実に「力」 (世界を変える力)という用語を使用することとする。 オースティンの言う「力」が 「ゲーム」「生の事実」「レッダ」を使って 言い換えられることは、 この章を通じて暗黙の前提としておきたい。

オースティンは発話の一部 (顕在的遂行発語)が 世界を変える 「力」 (force) を持つ行為であることを 示した。 彼の議論は、その「力」に注目して、 その他の (言わば「普通の」)発話に対象を拡大していく。 そして、 結論は、(決して顕在的遂行発話だけではなく) すべての発話にこの「力」を認めるに至るのである。

発語に秘められたこのような「力」を探るために オースティンは 顕在的遂行発話に限らずに 発語行為一般を見ていく。

2.1 三つの発語行為

オースティンは顕在的遂行発語を 紹介することで、 発語することが 別の行為を行なうことであることを 示した。 彼は続いて (顕在的遂行発語に限らず) すべての発語行為が なんらかの別の行為をすることを 示していく。

2.1.1 オースティン

オースティンは語る、 発語するという行為を 三つのレベルにおいて眺 める。一つは「語ること」自体としての行為であり、発話行為と呼ば れる。一つは発話内行為と呼ばれ、発話をすることの「中に」行なっ ていることである。最後は発話媒介行為と呼ばれ、発話をする事「に よって」行なった行為である。

定義を引用するより、 実例を引用 [austin-j-78: 175]する方が理解がは やいであろう。 彼は、最も単純な形では、「彼は私に『彼女を射て』 と言った」と記述できるような出来事・行為を例として、次のように 三つの記述の等級を区分する。 (1) 第一は、発語行為としての記述であり、 それはまさに「彼は私に『彼女を射て』と言った」という記述に他な らない。「彼女」は誰か特定の人物を指し、また、「射つ」というの は、私がするであろう鉄砲で射撃する行為を指している のだ。 (1) 第二の 記述は、「発語内行為」としての記述である。 それは、例えば、 「彼は私に、彼女を射つように助言した」 あるいは「命令した」という記述である。 (3) 第三の記述は「発語媒介行為」としての 記述である。 「彼は私に対して、彼女を射つことを説得した」 という記述(「直接的」とオースティンは言っている)、 あるいは 「彼は私に彼女を射たせた」という記述 (「間接的」)を、オースティンは 例として挙げている。

2.1.2 日本の伝達の仕方

より分かりやすい例を使わせてもらおう。 【こちらだけにすべきかも】 わたしがあなたに「明日、ぼくは学校に来るよ」と 言ったとしよう。

あなたはいろいろな形で わたしのこの発言を 人びとに伝達できるだろう。

第一のやりかたは、 (1) 「中川先生が『ぼくは明日学校に来るよ』と言った」 と伝達することだ。 ここで伝達されている わたしの行為、 それを発語行為と呼ぶのだ。

第二のやり方は、 「中川先生が、明日学校に来ると(ぼくに)約束した」 という伝達だ。 これをオースティンは 「発語内行為」と呼ぶ。

第三のやり方を説明するには、 背景にある物語を描かなければならない。 例えば、 あなたがわたしから CD を 借りていて、 「先生が学校に来た日に返却します」と 繰り返していたとしよう。 さらに、毎回、忘れてしまったのだとしよう。 そういう状態ならば、 わたしたの発言を、 あなたは「中川先生が、ぼくを脅した」と 伝達することもありうるだろう。 「明日来るからな。また忘れたら・・・」という 脅迫に聞こえたのだ。 あるいは次のような物語を考えてみよう。 あなたはある犯罪を犯した。 そしてわたしはそれを知っているのだ。 その犯罪は見ようによっては情状酌量の余地がある、 あるいは少なくとも同情の余地のあるものだと しよう。 あなたはわたしが明日にでも 警察に通報するのを恐れているのだ。 そのような時に、あなたは、わたしの発語行為を 「中川先生が、ぼくに逃げるように促した」と 捉える(そして、そのように伝達する)ことは 十分考え得るであろう。

「発語行為」で意味されていることは それほどに問題はないだろう。 この章で 焦点をあてて述べたいのは、 「発語内行為」である。 そうすることによって 三つの区分が明瞭になってくるだろうことを 期待したい。

2.2 発語内行為

発語内行為を理解するためには、 オースティンの冒頭の議論に戻る必要がある。 顕在的遂行発話の議論である。 発語内行為とは、 顕在的ではない形で 顕在的遂行発話と同じ「力」 (force) を 発揮する行為である。

次のように言い換えれば、 顕在的遂行発話と発語内行為との 類似が明らかになるだろう--- 発語内行為が行なっている行為を 「発語する」ならば、 それは顕在的遂行発話になるのだ、と。 「彼はわたしに『彼女を射て』と言った」 という発語行為の例を考えてみよう。 これは「命令」という発語内行為であることは すでに述べた。 彼は「彼女を射て」と言うかわりに 「わたしはあなたに『彼女を射て』と命令する」 と言うこともできたのだ。 「わたしは明日学校に来る」という言うかわりに、 より明示的に 「わたしは明日学校に来ると約束する」と 言うこともできたのである。

2.2.1 発語媒介行為

発語内行為と顕在的遂行発語についてより詳細に 述べる前に指摘しておかねばならない事実がある。 発語媒介行為は顕在化できない、 という点である。 「わたしは説得する」 「わたしは脅す」 「わたしは逃げるよう助言する」とは言えないのだ。 これが発語内行為と発語媒介行為の (言わば)文法的・統語論的な違いである。

発語媒介行為の詳細な意味論は次章に 譲りたい。 ここでは、 発語内行為と発語媒介行為が、 機械的に区別できる、ということを 指摘するに留めた上で、 発語内行為の意味論に入っていきた。

2.2.2 ナマの事実と制度的事実

「約束する」を例に出した時から 明らかであったことと思うが、 ここで問題になっている対立 (発語行為と発語内行為、 あるいは潜在的遂行発語と 顕在的遂行発語の対立)とは、 無効化不可能と無効化可能の対立なのである。

無効化可能性について復習しよう。 「謀殺だ」という告発に対して、 弁護を重ねて、 それを無効化することができる。 無効化した結果、 残るのは 「殺人である」というナマの事実なのだ。

発語行為とはナマの事実であり、 それを発語内行為として捉えたとき、 わたしたちは発語行為を制度的事実として 捉えているのである。 そして、 顕在的遂行発語とは、 発語内行為を自らレッダすることのなのである。

2.2.3 解釈

発語行為と発語内行為を それぞれ事実(ナマの事実と 制度的事実)と名付けた今、 発語媒介行為について述べたい。 それは解釈なのだ、と。

わたしが「明日学校に来るよ」と言ったという あの例を思い出してほしい。 それをそのまま伝達する(記述する)のが 発語行為である。 そしてその発語行為を 約束として捉えるのが発語内行為としての 伝達(記述)であった。 さらにそれを「脅迫」と捉えるのが 発語媒介行為としての伝達となる。

2.3 記述

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

3. カルリの伝達の仕方

発語内行為について見ていくために、 とりわけ発語内行為と発語行為との区別を カルリは、動機を語ることが禁止されている社会である。 カルリでは、 他人の心について、動機・意図・感情等について語ることは忌まれる。 他人の行動の報告にしても、 じっさい見たことなのか、 伝聞なのか、 つねにはっきりさせなければならないという。 発言をパラフレーズしたりせず、 かならず言葉通りに伝えるのだ。

・・・・・ このような他人の感情や動機について語ることに たいして示すカルリの逡巡は、じつは より大きな逡巡の一部なのである。 他人が行った主張・目的にたいする言明をパラフレーズしたり、 あるいは解釈を交えて第三者に伝えることをカルリはたいへん嫌がるのである。 会話や出来事を報告するとき、 カルリは、通常、彼らが当該の状況をじっさいに見たのか、 それとも単なるまた聞きなのかをはっきりとさせる。 じっさい、カルリは会話の要点をパラフレーズしたり、まとめたりはしない。 彼らは会話をそのままに伝えるのだ── そうすることによって、 のちに「うそをついた」とか ・・・・・の告発を避けることができるのである。 [schieffelin-85: 174]

シェフリンの語っている禁忌は、 じつは、二種類ある。 一つは動機や感情のそれであり、 もう一つはパラフレーズのそれである。 1 動機と感情はここでは触れない。 2 ここではパラフレーズの禁忌について 考えていこう。。

3.1 告発の可能性

シェフリンは告発について 語っている。 思い出してほしいのは、 わたしたちはすでに告発について 語っていた、ということである。 すなわち、 告発の無効化についての章である。

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

3.1.1 約束のゲーム

繰り返しになるが、 まず、約束のゲームについて触れよう。

「私はあす学校に来るつもりだ」と宣言して、 じっさい行かなかったとしても、 私はとくに責められはしない。 しかし、 「私はあす学校に来ることを約束する」 と宣言して、 行かなかったならば、私は責められる。 私は、いわば、言質を与えているのだ。 「私はあす学校に来るつもりだ、 でも来れないかもしれない」はまったく通常の発話である。 しかし、 「私はあす学校に来ると約束する、 でも来れないかもしれない」という発話は、 「約束」のゲームの中でルール違反している発話である。 このような発話は許されないのだ。 つぎのような言い換えをしてみよう ── われわれには「顕在的遂行発話」があるがゆえに、 ふつうの発話には責任を取る必要がないのだ、と。

伝言の仕方として言い換えてみよう。 わたしが 「明日学校に来る」と言った。 それをそのまま 「先生は『明日学校に来る』と言った」と 伝達するのに問題はない。 これは無効化不可能なのだ。

この発言を、言わば早とちりして 「先生が約束した」と伝達したとしよう。 これは無効化可能な伝達である。 発言者、わたしが、 「約束はしなかった」と言えば、 伝達者は咎めを受けることとなろう。

伝達者が安心して「約束した」と 伝達できるのは、 発語者が顕在的遂行発語をしたときだけなのだ。

3.1.2 知識のゲーム

・・・・・ 【ポイントはこっち】 ・・・・・

約束ゲームとパラレルな現象が「知識」のゲームにもあらわれると オースティンは(別の論文で) 主張する [austin-j-91z]。 「あれはヌートリアだ」と 「あれはヌートリアだと私は知っています」 という二つの発話の間に見られる関係は、 「明日行きます」と「明日行くと約束します」 という二つの発話の間に見られる関係と同じである、 というのである。 「あれはヌートリアだ、 でも間違っているかもしれません」は問題のない発話である。 しかし、 「あれがヌートリアであることを私は知っています、 でも間違っているかもしれません」という発話はルール違反であるのだ。 知識発話ゲームの中では、 間違っていれば、発話者は責任をおわなければいけない。 約束発話ゲームの中でと同様に、 発話者は言質を与えているのである── 発話者は社会的スコアブックに記載されるべき 彼女自身の評判 [feinberg-68]を質にして、 知識発話を行っているのである。 ゲームを比喩的に使えば、 「知識」発話の中では、間違えれば、「負け」なのだ。 そして、逆に言えば、 われわれは「知識」の発話という特別のやり方をもっているがゆえに、 普通の発話で、事実を間違うというリスクを平気で負えるのである。

3.2 ゲームの位置

カルリの規範を完全に理解するためには、 もう一つの考察を必要とする。 われわれは、日常生活の中でまとめの言明を使用する、 すなわち、 間違う可能性の高いことを語る。 それはたしかに間違うリスクを負っている。 しかし、だからといって、 われわれは確たる事実だけを語るわけにもいかないだろう、 というわけだ。

3.3 カルリの生活世界

私の推測は次のとおりである。 カルリでは、すべての会話状況は、 とくべつな手続きを経ない限り、 そこでなされる発話が、 われわれの知識発話に相当する発話 (あるいは、比喩的であるが、 「顕在的遂行発言」)であると看做される、 そのような場として定義されているのだ。 「あれはヌートリアだ」という発話は、カルリでは、 すべて(特別な手続きを経ない限り) われわれの「あれはヌートリアであることを知っている」という発話と 同じを有していると看做されるのである。 そのような場では、けっきょく事実を述べなければ「負け」なのだ。 これがカルリのおそれていることなのだ。

「特別な手続き」という言葉で私が思い浮かべているのは、 単に「ここだけのはなし」とか 「オフレコだから」に相当する 会話状況をスイッチするきっかけのようなものである。

カルリ民族誌という資料体の中では、私の仮説は憶測にとどまる。

われわれと違っているのは、会話状況の分類の仕方なのだ。 われわれの社会でも、 「彼ら」の社会でも、 ある特別な儀礼を経て、 ある特別な会話状況に入る。 そのような条件が整っていない、すなわち日常の場では、 もう一つのデフォールトの会話状況が支配する。 ただし、われわれの社会では、 「特別な会話状況」は、 たとえば、 「真実を述べ、何ごとも隠さず、そして 偽りを述べないことを誓います」 という宣誓(「特別な手続き」)を経て入る法廷での会話状況である。 そこでは知識発話ゲームが採択され、 私は私の発話に「責任」をとる── それに対して、 カルリの社会では、 デフォールトの会話状況が知識発話ゲームなのである。 つねに自分の発話に責任が問われるのだ。

・・・・・ 【【「公」とスイッチの絵】】 ・・・・・

4. まとめと展望

4.1 まとめ

4.2 展望


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Bibliography

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ENDNOTES

[1] 意図はそれぞれの種類に関係している。 [Back]

[2] 次の次の章で詳述したい。 [Back]