2 空っぽとはどのようなことか
2.1 人類学の感情研究
2.2 虫の擬人化
2.3 因果論的説明
2.4 心から自動機械へ
2.5 ダンゴムシ
2.6 アヴンブック
2.7 因果論
3 原因と理由
3.1 二種類の蹴り
3.2 アスペクト
3.3 単相と複相
3.4 感情の語り方
3.5 「彼ら」の感情論
3.6 「われわれ」と「彼ら」
4 兆候と基準
4.1 兆候
4.2 基準 Criteria
5 未開の感情、文明の感情
5.1 サモアのムス
5.2 エンデの怒り
Draft only ($Revision: 1.10 $ ($Date: 2011-11-07 13:58:09 $)).
(C) Satoshi Nakagawa
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しばしば 非西洋、非近代(別名「前近代」)の 人格概念は「空っぽの人格」として 考えられてきた。
典型的な事例は ニューギニアのガフク・ガマ [ read-55 ] やニューカレドニア [ leenhardt-do-kamo-j ] の古典的な民族誌に見られる。 そこでは われわれが 「仮面」として考える 社会的役割の下には何もないのだ。
この章では 感情を焦点としながら 人格について考察していく。
まず「空っぽ」の人格を わたしたちがどのように理解しているのか、 その確認作業から始めよう。
人類学的感情研究を整理する軸として、 相対主義対普遍主義の 対立の軸は有用である。
相対主義者たちは、 文化を基礎に感情を説明していく。 普遍主義者たちは、 たとえば、 「共振」 [ wikan-resonance ]をもって 文化を越えた感情の理解を訴える。
相対主義者たちが取り上げそして 説明する感情には特異な感情が多い。 ファジャンスによる ソロモン諸島に住むバイニンたちの感情、 アヴンブックについて紹介しよう。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
このような民族誌的事実を聞くと、 われわれは落ち着きのなさを感じる。 そしてわたしたちは、 「空っぽの人格」を想像するのだ。 この法外な想像力 (わたしたちの想像力について、 わたしはしゃべっている)を 測量すること、 これがこの節の目的である。
あなたはゴキブリを見つけた。 あわてて新聞紙をさがして 棒を作って、 振り上げる。 ゴキブリは驚いて、 翅を広げて飛んで 逃げてしまう。
夜、あなたは散歩していた。 街灯に虫がむらがっている。 一匹の蛾が街灯の回りをグルグルまわっている 「あ、蛾は灯りが好きなんだな」と あなたは思うだろう。
二つのエピソードで、 あなたは虫を擬人化しているのだ。
ゴキブリは 「怖がって」逃げていった。 蛾は「灯りが好き」なので 街灯の回りをグルグルまわっている。
[ mizunami-konchu ]
「そうじゃないんだよ」と 科学が教えてくれる。 (と言っても、わたしの知識は ポピュラーサイエンス止まりだが)。
ゴキブリの尻の部分には 空気の動きに敏感に反応する繊毛がある。 あなたが新聞紙の棒を振り上げたとき、 空気が動き、 その空気の動きに敏感に反応して、 繊毛が動く。 その繊毛が動いたという情報は、 神経組織を通じて翅の筋肉へと 伝えられる。。 すなわち、 繊毛が動けば、翅が広がるように 出来ているのだ。 翅が広がれば、自動的にほかの筋肉が 連動するようになっており、 ゴキブリは飛翔する。
蛾は飛んでいるときに高さを 一定にする必要がある。 進化の中で、 太陽の光に対して体が90度になるような メカニズムが発達した --- そうすることによって飛翔の際に フラフラすることを防ぐことができるように なったのだ。 進化の歴史の中のごくごく最近になって、 地上に光りが出てきた。 蛾はまだそれに順応するメカニズムを 発達させるだけの時間を生きていない。 で、地上の灯り(街灯)に対しても 太陽に対するのと同じように反応せざるを 得ないのである。 蛾が街灯に対して90度を保つように飛翔すれば、 否応なしに、街灯をグルグル回る 軌跡を描くことになる。
この二つの説明を聞いた途端に、 あなたには、 ゴキブリや蛾が自動機械に見えただろう。
「擬人化」が必要なくなったのだ。 ゴキブリは「怖がる」イキモノではなく、 空気の振動に反応して動く機械である。 蛾は「灯りが好きな」イキモノではなく、 灯りに自動的に反応している機械である。
「心」がなくなったのだ。
『ダンゴムシに心はあるのか』 [ moriyama-dangomushi ]という 面白い本がある。 『ダンゴムシ』の議論は、 上の例の逆の方向を辿る。
著者は、自然科学者らしく、 ダンゴムシを自動機械として 描写しようと努力する。
ダンゴムシの歩行の仕方が 直接の観察対象である。 著者は、 歩行の仕方の原則を 「交替性転向」と呼び、 その原理を「非対称脚運動」と 「アンテナ性の走触性」の二つから、 説明する。
この原理に従った動きをしている 限り、 ダンゴムシたちは 自動機械に見える。
ところがその通りに 動かない個体がいるのだ。
どうしても、 自動機械としての説明が出来ない。 1
そして、 「自律的」ということば、 そして「心」という概念が導入される。
[ fajans-83 ]
ビーティの言う [ beatty-emotions ] 構築主義者(わたしたちの言葉で言うところの 相対主義者)はしばしば感情を説明するだけではなく、 説明し尽く (``explain away'') してしまうという 苦情を、 この脈絡で理解できるだろう。
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
『ダンゴムシ』の著者、森山は、 因果論で説明しきれないところに 心を見出した。 それでは心はどのように説明されるのだろうか。
お医者さんがあなたの膝を叩き、 あなたの足が動いた。 これは「自動的」な反応である。
地球を観察している宇宙人を 考えよう。 宇宙人は、 この出来事を、 たんに「刺激と反応」の図式で説明するであろう。 宇宙人の図式の中で、 あなたに心はない。
さて、フォーマルなパーティを考えてみましょう。 そこであなたの娘さんが、テーブルの上に 隠していたダンゴムシをとり出したりしたら、 あなたは テーブルの下で娘さんを蹴っとばすかもしれない。 このときのあなたの動きは 「自律的」なのだ。
宇宙人は、 「刺激と反応」で、 このあなたの動きを説明しようとするが、 諦めざるを得なくなる。 そして、 この足の動きに あなたの「心」の働きを見るのです。
宇宙人は あなたの動きに、原因ではなく、 理由を探し始めるのだ。
理由について、 卓越した考察を展開した 哲学者、野矢茂樹の議論を次に紹介しよう。
野矢の アスペクト議論 [ noya-mind ] をしばらく追っていこう。
野矢は、 ウィトゲンシュタインの有名な うさぎあひるの図からアスペクト議論を 辿っていく。
野矢は うさぎあひるの図を見るという 知覚状況から考え得る 二つの種類の発話を考えることにより ウィトゲンシュタインの アスペクトの議論を深めていく。
すなわち、 「これはうさぎだ」 2 と「うさぎに見える」 である。
「うさぎに見える」言明こそが、
この二つの種類の会話状況を措定することの意義を、 野矢は、 感情を分析することによって示している。
野矢の議論は次のとおりである。 感情、たとえば「悲しみ」は、 つねに複相的に語られる。 たとえばその感情の「原因」が、 「親の死」であったと語られても(単相的な語り)、 「親の死」の捕らえ方によって「悲しみ」を招いたり、 あるいは「喜び」を招いたりするだろう。 「悲しみ」の語りは、 「原因」の語りのもつ内包性の欠如のゆえに、 「原因」では語りきれない [ noya-mind: 143 ]。 「悲しみ」の語りは、 つねに、「理由」による語り、 すなわち、「複相的」にならざるをえないのだ。 「親の死」を「愛するものとの死別」という アスペクトのもとにとらえることによって、 言い替えれば、 「親の死」を原因ではなく理由として語ることによってのみ、 感情の語りは(われわれの文化の中で)語るに足るものとなるのだ。
感情は「原因」からではなく、 「理由」から語られると野矢は主張した。
「首を狩った後、血の匂いはハートにまで達する。 それはハートを気持ち悪くさせる。 それは人を重い気持ちにさせ、快活さを失わせる。 しかし、髪をきることによって心を軽くすることができる」、 そのようにイロンゴットは言う [ rosaldo-83: 138 ]。 ザポテックの人々のよく使う言い回し ── 「人の顔は見えるけど、 心の中は見えないよ」 ── を紹介した後、 セルビーはあわてて次のように続ける ── 「これはけっしてあきらめの表現ではない。 彼らは心の中のことを知る必要はないのだ。 心の中のことは重要なこととはされていないし、 それは、人と人と結びつきと関連してはいけないのだから」。 [ selby-74 ] 誰かが家の外へも聞こえるような大声を出していたなら、 あなたは、「何が起こったのだろう?」と思うかもしれない。 複相状態があらわれ、 理由が探されるのだ。 ミードは報告する ── サモアではそのような疑問がいだかれない、と。
例えば、 「シラが家の外まで聞えるような声でどなってい るよ。 彼女は耳が遠いからな」とか、 「ツリパが弟に腹を立てているよ。 母親が先週ツツイラに出かけたからな」といった風である。 [ mead-age-j: 123 ]
野矢の議論を民族誌に並べて置くことによって わたしの言いたいことは、 「野矢の議論が説得的に響けば響くほど、それだけ、 イロンゴットその他の『未開』の事例が異様に見えてくるだろう」 ということだ。
イロンゴットはつねに 単相状況の中だけで生きているのだろうか、 他者を必要としないのだろうか、 彼らはアスペクト盲なのだろうか? もちろん、 イロンゴットをアスペクト盲と決めつけることは なんら人類学的な解決にはならない。 そうすることは、単に古い設定 ── 「未開の人格」と「文明の人格」 という設定にもどってしまうことであり、 けっきょく、 野矢の議論を (この問題に関しては) なんら積極的な貢献として機能させないことになる。 「人の概念は社会とその成員についての 文化的概念化の最も基本的なレベルである」 [ nakagawa.o-person: 192 ]── もし中川(理)の言うとおりならば、 これほど「基本的なレベル」において これほどわれわれと異なった考え方をするモデルを、 単に「もう一つの」タイプとして放置することは 知的怠慢であろう。 かといって、 「未開」の考え方とされてきたのは、 すべて西洋・近代における『他者』構築のフィクションである、 と片づけるのは、 議論でさえない。 そうではなくて、 われわれがやらなければいけないことは、 この二つの対極に立つモデルを統合的に扱うことのできるような 分析装置を (あるいは、 この二つのモデルを生成できるような より抽象度の高いモデルを) 提示することなのだ。 この論文の脈絡の中で言えば、私は、 野矢の議論を一つのたたき台としながら、 それを イロンゴットのモデルをも包含できるほどに、 膨らませることを試みたいのである。
野矢の議論をイロンゴットに (あるいはサモアに、あるいはエンデに) 適用可能にするための 修正作戦として、 野矢の議論の中の原因と理由の位置について考えていきたい。
わたしの結論を先に述べておこう。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
ウィトゲンシュタインの警句がこの脈絡で適切である。 彼は言う── 「基準 (criteria) と兆候 (symptons) の間の 文法における揺れが、 あたかも兆候しかないようにわれわれに思わせる」 [ wittgenstein-pi: 354 ]。
ウィトゲンシュタインの言う「兆候」は、 われわれの言う 「因果論」を拡張した説明モードと考えればよい。 「『気圧計の針が上がる』ことは『晴になる』兆候だ」、 そのように使用する。 たしかに、 「気圧計が上がる」ことと、 「晴になる」ことに直接の因果関係はない。 しかし、この二つの出来事のつながりは、 間接的に因果関係を含んでいる。 大雑把に言ってしまえば、 気圧が上がることが原因で気圧計があがり、 また、 同じく気圧が上がることが原因で晴になる、ということである。 そして、 「気圧計が上がる」のは「晴」の兆候である、とわれわれは正しく言える。 そこにはある種の「自然な」つながりがあるのだ。 自然なつながりということに注目すれば、 「先生がにこにこしている」のが「宿題がない」ことの兆候だ、と 言ってもかまわない。 兆候のモードのもつ「自然なつながり」を、 われわれは経験によって学ぶ。
「兆候」としばしば間違われるのが「基準」である、 とウィトゲンシュタインは憂慮する。 おそらくウィトゲンシュタインとは関係なしに この問題に取り組んでいた オースティンのわかりやすい例を出そう。
われわれが「嵐のしるし」について語るとき、 われわれは 迫りつつある嵐のしるしや過ぎ去った嵐のしるし、 あるいは水平線のかなたの嵐のしるしを 意味しています。 自分たちの頭上に荒れ狂っている嵐 について語っているなどということはないのです。 [ austin-j-91z: : 157 ]
水平線上の黒雲は嵐の兆候だが、 いま荒れ狂っている風、横殴りの雨、これらはけっして嵐の兆候ではない、 というわけである。 先程の例を使えば、 「気圧計が上がる」ことは「晴」の兆候といってかまわないが、 「雲がない」ことは「晴」の兆候ではないのだ。 「雲がない」ことは、いわば「晴」の基準(あるいは定義)であるからだ。 「雲がない」ことが「晴」の基準であることを、 われわれは経験によって学んだのではない。 それらには「自然なつながり」など存在しない。 われわれが生まれ落ちた文化の中で、 すでにそのように取り決められていたのだ。 三つ空振りするとアウトになる。 しかし、アウトという出来事の背後に、 三つの空振りが潜んでいるわけではない。 経験を積んで学ぶことがらではない。 三つの空振りは、とりもなおさず、アウトなのだ。 兆候の説明モードを「経験論」と言えば、 基準の説明モードは「意味論」であると言えよう。
ウィトゲンシュタインが語っているのは、 兆候の場合 (あるいは経験論の場合と言ってもいいだろう)、 出来事の背後に隠されたものをさぐってもかまわない。 しかし、 基準の場合、 あるいは意味論に属する出来事の場合、 出来事の背後に隠されたものなど何もないのだ、ということである。 「晴」という出来事の背後に、あるいは「原因として」、 気圧があがることを探し出すことはけっこうである。 しかし、 「晴」という出来事の背後に、 あるいはその原因として、 雲がないことを探し出すことは、間違いなのである。
【以下は書き換える】
われわれは、
兆候の文法
(観察言明(モノ文)や解釈言明)に
あまりになれてしまって、
基準の文法
(観察言明(心文)や規約言明)
にさえ、
背後に
【ここまでを書き換える】
議論が、われわれの直感に基づいて、 文化が再び蚊帳の外に置かれている。 しばらく、 同じ趣旨の議論を、 民族誌に基づいてたどり直すこととしたい。
解釈言明が、われわれの社会で埋めこまれているのは、 野矢の言うように、 たしかに、 感情や理由を含む説明のモードであろう。 そして、逆に、 感情や理由が 観察言明や規約言明を巻き込む説明モードに 登場することはない。
しかし、 われわれの社会は 一つの組み合わせを 示しているに過ぎない。 イロンゴットの 「重い気分」の例は、 感情 が因果論に取り込まれている例だろう。 髪を切ることと、軽い気分になることには、 なんらかの「自然な」つながりが感じられる。 3 「バイニンでは」、ファジャンスは報告する、 「人の去った後感じる寂しさ、 アブンヴック、は、 前の夜から外に出しておいた皿に入れた水を撒くことによって 消すことができる」 [ fajans-83: 177 ]。 空振りを三つすることとアウトになることの間に なんら「自然なつながり」がないのと同様に、 皿の水を撒くことと、アヴンブックを消すことの間には、「自然なつながり」はない。 感情は、バイニンにおいて、規約言明をとりこむゲームなのだ。 4
サモアで、「ムス」という感情語がある。 フリーマンによるミード批判の中の単なるひとコマであるが、 一つの感情語にたいして複数の調査者からの情報がある珍しい例であるので、 少し詳しく紹介しよう。
5.1.1 ミードのムス
「思春期のストレスのない」サモアを描くミードは、 ムスをも、さして重大ではない感情として軽く触れる。
サモアにはムスということばがあり、これは、 気がすすまないという気持や手におえないというこ とを表しているのだが、女性がそれまで快くむか え入れていた恋人に邪険にするときも、チーフが カヴァ・ボウルを貸すのを拒否するときも、小さ な子が寝に行くのをいやがるときにも、またトー キング・チーフがマラガにでかけようとしないと きにも、このことばが用いられる。
ムスの態度を 示したものには、人びとはほとんど迷信的なまで の関心をもって接する。男たちは恋人とつきあう にあたっては、きまって<彼女がムスにならない ように>と祈るのである。 [ mead-age-j: 117 ]
5.1.2 フリーマンのムス
「楽園のようなサモア」はミードの虚構であるという ミード批判を展開するフリーマンは、 ミードのこのようなムスの描写をも槍玉にあげる。 ムスは、ミードの描くような牧歌的なものではない、 それは深刻な、 「情緒的に混乱した状態」を導くような感情であり、 ムスの担い手は、 「精神的な限界点ぎりぎりにまできて」 [ freeman-mead-j: 276 ] いる、 そのようにフリーマンは主張する。
権威の座にある人びとに対する根深い憤りや怒りの感情が、 とくに十代の青少年によく出現する。これらの感情に浸さ れると、その人は[ムス」という気分の状態にあると言わ れる。・・・・・ それはサモア人にとって、いやいやながら他 者、特に権威のある人びとの意思や命令に従うことを意味 するのに用いられている。この不本意であるという気持ち があまりに強固に個人の行動を支配するようになると、マー サック判事の言葉によれば「その人は完全に手に負えなく なる。つまり、ほとんどまたは全く仕事をしなくなり、指 示をわざと誤解したり、むっつりとした悲惨な面持ちで歩 きまわり、何を尋ねられても返答ひとつしなくなる」ので ある。
深刻なムスになってしまった個人は・・・・・ 不満を抱いて情 緒的に混乱した状態に陥る。 [ freeman-mead-j: 276 ]
5.1.3 ガーバーのムス
自身サモアを調査したガーバーは、 次のようにミードとフリーマンを調停する。 ムスについて、フリーマンは「情緒的に混乱した状態」といって いるが、それほど強烈なものではない。フリーマンによれば、ムスにい る人間をへたに刺激することはみな避けている。暴力沙汰になったり、 ひいては、自殺をしてしまうこともあるからだという。しかし、ガーバーのイ ンフォーマントによれば、それほど強烈なムスは、 気にいらない結婚相 手との結婚を親に強いられた子供に当てはまるくらいで、例外的である。 むしろ、 親の命令を聞こえないふりをしたりするような、軽い形で現れるのが通 常である。 [ gerber-85: 129 ]
5.1.4 シナリオのある感情、そうではない感情
このように手際よく両者を和解させた後、 ガーバーは、ムスの民族誌的事実に基づきながら、 おもしろい議論を展開する。 感情語には二種類ある、というのだ。 一つの種類は、非常にせまいシナリオにのっとった感情語であり、 もう一つの種類は、より広い範囲に適用可能な感情語である。 ムスは前者に属するとガーバーは主張する。 ムスは「怒り」 (``anger'')と近い言葉である。 しかし、その適用範囲は、 ガーバーの言うところの「仕事」のシナリオに密接に関連しているのだ。 親が仕事をいいつけた、子供はそれが気に入らない。 このような文脈の中で、「子供がムスとなる」と語られれるのである [ gerber-85: 152 ]。 より守備範囲の広い「怒り」という語(たとえば、「イタ」)は他に存在する。
5.2.1 二つの怒り
「怒り」は、「グラー」というエンデ語で 表すことができるであろう。 ンバッボ(婚資支払いの額の調停の場)で顔を赤くし、 大きな声でどなっている人を「グラー」という語で示すことは、 しかしながら、めったにない。 とりわけ、彼がカッエ・ウンブ(嫁を与える側の集団)である場合には。 「彼はノッイである」とエンデの人は語る。 「ノッイ」とは、ンバッボの場で、 ウェタ・アネ(嫁を受け取る集団)の出そうとする ンガヴ(婚資)の少なさに怒ることである。 「ひとたびカッエ・ウンブがノッイになったら、 ウェタ・アネは、カッエ・ウンブの言うとおりのンガヴを出すしかないのさ。 私たちウェタ・アネは、恥ずかしいの(『メア』)だからね。 彼が象牙 [トコ]を要求すれば、象牙 [トコ]を、 彼が金細工 [ウェア]を要求すれば、金細工 [ウェア]を出すことになる」 ──このように私のイフォーマントは続けた。 ノッイになるのは、経験的にカッエ・ウンブなのではない。 ノッイになるのは、意味論的にカッエ・ウンブなのである。 そして、カッエ・ウンブがノッイになれば、 ウェタ・アネは、いわば
自動的に 、メアとなる。
5.2.2 グラー
より一般的な 「グラー」という感情は、 野矢の言うように複相的な状況をうみだす。 それは兆候のゲームなのだ。 そのような場で「人格」概念は、もしそれを探せば、 「充実した」ものとなろう。
5.2.3 ノッイ
「ノッイ」の支配する場は、 それに対して、 単相的な説明モードのもとで語られる。 それは基準のゲームである。 なにものも隠されてはいず、すべてがあからさまである。 そして、そのような場で浮かび上がる「人格」概念は、「空っぽ」のものとなる。
5.2.4 説明モード
前節の結論を繰り返そう。 「未開」と「文明」に帰属させられた二つの人格概念 (「空っぽの人格」と「充実した人格」)は、 決して「未開」と「文明」に代表されるような、 ある特定の社会・文化に特徴的なものではない ── むしろ、二つのモデルは、 一つの社会・文化の中で、 問題となる感情の種類によって、 あるいは、 その場の説明のモードによって 前景に押し出されたり、 また、 隠れたりするものなのだ。
[1] もちろん、 そんなに単純に「説明ができない」という 答に至るわけではない。 著者は 「観察対象とつき合うこと」を強調する。 こうすることによって、 安易な「擬人化」を避けているんだ、と 著者は主張する。 さらに、 動物行動学の創始者、 ニコ・ティンバーゲンの教えを引く [ moriyama-dangomushi: 164 ] --- ティンバーゲンは、 動物が「なぜその行動をとったのか」という問いは、 次の四つの問いとして答えよという。 (1) 「どのような仕組みで生じるのか」、 (2) 「どのような機能をもっているのか」、 (3) 「どのように獲得されるのか」、 そして (4) 「どのように進化してきたのか」である。
これらの教えに従って、 著者は説明を考える。 そして、本の本来の 面白さは著者の説明を求めようとする 格闘にあることは強調しておこう。 わたしはこの本がたいへんに好きなのだ。
しかし真摯な格闘にも関わらず、 どうしても自動機械のような説明ができない、 というのが結論なのである [Back]
[2] 野矢は「うさぎが見える」の方を、 「これはうさぎだ」よりひんぱんに使うが、 わたしは、「これはうさぎだ」言明のほうが より適切な例と考える。 [Back]
[3] 「自然さ」は、もちろん、イロンゴットの文化の脈絡の中で 探さなければならない。 私はイロンゴット文化に通暁してはいない。 ここでは、第一勘に基づいて書いているだけである。 [Back]
[4] じっさい、ファジャンスは、 論文の冒頭で、次のように宣言している ── 「バイニンについて、 民族心理学 (ethopsychology) の観点から見て、 もっともチャレンジングで興味深いことは、 彼らは民俗心理学 (folk psychology) を もっていないかのように見えるという点である。」 [ fajans-83: 167 ] [Back]