人類学者は遠くへ行く。水も電気もないようなところでフィールドワークをする。しばしば人類学者同士、自分のフィールドがどれだけ僻地であるかを自慢しあう。
なぜそんな遠くへ行くのだと問えば、違った文化を調べるためだと彼女らは答えるだろう。なぜ違った文化を調べるのかと言えば、さまざまな答えはあるだろうが、「ぼくらがそうであったかもしれない文化を知るためだ」というのが、おそらくは、人類学の多くから賛成を得る答え方であろう。マーガレット・ミード風に言えば、「文化的代替物」``cultural alternatives’’ を探すためなのだ。ぼくらがいま暮している世界が唯一の世界ではないこと、それが、例えば、進化の必然の結果などではないこと、そのように自分自身を相対化すること、それが人類学の目的なのだ、と。この考え方を文化相対主義と呼ぶ。いまあなたの目の前にある世界を吹き飛ばす、そのような力を文化相対主義は、そして文化人類学は持っているのだ。
「でも遠くのエキゾチックな文化なんて、グローバリゼーションの前に消えかかってるじゃないですか」、そんな反論があるかもしれない。「グローバリゼーション」自身が問題を孕んだ考え方だし、今を「グローバリゼーション」と捉える時代把握もまた問題を含んでいると思う。ここでは、素直に、あなたの言うようなグローバリゼーションが起きているものとして、すなわち地球上のすべての人間が近代に飲み込まれている、として答えよう。グローバリゼーションの規模が大きれば大きいほどに、文化相対主義の持つ、そして文化人類学の持つ破壊力は大きくなるのだ、と。1 「どうやってか?」― それこそ、この本で述べていきたいことである。
この文化相対主義、人類学のエッセンスである文化相対主義が危ういのだ。人類学者たちは「文化」という考え方を捨て、それゆえ文化相対主義を捨て始めている。
この本の目的は文化相対主義を擁護することである。より先鋭に述べさせてもらえば、「文化」という概念を擁護することである。
いささか古めかしいテーマを聞いてここで読むのを中止する人がいるかもしれない。姑息であるが、目を引くテーマも挙げておこう。わたしが、「文化」の存在と同時に主張したいこととして、次の命題を挙げておく― 他者が「私」に先行する(他者ができてはじめて「私」が誕生した)、そして、異文化が自文化に先行する(異文化ができて始めて自文化が誕生した)。3 以上が正しいことを示すことが、この本の目的である。
文化相対主義がこの本を貫くテーマとなる。この章で行ないたいのは、相対主義全体の概観、そしてその中での文化相対主義の位置づけである。
[ under construction もうすこし詳しく ]
通常、「相対主義」は認識論的相対主義と道徳的相対主義に分けて議論される。4 わたしが議論するのは認識論的な相対主義である。この節では認識論的な相対主義について述べていきたい。
相対主義の敵は普遍主義5である。この節では、簡単に、相対主義と普遍主義の戦場の見取り図を書いておきたい。
コナンのように普遍主義者は言う、「真実は一つ」と。芥川龍之介のように相対主義者は言う、「真実はいっぱいある」と。
普遍主義者のしばしば標的になる相対主義者どくとくの言い方を引用しよう。彼女らは言う、「世の中に絶対正しいことはない。すべては相対的だ」と。これが相対主義の要の宣言であろう。
この宣言を聞いて、読者はすぐに二つの質問を思い付くだろう。一つは、「この命題は絶対的に正しいの?」という主張者に対するいささか意地悪な質問である。もう一つは、主張者に同調した上で、さらに「何に対して相対的なの?」という質問であろう。
第一の疑問、「この主張は絶対的に正しいのか?」、は相対主義の根底を揺るがす問いである。そしてこの同じ質問が、形をかえて、相対主義者に対して何度も繰り返されてきたのである。その中でも、パットナムの引くある教授の言い回しはウィッティなものであろう― 「君らの出身はぼくのとは違うかもしれないけ、ぼくの出身地では相対主義は間違っているんだよ」と。 (Putnam 1981: 119) この本の中では、この問いにまっ正直に答えることはしない。この本全体を通じて、相対主義が可能であることを示していきたい。
こんな大事なことをそのままにしておくことに不安を覚える人に、とりあえずの解決を示しておこう。以下はこの本の結論に連なる議論であり、予告編的な形式、すなわち、はっきりと全てを知らさず、輪郭のみを示すという形式をとらざるを得ないことをあらかじめ断っておく。
この問いに真っ正直に答えた入不二の答え( (入不二 2009))がある。彼によれば、相対主義というのは無限の運動なのだという。野矢のまとめを引こう。
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「どんな主張の正しさも立場によって異なりうる」、これをテーゼ R1 としよう。この「どんな主張」と言われるものの中には R1 自身も含まれる。その結果、「R1 の正しさは立場によって異なりうる」という主張が出てくる。これをテーゼ R2 としよう。さらにこのテーゼに対しても相対化が為されうる。すなわち、「R2 の正しさは立場によって異なりうる。」これはテーゼ R3 とされる。そして R3 も相対化される。以下同様、これが無限に続く。 (野矢 2011)
入不二はこの無限の運動を「相対主義の極北 (thule)」と名付ける。彼の議論をどう捉えるかは、読者の判断に任せたい。6 わたし自身はこのような立場を取らない。それは矛盾ではないのかもしれないが(命題としては矛盾である)、なにか不毛な感じがするからだ。その懸念は、この無限の運動が『心』の部で示した(「失敗した革命」)無限退行 (infinite regression) と同じ構造を持っていることによる。
それ(無限退行)は「民族誌家の権威」を問題にする中で出てきた議論である。根底にある考え方は、マルクスによる「存在が意識を規定する」という考え方である。すなわち、どのような人々もその立場(存在)によってもの見方(意識)が規定されている、というのだ。クリフォードは言う、「民族誌家よ、あなたの記述がただしいことはどのように保証されるのか」と。
[ under construction エッシャーの『描く手』のトリック ] [ under construction 画家の手がある ]
もうひとつの解決は相対主義の原則は、相対主義の言明には適用されないという答え方だ。この立場を取れば、さきほどの問いに「イエス」と答えることになる。そして、質問者の「じゃあ、世の中には絶対的なこともあるんだね」という嘲笑にも「その通り」と答えるのである。すなわち、もとの宣言は、正確には、次のようになるのだ、「世の中に絶対的なものはない、ただし、この宣言だけは別である」と。7
この答え方が、同じく『心』の部で問題にしたマンハイムと同じ類だということに気付いてほしい。マンハイムは「浮遊するインテリゲンチャー」に答えをもとめる。彼らは「浮遊しており」、マルクスの言うところの「存在」から(ある程度)自由なのだ。
『心』の部を二度引用したので、そこでのわたしが示したとりあえずの答を繰り返しておこう。それはクリフォードの言う多声的民族誌を不可能だとして退けた後に、わたしが可能性として、イメージだけを与える目的で名付けたものである。それは「多視点的民族誌」である。ピカソの『アビニョンの娘たち』
いまの脈絡では、相対主義のジレンマに対して「多視点」が答えになることを想像するのは難しいだろう。しかし、これこそがわたしが最終的に出したい答なのだ。
野矢の答は「相対主義をテーゼとしてではなく生き方として捉え」
よう、というものである。8
わたしはこの言い回し、「生き方」に賛同するが、野矢とは重なりあいながら、微妙にずれて使っていきたい。その違いについては、第八章、「牛を売る―アスペクトと全体論」で詳しく述べる。この段階では、違いは無視して、わたしが野矢に賛同したものとして話をすすめたい。
そのような前提で、この言い回しをすこしだけ説明しておきたい。
この言い回しは比喩である。その比喩は、たとえば、モーリス・メルロ=ポンティの次のような比喩に重なるものである。
:
なるほどわれわれは数ヶ国語を話すこともできるけれども、しかしわれわれがそのなかで生活している国語というものは、やはりいつでもそれらの国語の中の一つだけである。完全に一つの国語に同化してしまうためには、その国語が表現している世界をひきうけなければなるまいが、人はけっして同時に二つの世界に属するわけにはゆかないのだ。
「言語に同化する」あるいは「言語が表現している世界をひきうける」、これらを「言語を(あるいは言語の表現する世界を)生きる」という言い方であらわしたいのだ。
相対主義というのは、そのような意味での「生き方」の問題だ、と野矢は言う。そして、幾分かの譲歩をした上で、わたしは野矢に賛同したい。
この節では第二の質問、「何に対して相対的なのか」に答えたい。
「何に対して相対的か」という視点から見れば、相対主義を二種類に分けることが可能であろう。一つの答え方は「個々人に対して」、もう一つの答え方が「文化に対して」となる。前者を「個々人相対主義」と呼ぼう。そして後者こそが、この本のテーマとなる「文化相対主義」である。
個々人相対主義(あるいは「主観的相対主義」のほうがいい呼びかたかもしれない)とは、プロタゴラスの「人間は万物の尺度である」という議論に代表される考えである。「風が冷たい」という言明が正しいかどうかは、個々人の判断にかかっているのだ。
マンデバウムは個々人相対主義(彼の言うところの「主観的相対主義」)をつぎのようにまとめる― 「[主観的相対主義]は、どんな主張も、それをなす特定の個人の信念と態度との関係で見られなければならないと考えるものである。・・・理解されるべきことは、その主張が「或る人にとって真(もしくは偽)」であるということである。・・・真理はその主張をなす人の特性に相対的なのである」と。
マンデルバウムは言う、「この種の相対主義は ・・・大規模な仕方で、事実判断の真・偽が問題であるときに適用されたことはめったにない」。
[ under construction ギアツの解釈学は、主観的相対主義と文化相対主義(文化をテキストとして見る)の混合と考えることができるだろう。 ]
マンデルバウムは、相対主義を主観的相対主義、客観的相対主義そして概念的相対主義の三つに分類している。わたしは客観的相対主義と概念的相対主義を分ける意義をとくに見出せない。概念的相対主義を(客観的相対主義含めて)文化を単位に相対主義と呼びたい。「文化」という言葉を使う人類学者ならば、ほとんどが文化相対主義者だと判断して間違いはないだろう。9
文化人類学者による(すなわちわたし自身による)文化相対主義の紹介は次章に譲ることとして、ここではマンデルバウムによる概念的相対主義の説明を辿ってみよう。
主観的相対主義において、ある主張の真偽は、その主張をした個人の特性に依存しているとされた。この意味で、主観的相対主義をプロタゴラスの主張と重ねることに問題はないだろう。それに対して、概念的相対主義においては、ある主張の真偽は、その主張の脈絡、「文化環境」すなわち時代や共同体の特性に依存しているのである。重要なのは、「文化環境から自分の問題にもち込む知的もしくは概念的背景」
なのである。
これら二つに対立するのが普遍主義の考え方である。コナン風に言えば「真実は一つだ」ということになろう。
真理は個人を越え、そして文化をも越えているわけだから、普遍主義を二つに分ける必要はないかもしれない。念のため二つの枠を用意しておきたい。一つは個々人相対主義に対する普遍主義であり、もう一つは文化相対主義に対する普遍主義である。名前はともに「普遍主義」でよいだろう。
以上の議論を整理すると次の表のようになる。
||相対主義|普遍主義||| |心|個々人相対主義|普遍主義||| ― |文化|文化相対主義|普遍主義|||
わたしの意図を繰り返しておこう:文化相対主義を擁護していきたいのである。
道徳的相対主義について何か言えるような知識はわたしにはないし、この本では道徳的相対主義を積極的には主題として取り上げない。
取り上げない理由は以下の通りである。まず道徳的相対主義を次のように提示しよう― 道徳的相対主義者は道徳的判断、たとえば「X はよいことである」が、相対的であると主張する。もし文化相対主義が成立するならば、「X はよいことである」という言い方、とりわけ「X」が文化を越えて翻訳不可能である、ということになる。それゆえ、文化相対主義の中では、道徳的相対主義の前提自身が無意味になってしまうのだ。これが道徳的相対主義を取り上げない理由である。
わたしは、文化相対主義として、スウォヤーの言う「弱い相対主義」
を想定している。 [ under construction ]
消極的には取り上げていく。相対主義タイプ2に基づき、 P を翻訳可能とする立場から道徳的相対主義を簡単に紹介しておこう。そのために肉食系と草食系という野矢による区分を導入したい。
野矢によれば次のようになる。10 草食系とは、自らの相対主義(あるいは普遍主義)に満足し、他人の「主義」には拘わらない人びとである。それに対し、肉食系のは、他人の「主義」に積極的に拘わっていく人びとのことを言う。
この区分を導入して行ないたいことは、相対主義と普遍主義の対立がしばしば「政治的色合い」を持って語られることがある。それは肉食系同士の争いである。
(文化)普遍主義は、しばしば、自文化中心主義 (ethnocentricism) という形をとるのだ、という事実である。
[ under construction マルチカルチュラリズムと自民族中心主義 ]
認識論|相対主義|普遍主義||| |
---|
政治論|マルチカルチュラリズム|自民族中心主義||| |
繰り返すが、この対立が成立するのは、相対主義のタイプ2の場合、すなわち、P が間文化的に翻訳可能とする立場に立ったときのみである。
[ under construction ]
[ under construction ]
あなたは更に質問したいかもしれない、「もしグローバリゼーションが地球を覆ったら?」と。そんなことは起こって欲しくはないし、起こるとは思わない。しかし、そんな事態が起こってしまえば、もちろん文化相対主義の可能性もなくなるし、文化人類学はなくなるだろう。そして、その時代は地球の最も不幸な時代になるだろう、とわたしは思う。そうはならないようにするのも、もしかしたら、文化人類学の使命なのかもしれない。
彼女らは、いまやロマンも【伏せ字】もない近代社会の小さな部分を研究し始めている。それは社会学だ。たしかに、ミクロな部分に拘ること、つねに(何らかの意味での)全体に目を配ること、そのような考え方の中に人類学の特徴は残っているのかもしれない。そんなのはいやだ。
「先行する」とは「論理的に先行する」という意味である。現象としては二つ(他者とわたし、異文化と自文化は)同時に誕生した。「わたしの両親が亡くなる」ことと「わたしが孤児になる」ことは、同時に起きるが、前者が後者にたいして論理的に先行していることは明かであろう。他者とわたし、異文化と自文化の関係もこのようなものである、と主張したいのだ。