2 全体論入門
2.1 プリミティブ全体論
2.2 構造主義の言語学
2.3 音韻論
2.4 三角形
3 アスペクトと全体論
3.1 アスペクト
3.2 伝統と近代
3.3 相貌
3.4 一般化
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(C) Satoshi Nakagawa
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かくして、 わたしたちは探していた能力 x を 手に入れたわけである。 それは複相を把握する能力である。
相対主義出発点の2つのモデル、 (1) コードモデルと (2) 水源地モデルは、 人間の持っている能力である。 そこに第三の能力、 (3) 「複相を把握する能力」を加えることにより、 文化相対主義バージョン2.0 は完成する。 わたしたちは「文化」を持ちながら、 他者としての 「異文化」を理解する力を持つことになるのだ。
前章では、 複相を把握する例として ウサギ・アヒルの図を使用した。 わたしにウサギに見えるものを、 あなたはアヒルに見る、というわけだ。
この章では、 ウサギ・アヒルの図の例からは 見落されがちな複相把握の性質を示していきたい。 それはアスペクト((相))が 全体論的 (holistic) であるという性格である。
「全体論」から説明しよう。 全体論的な性格 (「全体性」と呼ぼう)をもつ単位を、 ここで、「システム」と呼ぶこととする。 全体性を持つシステムは その構成部分の総和以上となるのである。 あるいはそのようなシステムの部分は、 その部分としては独立しておらず、 全体からのなんらかの影響を受けている。 すなわち、 全体論的なシステムの部分を考慮する際には かならずシステム全体に言及しなければならないのである。 1
全体論は、 アリストテレスがいったとされる言葉、 「全体は部分の総和以上のものである」 2 に端的に示されている。 部分だけを見ていても全体はつかめない、 すくなくともそのようなシステムがあるのである。
アリストテレス自身は文学作品 (『イリアス』)を例にしている [aristotle-meta-1-j: 310]。 『イリアス』に出てくる一つの一つの語を 考察したものを総合しても、 『イリアス』の全体像は見えない、と 彼は言う。
もう一つのよく出される例は、 生物である。 ある生物個体の全体は、 その部分の総和以上のものがある、というのである。 生物の全体論的性質を、 社会に適用したのが スペンサーなどによる 「社会有機体説」である。 すなわち、 社会はその部分を研究しただけでは把握はできない、 社会は全体として機能しているのだ、 という説である。 3
人類学に最も影響を与えたのは ソシュール以降の 構造言語学における全体論であろう。 その全体論は、 「それは部分はそれ自身としての意味を持たない。 大事なのはつねに体系の中における他の部分との差異で ある」という考え方にまとめることができるだろう。
たとえば、 ソシュール [saussure-cours-j]は語の意味を語の置かれた 位置から見る。 それを彼は価値と呼ぶ。 英語の "Rabbit" を日本語で 「ウサギ」と訳すのは 便宜的には許されるかもしれないが、 その価値はあきらかに違う、と言えるのである。 なぜなら、 "Rabbit" は "hare" (「野兎」と訳すらしい)と 密接に関わっており、 "Rabbit" は "hare" との差異の中で 意味が決定されるからだ。 「ウサギ」にはそれがない。 それゆえ、 "rabbit" と「ウサギ」の価値は異るのである。
「体系の中の差異」という点が 最も明瞭に表われるのが音韻論である。 音として言語を見た場合、 その最小単位は音韻(あるいは音素) (pheneme) とされていた。 たとえば、 日本語において「ん」は一つの音韻であるという。 じっさいには(音声学的には) [n] だけでなく [ng] あるいは [m] の音を、わたしたちは発音している。 「かんだ」の「ん」は [n]、 「こんぱ」の「ん」は [m]、 そして「りんご」の「ん」は [ng] の 音を出している。 英語のネイティブスピーカーがこの三つの 音を聞けば、それぞれを区別するだろう。 しかし、 わたしたちはその三つを区別していない。 この時、 「日本語において『ん』は一つの 音韻である」と言うのである。 これを /n/ であらわす。 4 すなわち、 日本語の /n/ と英語の /n/ は その価値が違っているのだ。
音韻とは他の音韻との差異 5 から 成り立っている概念なのである。 日本語の一つの音韻を分かるとは、 日本語の音声体系を分かることと同義である、 と言い換えることができよう。 [jacobson-j-1977]
・・・・・ 【母音の三角形と子音の三角形、そして料理の三角形】 ・・・・・
[ls-triangle-j]
以上で「全体論」「全体性」という言葉で あらわすシステムの性格については 理解できたであろう。 そのような全体性がアスペクト把握にもあるのだ、 これが私の主張である。 6
アスペクト把握が全体論的性格を持つとは、 あるアスペクトを把握するためには、 そのアスペクトを部分とするある全体を把握している、 ということである。
あなたが野球を観戦しているとしよう。 あなたはそこに「三振」を見、 「ツーアウト満塁」を見、 そして「代打逆転サヨナラホームラン」を見るだろう。 それらの見えを全て「アスペクト」と呼ぶことに 異議はないものと思う。
そして、 「三振」も「ツーアウト満塁」も 「代打逆転サヨナラホームラン」も 互いに密接に関連している。 「三振」は分かるが「ツーアウト満塁」の 意味が分からない人間を想像するのは難しい。 誰かが「三振」を分かっているというのは、 すなわち、その人は野球というゲーム全体を 分かっていると考えて問題がないのである。 逆に言えば、 野球というゲーム全体を分からない限りは 「三振」や 「ツーアウト満塁」あるいは 「代打逆転サヨナラホームラン」という アスペクトを見ることはできないのである。
これがわたしの言う アスペクト把握のもつ全体性である。
すなわち、 いままで見ていなかった 複相を把握できるとは、 いままで体験していなかったゲームの全体を 把握できる、ということなのである。
アスペクト把握の全体性についての より文化人類学的な例を出してみよう。 7 それは伝統と近代の出会いの中に現れるのだ。 一つは環境主義であり、 もう一つは開発である。 そこでは現地の社会(伝統)のもつ文化というゲームと 近代のもつ文化というゲームとが、 二つの矛盾するアスペクトを生むのである。
3.2.1 ギニアの森
ウサギ・アヒルの図と同じくらい 単純きわまりないアスペクトとして グラスにはいったウイスキーの例を出すことができよう。 一人は「半分しかない」と言い、 一人は「半分も残っている」と言う、 そのような状況だ。
フェアヘッドとリーチが、 西アフリカにおけるそれと似た状況を描いている。 [fairhead-leach-webs] 西アフリカのギニア共和国は、 森林のサバンナ化が進んでいることで有名である。 ほとんどがサバンナ化され、 村のまわりにサバンナ化されていない 森林が少しだけ残っているのが現状である。 このような理解のもと環境学者たちは ギニアのクランコの人たちの村にはいった。 ところがじっさいに村に入ると分かったことは、 村のまわりの森林は、 村人たちが長い年月をかけて作り上げた 人の手による森林だったのである [fairhead-leach-webs: 36--37]。 8 すなわち、 環境学者たちに 村のまわりの森林は 「それしか残っていない」と見え、 クランコの村人には 「それだけ残っている」と見えたのだ。
環境学者たちは、 彼らの環境学というゲームの中で、 とりわけ「現地の人たちは環境主義的な 理解に欠け、教育を必要とする」という 前提のもとに景観を見、 クランコの村人たちは 祖先からの言い伝え、 彼らの日々の生活というゲームの中で 景観を眺めているのだ。
3.2.2 レソトの牛
ファーガソンは南部アフリカの レソト王国 9 で行なわれた大規模な開発の研究をした。 その本 [ferguson-anti-politics]のなかの 印象的なエピソードを一つ紹介したい。 開発者たちはレソトに大規模な 牛のマーケットを作った。 最初は、 現地の人たちはマーケットをそれ程利用していなかった。 だんだんにマーケットが活況を呈すようになった。 開発者たちは、レソトの経済の活況の指標として 理解した。
ファーガソンによれば、 現地の人は、この同じ現象を まったく逆の状況、 すなわち経済が停滞として見ているという。 鍵はレソトの人たちの文化の中での 牛の位置である。 牛は、言わば、 彼らにとって家宝のような地位を占めていると言えば 分かりやすいだろう。 家宝を売りに出すというのは、 よほどに困った状況なのである。
開発者は開発学というゲーム (「概念枠組」が最も適当だろう)の中で牛のマーケットを 見る。 レソトの人たちは彼ら自身の文化の中で 牛のマーケットを見るのだ。
この段階で、(いささか野矢学的になるが) 野矢が『語りえないものを語る』 [noya-kataru]の中で取り上げる 「相貌」という考え方を取り上げてみたい。 そうすることによって、 アスペクトの全体論的性格がいっそう 明瞭になると、わたしは考える。
3.3.1 内包
野矢が「相貌」について述べるのは デイヴィドソンの「概念図式」論文 [davidson-scheme]を批判する中でである。 野矢は、デイヴィドソンはあまりに 外延的でありすぎると批判する。 そして野矢は続ける、 「世界はまた内包(意味)的な側面を もっている。 あるいは私としては・・・・・ 「アスペクト的」と言いたくもなる。 ここではもう少しふつうの言い方として、 世界は「相貌」をもつ、と言おう」 [noya-kataru: 108]と。
3.3.2 クリーニャー
数ページ先で、 野矢は次のような例を出す。
猫という概念も掃除機という概念も もたない人たちが、 なぜかすべての猫とすべての掃除機を集めた集合を 一つの集合と考え、 それをクリーニャーという概念で捉えていたとする。 そのとき、 われわれなら「猫」と呼ぶそれを 彼らは「クリーニャー」と呼ぶ。 [noya-kataru: 109]
3.3.3 鳥
これほど奇想天外ではないが、 似たような例は民族誌に溢れている。 ボルネオ島に住むプナンのもとに住んだ 卜田は、 プナンでは鶏は鳥ではないと報告する。
プナンでは動物は五つのカテゴリーに 分類される: (1) 四足動物(カアン kaqan)、 (2) 鳥類(ジュイット juit)、 (3) 魚類(ブトゥル betelu)、 (4) 昆虫(ウルン ulen)そして、 (5) にわとり(デック dEkである。 にわとりは、鳥とは独立に 一つのカテゴリーを形成しているのである。
ボルネオ島の他の諸民族と同じく、 プナンにとって鳥は 神からのメッセージを伝える 大事な動物である。 10 「ズゴロサイチョウが「怪我するぞ」と鳴くと、 その日予定されていた狩猟や採集活動は中止され」る [shimeda-koe: 88]。 「川で漁をしていて トゥリ turi が「おれの川だ」と鳴くと、 作業は中止しなければならない」 [shimeda-koe: 88]という。 鹿や熊や猪の存在を示す鳥もいる。 プナンの生活は鳥によって律せられていると いってもいいほどなのである。
にわとりは鳥(ジュイット)ではない。 にわとりは神のメッセージを伝えないのだ。 プナンはにわとりを食べない。 イバンのように闘鶏をするわけでもない。 なんのために飼っているのだと聞くと、 「『なあに、にわとりはおるだけや』・・・・・ と言ってプナンの人たちはすましてしまう」 [shimeda-koe: 105]という。 一言で言えば、 プナンにとってにわとりは「どうでもいい」動物である。
3.3.4 内側からの観点
もう一度「クリーニャー」に戻ろう。 野矢は言う。 「あるものがクリーニャーとして見えるということが どのようなことなのか、 もはやあからさまにわれわれの想像を越えているだろう」 [noya-kataru: 109]と。
わたしは言いたい、 プナンの人にとって 「にわとりとサイチョウとキュウカンチョウとを いっしょに(鳥として)見る」わたしたちの見え方は、 「想像を越えて」いるだろう、と。
野矢は続ける。
われわれにとっては、 一匹の猫はどうしたって猫としての 相貌をもっている。 それは容易に変えることはできない。 それはすなわち、 われわれがその分類を引き受け、 いわばその概念を生きてい [109/10] るからである。 概念を変えるということは、 生き方を変えるというとなのである。 [noya-kataru: 109--110]
このような相貌論を踏まえて、 わたしが第一章で紹介した野矢の宣言、 「相対主義をテーゼとしてではなく 生き方として捉え」 [noya-kataru: 193] よう、という 宣言が出てくるのである。
相貌論を全体論から見直しておきたい。 相貌とは、ソシュールの言う「価値」に 他ならないのだ。 それは
「観点αからはAの相貌が立ち現れる」ということが分 かるのは、 観点αに実際に立っている者だけでしかない。 観点αに立っていない者にはΑの相貌は現れてこない。 この事情を、相貌は「内側から」のみ把握される、 と言うことにしたい。 あるいは概念枠についても、同様に言いたい。 概念枠が内側からしか把握されないこと、 このことが、 相対主義を悩ましいものとする根っこだと私は考えている。 これは相対主義の問題にとって 決定的に重要なポイントであるから、 さらに詳しく説明することにしよう。 [noya-kataru: 129]
自閉症児に欠けている能力として、 玉井は一般化の能力を挙げる。
丸いフェンスの中に、 ウサギが飼われている。 ある自閉症の子が、 それに興味をもった。 あの長い耳をぶら下げて、 ふりまわしてみたいのである。 フェンスを乗りこえようとする。 当然、先生はとめる。 すると彼は二、三メートル先のフェンスから 乗りこえようとする。 またとめる。 そしてまた二メートル先へ。 [tamai-jiheisho: 51--52]
「何度いったらわかるの」といいたくなる。 つまりはらをたてるのだ。 だが、 と先生はふと思い出す。 相手の行動は、あまりに自然なのである。 わたしにとってこの位置で止めるということは、 フェンスをどこで乗りこえることもいけない、 ということを意味していた。 それなのに、この子にとっては、 「この場所がいけない」ということに すぎなかったということに気がついたのである。 [tamai-jiheisho: 52]
わたしは、 一般化の能力もまた 複相の把握と言えると主張したい。
つぎのような命令を考えてみよう: 「窓から手を出すな」と。 わたしたちはそれを 「窓一般からあなたの手を出すな」と理解する。 玉井の描く自閉症児ならば「この窓」としか 理解できないものだろう。
クレヨンしんちゃんは続けて、
足を出す。
その時、
わたしたちは、そうだ「手」も一般化して
考えなければいけないことに気がつく。
さらに、しんちゃんは、
お決まりだが、尻を窓から出す。
おじゃる丸は窓から
クレヨンしんちゃんのギャグの 一部は子供の一般化能力の欠如 (あるいは一般化の拒否)を 基盤にしている。 ママの「してはいけない帳」が 爆発しそうになるのは、 しんちゃんの一般化への拒絶によるものである。 そしてその手帳には とくべつに個別的な制限でいっぱいになる。 「ママがお昼寝している時に、 そばでスイカ割りをしてはいけません」などと。
スペードのジャックを見たとき、 わたしたちはそれを何として見ているのだろうか? そう聞かれても途方にくれるだろう。 そのように「スペードのジャック」と言語化されてしま ている時点であきらかなように、 わたしたちはそれを「スペースのジャック」として 見ている。
一般化とは「として見る」ことなのだ。 【ほんとかなぁ・・・】
「一般化」は自分自身の宿題としよう。
「視点の二重化」は、 博物館を理解する能力、 そして「ごっこ」を遊べる能力として 考えている。
[1] 全体論が、 いささか神秘的であることは 認める。 三部作の第2部『社会』において 「創発」 (emergence) という考え方 を中心に、検討を加えている。 ここでは全体論が論理的にあり得るとして 議論を続けたい。 [Back]
[2] 正確には、 彼は「・・・・・ それ 自らのうちに幾つかの部分をもち、 これらの諸部分は穀物の集積のごときではなくて、 その全体はこれら諸部分とは なんらか別のものであるようなものども」 [310] について語っている。 [Back]
[3] これらの説の妥当性については、 述べない。 [Back]
[6] アスペクトの全体論的性格については わたしは『言語ゲームが世界を創る』 [nakagawa-gengo]の中で (とりわけ「第5講義」において) 述べている。 [Back]
[7] 文化とは一種のゲームである、というのは わたしの一貫した立場である。 たとえば、わたしの『異文化の語り方』 [nakagawa-cat]を見て欲しい。 [Back]