2 引用
2.1 使用と言及
2.2 固有名詞説
2.3 直示理論
2.4 引用と虚構とアスペクト
3 図と地
3.1 単相と地
3.2 引用
3.3 異文化理解
3.4 よろめきドラマ
3.5 虚構とゲーム
3.6 レトリック
3.7 現代美術
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(C) Satoshi Nakagawa
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わたしのこの本での目的は、 異文化の見える時を_MARK(同定)し、 それを_MARK(論理的)に分析することである。
異文化の見える時とは
わたしはそれをアスペクト把握と結びつけ、 異文化の見える時とは、すなわち、 _MARK(複相)状況であると(野矢にならって)言った。
さらに野矢のキーワードである 「_MARK(相貌)」を考える中、 複相把握を二つに分けるに至った--- 淺い複相把握と深い複相把握(相貌をもった 複相把握)である。
複相把握を二つに分けることの妥当さは、 前章の虚構とゲームへの わたしたちのもつ態度の分析を通じて明らかとなった であろう。・・・・・ 【工事中】 ・・・・・ さらにベイトソンを経由して ラッセルのパラドックスを虚構への態度と 重ねるなかに、 二つの複相把握の論理的メカニズムを探ったのだ。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
(A) 野崎は{現実に}主張する[{現実に}ジョーズが来た] (A') 批評家は{現実に}主張する[{ごっこで}ジョーズが来た] (B) 俳優は{ごっこで}主張する[{現実に}ジョーズが来た] (B') 読者は{ごっこで}心配する[{現実に}ジョーズが来た]
次の枠組みの中は嘘である +----------------------+ | | | これはケーキです | +----------------------+
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
・・・・・ 【「これはゲームです」がゲームの中にある。】 ・・・・・
(C) {ごっこで}[読者は{現実に}心配する [{現実に}ジョーズが来た]]
(C) {現実に}[{ごっこで} [読者は{現実に}心配する [{現実に}ジョーズが来た]]]
+----------------------+ | この枠の中は嘘である | | | | これはケーキです +----------------------+
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
この章では、これまでの議論、 ためらい(異文化の見えるとき)、アスペクト、 虚構論を、 _MARK(引用論)に重ねる作業を行ないたい。
この章の目的の一つの言い方は、 次のようになるだろう。
_MARK(ベイトソン)は前の章で言及した論文の中で、 言語あるいはコミュニケーション一般の進化に ついて、 つぎのように述べている:
まず単純に事実を表わす、 指示的 denotative レベルがあるが、 そこを起点として、 二つの異なった方向に、 抽象の階梯が積み上がっていっている。 一方の抽象段階の変域(レベルの集合)を 「_MARK(メタ)_MARK(言語)的」 meta-linguistic と呼ぶ。 (例--- 「『ネコ』なる言語的音声は、 これこれの事物集合のすべてのメンバーを表わす」、 「『ネコ』なる語は、毛を持たず、 引っ掻くこともしない」等。) もう一方の抽象段階の変域を 「_MARK(メタ)・_MARK(コミュニケーション)的」 meta-communicative と呼ぶ。 (例---「あなたにネコの居場所を教えて あげたのは、友好の気持ちからだ」、 「これは遊び play だ」等。) [ベイトソン 2000: 259]
ベイトソンのこの分類によれば、 前章でとり挙げたのはメタ・コミュニケーション的な レベルであり、 この章でとり挙げたいのは メタ言語的なレベルである、と言えよう。
この章の目的のもう一つの言い方は、 (そしてこちらがより重要なのだが) 前章でスポットライトのあてられた、 メタ・メッセージ(「これはゲームだ」)、 あるいは内包オペレーター(「虚構で」)は、 いわば、_MARK(不可視)のものである。
それを論理階型の混同として 直接のメッセージの上位の階型に存在するのだ。 ・・・・・ 【ダブル・バインド】 ・・・・・
同時に、 しばしば_MARK(意図した)コミュニケーションが 失敗することがある。 [1] たとえば、( [ベイトソン 2000], [Radcliffe-Brwon 1964 (1922)] ・・・・・ 【アンダマン】 ・・・・・ )
コミュニケーションがうまくいくためには、 これらの_MARK(マーカー)を可視にすべきだろう。 これから扱う引用は、 その可視化を担うものである。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
引用について、
入門書的に説明すれば、
次のようになる。
言葉には二つの使い方がある。
_MARK(使用) (use) と_MARK(言及) (mention) である。
「ネコはひっかくことがある」あるいは
「中川は大学の教員である」という文において、
ここに登場するすべての言葉は
引用を言及のみに限って、 特徴づける理論がある。 クワインは次のように言う: 「論理分析の観点から言えば、 引用とは一つの単語あるいは_MARK(サイン)として 見做されるべきである」 ( [26: Quine 1940]) と。 タルスキは言う: 「引用された名前は一つの語としてあつかうことが できよう。 それゆえ、統語論的には単純な表現なのだ。 それらの名前の各構成要素は ・・・・・ 単語の中の連続する文字のひとつひとつと同じ 機能を果たしている」 ( [タルスキ 1987: 159])と。 簡単に言えば、 引用は、 引用された_MARK(語)・句・節(文)に 名前(固有名詞)をつけて_MARK(名詞)にしているのだ、 ということになる。
この説を、デイヴィドソンにならい、 「固有名詞説」と呼ぶ。 この説に従えば、 引用された部分は、あたかも モノであるかのように扱われてしかるべきなのだ。
基本的にはクワインのように 引用を_MARK(言及)の典型として見る議論が 主流であった。 その流れに転機をもたらしたのが、 _MARK(デイヴィドソン)による引用論 [Davidson 1985]である。 彼は、引用とは言及と同時に使用でもあることを 指摘したのだ。 「中川は『相対主義が可能だ』と言った」という文を 考えよう。 たしかに、 第一段階の理解として、 引用の部分を_MARK(モノ)として見ること、 すなわち「中川は P と言った」と見る段階を 想定するのは間違いではない。 しかしこの文の十全な理解のためには、 引用された内容、すなわち 「相対主義が可能だ」の_MARK(内容) の理解が必要である。 すなわち、 引用とは言及であると同時に使用でもあるのだ。
2.3.1 引用を遊ぶ
デイヴィドソンのこの指摘、 引用には言及のみならず、 使用もある、というのは、 前章での_MARK(虚構)と_MARK(ゲーム論)に重ねあわせると 分かりやすいだろう。
ゲームの外側の単相状況と ゲームに融即してしまった (石を食べてしまう)もう一つの単相状況は、 ゲームに関わっているとは言えない。 ひとつのゲームへの関わり方は ゲームから一抜けて観察することだ。 そして、 ゲームと虚構のほんとうの遊び方は、 一抜ける立場(淺い複相把握)と融即の立場(単相)の 立場を_MARK(往復)することである、と 前章で指摘した。
デイヴィドソンの引用論が示していることは、 引用の本質は使用(単相)だけでもなく、 言及(淺い複相)だけでもなく、 その統合にある、ということである。
2.3.2 言及だけの引用
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
引用論の紹介を思い出していただきたい。 固有名詞理論と直示理論を紹介したのだが、 固有名詞理論だけで説明できる引用もあるのだ、 ということである。 固有名詞理論で説明できる、 すなわち言及しかしていない引用がある、ということを 指摘しておきたい。 「『XXX』は日本語にない」などが典型的な例となろう。 ここでは、 引用はまさに固有名詞、非構造化された記号として のみ出現している。 引用されている_MARK(モノ)を _MARK(理解)はできないのである。
この指摘は、 引用の_MARK(種類)、 すなわち言及だけの引用と 言及と使用の両方を行なっている引用とがあることを 示している。 それを指摘してわたしが言いたいことは、 この二つの種類の引用が、 冒頭で示した「出会い」(アスペクト)と 「誘惑」(相貌)に相当するのだ、 ということである。 すなわち、 引用のない文は「平穏」の文であり、 引用を使う文のうち、 その引用が言及だけの文は「出会い」に、 そして言及も使用も使用している文は「誘惑」に 相当するのだ、ということである。
かくして、 アスペクト論を引用論が、比喩的に言えば、 相同であり、 2つを重ねあわせて議論することの妥当性・重要性は 理解されたであろう。
2.3.3 直示理論
デイヴィドソンは自身の引用に対する 理論を「_MARK(直示)理論」 (Demonstrative theory of quotation) と呼ぶ。 直示する (to demonstrate) とは、 指差しなどの(言語外の)現象にたよって、 世界のモノを指すやりかたである。 [2]
彼の
直示理論 によると、 引用を含む文はつぎのような 引用を含まない文に翻訳できる。「中川」は漢字二文字である → 中川。
これ がトークンであるような 表現 (expression) は漢字二文字である厳密さを犠牲にし、わかり易さを強調した 「_MARK(簡易)直示理論」を示し、 この簡易バージョンを説明していきたい。
簡易直示理論による分析は次のようになる。 「『中川』は漢字二文字である」は、 「中川。これは漢字二文字である」となる。 あるいは 「中川は『相対主義は可能である』と言った」は、 「相対主義は可能である。 これを、中川は言った」と。 言い換えの際の「_MARK(これ)」を発話するとき、 なんらかの直示(たとえば指差し)が あるものと考えてほしい。
2.3.4 往復運動としての引用
虚構やゲームの遊び方と同じく、 引用もまた無限の往復と解釈すべきであろう。 「中川は『相対主義は可能だ』と語った」を 十全に理解するためには、 「相対主義は可能だ」そして 「中川はこれを語った」という二つを順番に 理解するだけでは終わらない。 「中川はこれを語った」の理解の際に、 _MARK(ふたたび)「相対主義は可能だ」の命題に、 人は戻らなければならないのだ。 そして、それを理解して、 再び「中川はこれを語った」に向かうのである。
デイヴィドソンの直示理論の形式が、 この無限の往復運動をもたらすような 形式となっているか、 わたしには自信がない。 直感としては、 直示理論は行儀のいい、 一抜けた状況にも読める。 [3]
もう一度だけ、 アスペクト論にまで遡って、 この三つの議論 (アスペクト、虚構/ゲームそして引用)の 相同性を示しておきたい。
2.4.1 引用と虚構
アスペクト論と遊びと引用の 相同性が引用の直示理論による言い換えから見てとれる。 ベイトソンの議論を思い出してほしい。 ままごとの例を、 この文脈にあうように言い直してみよう。 「これはケーキです」は、 ベイトソンによればつぎのように言い換えられる: (1) これはケーキです、 (2) これは遊びだ、と。
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
引用を理解することは、 虚構を遊ぶことと同じ構造をもっているのである。
2.4.2 引用としてのアスペクト
わたしは自閉症児に欠けている能力として アスペクト把握がある、と言った。 すなわち 自閉症児に欠けているのは 引用の能力だということになる。
同じ
ままごと の例を出そう。 だれかが「これはケーキです」という。 「これ」で指されているのは石であった。 自閉症児はこの石を口に入れてしまうのだ。 最初のメッセージには引用があったのだ、 引用符を入れて再掲すれば 「『これはケーキです』」となる。 自閉症児はこの引用を理解せず、 「これはケーキです」とそのまま理解してしまったのである。
2.4.3 引用と複相
もう一つの例を出したい。 玉井 ( [玉井 1983])によるものだ。
ある日彼 [自閉症児]は、 明治村にいった。ここには昔、京都市内を走っていた電車が ある。展示品であると同時に、広い構内の交通機関の役も果たしている。 昔通りの服を着た車掌さんがいて、 観光写真に収まってくれる。 彼はその車掌さんに、「京都の市電は廃止になった?」ときいた。
「廃止になったよ」
同じ質問は7、8回つづいた。 彼はいまここで乗ってきたではないかといいたかったの であろう。 [110--111: 玉井 1983]
「これは『京都の市電』だ」 (ほんとは違うけどね)という 引用符つきのメッセージを、 自閉症児は引用符ぬきでしか理解できないのだ。 すなわち「これは京都の市電だ」と。 その場合、 その言明は端的に偽となるだろう。 玉井は案内人の発言を「_MARK(二重の視点)」を 持つことと呼ぶ。 自閉症児はこの能力を欠くのだ。 もちろん、これは アスペクト把握の能力である。
この時点で言語的事象としての引用という 足枷をはずして、 次のように言い換えることができるだろう。 博物館という場こそが引用符だったのだ、と。 同じように、
ままごと という場は 引用符である、と言うことも可能であろう。
もう一つの新しい用語のペアを導入しよう。 「図」と「地」である。 まず、もっとも直感的に納得できる 引用に関してこの語を導入する。 これ以降引用している文を「_MARK(地)」と、 そして材料を「_MARK(図)」と呼ぶことにする。 すなわち、 「相対主義は可能だ」の部分が図であり、 「中川は・・・と言った」の部分が地だ、 と語り直したいのだ。
ここまでは問題はないはずだ。 ふだん、わたしたちは「_MARK(会話)と地の文」といった 言い回しを使用しているのだから。
引用論を通して導入したこの新しい用語は、 _MARK(新しい) 理解を引き寄せることになる。 なぜなら、 これまで、 _MARK(四つ)の_MARK(状態) (単相/浅い複相把握/深い複相把握/単相)を 説明するのに、 「単相」と「複相」の他に、 「浅い」と「深い」の概念、 すなわち_MARK(二つ)の_MARK(ペア)、 四つの概念を使わざるを 得なかった。 図と地は、 それだけでこの四つを説明し切れるのである。
さらに、 このペアの導入により、 四つの状況の_MARK(対称性)が明白となる。 結論を先取りした表となるが、 次の表を見よ。
1 | 2 | 3 | 4 | |
単相 | 浅い複相 | 深い複相 | 単相 | |
【図を描く】 | 地 | 地と図 | 図→地/地→図 | 図 →地 |
上の表で、 (1) と (4) に現れる単相状態を、 _MARK(とりあえず)「_MARK(地)」と呼んでいる。 これには_MARK(留保)が必要である。
その_MARK(留保)は大事な留保である。 地は図がないかぎり地としては認識されない、という 点である。 それは、ほんらい、地でさえないのだ。 _MARK(単相)と名はつけたが、 それは相(アスペクト)ではない という議論を思い出しほしい。 複数の相(アスペクト)があって始めて相が理解される のだ。 「ウサギに見える」は「アヒルに見える」があって 始めて出現する言明である。 _MARK(単相状態)での言明は「ウサギに見える」ではなく、 「_MARK(ウサギだ)」なのである。 _MARK(相)が_MARK(一つ)である場合、 それは_MARK(見え)ではなく、_MARK(存在)となる。 同じように、 図があって始めて、その図を成り立たせている 地が浮かび上がるのだ。 図と地から図が消えてしまえば、 地であった部分は地としてさえ認識されなくなる
_MARK(図)とは_MARK(否定性)のことなのだ。
地は図(否定性)の中にはじめて認識される。
図のない地は地ではない。
相のない状態
(すべてが存在であるような状態)を、
とりあえず単相状態と呼んだ
(それは本来
以上の留保をつけたうえで、 図と地という語の有用性を確かめておこう。
「言及」は (2)の状態である。
言及とは、
地の文を
この P の部分、 引用された部分の理解にとりかかり、 それに没入すれば、あなたは、 言わば、中川(引用部分の話者)世界に 引き込まれる。 これが使用の状態、(4) である。 あるいは内在的態度(融即)であるのだ。
引用を十全に理解する((3))とは、 引用部分を理解しながら(それを地として)、 なおかつ全体が引用であること (その事実を図とする)という態度なのである。 これが「往復運動」あるいは 「(内在的態度と外在的態度)の合成」という、 いささか、神秘的な言い回しが指し示している 状況なのである。
独我論的状態、 _MARK(ピジョンホール)相対主義が (1) の状況だ。 ここから異文化(2)を見つけるために、 わたしたちは複相状態((3)と(4))を経ること となる。 複相状態の最初((2))では、 自文化((1))を地として、 異文化((4))を図として見ることとなる。 あくまで_MARK(観察)しているわけだ。 異文化((4))の程度が増していくとしよう。 途中を省略して、 そのようなプロセスのなかで、 あるとき地と図が反転するのだ。 すなわち深い複相状態((3))、 異文化の相貌を捉えた上での複相状態となるのである。 このとき、 地となるのは異文化で、 自文化はその地の上の図となる。 そして とうとう異文化に 没入(_MARK(融即))してしまうことになるか もしれない。 その時、 異文化は地であること (図をともなうものであること)さえやめる。 否定性の欠如である。 もう一つの独我論的状態に陥ったのだ。
3.4.1 よろめきドラマ---転落バージョン
_MARK(よろめき)ドラマの _MARK(シナリオ)で語ってみよう。 (4) を「他者」と呼ぼう。 平穏状態は単相である。 他者は見えない。 見えないことさえ分からない (否定性の欠如した)状態である。 そして出会いが訪れる。 出会いにおいて、 平穏状態を地にして、 他者を図にする状態となる。 深入りするについて、 図である他者の割合が増えていく。 そして、あるとき、 図と地が反転するのである--- 「誘惑」へ、 深い複相状態に達したのだ。 そのとき、 これまで図であった他者が地になり、 かつての平穏状態が図となる。 そして、 転落に至ると、 他者が地になり、 図がなくなる。 すなわち、それは地でさえもなくなるのだ。
3.4.2 モーム型---興醒めバージョン
いささか退屈かもしれないが、 _MARK(モーム)型のシナリオについても 述べておきたい。 ここでは重要な点が述べられるので、 我慢して聞いてほしい。
_MARK(復習)しよう。 それは恋が醒める物語だ。 物語は熱中から始まる。 そこに「疑惑」が生じる。 さらに「興醒め」へと至り、 さいごにもとの鞘に戻る(「平穏」)という 物語だ。
_MARK(疑惑)の状態とは、 忘れていた平穏な状態が図として浮かぶ そのような状態である。 言い換えれば、 熱中が地であったことに気づく段階である。 彼女は忘れていた平穏に (再び)気づいてはいるが、 それをあくまで_MARK(観察)しているのである。 外在的態度をとっているのだ。 興醒めを経て、 _MARK(平穏)にもどってしまえば、 それは(かつての)生活に_MARK(融即)している、 内在的態度をとっている、という言い方が 可能であろう。 _MARK(興醒め)の段階とは、 かつての平穏の世界の割合がどんどん 増えていき、 地と図が逆転するそのような状態である。
退屈さを覚悟で二つの型を語り直したのは、 物語の対称性に気づいて欲しいからだ。 次の図を見てほしい。
1 2 3 4 よろめき 外在的態度 内在的態度 モーム 内在的態度 外在的態度
_MARK(さらに)虚構とゲームの理論に当て嵌めよう。
虚構を楽しむ、あるいはゲームを遊ぶとは、 内在的態度(融即)と外在的態度(一抜ける)の 合成だと言った。 これを図と地の後で言い替えるべき 探求をすすめてみよう。
まず足はあくまで現実世界において、 そこから虚構を眺める _MARK(外在的)態度 (_MARK(一抜け)ている態度)について 考えよう。 _MARK(外在的)態度に図と地の用語はもっとも適当である。 虚構を楽しむ外在的態度とは、 地としての_MARK(現実)世界の中に、 図としての_MARK(虚構)世界を浮かび上がらせる作業である。
すでに述べたことだが、 外在的態度とは、 ゲームから一抜けた子供、 園児の芝居を見る親や先生、 そして下手な俳優がその例となる。 彼らはあくまで現実世界の中の 図として虚構/ゲームを見ているのだ。
内在的態度(融即)とは 「虚構世界を地とする」態度である。
同じように、_MARK(現実世界)だけで生きている時、 虚構世界を図として見ていない時もまた、 「現実世界を_MARK(地)とする」という _MARK(内在的)態度と言える。
虚構を例にする限り、 _MARK(虚構)への内在的態度(_MARK(融即))の実例は 考えにくい。 ままごとの中で _MARK(石)を食べてしまう _MARK(自閉症)児をその例として挙げることができよう。 _MARK(憑依)がそのような例として挙げることができるかどうか、 わたしには断言できない。
図と地の語を導入して、 もっとも興味深いのは、 「虚構世界を遊ぶ」仕方の言い換えである。 それは、 「虚構世界を地として現実世界を図とする」作業なのだ。
虚構 | 現実という地 | 虚構を図 | 現実を図 | 虚 構という地 |
_MARK(引用)と_MARK(アイロニー) そしてパロディを 地と図で言い換える作業は、 _MARK(読者)にゆだねよう。 ほぼ同じ作業なのだが、 _MARK(隠喩)の効果を図と地の語を使って 言い換えてみよう。
「彼女は薔薇だ」という隠喩の内在的態度とは、 彼女が薔薇であるような世界からの視点を持つことである。 この世界を「_MARK(薔薇世界)」と名づけよう。 「彼女は薔薇のようだ」という_MARK(直喩)は、 現実世界を地として、 薔薇世界を図とするそのような構図となる。 そして、 「彼女は薔薇だ」という_MARK(隠喩)を鑑賞するとは、 薔薇世界を図として現実世界を地とする、 そのような_MARK(構図)を遊ぶことなのである。
内在的態度と外在的態度および 図と地の新しい用語をつかって、 民族誌の分析に入るまえに、 ひとつだけ新しい項目の分析を行なってみよう --- _MARK(絵画)という芸術形態である。
さらに「図と地」の用語を _MARK(より)_MARK(大きな)_MARK(枠組み)の中で 使ってみたい。
_MARK(グリーンバーグ)は言う、 芸術は_MARK(自然)の_MARK(模倣)(_MARK(引用)) であった、と [Greenberg 1939]。 そして、彼は続ける、 _MARK(アバンギャルド)の芸術は 芸術の引用だ、 すなわち引用の引用だと。
このグリーンバーグの言葉を 下敷きにしながら、 _MARK(近代)の _MARK(アートワールド)を図と地を 使用して、 次のように記述することが可能であろう: _MARK(地)は_MARK(生活世界)(ライフワールド、日常)であり、 そこには_MARK(日用品)(芸術作品ではないモノ)が 置かれている。 _MARK(図)は_MARK(美術館)である。 それは(_MARK(博物館)がそうであったように) _MARK(引用符)として働く。 芸術作品は美術館に入れられ、 括弧でくくられるのだ。
そのような意味で、 _MARK(アバンギャル)ドは、いわば、 _MARK(引用符)との戦いだ、と言える。 デュシャンは作品『_MARK(泉)』において、 だれが見ても日用品である便器を 引用符で囲んだ(美術館に展示した)。 アバンギャルドによる引用符への挑戦である。 ただし、 これは言わば芸術の_MARK(枠内)での 芸術への_MARK(挑戦)であり、 ある意味で、 この挑戦の_MARK(敗北)は見えていたのではないかと わたしには思える。
登 ( [登 2015]) は、 新世代のアバンギャルド(たとえば マーサ・ウィルソン)の活動を 分析し、 この挑戦の新しい展開を描く。 _MARK(ウィルソン)らは、 日用品に引用符を与えるという デュシャンの試みとは _MARK(対照的)な挑戦をする: 芸術作品から_MARK(引用符)をはずすのである。 具体的には 芸術作品を_MARK(美術館)の_MARK(外側)へと 配置するのだ。 デュシャンが地を図にしたのに対し、 ウィルソンは図を地にしたのである。
[1] ダブルバインドは意図したメッセージとは 言えないかもしれない。 [Back]
[2] すなわち、直示理論は 純粋に言語的な理論ではなく、 _MARK(言語外)へと、 言わば、はみ出している理論だ、 ということである。 それは_MARK(語用論)のレベルに 位置付けられるものである。 [Back]
[3] じつはベイトソンの議論も、 「これはゲームです」がメタメッセージだ、 という言い方では、 それがゲームの外にあるようにも 読むことが可能だ。 [Back]