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第3章 「これはケーキです」---ゲームと虚構

中川 敏

1 はじめに
1.1 これまで
1.2 これから

2 中川のゲーム論
2.1 全体性としてのゲーム
2.2 議論への疑問
2.3 内在的と外在的態度
2.4 虚構とゲーム

3 ベイトソンのゲーム論
3.1 コミュニケーションの理論
3.2 論理階型の混同

4 まとめと展望
4.1 まとめ--- (1) 民族誌の書き方
4.2 まとめ--- (2) 図と地
4.3 展望

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(C) Satoshi Nakagawa
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1. はじめに

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

1.1 これまで

異文化の見える時を題材にして、 これまでアスペクト把握にそって 議論を進めてきた。 複相把握こそが異文化を見つける キーモーメントであるのだが、 その複相把握に二種類ある、というのが 前章までに明らかになった。 野矢( [noya-kataru])の言葉を つかえば相貌をもった 複相把握(深い複相把握)と そうではない 複相把握(淺い複相把握)とである。

前章は、二つの複相把握を 区分する鍵となる「相貌」を、 アスペクトのもつ全体性の中から説明した。 すなわち、 あるアスペクトが部分となるような全体性があり、 その全体性を見据えた上での複相把握が 相貌をもった、 すなわち深い複相把握だ、ということを 明らかにしたのだ。

1.2 これから

この章では、 深い複相把握のさらに十全な理解へと 進んでいきたい。

そのための対象として ゲームと虚構について見ていく。 この章は三つに分かれる--- 最初の節は「中川のゲーム論」であり、 そこでは わたし(中川)の『言語ゲームが世界を創る』 ( [nakagawa-gengo])で描かれたゲーム論を 修正する作業が行なわれる。 簡単に言うと、 『言語ゲームが・・・』で、 わたしは、まだ複相把握を分けて 考えていなかったのだ。

次の節ではウォルトンの虚構(映画や小説)についての 議論( [walton-mimesis])をとり挙げ、 鑑賞者(観客や読者)の態度とは、 虚構という ゲームに参加するプレーヤーであることを 示す。 プレーヤーの態度を理解する ポイントは、 彼女は、虚構の中と外の二つの視点を 作り出すということである。

ウォルトンの議論を、 さらにベイトソンの「空想とゲームの理論」 ( [bateson-play-j])に重ねあわせるのが、 その次の節である。 ここでは、 ウォルトンの二つの視点というのが、 ある種のパラドックスの上に 成り立っていることを示す。

複相把握、とりわけ深い複相把握とは、 論理的な矛盾をさえ含むような能力なのである。

2. 中川のゲーム論

この節では、 アスペクト論をゲームをめぐる議論 (ゲーム論)へと接木したい。 ケンダル・ウォールトン ( [walton-mimesis])によれば、 すべての虚構(フィクション)は "Make-believe" (ごっこ)であるという。 ゲーム論とはすなわち虚構論でもあるのだ。 わたしは、 アスペクト論をゲーム論、虚構論へと つなげていきたいのだ。

まずは、 アスペクト論をゲームをめぐる議論の中に 取り込む作業から始めよう。

2.1 全体性としてのゲーム

アスペクト把握の全体性は、 アスペクト把握の背後になにか全体性をもった_MARK(体系)を 示唆する: それは_MARK(言語)であり、 そして_MARK(文化)なのだ。 それらをゲームと一般化することによって 捉えよう、というのが この節の作戦である。 すなわち、アスペクトを把握する能力とは ゲームを_MARK(遊ぶ)能力であると 言い換えた上で、 問題を「ゲームを遊ぶ」とはどのようなことか、 と再提示したいのだ。

2.1.1 ままごと

出発点としての 自閉症の欠けている能力としての アスペクト把握(「空想的知覚」)にもどろう。 ここに既にゲームが言及されていたという 事実を思い起こしてもらいたい。 自閉症者は ゲームを遊ぶことができないのである。 「石をケーキとみなす」というアスペクト把握は、 ままごとというゲームの場の中で起きることである。 あるいは 「タクアンを卵焼きに見立てる」 [166: 野矢 1999]という アスペクト把握は 「花見ごっこ」というゲームの場の中で 起きることなのだ。

2.1.2 二つの態度

この節の目的は、 わたしがかつて示した「ゲームの遊び方」を 紹介したうえで、 それを修正していくことである。

『言語ゲームが世界を創る』 ( [nakagawa-gengo])の最初の章で、 わたしは、 ゲームに望むプレーヤーの態度から 議論を始めた。

それには二つある: 「のめり込む」と「いち抜ける」である。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

当該の本では アスペクト論に言及はしていなかったが、 これをアスペクト論に接木するのは簡単である。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

2.2 議論への疑問

_MARK(10年以上)講義で使ってきた 人類学入門であるが、 わたしは_MARK(近年)、 この図式にたいしていくつかの _MARK(疑問)を感じるようになった。

一つは日常生活(人生、文化)と 通常のゲームとの違いである。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

2.2.1 とりあえずの答

もちろん、 それなりの答をもって二つの態度の議論は した。 すなわち、 通常のゲームがいち抜けられるのは、 それを取り囲む日常生活という土台があるからだ、と。 そして生活世界には、そこから抜けたときに 踏むべき土台はないのだ、と。 それが『分裂病の少女』 [sechehaye-71-j]が 示すことだ、と。

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

2.2.2 それでもおかしい・・・

以上が、 『言語ゲーム・・・』を執筆していた当時の わたし自身の答である。 しかし、 現在考えると、その答は納得のいくものではない。 最も問題となるのは、 ゲームとは、 その本質としていつでも一抜けることが できるものではないか、という疑問が あるのだ。 その点を抜きにして、 ゲームと (一抜けることが想定されていない)生活世界と いっしょに議論することは正しくないと、 現在の私は思う。

もう一つの問題がある。 こちらは第一の問題 (ゲームの本質は一抜けることができる、という点)に 比べれば、 本質的ではない。 しかし、 人類学者としてのわたしには致命的なものである。 ゲームに対する態度として 二つを挙げた--- のめりこむと一抜ける、である。 文化にのめりこんでいるのは原住民であろう。 一抜けているのは旅人であろう。 わたしの疑問とは、 人類学者とは原住民とも違うし、 また単なる旅人とも違う。 原住民と生活世界への態度が違うというのは、 わたしの実感である。 簡単に言えば、 わたしは調査が終わればいつでも 一抜けて、わたし自身の生活世界へと 戻ることを知っているのであるから。 そして、単なる願望なのかもしれないが、 それでも旅人のような(一抜けている)態度を とっているとも思いたくない。 人類学者は旅人よりももう一歩 現地の人の生活世界に近い位置にいる、と 思いたいのだ。

答は、もちろん、見えている。 複相を二つに分けた現段階から言い換えると、 旅人を淺い複相把握に、 人類学を深い複相把握に当て嵌めればいい、ということ だ。 問題は、 ゲームに対する態度において二つの複相をどのように 区別すべきかが、 まだ見えていないのだ。

その問題に取り組む前に、 まず用語、とりわけ問題の多い 「のめりこむ」について整理しておきたい。

2.2.3 「のめりこむ」の削除

これ以降、 その解釈が問題となる「のめり込む」は使わないことにする。 「のめりこむ」が「誘惑」の段階(深い複相把握)にも、 「転落」の段階(もうひとつの単相)とも、 はっきりしないからである。

ゲームへの、あるいは異文化への_MARK(転落)の状況を 「ゲームに_MARK(融即)する」 (to participate) と 呼び(cf [walton-mimesis: 190])、 それの一歩手前の状況を すなわち、深い複相把握あるいは「誘惑」の段階を 「ゲームにとらわれている」と表現したい。

「融即」の語については、ここでは、 「_MARK(一体化)」と捉えていただければよい。 あるいは、バックパッカーの用語で言えば 「_MARK(沈没)」となろう。

また浅い複相はゲーム論の中では 「ゲームにとらわれている」状況から推移した段階として 描いたので「一抜ける」という語を使ってきた。 逆にゲームに気づかない状況、すなわち「平穏」からの 推移としては「気づき」あるいは「観察」などの語が ふさわしいだろう。 ここでは「観察」を使わせてもらう。

「融即」の語について簡単に説明する。 ・・・・・ 【レヴィ=ブリュル】 ・・・・・

・・・・・ 【二つの疑問の復唱】 ・・・・・

2.2.4 二つの契機

本筋に戻ろう。 わたしはゲームの二つの複相把握について 考えようとしていたのだ。 この問題を解く手掛かりは二つあった。 一つは「分析美学」と呼ばれる領域から、 もう一つはある特異な人類学者 (グレゴリー・ベイトソン)の著作からである。 個人的体験を先に述べれば、 ベイトソンの方が先にくる。 しかし、 ベイトソンの議論を、 先の疑問に結びつける (それを疑問への回答として読む)ことが できたのは、 分析美学からの導きである。 ここでは、 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

議論が長くなるので、 あなたがたが、 もともとの疑問との関連を失なってしまうのが 怖い。 先に答を掲げておく--- 図-kotae を見ていただきたい。

よろめき平穏→出会い誘惑→転落
アスペクト単相浅い複相深い複相(相貌)単相
ウサギだと信じているアヒルに見えるアヒルだ
文化生きる一抜ける/観察するとらえられる融即/生きる
ゲーム生きる観察する/一抜ける遊ぶ融即する---石を食べる
表 ゲームとアスペクト把握

・・・・・ 【表の説明】 ・・・・・

2.3 内在的と外在的態度

【これはゲームと虚構のうち、 「中川ゲーム理論の修正」に挿入する。 さらに、 それだけで一つの章にすべきだろう。 (そして後半の虚構とゲームで別の章にする。)

2016年1月の最初にここから始めるので、 復習の意味をかねている。

「内在的」と「外在的」を導入して、 正直に言えば、議論の筋は変わらない。 それでもこの用語を導入するのは、 この二つの語の持っている_MARK(対称性)のゆえであ る。

議論をすすめるのに便利な言葉として、 「内在的態度」と「外在的態度」という語を導入したい。 これは伊藤笏康が「虚構と科学」 [伊藤 1997] という興味深い論文の中で使ったことばだ。

2.4 虚構とゲーム

どのように置き換えるかを 最初に示しておこう。 「浅いアスペクト把握」あるいは 「一抜ける」を「外在的態度」に、 「(転落としての)単相」あるいは 「融即」を「内在的態度」に置き換えたいのである。

ただし、 伊藤の用法は、 この置き換えとは微妙に異なっている。 まずは、 伊藤の議論を紹介しよう。

2.4.1 伊藤の議論

伊藤自身の議論は、タイトルから分かるように、 虚構の分析である。 虚構の話から始めよう。

虚構を見るにあたって二つの態度を区別しよう、と いうのが、 伊藤の議論の発端である。 伊藤はその二つを「内在的態度」と 「外在的態度」と呼ぶ。 この語の対称性が ひとつは通常の状況、 『ジャックと豆の木』のお芝居を お芝居として鑑賞する立場である。 子供たちはそのお芝居に引き込まれ、 ジャックが_MARK(巨人)に追いかけられれば ドキドキする。 「フィクションを_MARK(怖がる)」のだ。 この子供たちの態度を、伊藤は 「内在的態度」と呼ぶ。

もう一つは、たとえば園児のお芝居を見ている 親や先生の立場である。 「かれらが見ているのは虚構の世界ではなく、 現実のわが子や園児たちがふりつけにした がって演技している姿である。 親や先生たちにとって『ジャックと豆の木』の虚構世界は、 もともとわが子や園児の成長という現実を見るための、 刺身のつまにすぎないのである」 [伊藤 1997: 108] 彼らは現実の_MARK(一齣)として、 そのお芝居を見ているのである。 そして、その態度は批評家のそれと重なるものであるこ とを、 伊藤は、正しく、指摘する。

伊藤は、 虚構を楽しむとは、 内在態度と外在的態度の二つのベクトルの 合成にある、と結論する [伊藤 1997: 109--110]。

2.4.2 間違い

伊藤の議論は、 わたしの『言語ゲームが世界を創る』 [nakagawa-gengo]に似た間違いを犯している。 伊藤の「内在的態度」と「外在的態度」は、 『言語ゲーム・・・』における 「のめりこむ」と「一抜ける」に正確に対応しているの だ。 そして、すでに示したように、 「のめりこむ」は融即の単相状況ではない。 それ自身がすでにゲームの遊び方なのである。 同じように 伊藤の議論の中での内在的態度自身が 、 虚構の遊び方になっている。 すでに述べたように「フィクションを怖がる」のは、 じっさいの恐怖とは違うのだから。 伊藤のいう内在的態度は、それ自体が 虚構の楽しみ方を示している。 合成されているのは 外在的態度と内在的態度ではなく、 外在的態度と融即なのである。

2.4.3 修正

伊藤の言う内在的態度は_MARK(融即)ではない。 ここでは、 それを踏まえた上で、 伊藤の「内在的態度」を(その意味を変更して) 「融即」の言い換えとしたい。

わたしは、 深いアスペクト把握(虚構を楽しむ、ゲームを遊ぶ)とは、 淺いアスペクト把握と融即(単相)の間の 往復運動である、と言った。 これと同じことを、 つぎのような言い換えでも可能にしたいのだ。 すなわち、 虚構を楽しむとは、 外在的態度と内在的態度の合成である、と。

いつもの図を使えば次のようになる:

よろめき平穏→出会い誘惑→転落
アスペクト単相浅い複相深 い複相単相(融即)
虚構外在的態度楽しむ内在的態度

3. ベイトソンのゲーム論

わたしなりの解釈を施した ウォルトンの議論の結論、 すなわち 遊ぶとは、 観察/一抜けると融即/没入することを 同時にするのだ、という結論に 対する理解をさらに深くするために、 この節では ベイトソンによる「遊びと空想の理論」 ( [bateson-play-j])を、 そのような脈絡で読んでいきたい。

3.1 コミュニケーションの理論

ベイトソンが当該の論文で展開する コミュニケーション論は、 「_MARK(表象)」の仕方をめぐる議論だとまとめることが できよう。 表象とは、 何か (A) がその何かとは別のあるもの (B) を 表わす (represent, stand for) ことである。 そして、 もっとも原初的な形態では あらわされるモノ (B) は世界の中の 事物、事態である。

3.1.1 シグナル

もっとも原初的なコミュニケーションは、 意図が伴わないものである。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・(「自然的」)

3.1.2 シグナルはシグナルだ

次の段階は 「シグナルはシグナルに過ぎない」という ことを知る段階となる。 その知識を利用した戦略として、 シグナルを発する側の視点から言えば、 たとえば、 _MARK(脅し)があるだろう。 じっさいになぐるつもりがなくても、 拳をぐっと握りしめることが、 相手に喧嘩となることを示すことになるのだ。 こうすることにより、 じっさいに喧嘩をすることなく、 その本来の目的 (例えば、餌に相手を近づけない)を 果たすことができるのである。

おどしというコミュニケーションは、 おどしがおどしとして知られてはならない、 そのようなコミュニケーションだ。 コミュニケーションの歴史の中で、 そこからさらにもう一歩が踏み出される--- ベイトソンの言う「メタ・コミュニケーション」である。 脅しを脅しとして (ほんとうの喧嘩のシグナルとしてではなく) 楽しむ方法である。 メタ・コミュニケーションの一つの例として、 ベイトソン ( [ベイトソン 2000]) は_MARK(遊び)に注目する。 「ケーキをどうぞ」と一人が言うとき、 そのメッセージとともに、 「これは遊びだ」という メタ・メッセージがあるのである。 あるいは、 ベイトソンの例を使えば、 子ザルががおたがいに噛み付きながら、 「これは噛んでるんじゃないよ」という メタ・メッセージを発しているのだ ( [bateson-play-j: 261])。

3.2 論理階型の混同

ベイトソンの最大の功績は、 この遊びという現象が 「エピメニデスのパラドックス」あるいは 「ラッセルのパラドックス」と 共通の構造を持っていることを示したことである。

3.2.1 論理階型の混同

最初にラッセルのパラドックスの説明から始めよう。 有名なパラドックスなので、 筋書だけ示す。 世界中の「赤い」モノの集合を考えよう。 庭に咲いているバラ、 机の上の赤い筆箱、等々、 さまざまなモノがその集合に含まれるだろう。 ここで、その集合自身を考える。 その集合は、もちろん、赤くはない。 それゆえ、その集合は、その集合に含まれない。

ここまでは問題がない。 つぎの例題は「赤くない」モノの集合である。 これもまた数えきれないほどのモノがその 条件を満たし、 それゆえその集合に含まれていくだろう。 さきほどと同じように その集合自身を考えてみよう。 その集合自身は赤くない。 それゆえ、その集合に含まれることになる。 自分自身をメンバーとするような集合が できあがった。

というわけで、 二種類の集合があることになる--- 自分自身を含まない集合と、 自分自身を含む集合だ。 ここで集合をメンバーとするようなある集合を 考えよう。 その集合とは、 自分自身を含まない集合を集めた集合である。

さて、そのようにして出きあがった集合を、 S と呼ぼう。 次の問題について考えてほしい--- 「S は S のメンバーであろうか?」

答は「イエス」か「ノー」かのどちらかである。 「イエス」だと仮定しよう。 すなわち、S は S のメンバーだ、ということになる。 すると、S は「自分自身を含まない」集合を集めたもの であるから、 その条件に合致しないことになる。 だから答えは「ノー」となる。 すなわち、S は S のメンバーにならないのだ。 そうならば S は S のメンバーになる資格がある (S は「自分自身がメンバーではない集合」の集合なの だから)。 だから答は「イエス」である。

というわけで、 (S は S のメンバーでもないし、S のメンバーでも ある、という)パラドックスがここに顕現することと なった。 これがラッセルのパラドックスである。 *****

ラッセルはこのパラドックスを 「論理階型の混同」と呼ぶ。 すなわち、集合そのものと集合のメンバーという 階型 (type) の違うものを同時に扱うことから、 このパラドックスは出てきたのである、と 彼はいう。 このパラドックスを集合論から除去するためには、 集合論の中で階型の違うものを同時に扱うことが 必要であるのだ。

3.2.2 無限の往復

矛盾がこの世界に存在しえない。 わたしたちは論理階型の混同を 虚構やゲームというこの世界の事物に 適用したいのだ。 ここで、論理階型の混同を 論理的な矛盾としてではなく、 この世界の現象として考える方法を探索する 必要があるだろう。

次の図を見ていただきたい。 これは、言わば、 ラッセルのパラドックスの回路図であると 言える。

+----------+
|          |
|       +------x
|      /   
|    +-------------o
|    |  +---+  +------+
|    |  |   |  | bell |
s    |  |EM |  +------+
|    =  +---+
|    |     |
|    +-----|
+----------+

ベルの回路図である。 =が電池であり、 EM は電磁石である。 s がスイッチだ。 s をオンにすると、 回路が完成するので、EM が電磁石として 働く。 すると oを突端とする腕が 磁石に引きつけられて、 全体として下にさがる。 そして o がベルを打つ。 この時、xの部分もいっしょに 下に下がるので、 回路が開いてしまう。 電流が流れないので、電磁石は 磁石とならない。

わたしがこの回路図を使って言いたいことは、 ラッセルの言う矛盾を 「_MARK(無限の往復)」という_MARK(運動)として 捉えたい、ということである。

3.2.3 嘘つきのパラドックス

さて、つぎに _MARK(エピメニデス)のパラドックスを見てみよう。 このパラドックスの方が、 遊びのメタ・コミュニケーションに より近いと言えるかもしれない。

エピメニデスは_MARK(クレタ島)出身の有名な哲学者である という。 彼がこう言ったという話が伝わっている--- 「クレタ人は嘘つきだ」と。

この例をパラドックスとして説明するのは [1] 長く不自然な解説を必要とする。 問題になっているパラドックスの本質を捉えた 端的で短い例をつかいたい。 嘘つきのパラドックスである。 すなわち、 「わたしはいま嘘をついている」という 発言だ。

これがラッセルのパラドックスのように _MARK(無限の往復)に陥る類のパラドックスだということは とくに記す必要はないだろう。

遊びにおけるメタ・コミュニケーションが、 ラッセルの議論や嘘つきのパラドックスに通じるという ベイトソンの指摘は、さきほど言ったように、 重要なものである。 ただ、その指摘の後に続くベイトソンの議論は、 わたしには_MARK(混乱)しているとしか思えない。 ここからは、 ベイトソンの指摘に基礎を置いた わたしの議論となる。

ここからは最も単純な 嘘つきのパラドックス、すなわち、 「わたしは今嘘をついている」を」基本的な枠組みとしながら、 ベイトソンの指摘を、 わたしの単相・複相議論そして わたしの虚構論にあてはめていってみよう。

第一段階はつぎのようなものである。


これはケーキです

これが単相(「平穏」)の状況である。 全く問題はないだろう。

第二段階は階型理論に基づいた 矛盾を含まない状況である。


次の枠組みの中は嘘である

+----------------------+
|                      |
| これはケーキです      |
+----------------------+

これが虚構論の中の俳優の態度、 すなわち「ふりをすること」に相当するのである。 あるいはゲーム論で言えば 「一抜けた」状況である。 ラッセルの教えに忠実な、 論理階型を混同しない、言わば 行儀のいい状況である。 この状況が _MARK(浅い)複相把握に相当することとなる。

この章の探求のポイントである複相把握、 虚構論における「準恐怖」を感じる状況に相当する状況、 あるいは ゲーム論における「遊ぶ」に相当する状況は、 以下の通りである。

+----------------------+
| この枠の中は嘘である  |
|                      |
|  これはケーキです
+----------------------+

ポイントは、もちろん、 「この枠の中は嘘である」というメッセージが、 それ自身が指し示す枠の中にはいってしまっている、 ということだ。 _MARK(論理階型)の_MARK(混同)が起きている。 「この枠の中は嘘である」というメッセージを理解して、 その枠の中にある「これはケーキです」が 嘘であることを理解する状況があるだろう。 しかし、 最初のメッセージは自分自身にも言及している。 ということは、枠の中のメッセージは ほんとうである、ということだ。 だから 「これはケーキです」は真面目にとるべき メッセージということになる。 そして・・・

深い複相把握は、言わば、 論理的に_MARK(矛盾)する状況であると言えよう。 そしてこの矛盾こそが、 虚構論の最後にわたしが述べた _MARK(二つの視点)を生成する _MARK(メカニズム)なのである。

3.2.4 無限の往復

一方でほんとうに恐怖し、 もう一方でそれは嘘であると認識している、 それが虚構の楽しみ方である。 一方でケーキを見ながら、 もう一方の視点ではそれがケーキであるのが 嘘だと認識している、 それがゲームの楽しみ方なのだ。 それは論理階型の混同に由来するのである。

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

4. まとめと展望

_MARK(遊び)が成立するためには、 融即されても、 一抜けられてもダメなのだ。 _MARK(自閉症)児のように石を口にしても(融即)、 「つまらん」と放り出されても(一抜ける)、 遊びは成立しない。 遊びでは 融即と一抜けることが 同時に起きているのだ。

4.1 まとめ--- (1) 民族誌の書き方

この議論を導入した本(『言語ゲームが世界を創る』) では、 わたしは人類学の方法論について述べていた。

「のめり込む」は、もちろん、 関の言う「没入」の謂いである。

・・・・・ 【行ったり来たり、使用と言及】 ・・・・・

図-kotae を見よ。

4.2 まとめ--- (2) 図と地

4.3 展望

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Bibliography

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信念と賭け:パスカルとジェー ムズ. 九州大学大学院教育学研究紀要, 10 pp. 23-41, 2007.

* * * * *

ENDNOTES

[1] このままだとパラドックスにはならない。 [Back]