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第2章 ウサギかアヒルか---アスペクト論

中川 敏

1 はじめに
1.1 これまで
1.2 この章

2 初級---単相と複相
2.1 単相
2.2 複相
2.3 深いアスペクト把握
2.4 単相へ

3 中級---全体論
3.1 相貌議論の弱さ
3.2 相貌議論の弱さは例にある
3.3 言語の全体論的性質
3.4 生き方としての相貌

4 まとめと展望
4.1 まとめ
4.2 展望

Draft only ($Revision$ ($Date$)).
(C) Satoshi Nakagawa
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1. はじめに

1.1 これまで

1.2 この章

「ためらい」という_MARK(茫漠)とした言葉でイメージを 伝えていた「異文化の見える時」を 言葉でアスペクト議論を簡単にまとめる。

ためらいが一つの離散的状態だということは、 主張してきたが、 この章でそのことを納得してもらいたい。 さらには、 ためらいの状態が、 じつは二段階になっていることも示したい。

ここで簡単に_MARK(学説史)的な事実関係について 述べておこう。 この章の多くを、わたしは野矢に負うている。 「単相」・「複相」は、 野矢の最初期の著書『心と他者』 [野矢 2012 (1995)] に出てくる 概念である。 「_MARK(相貌)」は (現時点での最新の本)『語りえぬものを語る』 [野矢 2011]の中で 大きな役割を担っている。 [1] 野矢は「複相」における相(アスペクト)と 相貌を同じ意味に使っているように見える。

わたしの貢献は、いわば、野矢のアイデアの _MARK(パッチ)ワークである。 複相の把握を二つに分け、 そのうちの一つを複相に当てる、という 作業、これが わたしが行なった作業である。

2. 初級---単相と複相

「アスペクト」という概念は、 ウィトゲンシュタインが、 『哲学探求』 [wittgenstein-pi-j]で 使用したものである。 ウィトゲンシュタインのアスペクトの考え方、 とりわけ「アスペクト盲」の思考実験をつうじて、 この概念に深みを与えたのが、 野矢の一連の論考である。 おもに野矢に基づきながら アスペクトについて見ていこう。

2.1 単相

ウサギにもアヒルにも見える反転図形がある。 Aがこの図の前に立ち、 「これはウサギだ」 (1) と言う。 この状況を、野矢は「単相状態」と呼ぶ [210: 野矢 2012 (1995)]。 この状況ではアスペクトは介在しない。 見え(アスペクト)は問題にならず、 ウサギはそこにあるのだ。 ちょうど独我論に我がないように、 単相に相(アスペクト)はないのだ。 Bが同じ図の前で言う、 「これはアヒルだ」と。 これもまたBにとっての単相状態である。 よろめきドラマの比喩でいう 「_MARK(平穏)」にあたるものである。

2.2 複相

二人が会話しはじめると、 それがウサギなのかアヒルなのかという 問題が生じる。 ここでは、 決着がつかずに、 AおよびBがそれぞれ自分の共同体に戻った 状況を考えてみよう。 なお、 Aの共同体では、 全ての人がこの図をウサギに、 そしてBの共同体では、アヒルに見ているとする。

その論争が終わった後の、 論争の報告を考えてみよう (2)。 Aは報告する、 「Bは「これはアヒルだ」と言う」(2a) と。 あるいは、同じことだが、 「Bは「これはアヒルだ」と信じている」(2b)と。

後により詳細に取り上げるポイントであるが、 この時点ではじめて_MARK(信念文)が登場することに なる。 すなわち、 信念文とは、 他人の心の中を見据えて語るのではなく、 ある発話を、 その発話の内容に異論が出ることが予想される 共同体の中で報告するときに使う 特別な文だ、ということは おさえておきたい。

Aが報告の中に、 「_MARK(見え)」のイディオムを導入することは 自然だろう--- 「Bはこれをアヒルとして見ている」、 「Bにはこれがアヒルに見える」(2c) と。 見え(アスペクト)が介入してきたのだ。 この段階を野矢は「複相状態」と呼ぶ。

この複相の段階が _MARK(異文化)の見える時、すなわち 前の章で述べた _MARK(ためらい)の状況であるのだ。 Aは「ウサギ」文化に属しながら、 「アヒル」文化を垣間見ているのだ。 _MARK(否定性)としての他者が、異文化が Aの_MARK(視野)に現出したのである。

2.3 深いアスペクト把握

次の段階を考えよう。 「複相」としてまとめるしかないのだが、 直前の段階より、言わば「より深い」理解を もって「アヒル」文化(Bの文化)を 見ている段階である。

Aがこう言うのだ、 「Bにはこれがアヒルに見えている」、 さらには 「わたしにはこれがウサギに見える」 (3) と。 この段階に達すれば、 Aは「これをアヒルとして見る」ことも可能となる。

(3) は (2) と同じく「ためらい」の状況だが、 Bの文化、すなわち「アヒル文化」への より深い理解に基いている。 Aは、Bの_MARK(観点)をも獲得している。

2.3.1 出会いと誘惑

(2) を「出会い」と呼ぶこととしよう。 まだ浅いためらいの状況である。 (3) は、より深いためらいの状況であり、 「_MARK(誘惑)」と呼ぶこととしたい。

浅い複相状態すなわち出会いの段階は、 他者・異文化の存在に気がついている段階である。 しかし、まだ他者・異文化を、言わば、 _MARK(つき離し)ている状態だと言えよう。 誘惑の段階とは、 他者・異文化を、自らと同じモノ(者・文化)として 見ようとする/理解しようとする段階である。

2.3.2 相貌

「異文化の見える時」すなわち「ためらい」の状態を 二つに分けようという試みが この章の一つの_MARK(ポイント)である。 そうでありながら、 二つに分ける基準が印象論的であり、 _MARK(曖昧)であることに、 わたしも気づいている。

複相の把握の二段階、 すなわち浅い複相の把握と深い把握とを 説得力をもって示すことが、 以降の課題である。 まず、ここでは、 野矢による「相貌」の概念を導入して 区分を示したい。

あらかじめ_MARK(白状)しておくが、 この段階でさえ、区分(浅い把握と深い把握の区分)が 説得力をもって示せるとは、 わたしもまだ考えていない。 より詳細な議論は次の節(「全体論」)に 譲るとして、 ここではイメージを得てもらえば いいと考えている。

野矢は 『語りえぬものを語る』( [野矢 2011]) の中で、 「アスペクト」を「_MARK(相貌)」と言い換える。 とくに定義を示してはいない。 これこそが、 わたしが「初級編」で「深いアスペクト把握」として 示したものである。

野矢の相貌の説明は、どれも、 いささか歯切れが悪い感が否めない。 つぎの引用を見てもらいたい。

概念を所有するとは、それゆえ言葉を使用するとは、パソコンを使いこな すのと同様、ある技術を身につけることである。あいまいな言い方になっ てしまうが、相貌とは、こうした技術知 (know-how) が対象に投影された ものにほかならない。 正しく足し算の計算を実行していようとも、足 し算の技術をもたない者にはそれは足し算の相貌では現われない。 足 し算の相貌は見る者が足し算の技術を身につけていることを要求する。同 様に、犬の相貌とは、「犬」という語をいかに使用すべきかの知識が対象 に投影されたものだと言えるだろう。 [noya-kataru] [57: 野矢 2011]

些細なことだが、 野矢の言う「技術知」を「暗黙知」と言い換えさせても らう。 詳細は脚注 [2] を参照してほしい。

暗黙知という知は、 それを言語的に伝達できないような知のことを 言う。 顔の認知を典型的な例として 挙げることができるだろう。 わたしたちはある人の顔を即座に認知できる。 さらには、 同じ人の子供の時の顔をも認知できる。 しかし、その認知の仕方を言語で 人に伝えるには苦労するだろう。 このような知を暗黙知と呼ぶのだ。

わたしは、 (3) において、 Aは(Bによる)_MARK(相貌)を見出したのだ、と 言いたいのだ。 すなわち、 誘惑(3) とは相貌をもった複相状態なのだ。

Aによる 浅い複相把握の状況(「Bは「これはアヒルだ」と 言っている」)では、 AはまだBの_MARK(視点)を把握していない。 AはBの発言を、言わば、反響(エコー)している だけなのだ。 深い把握(3)すなわち相貌をもった把握 (「Bはこれをアヒルとして見ている」)において、 Aは、 Bの発言の内容を理解しているのだ。 あるいは、 Bからの見えを (言わば「内側」から)把握している、 Bの観点を自分のものとしているのだと 言えるだろう。 だからこそ、 「これをアヒルとして見る」ことも可能になるのである。

2.4 単相へ

そして最後の段階 (4) として、 Aが「これはアヒルだ」と言う状況を考えることが できるだろう。

Aは、Bのアスペクト(「アヒル」)を把握した (誘惑された)だけでなく、 Bの文化に_MARK(転落)してしまうことになる。 _MARK(浜本)の言葉を使えば、 _MARK(呪縛)されるのだ。 Aのこの状況は、(1) におけるBの状況と 同じである。 すなわち、Aはふたたび単相にまいもどったのである。 ただし、この時、 AはBの文化の中に転落して/呪縛されているのである。

転落の事例としては、 アヒル・ウサギの図以上に、 図 (cube) の_MARK(透視図)の方が 適切だろう。

・・・・・ 【透視図を作成、挿入する】 ・・・・・

黒丸が向こう側に見えたり、 こちら側に見えたりすると思う。 それを_MARK(逆転)と呼ぼう。 逆転こそが「転落」と呼ばれる 単相の状況なのだ。 いったん転落すると、 もとに戻すのにそれなりの時間がかかる筈である。

2.4.1 アスペクト盲

単相・複相の議論が再び単相へと_MARK(戻った) この機会に、単相について 他の形で述べておきたい。 「単相状態だけで生きている人間を考えてみよう」 というウィトゲンシュタインの_MARK(思考実験) (『哲学探求』 [Wittgenstein 1968])の誘いにのってみよう。 「単相状態だけで生きている人間」とは、 すなわち「として見る」ことの出きない人間である。 このような人間をウィトゲンシュタインは 「アスペクト盲」と呼ぶ。 野矢を引用しよう---

アスペクト盲は 「あの雲はなんだか猫に見える」とは言わない。 そしてまた私が「この黒板消しを スリッパとして見てごらん」と促しても、 何をしてよいのか分からない。 タクアンを卵焼きに見立てることもできない [166: 野矢 1999]。

アスペクト盲とは単相状況だけを 生きる人間であり、 彼女は_MARK(独我論)者・_MARK(自閉症)者と同じ世界を 生きているのだ。

村上は自閉症児の一つの特徴を 「_MARK(知覚的空想)」 ( [Husserl 2005])の能力の欠如と呼ぶ。 その能力を説明するために 彼が出す例がままごとである--- 石をケーキとみなし、 ママという役割を演じる、 [111: 村上 2008] これが知覚的空想であり、 自閉症児にはこの能力が欠けているのだ。 そして、この知覚的空想の能力こそが、 もちろん、_MARK(アスペクト)把握である。

ウィトゲンシュタインは言う: 「アスペクト盲がもしあるとすれば、 それは色盲などとは違い、 なにか根源的な疾患なのではないかと」 ・・・・・ 【典拠をチェック!】 ・・・・・ わたしたちは、 とまどうことなく言える、 「アスペクト盲とは、 自閉症なのだ」と。

2.4.2 よろめきドラマ

これまでの議論を、 よろめきドラマとしてまとめておこう。 注意すべき点は、 よろめきドラマ自身が_MARK(修正)されていることである。 すなわち、「_MARK(ためらい)」段階が、 二つに区分されているのだ--- 「出会い」と「誘惑」に。 その上で、アスペクトの議論を シナリオに重ねるとこうなる: (1)単相とはすなわち「平穏」の段階である。 ためらいのうち、 出会いが(2)の浅いアスペクト把握に、 そして誘惑が (3)の深いアスペクト把握、 あるいは相貌をともなったアスペクト把握に相当する。 そして転落とは(4)の単相である。

繰り返すが、 アスペクト(相)が問題になるのは、 複相状況においてのみである。 単相状態((1) と (4))にアスペクト(相)はない。

単相状況あるいは独我論的/自閉症的状況に おいて((1) と (4))は、 視点は存在しない。 その世界では「_MARK(見え)」の語が_MARK(消失)する。 それは_MARK(あるモノ)だけの世界、 純粋実在論の世界なのだ。 そこには他者も異文化も存在しない。 存在しない(否定性)ことさえ欠如しているのだ。 (2) から (3) にかけて、 すなわち複相状況において、 はじめて「見え」あるいは「他者の視点」が問題になり、 認識論の世界が広がるのである。

3. 中級---全体論

3.1 相貌議論の弱さ

初級編において一番の問題は、 その議論のポイントである 「ためらい」の二分割、 すなわち浅いアスペクト把握と 深いアスペクト把握(相貌をもったアスペクト把握)の 説得力の_MARK(弱さ)である。

3.2 相貌議論の弱さは例にある

説得力の弱さの原因は、じつは、 とりあつかう例にあったのだ。 「相貌」はアスペクト把握のもつ _MARK(全体論的)性質に由来し、 _MARK(全体論性)を説明するためには ウサギ・アヒルの図はあまりに 単純すぎるのだ。 この例だとアスペクト把握のもつ 全体論的性格を示すことができないからなのだ。

アスペクト把握について、 わたしが強調したいのは、 アスペクト把握というものが _MARK(全体論)的性質をもつ、 ということである。 [3]

【BEGIN:../relativism/holism より】

わたしは野矢のいう「相貌」の概念が アスペクト把握において重要であることに 賛成である。 しかし、その説明を「暗黙知」に 求めるのは的外れである。 相貌を説明しきれるのは、 アスペクト把握のもつ全体論的性質である

3.3 言語の全体論的性質

ウサギ・アヒルの図のかわりに 言語あるいは概念を例にしていこう。 こうすることによって、 複相の二段階、すなわち 相貌をもたない、浅いアスペクト把握と 相貌をもった、深いアスペクト把握の 違いを、 より明瞭に示すことができるはずである。

3.3.1 言語の全体性

ウサギ・アヒルをはなれ、 野矢のように言語一般について考えてみよう。 まずは野矢の例から始めよう。 「犬」というアスペクト/相貌についてである。 さきほど引用した箇所で彼は次のように 言う: 「犬の相貌とは、 「犬」という語をいかに使用すべきかの 知識が対象に投影されたものだと言えるだろう」 [57: 野矢 2011] 同じことを言っているのかもしれないが、 わたしは、相貌とは 犬という語の_MARK(価値)だと言いたい。

3.3.2 構造主義の言語学

「価値」とはソシュールの用語である。 ソシュールの_MARK(構造主義)的言語学は、 その全体論的傾向において特徴づけられる。 その全体論は、 「それは部分はそれ自身としての意味を持たない。 大事なのはつねに体系の中における他の部分との差異で ある」という考え方にまとめることができるだろう。

3.3.3 音韻論

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

3.3.4 意味論

たとえば、 ソシュール [ソシュール 1972]は 語の_MARK(意味)を語の置かれた _MARK(位置)から見る。 それを彼は_MARK(価値)と呼ぶ。 英語の "Rabbit" を日本語で 「ウサギ」と訳すのは 便宜的には許されるかもしれないが、 その価値はあきらかに違う、と言えるのである。 なぜなら、 "Rabbit" は "hare" (「野兎」と訳すらしい)と 密接に関わっており、 "Rabbit" は "hare" との差異の中で 意味が決定されるからだ。 「ウサギ」にはそれがない。 それゆえ、 "rabbit" と「ウサギ」の価値は異るのである。

野矢の例にもどろう。 わたしは、野矢の 「犬」という概念の相貌を知るということを 「犬」という概念だけに焦点をあてる方法ことは、 間違っていると思うのだ。 「犬」という概念の相貌を得るとは、 その概念だけでなく、 その概念が置かれた 全体系の中での位置(すなわち価値)を知るということであると わたしは考える。

【END:../relativism/holism より】

3.3.5 言語を学ぶこと

言語を学ぶ状況を例にして考えてみよう。 最初、 わたしたちは「言語」という考え方をもっていない。 [4] ある時、「英語」という別の言語を示され、 じぶんが喋っているのが一つの言語であり、 それが「日本語」と呼ばれることを知る。 学校で英語の文法や語彙をならい、 すこしずつ知識が増えていく。 わたしたちが日頃「いぬ」と呼んでいたものを 英語では "dog" と呼ぶのだ、などなどといった知識が。

この段階は浅い複相把握である--- 「かれらは『それは dog だ』と言う」というあの 段階だ。

ある時、Aha 体験がやってくる。 ぼくらは英語話者の観点を把握するのだ。 それは全体の差異の体系が見えたときである。 些細な例だが、 たとえば "dog" が "hound" とどう違っているのか、 "rabbit" が "hare" とどう違っているのか、 それらが一気に見えたとき、 わたしたちは「英語を話すことができる」という 段階に達するのである。 それは深いアスペクト把握、 すなわち相貌を伴なった複相を見ることが できる段階なのだ。

・・・・・ 【ndia/pe na::kami/kita】 ・・・・・

3.4 生き方としての相貌

相貌を伴なう複相状況に達することを、 野矢は_MARK(観点)を、 内側からの観点を、把握することとも 言い替える。 さらに、 彼は観点を「生き方」という言い方もする。 ここで、 彼の卓抜なクリーニャの例を紹介して、 「生き方」や「観点」という考え方が、 彼の議論の中で どのように使われているかを見ていこう。

3.4.1 猫とクリーニャ

たとえば、 日本語の猫という概念と掃除機という概念を 集めた集合を考えよ、と彼はいう。 そのような概念が通用している文化を考えよ、と。 彼ら(その文化に住まう人々)はそれを 「_MARK(クリーニャ)」と呼ぶ。 そのような想定をしたあとで、 彼は言う--- 「だが、あるものがクリーニャーとし て見えるということがどのようなことなのか、もはやあからさまにわれわ れの想像を越えているだろう」 [109: 野矢 2011]と。 なぜなら、アスペクトとは _MARK(生き方)の問題だからなのだ。

われわれにとっては、 一匹の猫はどうしたって 猫としての相貌をもっている。 それは容易に変えることはできない。 それはすなわち、 われわれがその分類を引き受け、 いわばその概念を生きているからである。 概念を変えるということは、 _MARK(生き方)を変えるということなのである。 [109--110: 野矢 2011]


相貌に言及してる別の箇所を見てみよう。 相対主義者がしばしば言及する 「立場の違い」という言い回しを捉え、 立場とは命題の集合ではない、と野矢は宣言する。 そして立場が命題の集合でないならば、 何かと問い、 それは「観点」であると彼は答える。 「そして観点の異なりに 応じて異なってくるものは、相貌である」 [128: 野矢 2011] と。

3.4.2 エンデ

野矢の議論は、 クリーニャの相貌を得るとは、 クリーニャを生きることであり、 それは(ほとんど)不可能である ということになってしまう。 前半部の議論、 クリーニャの相貌を得るとは、 それを生きることであるということに、 わたしは賛成する。 そして、わたしは人類学者として言いたいのだが、 それは可能なのだ。 ここでも重要なのは、 相貌が全体性と関わっているという点にある。

人類学者は職業がら、 クリーニャのような 奇妙な例を沢山知っているのだ。 南太平洋の島、ドブでは、 芋は人間であるという [fortune-dobu]。 パプア・ニューギニアのカラムの人びとの間では、 ヒクイドリは鳥ではない [bulmer-cassowary]。 [5]

ここではわたしのよく知っている 東インドネシア、フローレス島に住む エンデの人々の例を出そう。

エンデ語に「アリ・カッエ」 という言葉がある。 親族用語である。 わたしが最初にエンデの村に入ったとき、 アプさんという村人が わたしの「お父さん」となってくれた。 彼は、わたしの「アリ・カッエ」を紹介してくれた。 彼の息子たちである。 わたしはすぐにこの言葉を「兄弟」として 理解できた。 姉妹は「ウェタ」と呼ぶことも すぐに学んだ。

しばらくすると、 わたしが「アリ・カッエ」と呼ぶべき人が、 単にアプさんの息子 (わたしの「兄弟」)だけに限られているわけでは ないことに気づいた。 父系の従兄弟たちもまた「アリ・カッエ」なのだ。 さほど悩むこともなく、 これは日本の姓(名字)を適用して考えればいいことに 思い至った。 すなわち「中川家」の男のメンバーが アリ・カッエなのだ、と。 [6]

次の関門は、 女性の「アリ・カッエ」がいることだ。 姉妹は、さきほど言ったようにウェタと呼ぶ。 しかし、日本ならば姉妹のようなものである 兄弟の嫁たち(「義理の姉妹」)もまた アリ・カッエなのである。 この例もまた「中川家」を基本に考えて、 納得した。 すなわち、ウェタ(姉妹)たち は中川家を出ていく者であり、 (女の)アリ・カッエは中川家の中に いる者たちなのだ、と。

最後の謎は、 また別の女性のアリ・カッエと呼ぶという 形で示される。 母の兄弟の娘たちをもアリ・カッエと呼ぶのだ。

これはエンデの親族のルール、 母方交差イトコ婚というルールと 関連づけてはじめて理解できるアリ・カッエである。 エンデでは、 男は母方の交差イトコ (母の兄弟の娘)と結婚することが 期待されている。 [7] すなわち、母の兄弟の娘は、 このルールに従うならば、 中川家に嫁入りする女性たちなのだ。 男のアリ・カッエの嫁たちを アリ・カッエと呼ぶのが 事後承諾的呼び方とすれば、 母の兄弟の娘をアリ・カッエと呼ぶのは 事前の期待にもとづく呼び方と言うことができるだろう。

この時点で、わたしはエンデの親族体系の 全体を(ほぼ)理解した。 それゆえ、母方の叔父と妻の父を同じ名称 (マメ)で呼ぶこと、 あるいは 母方の叔父の娘の夫を、兄弟と同じことば (「アリ・カッエ」)で呼ぶことも すべて理解できたのである。 [8]

「アリ・カッエ」の相貌は把握できるのである。 それは全体の中の位置(価値)をつかむことである。 いったん、その相貌を把握すれば、 「アリ・カッエ」はごく_MARK(自然)なものだ。

その観点はエンデの親族制度の内側の ものである。 しかし、エンデの親族制度を 知らぬ人には、 「クリーニャ」の相貌と同じように、 無意味なものでしかないだろう。

3.4.3 違った例

初級編で相貌を説明するのがうまくいかないのは その例(ウサギ・アヒルの図)であった、という 言い訳の意味がここで明らかとなっただろう。 ウサギのアスペクト、 アヒルのアスペクトの背後に、 それぞれの相貌を生み出す全体性が欠けているのだ。

言語や文化を例にすると、 一つの文でアスペクト把握の それぞれの段階を表わすことは 不可能に近くなっているが、 とりあえず、 単相および複相(浅い把握と深い把握)を 表にしておこう。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

4. まとめと展望

4.1 まとめ

すでに明らかであろうが、 「相貌」 の語を、 あらためて、二つの相貌把握に適用しておこう。

「出会い」の複相把握は、 全体論的理解を欠いた、 あるいは観点を欠いた(言わば「浅い」) アスペクト把握である。 もう一つは全体論的な理解にのっとった、 あるいは相応の観点からの(「深い」)アスペクト把握、 すなわち相貌の把握である。 これは「_MARK(誘惑)」の段階の理解である。

よろめき平穏出会い誘惑転落
アスペクト単相複相複相(相貌)単相
「ウサギだ」「と信じている」アヒルに見えるアヒルだ
部分的把握全体性の把握
表 ゲームとアスペクト把握

4.2 展望

* * * * *


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Bibliography

[austin-truth] J. L. Austin.
Truth. In Philosophical Papers, pages 117-133. Oxford University Press, Oxford, New York, Toronto, Melbourne, third edition, 1979.
[davidson-scheme] Donald Davidson.
On the very idea of a conceptual scheme. In Inquiries into Truth and Interpretation, pages 183-198. Clarendon Press, Oxford, 1984 (1974).
[gettier-jtb] Edmund L. Gettier.
Is justified true belief knowldedge?. Analysis, pages 122-123, 1962/63.
[austin-j-91a] オースティン, J.L.
真理. In アームソン, J.O. and ウォーノッ ク, G.J., editors, オースティン哲学論文集, pages 183-208. 勁草書房, 1991.
[sperber-symbolism-j] スペルベル, D.
象徴表現とはなにか. 紀伊国屋書店, 1979 (1975).
[nakagawa-merantau] 敏 中川.
学校者と出稼ぎ者:エンデの遠近両用眼鏡. 国立民族学博物館研究報告, 23 no. 3 pp. 635-658, 1999.
[nakagawa-gengo] 敏 中川.
言語ゲームが世界を創る. 世界思想社, 2009.
[hamamoto-wager] 浜本 満.
信念と賭け:パスカルとジェー ムズ. 九州大学大学院教育学研究紀要, 10 pp. 23-41, 2007.

* * * * *

ENDNOTES

[1] 「相貌」の語自身はたしかに 『心と他者』にも出てくるが (文庫版 142ページ) それほど重要な役目をになっているわけではない。 [Back]

[2] ライル、マイケル・ポランニー、 そしてオークショットが、 野矢の言う技術知に重なる知識について述べている。 ライルの言う know-how を ポランニー( [polanyi.m-tacit-j])は「暗黙知」と呼び、 オークショット ( [oakeshott-rationalism-j])は「実践知」と呼ぶ。 これらは「言語化できない」あるいは「定式化できない」 知識とまとめることができる。 ややこしいのは、定式化できる類の知識を、 オークショットが「技術知」と呼んでいるのだ。 ここで野矢が言いたい知は、もちろん、 「実践知」あるいは「暗黙知」である。 だから「暗黙知」と言い換えをしたいのだ。 [Back]

[3] それこそが、 『言語ゲームが世界を創る』 [中川 2009] の中でわたしが強調したことである。 [Back]

[4] 視線が一つしかなければそれは視線ではない、 あるいは自我が一つしかなければそれは自我でさえない、 という独我論のときの説明を思い出してほしい。 [Back]

[5] ヒクイドリについては、 わたしの『言語ゲームが世界を創る』 ( [nakagawa-gengo])で 詳しく説明している。 [Back]

[6] もっとも世代深度は日本よりは よっぽど深く、一〇世代に至ることさえある。 [Back]

[7] 詳しくはわたしの『交換の民族誌』 [nakagawa-dog]を見ていただきたい。 [Back]

[8] 練習問題として考えてほしい。 [Back]