2 学校者と出稼ぎ者
2.1 伝統の知識
2.2 近代の知識
2.3 ドルゼ
2.4 再びエンデへ
2.5 伝統と近代
3 知識と信念
3.1 知識の古典的理論
3.2 基礎付け主義
3.3 外在主義
3.4 オースティンと濱本と中川
3.5 中川
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(C) Satoshi Nakagawa
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人はその時
さて、 「図と地」の概念をわたしたちの議論に導入することの 有意義さは納得してもらったこととしよう。 つづいて、図と地の概念を、 ひとつの民族誌の解釈に適用してみたい。 とりあげる例は私自身の昔の論文の 引用論による言い換えである。 [2]
取り上げる論文は 「学校者と出稼ぎ者」 [中川 1999]である。 この論文で焦点をあてられるのは、 _MARK(出稼ぎ)を契機にした フローレス島の_MARK(エンデ)のある村での伝統と近代という 二つのゲームの_MARK(せめぎあい)である。
わたしの調査した村を含めた いくつのかの村は ひとつの「儀礼共同体」、 _MARK(タナ・ゾゾ)に統合される。 タナ・ゾゾの_MARK(起源神話)は 次のようなものである。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
・・・・・ 【バンゴ先生、クピ村への訪問】 ・・・・・
簡単に言えば、 「_MARK(クピ)(地名)が世界一高い山である」 (そしてそこから世界中の民族が発生した)ということ だ。
・・・・・ 【坂道でのガスパ先生との会話】 ・・・・・
_MARK(学校)では 「クピは決して世界一高い山ではない」と教えているの だ。
エンデの村では、いわば、 二つの矛盾する教えが_MARK(共存)しているのである。 エンデの村人の_MARK(合理性)を維持したまま、 この共存をどのように説明すべきか、 これが論文で取り組んだ問題である。
この問題を分析するにあたり、 わたしがまず最初に採用した議論は、 _MARK(スペルベル) [スペルベル 1979 (1975)] の象徴的知識に関する議論である。 スペルベルが_MARK(ドルゼ)の民族誌からもちだした 疑問は概略次のようなものである: _MARK(ドルゼ)の人びとは (1) 豹はキリスト教徒であり、 安息日には断食すると言う、そして (2) その安息日に彼らは豹の襲撃を恐れているのだ。
この
この_MARK(スペルベル)の議論を、 しかしながら、直接にエンデの事例に 適用ができない、という点がわたし自身の議論の 出発点となる。 なぜなら、 (もちろん、 象徴的知識が引用符に囲まれる事例もあるのだが) しばしば象徴的知識ではなく、 百科全書的知識が引用符に囲まれているからなのだ。
わたしが辿りついたのは
次のような結論である:
(1) 二つのゲームがある。
(2) 会話状況のなかでどちら一つが
地になっているゲームは生きられている (人びとがのめりこんでいる)ゲームであり、 人びとは図になっているゲームからは 一抜けているのだ。 地になっているゲームはそれがゲームとしては 意識されていない。
・・・・・ 【JTB】 ・・・・・
・・・・・ 【感覚印象】 ・・・・・
・・・・・ 【「所与の神話」】 ・・・・・ [sellers-empiricism-j]
・・・・・ 【1963年の Gettier の論文】 ・・・・・
スミスの (b) は JTB であり、 知識であるべきだ。 しかし、知識とは言えない。
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
・・・・・ 【知識の日常的意味】 ・・・・・ 、 ・・・・・ 【「間違った知識」】 ・・・・・
[austin-truth] [hamamoto-wager]
知識と信念という言葉をつかって、 これまでの議論を言い換えたい。 ・・・・・ 【JTB】 ・・・・・
わたしの言いたいことは、 もちろん、地が知識であり図が信念である、という ことではある。 ポイントは、 知識が問題になるのは、 飽くまで信念が問題になった時点でのことだ、 ということである。
地は図があってはじめて地として意識される。 図がなければそれは地でさえないのだ。 それは単相状況・複相状況の議論とも重なる。 単相状況の 「ウサギだ」をアスペクトは言わない。 複相状況、すなわち 「アヒルだ」と出会ったとき、 はじめて「ウサギだ」が 「ウサギに見える」「アヒルに見える」」となる ことにより、 アスペクトが浮上してくるのでる。
同様に、 _MARK(知識)はそれが地であるあいだは 知識でさえないのだ。 他の_MARK(信念)の出会うとき、 はじめて知識として意識される。
オースティンの「真理」 [austin-j-91a]のペーパーを、 この議論の脈絡にあうように_MARK(翻案)して 紹介したい。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
相対主義の批判としてデイヴィドソンの 「概念図式という考え方そのものについて」 [davidson-scheme] について前の論文で 言及した。 ここで批判の対象になるのは _MARK(枠組と内容)という二元論である。 そしてこの批判を、 わたしは正しいと思っている。
ゲームの外側をあれこれ言う者は、 この二元論に与しているのである。 枠組の向こう側(ゲームの_MARK(外側))に _MARK(内容)がある、という考え方である。 たとえばウサギゲーム、 アヒルゲームの外側に、 インクの染みとしての形(内容)がある、という 考え方である。 野矢は言う:「インクの染みもまた アスペクトである」と(出典不明)。 [3]
「ゲームの外側はない」という考え方に 貫かれたのが 『言語ゲームが世界を創る』 ( [中川 2009])である。 最終章で展開される 「事象様相(デ・レ)はない」という宣言こそ、 「ゲームの外側はない」という宣言なのである。 すべてが言表様相(デ・ディクト)であるとは、 すべての言明が潜在的に引用符に囲まれる得る、 すなわち「不透明な文脈」を提供する、という ことなのである。
流用・先住民の叡智の二つともに、 言及だけの引用、 すなわち ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
表 homology には堕落の項が欠けていた。 図と地の議論を通して わたしが指摘したかったことは、 堕落とはもう一つの_MARK(平穏)なのだ、ということである。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
「よろめき型」を語り直してみよう。 こうなる。 平穏の状況とは地だけの状況である(単相状況)。 _MARK(ためらい)で図が浮かびあがってくるのだ (複相状況)。 堕落するとは、 図が地になってしまう状況のことである。 いままでの地が消えてしまうが、 いままでの図が全てを覆うわけなので、 けっきょく地だけの状況、 すなわち単相状況となるのだ。
これまでの時点の議論を補足して、 表 homology を 完成させよう。 表 complete を 見よ。
よろめき型 | 平穏 | 出会い | 誘惑 | 堕落 |
---|---|---|---|---|
モーム型 | 平穏 | 興醒め | 疑惑 | 熱中 |
アスペクト論 | 単相 | 複相(アスペ クト) | 複相(相貌) | 単相 |
引用論 | 使用 | 言及 | 使用と言及 | 使用 |
ゲーム論 | のめり込む | いち抜け る | 遊ぶ | のめり込む |
記述 | 原住民 | 旅人 | 人類学者 | 原住民 |
修辞 | 主張文 | パロディ | アイロ ニー | 主張文(嘘) |
なお最終列(修辞)は、 次の節で扱う議論を先取りしたものである。
[1] 引用源を示すことさえできないほどに いい加減な知識だが、 許していただきたい。 [Back]
[3] 野矢は枠組と内容の二元論に 対して、 相貌(これはアスペクトの謂いである)と 力の二元論を主張する [340: 野矢 2011]。 わたしにはまだ「力」ということばで 野矢が何を意味しようとしているのか分からない。 [Back]