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第9章 社会の構築と危機

中川 敏

1 はじめに

2 ハイパーインフレ
2.1 安心と信頼
2.2 近代の安心としての貨幣
2.3 モーム型としてのハイパーインフレ

3 まとめ

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1. はじめに

2. ハイパーインフレ

最後にとり挙げたいのが 貨幣の問題である。 あるいは制度一般の問題である。 これは、モーム型の物語となる。

早川は『ハイパー・インフレの人類学』 [早川 2015]において、 2007年から2009年までの間、 ジンバブエを襲ったハイパー・インフレを 詳細に描く。

インフレは時間とともに物価があがる、 すなわち貨幣の価値がさがる、 そのような現象である。 ハイパーインフレでは、 貨幣の価値は「見る見る」下がっていく。

二〇〇八年一二月半ばには、 行列に並んでいるあいだに パンの値段が二倍になり、 ある店では商品価格の表示を 取り替えるために 一日に三度もシャッターが閉められた。 [早川 2015: 7]

このような状況で わたしたちが予測する人々の行動は、 貨幣を見限って、モノへ執着するという 行動であろう。 貨幣への信頼は全くなくなっているからだ。 都市部であれば、 モノは店にしかないのだから、 買い占めなどが起きるだろう。 もしかしたら、店の主人は はやばやと店を閉めてしまうかもしれない。 金の貸し借りなど ほとんど意味がなくなり、 そんなことは起きないであろう、と。

たしかに上に書いたようなことが全く起きていない わけではない。 しかし、早川の本が描写するのは、 それと逆行するような、 「不合理な」(経済学者の声で発音して欲しい) 行動なのである。 人は友達からお金を借りて、 その同じ金額を数日後に返却するのだ。 同じ額面のお金を返してもらって、 貸した人は文句も言わないのだ。 もちろん、同じ金額の貨幣の価値は 数分の一にまで目減りしているにも 関わらず、なのだ。

ジンバブエの「危機」の時代、 人びとはあたかも 貨幣に信頼をよせているかのように、 あたかもハイパーインフレなど 起きていないかのように ふるまっているのだ。

2.1 安心と信頼

ひるがえって考えてみれば、 貨幣という制度自身が たいへんに不思議なものである。

「何々を信じること」についての議論において、 ルーマンは 「信頼 (trust)」と「安心 (confidence)」 1 を区別する [Luhman 1988]。 信頼とは裏切りの可能性を念頭に置きながら、 とりあえず信じることである。 「安心」については、 山岸 [山岸 1998]の例が わかりやすいだろう。 彼は「針千本マシン」という装置を考える。 そのマシーンを装着された人間は、 約束を破ると針千本を飲まされるのだ。 このような人間と約束をした人間は、 彼が約束を破るという裏切りの可能性など 考慮しない。 これを「安心」と呼ぼう、というのだ。 2 もう一つの「安心」の例を出そう。 それはわたしたちの自然現象に対する 態度である。 昨日も日は東から登り、 きょうもまた東から登った。 明日もまた日が東から登る--- このことを誰も疑いはしない。

ルーマンとほぼ同じ区分を採用して、 ギデンズは次のように言う。

近代に安心 3 はない。 われわれはそれをプレイする余裕はない。 [ギデンズ 1990]

2.2 近代の安心としての貨幣

わたしが「貨幣は不思議な制度だ」ということで 言いたいのは、 この脈絡でなのだ。 近代における「安心」に基く制度が存在する、 それが貨幣制度なのである。 わたしたちは、 貨幣を全面的に信じて生活をしている。 「信じている」ことさえ念頭に浮かばないほどの 信じている、 すなわち「安心」しているのだ。

しかしながら、貨幣に限らず、 制度が制度として機能するために、 それが「約束」のもとづくものだ、ということが 念頭に浮かんではならない。 飽くまで「自然」なものと見做されるほどに、 それは信じられていなければならないのだ。 一度それが約束に基く人為的なものだと 気づかれれば制度として十全な機能は 妨害されることになる。 他の言い方をすれば、 制度は地である限り安全だが、 一度それが図になってしまったと途端に、 制度としての機能が不完全になるのだ。

2.3 モーム型としてのハイパーインフレ

ハイパーインフレは モーム型の物語、すなわち よろめきと逆方向の物語である。 みなが熱中している間、 制度は安心に基づいて機能している。 しかし、 その制度が人為的なものと気づかれると 一気に破綻するかもしれないのだ。 熱中から疑惑へ、 そして興醒めに至れば、 制度の崩壊が起こるのだ。 ジンバブエが直面したのは そのような問題なのである。

意識的ではないにせよ、 ジンバブエの人びとはカタストロフを避けるべく 自然でなくなってしまった貨幣を あたかもまだ自然であるかのように、 あたかもまだ普通に通用しているかのように演じるのだ。

3. まとめ

芸術について興味深い議論を展開している ウォルトンは( [Walton 1993])、 すべての芸術に共通する点として 「振りをすること」("make believe") を挙げている。 あたかも芸術が(人生であるかのように) 演ずるのだ。 それは、わたしの言葉で言い換えれば、 誘惑に身をさらしながら、 堕落の一歩手前で踏み止まることである。

グリーンバーグの言うように 芸術が引用(図)ならば、 引用のは人生であろう。 図と地はつねに反転する可能性を秘めている。 振りをすることがそのまま堕落へと転落するかもしれな いのだ。 そしてその時、 「人生そのものが引用である」 と言う ホルヘ・ルイス・ボルヘスの 正しさは疑いのないものとなる。


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Bibliography

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ENDNOTES

[1] Confidence を「信用」と訳している 訳書がある。 ただし「信頼」と「信用」の日本語での 区別は分かりにくい (もちろん英語の trust と confidence の 区分も明瞭なものではないが)。 信頼との区別がある程度分かりやすい 山岸( [山岸 1998])の 「安心」の訳語を採用することにした。 [Back]

[2] この区別を贈与交換と市場経済の民族誌に 適用したのが、わたしの 「豚と発動機」である。 [中川 2012] [Back]

[3] 訳文では「信用」になっている [Back]