2 二組の新しい用語
2.1 内在的と外在的態度
2.2 虚構とゲーム
2.3 レトリック
2.4 図と地
2.5 単相と地
2.6 引用
2.7 異文化理解
2.8 よろめきドラマ
2.9 虚構とゲーム
2.10 レトリック
2.11 絵画
3 学校者と出稼ぎ者
3.1 ドルゼ
3.2 エンデ
3.3 伝統と近代
3.4 知識と信念
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(C) Satoshi Nakagawa
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以上は引用の言及の機能だけに 限定された事例をとり挙げた。
【これはゲームと虚構のうち、 「中川ゲーム理論の修正」に挿入する。 さらに、 それだけで一つの章にすべきだろう。 (そして後半の虚構とゲームで別の章にする。)
2016年1月の最初にここから始めるので、 復習の意味をかねている。
「内在的」と「外在的」を導入して、 正直に言えば、議論の筋は変わらない。 それでもこの用語を導入するのは、 この二つの語の持っている対称性のゆえであ る。 】
議論をすすめるのに便利な言葉として、 「内在的態度」と「外在的態度」という語を導入したい。 これは伊藤笏康が「虚構と科学」 [伊藤 1997] という興味深い論文の中で使ったことばだ。
どのように置き換えるかを 最初に示しておこう。 「浅いアスペクト把握」あるいは 「一抜ける」を「外在的態度」に、 「(転落としての)単相」あるいは 「融即」を「内在的態度」に置き換えたいのである。
ただし、 伊藤の用法は、 この置き換えとは微妙に異なっている。 まずは、 伊藤の議論を紹介しよう。
2.2.1 伊藤の議論
伊藤自身の議論は、タイトルから分かるように、 虚構の分析である。 虚構の話から始めよう。
虚構を見るにあたって二つの態度を区別しよう、と いうのが、 伊藤の議論の発端である。 伊藤はその二つを「内在的態度」と 「外在的態度」と呼ぶ。 この語の対称性が ひとつは通常の状況、 『ジャックと豆の木』のお芝居を お芝居として鑑賞する立場である。 子供たちはそのお芝居に引き込まれ、 ジャックが巨人に追いかけられれば ドキドキする。 「フィクションを怖がる」のだ。 この子供たちの態度を、伊藤は 「内在的態度」と呼ぶ。
もう一つは、たとえば園児のお芝居を見ている 親や先生の立場である。 「かれらが見ているのは虚構の世界ではなく、 現実のわが子や園児たちがふりつけにした がって演技している姿である。 親や先生たちにとって『ジャックと豆の木』の虚構世界は、 もともとわが子や園児の成長という現実を見るための、 刺身のつまにすぎないのである」 [108: 伊藤 1997] 彼らは現実の一齣として、 そのお芝居を見ているのである。 そして、その態度は批評家のそれと重なるものであるこ とを、 伊藤は、正しく、指摘する。
伊藤は、 虚構を楽しむとは、 内在態度と外在的態度の二つのベクトルの 合成にある、と結論する [109--110: 伊藤 1997]。
2.2.2 間違い
伊藤の議論は、 わたしの『言語ゲームが世界を創る』 [nakagawa-gengo]に似た間違いを犯している。 伊藤の「内在的態度」と「外在的態度」は、 『言語ゲーム・・・』における 「のめりこむ」と「一抜ける」に正確に対応しているの だ。 そして、すでに示したように、 「のめりこむ」は融即の単相状況ではない。 それ自身がすでにゲームの遊び方なのである。 同じように 伊藤の議論の中での内在的態度自身が 、 虚構の遊び方になっている。 すでに述べたように「フィクションを怖がる」のは、 じっさいの恐怖とは違うのだから。 伊藤のいう内在的態度は、それ自体が 虚構の楽しみ方を示している。 合成されているのは 外在的態度と内在的態度ではなく、 外在的態度と融即なのである。
2.2.3 修正
伊藤の言う内在的態度は融即ではない。 ここでは、 それを踏まえた上で、 伊藤の「内在的態度」を(その意味を変更して) 「融即」の言い換えとしたい。
わたしは、 深いアスペクト把握(虚構を楽しむ、ゲームを遊ぶ)とは、 淺いアスペクト把握と融即(単相)の間の 往復運動である、と言った。 これと同じことを、 つぎのような言い換えでも可能にしたいのだ。 すなわち、 虚構を楽しむとは、 外在的態度と内在的態度の合成である、と。
いつもの図を使えば次のようになる:
よろめき 平穏→ 出会い 誘惑 →転落 アスペクト 単相 浅い複相 深 い複相 単相(融即) 虚構 外在的態度 楽しむ 内在的態度
続いてレトリックの項、すなわち 引用とアイロニーを この二つの語、「内在的態度」と「外在的態度」を 使って説明し直しておこう。
引用を含む文、 たとえば「中川は『相対主義は可能だ』と言った」に おいて、 デイヴィドソンは、 「相対主義は可能だ」を「引用されている材料」 1 その材料を含んでいる文脈(いわゆる 会話の地の文)を 「引用している文」と呼ぶ。
引用を理解するとは、 引用されている材料を使用として理解した後、 引用している文を含めて(言及)として理解する、 と私は説明した。 同じ説明を、 次のように言い換えることができる。 すなわち、 材料を使用として理解するとは「内在的理解」であり、 言及として理解するとは「外在的理解」なのだ、と。 すなわち、引用を十全に理解するとは、 内在的態度と外在的態度の合成であるのだ。
アスペクト | 単相 | 浅い複相 | 深 い複相 | 単相(融即) |
引用 | 外在的態度(言及) | 理解する | 内在的態度(使用) |
アイロニーは一種の引用だと言った。 ここで手短かに説明しておこう。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
アスペクト | 単相 | 浅い複相 | 深 い複相 | 単相(融即) |
アイロニー | 外在的態度(パロ ディ) | アイロニー | 内在的態度(「お前も成長した んだな」) |
直喩と隠喩
「彼女は薔薇だ」という隠喩の内在的態度とは、 彼女が薔薇であるような世界からの視点を持つことである。 この世界を「薔薇世界」と名づけよう。 「彼女は薔薇だ」という隠喩を鑑賞するとは、 現実世界に足を置く 「彼女は薔薇のようだ」という直喩(外在的態度)と、 薔薇世界に融即する内在的態度のあいだの 往復運動(合成)を遊ぶことなのである。
もう一つの新しい用語のペアを導入しよう。 「図」と「地」である。 まず、もっとも直感的に納得できる 引用に関してこの語を導入する。 これ以降引用している文を「地」と、 そして材料を「図」と呼ぶことにする。 すなわち、 「相対主義は可能だ」の部分が図であり、 「中川は・・・と言った」の部分が地だ、 と語り直したいのだ。
ここまでは問題はないはずだ。 ふだん、わたしたちは「会話と地の文」といった 言い回しを使用しているのだから。
引用論を通して導入したこの新しい用語は、 新しい 理解を引き寄せることになる。 なぜなら、 これまで、 四つの状態 (単相/浅い複相把握/深い複相把握/単相)を 説明するのに、 「単相」と「複相」の他に、 「浅い」と「深い」の概念、 すなわち二つのペア、 四つの概念を使わざるを 得なかった。 図と地は、 それだけでこの四つを説明し切れるのである。
さらに、 このペアの導入により、 四つの状況の対称性が明白となる。 結論を先取りした表となるが、 次の表を見よ。
1 | 2 | 3 | 4 | |
単相 | 浅い複相 | 深い複相 | 単相 | |
【図を描く】 | 地 | 地と図 | 図→地/地→図 | 図 →地 |
上の表で、 (1) と (4) に現れる単相状態を、 とりあえず「地」と呼んでいる。 これには留保が必要である。
その留保は大事な留保である。 地は図がないかぎり地としては認識されない、という 点である。 それは、ほんらい、地でさえないのだ。 単相と名はつけたが、 それは相(アスペクト)ではない という議論を思い出しほしい。 複数の相(アスペクト)があって始めて相が理解される のだ。 「ウサギに見える」は「アヒルに見える」があって 始めて出現する言明である。 単相状態での言明は「ウサギに見える」ではなく、 「ウサギだ」なのである。 相が一つである場合、 それは見えではなく、存在となる。 同じように、 図があって始めて、その図を成り立たせている 地が浮かび上がるのだ。 図と地から図が消えてしまえば、 地であった部分は地としてさえ認識されなくなる
図とは否定性のことなのだ。
地は図(否定性)の中にはじめて認識される。
図のない地は地ではない。
相のない状態
(すべてが存在であるような状態)を、
とりあえず単相状態と呼んだ
(それは本来
以上の留保をつけたうえで、 図と地という語の有用性を確かめておこう。
「言及」は (2)の状態である。
言及とは、
地の文を
この P の部分、 引用された部分の理解にとりかかり、 それに没入すれば、あなたは、 言わば、中川(引用部分の話者)世界に 引き込まれる。 これが使用の状態、(4) である。 あるいは内在的態度(融即)であるのだ。
引用を十全に理解する((3))とは、 引用部分を理解しながら(それを地として)、 なおかつ全体が引用であること (その事実を図とする)という態度なのである。 これが「往復運動」あるいは 「(内在的態度と外在的態度)の合成」という、 いささか、神秘的な言い回しが指し示している 状況なのである。
独我論的状態、 ピジョンホール相対主義が (1) の状況だ。 ここから異文化(2)を見つけるために、 わたしたちは複相状態((3)と(4))を経ること となる。 複相状態の最初((2))では、 自文化((1))を地として、 異文化((4))を図として見ることとなる。 あくまで観察しているわけだ。 異文化((4))の程度が増していくとしよう。 途中を省略して、 そのようなプロセスのなかで、 あるとき地と図が反転するのだ。 すなわち深い複相状態((3))、 異文化の相貌を捉えた上での複相状態となるのである。 このとき、 地となるのは異文化で、 自文化はその地の上の図となる。 そして とうとう異文化に 没入(融即)してしまうことになるか もしれない。 その時、 異文化は地であること (図をともなうものであること)さえやめる。 否定性の欠如である。 もう一つの独我論的状態に陥ったのだ。
2.8.1 よろめきドラマ---転落バージョン
よろめきドラマの シナリオで語ってみよう。 (4) を「他者」と呼ぼう。 平穏状態は単相である。 他者は見えない。 見えないことさえ分からない (否定性の欠如した)状態である。 そして出会いが訪れる。 出会いにおいて、 平穏状態を地にして、 他者を図にする状態となる。 深入りするについて、 図である他者の割合が増えていく。 そして、あるとき、 図と地が反転するのである--- 「誘惑」へ、 深い複相状態に達したのだ。 そのとき、 これまで図であった他者が地になり、 かつての平穏状態が図となる。 そして、 転落に至ると、 他者が地になり、 図がなくなる。 すなわち、それは地でさえもなくなるのだ。
2.8.2 モーム型---興醒めバージョン
いささか退屈かもしれないが、 モーム型のシナリオについても 述べておきたい。 ここでは重要な点が述べられるので、 我慢して聞いてほしい。
復習しよう。 それは恋が醒める物語だ。 物語は熱中から始まる。 そこに「疑惑」が生じる。 さらに「興醒め」へと至り、 さいごにもとの鞘に戻る(「平穏」)という 物語だ。
疑惑の状態とは、 忘れていた平穏な状態が図として浮かぶ そのような状態である。 言い換えれば、 熱中が地であったことに気づく段階である。 彼女は忘れていた平穏に (再び)気づいてはいるが、 それをあくまで観察しているのである。 外在的態度をとっているのだ。 興醒めを経て、 平穏にもどってしまえば、 それは(かつての)生活に融即している、 内在的態度をとっている、という言い方が 可能であろう。 興醒めの段階とは、 かつての平穏の世界の割合がどんどん 増えていき、 地と図が逆転するそのような状態である。
退屈さを覚悟で二つの型を語り直したのは、 物語の対称性に気づいて欲しいからだ。 次の図を見てほしい。
1 2 3 4 よろめき 外在的態度 内在的態度 モーム 内在的態度 外在的態度
さらに虚構とゲームの理論に当て嵌めよう。
虚構を楽しむ、あるいはゲームを遊ぶとは、 内在的態度(融即)と外在的態度(一抜ける)の 合成だと言った。 これを図と地の後で言い替えるべき 探求をすすめてみよう。
まず足はあくまで現実世界において、 そこから虚構を眺める 外在的態度 (一抜けている態度)について 考えよう。 外在的態度に図と地の用語はもっとも適当である。 虚構を楽しむ外在的態度とは、 地としての現実世界の中に、 図としての虚構世界を浮かび上がらせる作業である。
すでに述べたことだが、 外在的態度とは、 ゲームから一抜けた子供、 園児の芝居を見る親や先生、 そして下手な俳優がその例となる。 彼らはあくまで現実世界の中の 図として虚構/ゲームを見ているのだ。
内在的態度(融即)とは 「虚構世界を地とする」態度である。
同じように、現実世界だけで生きている時、 虚構世界を図として見ていない時もまた、 「現実世界を地とする」という 内在的態度と言える。
虚構を例にする限り、 虚構への内在的態度(融即)の実例は 考えにくい。 ままごとの中で 石を食べてしまう 自閉症児をその例として挙げることができよう。 憑依がそのような例として挙げることができるかどうか、 わたしには断言できない。
図と地の語を導入して、 もっとも興味深いのは、 「虚構世界を遊ぶ」仕方の言い換えである。 それは、 「虚構世界を地として現実世界を図とする」作業なのだ。
虚構 | 現実という地 | 虚構を図 | 現実を図 | 虚 構という地 |
引用とアイロニー そしてパロディを 地と図で言い換える作業は、 読者にゆだねよう。 ほぼ同じ作業なのだが、 隠喩の効果を図と地の語を使って 言い換えてみよう。
「彼女は薔薇だ」という隠喩の内在的態度とは、 彼女が薔薇であるような世界からの視点を持つことである。 この世界を「薔薇世界」と名づけよう。 「彼女は薔薇のようだ」という直喩は、 現実世界を地として、 薔薇世界を図とするそのような構図となる。 そして、 「彼女は薔薇だ」という隠喩を鑑賞するとは、 薔薇世界を図として現実世界を地とする、 そのような構図を遊ぶことなのである。
内在的態度と外在的態度および 図と地の新しい用語をつかって、 民族誌の分析に入るまえに、 ひとつだけ新しい項目の分析を行なってみよう --- 絵画という芸術形態である。
2.11.1 内在的・外在的
わたしたちは絵画鑑賞の際に どのような作業を行なっているだろうか、という 問題に答えよう。
誰でも知っている絵画、 レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』を考えよう。 2 絵に描かれる女性を、ここではモデルと言われる フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、 すなわち「モナ・リザ」(リザ夫人)を指すとして、 話を進める。
ウサギ・アヒルの図を経由した わたしたちは、 すぐに絵画の鑑賞の仕方とは、 絵画をモナ・リザ
として 見ることだと 言いたくなる。ウォルハイムは「の中に見ること、として見ること そして画像的表象」 [wollheim-seeing-in]という論文の中で、 絵画の鑑賞は「として見ること」(seeing-as) ではなく、 「の中に見ること」(seeing-in) だという議論を 展開する。 わたしたちはそのキャンバスに描かれた絵を 「モナ・リザ」
として 見ているのではない、と。 わたしたちは「モナ・リザ」をキャンバスの中に見てい るのだ、と。もし「モナ・リザ」として見ているのなら、 わたしたちはそこにモナ・リザしか見ないだろう。 単相の議論を思い出して欲しい--- 単相には認識論はない。 「あれはウサギに見える」のではなく、 「あれはウサギだ」という 存在論の世界なのだ。 「モナ・リザとして」見ている場合、 それは本物のモナ・リザと出会っている場面と 全く異ならないのである--- 「あれはモナ・リザだ」。
しかし、わたしたちは『モナ・リザ』の絵を見るとき、 そのモデルであるモナ・リザを見るだけでなく、 その見事な筆捌き、色の使い方などを 同時に鑑賞しているのだと。
わたしたちの言い方を使おう。 わたしたちが『モナ・リザ』を見ているとき、 わたしたちはその筆捌きや色の使い方だけを見る こともできよう。 これが外在的態度(一抜ける)である。 可能性として、絵画をモナ・リザとして見ること (本物のモナ・リザに出会っているように見ること)も あるかもしれない。 これが内在的態度(融即)である。 そして、 本来の絵画の鑑賞の仕方はその合成にあるのだ。 すなわち、本物のモナ・リザのいる世界を地として、 筆捌きなどの(現実世界)を図として見ているのである。
絵画 筆さばき 本物のモナ・リザ 絵画 現実世界 外在的態度 虚構世界への内在的態度
2.11.2 図と地
さらに図と地の用語を より大きな枠組みの中で 使ってみたい。
グリーンバーグは言う、 芸術は自然の模倣(引用) であった、と。 [Greenberg 1939]。 そして、彼は続ける、 アバンギャルドの芸術は 芸術の引用だ、 すなわち引用の引用だと。
このグリーンバーグの言葉を 下敷きにしながら、 近代の アートワールドを図と地を 使用して、 次のように記述することが可能であろう: 地は生活世界(ライフワールド、日常)であり、 そこには日用品(芸術作品ではないモノ)が 置かれている。 図は美術館である。 それは(博物館がそうであったように) 引用符として働く。 芸術作品は美術館に入れられ、 括弧でくくられるのだ。
そのような意味で、 アバンギャルドは、いわば、 引用符との戦いだ、と言える。 デュシャンは作品『泉』において、 だれが見ても日用品である便器を 引用符で囲んだ(美術館に展示した)。 アバンギャルドによる引用符への挑戦である。 ただし、 これは言わば芸術の枠内での 芸術への挑戦であり、 ある意味で、 この挑戦の敗北は見えていたと言えよう。
登 ( [登 2015]) は、 新世代のアバンギャルド(たとえば マーサ・ウィルソン)の活動を 分析し、 この挑戦の新しい展開を描く。 ウィルソンらは、 日用品に引用符を与えるという デュシャンの試みとは 対照的な挑戦をする: 芸術作品から引用符を はずすのである。 具体的には 芸術作品を美術館の外側へと 配置するのだ。 デュシャンが地を図にしたのに対し、 ウィルソンは図を地にしたのである。
さて、 図と地を引用論に導入することの 有意義さは納得してもらったこととしよう。 つづいて、引用論、とりわけ図と地の概念を、 ひとつの民族誌の解釈に適用してみたい。
次の例は私自身の昔の論文の 引用論による言い換えである。 3
取り上げる論文は 「学校者と出稼ぎ者」 [中川 1999]である。 この論文で取り上げられるのは、 出稼ぎを契機にした フローレス島のエンデのある村での伝統と近代という 2つのゲームのせめぎあいである。 具体的には 伝統の「クピ(地名)が世界一高い山である」 (そしてそこから世界中の民族が発生した)という教え と、 近代(学校)の「クピは決して世界一高い山ではない」 という教えの矛盾についてである。 エンデの村では 二つの矛盾する教えが共存しているのである。 エンデの村人の合理性を維持したまま、 この共存をどのように説明すべきか、 これが論文で取り組んだ問題である。
この問題を分析するにあたり、 わたしがまず最初に採用した議論は、 スペルベル [スペルベル 1979 (1975)] の象徴的知識に関する議論である。 スペルベルがドゥルゼの民族誌からもちだした 疑問は概略次のようなものである: ドルゼの人びとは (1) 豹はキリスト教徒であり、 安息日には断食すると言う、そして (2) その安息日に彼らは豹の襲撃を恐れているのだ。
この
この引用の議論を、 しかしながら、直接にエンデの事例に 適用ができない、という点がわたし自身の議論の 出発点となる。 なぜなら、 (もちろん、 象徴的知識が引用符に囲まれる事例もあるのだが) しばしば象徴的知識ではなく、 百科全書的知識が引用符に囲まれているからなのだ。
わたしが辿りついたのは
次のような結論である:
(1) 二つのゲームがある。
(2) 会話状況のなかでどちら一つが
地になっているゲームは生きられている (人びとがのめりこんでいる)ゲームであり、 人びとは図になっているゲームからは 一抜けているのだ。 地になっているゲームはそれがゲームとしては 意識されていない。
[1] デイヴィドソンは、それは 刻印 (inscription) である、と主張する。 [Davidson 1985] [Back]