2 信頼論
2.1 信頼論への読み替え
2.2 信頼と帰納法
3 知覚論
3.1 描写は透明か?
3.2 記述は透明か?
3.3 知覚は透明か?
Draft only ($Revision$ ($Date$)).
(C) Satoshi Nakagawa
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・・・・・ 【透明性テーゼ】 ・・・・・ [Walton 1984]
「透明性テーゼ」は挑戦的であり、 見ようによっては「とんでもテーゼ」でもあ る。 予想されるように多くの反論がなされた。 そこでは、 しばしば「反直観的な」 (counter-intuitive)という 語が使われた [Walton 2008]。 [1] 論争は、もちろん、 原著者の意図に沿いながら、 透明性テーゼについて語る。 ウォルトンの論文は写真についてではなく、 むしろ知覚と表象についてである、 と私は主張したい。 すくなくともそのように読むことが より興味深い議論に発展する、というものである。
・・・・・ 【予告編---坂道はどこで止まるのか?】 ・・・・・
・・・・・ 【換骨奪胎---信頼論への転回】 ・・・・・
ウォルトンの議論を読み替える 第1の作業として、 反事実的条件法を信頼論へと読み替えたい。
「信頼」という言葉は、もともと、 人間へのそれを指す。 山岸 [山岸 1998] は人間への信頼に限って議論を展開する。 ルーマン [Luhman 1988] は信頼を世界へのそれへと拡張する。 ここではルーマンにならい、 信頼を人間への信頼のみならず、 世界への信頼へも拡大して考えてゆきたい。 [2]
世界への信頼と人間への信頼が 重なる例を出して、 まずこの拡張が納得できるものであることを 示したい。
反事実的条件法でチェックしているのは、 わたしたちの確信あるいは信頼の問題である。 そのことをはっきり させるためにある(法則論的な見地からは) 曖昧な命題を考えてみよう。 「あるチームのすべての負けた試合には Z が出場していなかった」 という真である命題である。 ある試合に Z が出場せず、 チームはその試合に負けたとする。 「もし Z が出場していたならば、 あの試合は勝利していただろう」という 反事実的条件法を考えてみよう。 これが法則論的になるかならないかは、 Z にどれほどの活躍をしていたかという わたしたちの評価にかかっている。 Z の貢献を信頼すれば、 この命題は法則論的であるし、 そうでなければ、 この命題は単なる積み重なった 偶然(「普遍的相伴」 [フォン・ウリ クト 1984: 28])について述べているに過ぎないと わたしたちは見なしているのである。
人間の信頼と世界の信頼が 同じ種類のものであることを もう一つの例を使って説明したい。
・・・・・ 【帰納とは心理的な「世界の秩序」への盲信である】 ・・・・・
赤ん坊が最初に学ぶ(日常)物理学のうちの一つは、 モノは時空的に連続して存在している、 すなわち突然消えたりはしない、ということである。 哺乳瓶はさっきもここにあったし、ちょっと前もここにあった、 いま見ている間もここにある、だから、少しあとでもここにある --- これが、赤ん坊の帰納による法則化であり、 そしてその法則化はたいていの場合うまくいくの である。
・・・・・ 【ヒュームの帰納法論】 ・・・・・
・・・・・ 【物忘れの物理学】 ・・・・・
信頼とは ギデンズの言うように [ギ デンズ 1993] 「裏切り」と表裏一体の概念である。 バートランド・ラッセルによる 信じやすいニワトリの例が 信頼と裏切りとの関係とを 示している。
毎朝、毎朝、にわとりに餌を与えていた男がいた。 彼は、 自然の秩序に関してより洗練された理論をニワトリに 教えんがために、 ある朝とうとうニワトリをしめ殺した。 [Russell 1912: 35]
・・・・・ 【安心から賭けへ】 ・・・・・
・・・・・ 【そして】 ・・・・・
ウォルトンの議論に戻ろう。
前章で全体をまとめはしたが、 じつは省略した部分がある。 それは予想される反論への譲歩である。
その譲歩は仮想上の反論に対したものだ。 その反論は「すべりやすい坂道」議論に対する反論であ る。 すなわち「坂道はどこで止まるのか?」ということだ。 ウォルトンはこの(仮想上の)反論を受けて、 坂道のさらに先まですべってみせる。 「絵画の中にも透明なものがある」というのだ。 ウォルトン自身は具体的な例を出してはいない。 これまでの議論から言えば、 透明な絵画とは、 作者の意図が介在しない類の絵画であるはずだ。 たとえば、 高校の時に行なった生物の授業での 左目で顕微鏡を見ながら、 右目で見たものを描いていく実習が いい例となろう。 ここには被写体とスケッチの間に 法則論関係があることが重要な点である。
ここで先程エピソード的に紹介した ハンフリー [ハンフリー2004]の 洞窟絵画と自閉症児の絵画の 議論を思い出してほしい。 ハンフリーが主張しているのは、 これらにおいてもまた被写体と法則論的な関係があると 言うのだ。 たしかに、 これらにはスタイルがなく 写実性(法則論性)が 見受けられるというのは、それなりに 説得力のある議論である。 しかし、顕微鏡を使ってのスケッチと違い、 自信をもって「それらが透明だ」と言えるかというと、 わたしたちは躊躇してしまう。 なぜ顕微鏡でのスケッチに法則論性があると言え、 洞窟絵画にそれが言えないのだろうか。
3.1.1 意図への信頼
この違いを齎すのは 描き手の意図の問題である。 わたしたちが描き手である顕微鏡のスケッチでは、 意図はそこにある。 わたしたちは(スケッチが対象と)法則論関係をもつように 注意しながら、 スケッチを描く。 顕微鏡の中の被写体が違えばどうなるかと問われれば、 それに応じて違うスケッチができると、 わたしたちは答えるであろう。
リアリズムの絵画にはある種の雰囲気 (「写実性」としか言いようのない雰囲気)が あるのは確かである。 その雰囲気がハンフリーの挙げる 洞窟絵画と自閉症児の絵に、わたしたちは、 たしかに感じる。 しかし、自信をもってこれらが 透明だと言うことはできない。 なぜなら 作者の意図が不明だからだ。 どちらの場合も、 作者の意図を確認できないだろう (洞窟絵画の作者はすでに死亡しているし、 自閉症児とのコミュニケーションは難しいだろう)。
わたしたちは、しかしながら、 作者の意図を想像できる。 それが顕微鏡スケッチの作者と同じ意図だと 考えれば、 洞窟絵画は透明になる。 そこにスタイルや意図を想像すれば、 洞窟絵画は普通の、すなわち 透明ではない絵画となる。 [3] 問題は確信/信頼に存するのだ。
わたしが主張したいのは、 「透明である」というのは絵を分類する属性ではない、 ということだ。 ある絵が透明であるかどうかを決めるのは、 その絵が持っている属性ではなく、 わたしたちがその絵に対して持つ態度(信頼)によって 決まるのだ。 ある態度においては、 ある絵画を透明であるとするだろうし、 他の態度の中では、 ある写真を透明でないとするだろう、 ということだ。 鑑賞者の態度によって、 すなわち、 確信/信頼の度合いによって、 特定の絵画が透明になったり、 不透明になったりするのだ。
3.1.2 延長された知覚
議論の本筋に戻ろう。
あるモノが透明であるとは、 そのモノが人間と現実世界との間のコンタクト(知覚)を 遮らない、ということである。 あるモノが透明でないとは、 そのモノが 人間と現実世界の間のコンタクトを遮るということ である。 このときそのモノは表象となる。
このように知覚と表象を捉え直したうえで、 わたしはウォルトンの「透明な絵」論文を 次のように読みたい。 すなわち、 (すでに述べたが) この論文は写真についての論文ではなく、 知覚、とりわけ視覚(見ること)についての論文なのだ、と。 そしてその論文の主張は(わたしの読みかたでは) 「見ることは進化する」となる。 「すべりやすい坂道議論」こそが 進化の道程なのである。 ウォルトンの論文のポイントは、 「これまでわたしたちは 眼鏡、顕微鏡、望遠鏡などを視覚の 延長として捉えてきた。 さぁ、写真もその延長としようではないか」 という呼びかけだと考えるのだ。
問題は現実世界と知覚のあいだの 写像的類似、すなわち法則論的関係である。
ウォルトンの論文に示唆的な箇所がある。 すでに述べたように、彼は、 記述 (description) は、 言語の恣意性によって人間と現実世界の間の コンタクトを切断すると主張した。 ライオン(個体 a)と 豹(個体 b)とは、 世界において似ている にもかかわらず記述(「ライオン」と「ヒョウ」)に おいてその相似はあらわれない。 あるいは 兎(個体 a)と 鰻(個体 b)とは 世界において似ていないにも関わらず 記述(「ウサギ」と「ウナギ」)において似ている、 という議論である。 その箇所からかなり後の部分で、彼は 自分の議論をくつがえす。 いささかSF的な状況を考えてみよう、と 彼は言う。 マッドサイエンティストがあなたを改造して、 あなたは記述のみによって外界とつながるように なったのだ。 この箇所で、ウォルトンは、 もし世界とのコンタクトが記述のみになってしまったら、 いずれ写像における類似(「ライオン」と「ヒョウ」) を、あなたは感じとれるようになる、と議論する。
YOU ARE STANDING AT THE END OF A ROAD BEFORE A SMALL BRICK BUILDING. AROUND YOU IS A FOREST. A SMALL STREAM FLOWS OUT OF THE BUILDING AND DOWN A GULLY. go south YOU ARE IN A VALLEY IN THE FOREST BESIDE A STREAM TUMBLING ALONG A ROCKY BED. go west YOU FELL INTO A PIT AND BROKE EVERY BONE IN YOUR BODY! NOW YOU'VE REALLY DONE IT! I'M OUT OF ORANGE SMOKE! YOU DON'T EXPECT ME TO DO A DECENT REINCARNATION WITHOUT ANY ORANGE SMOKE, DO YOU? yes OKAY, IF YOU'RE SO SMART, DO IT YOURSELF! I'M LEAVING!
Wikipedia ``Colossal Cave Adventures'' より
3.2.1 議論と反論
・・・・・ 【記述と学習】 ・・・・・
・・・・・ 【バンヴィニスト】 ・・・・・ [Benviniste 1974] ・・・・・ 【恣意性と有契性】 ・・・・・
・・・・・ 【知覚があらかじめ与えられていること】 ・・・・・
・・・・・ 【スペクトラムのもう一つの極】 ・・・・・
・・・・・ 【表象としての知覚】 ・・・・・ [Ayer 1956] [エ ヤー 1991]
・・・・・ 【素朴実在論】 ・・・・・
ここで知覚を視覚のみに限定して、
生物の原初の状況を考えてみよう。
当初、
生物はバークレー的な考え方をもて遊ぶかもしれない。
「ここに石がある」という知覚をわたしは持っている。
しかし、それはわたしの中の出来事であり、
けっして世界の中の出来事ではない、と。
知覚は不透明なものと見なされている。
超越論的観念論である。
あるいは、彼は
カント的な言い方を好むかもしれない。
わたしは世界の写像として知覚をもっている。
しかし
超越論的観念論は、 経験論的実在論と連続的であるのだ。 その連続性は進化のメカニズムによって 保証される。 模型と類似性に関して言い換えれば、 模型の不透明性と透明性とは連続的である。 模型が不透明であるとは、 写像的類似がない状態である パースの言う「象徴」であり、 その時、 模型は 恣意性によって現実世界とのコンタクトを 切断されている。 模型が透明であるとは、 現実世界とのコンタクトが維持されることにより、 類似が最大限になる状態である。 それはもはや「表象」ではなく 感覚そのものである。 模型のこの二つの状態の連続性は 鑑賞者の信頼という態度によって 保証されているのである。
[1] それらの反論、そしてそれに対するウォルトンの答えを 清塚 [清塚 2003]が 手際よくまとめている。 [Back]
[2] 2017年の大阪大学人間科学研究科の授業で、 ある学生さんがこの点に関してすばらしい 指摘をした。 貨幣は信頼がなくなれば崩壊するが、 世界への秩序は信頼がなくなっても崩壊しない。 これは熟考を要する問題提起だ。 [Back]
[3] この部分の議論が、期せずして ダントーのアートワールド [ダントー 1964] の議論に重なった。 ダントーは、絵画の鑑賞には スタイルと、そのスタイルをめぐる雰囲気 (さまざまな批評)などなど(「アートワールド」) を知ることが必須だと述べている。 ここで述べているのは、 ある絵画に「アートワールド」を措定できない場合の 一つの帰結である。 すなわち、その絵画は透明になるのだ。 [Back]