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透明な絵---知覚と表象

2017-11-22 12:27

中川 敏

1 はじめに
1.1 これまで
1.2 これから

2 知覚と概念
2.1 現実世界、知覚、概念、表象
2.2 ナディアと天才

3 写真論
3.1 透明性テーゼ
3.2 すべりやすい坂道
3.3 反事実的条件法
3.4 法則論性と写真
3.5 現実世界とのコンタクト

4 まとめと展望
4.1 パースの分類
4.2 まとめ
4.3 展望

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1. はじめに

1.1 これまで

模型が模型としてあるために 模型は対象と似ている必要がある、という 直観的な理解から議論を始めた。 問題としたのは「似ている」とは どういうことか、である。

二つの種類の類似を区別すべきであることを 示した--- すなわち現実世界の中の二つの個物の間の 類似(これを「自然的類似」と呼ぶ)と 表象を成立させる二項(表象とその 対象)との間の類似 (これを「写像的類似」)と呼ぶ。 もし自然的類似にのみ「似ている」という語を 適用するならば、 表象と対象の間に「似ている」関係はないことを 示した。 同じことだが、 写像的類似は二項間の関係ではなく、 三項間(表象と対象と概念枠組)の間の 関係であるのだ。

1.2 これから

この章と次の章では 以上の結論を崩していくことを目標とする。 それは自然的類似の拡大という形をとる。 第一段階(この章)では 写像的類似とされるような関係が じつは自然的類似であることを示したい。

この章では写真について考えていきたい。 より具体的にはウォルトンの 「透明な絵画」 [Kendall Walton 1984] という短かい(11ページしかない)論文を 紹介する。

2. 知覚と概念

この論文の意義を考えるために、 前章で引用したハンフリーの議論を ふり返ってみよう。 自閉症児であるナディアに対比させて、 ハンフリーは次のように言う。

ナディアと同年齢の正常な女の子は、 たとえばウマを見るときには、 それを「ウマ」というカテゴリーの 表徴 [トークン]と見る--- したがって、その記憶を断念する---が、 ナディアは、 それがつくりだす最初の視覚的印象を 単純に受けとめるだけなのだ。 [ハンフリー 2004: 137]

問題にされているのは 知覚 (perception) と概念 (conception) の 対照である。 ハンフリーのいささかナイーブな 図式によれば、 われわれは 知覚を受け取り、 それを概念で整理する、ということになる。

2.1 現実世界、知覚、概念、表象

・・・・・ 【現実世界、知覚、概念表象】 ・・・・・

・・・・・ 【自然的類似と写像的類似】 ・・・・・

・・・・・ 【脱線】 ・・・・・

2.2 ナディアと天才

・・・・・ 【ナディアと天才】 ・・・・・

このナイーブな図式に、 ナイーブに疑問をもつことから 始めたい。 [1] すなわち、 それならば、概念以前の段階で (すなわち知覚の段階で)とどまればいいのでは ないか、と。 とりあえず、 これは「写実主義」の文脈でなされた問いだと 考えていただきたい。 概念を持ちながらも、 それを控えるという方法があるのではないか、と。

ウォルトンの当該の論文は、 この疑問に直接の形で答えるわけではない。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

3. 写真論

「類像性として捉えられてきた記号の いくつか」の例として 取り上げるのは写真である。 [2]

ウォルトンによる 「透明な絵 (Transparent Pictures)」 [Walton 1984]という 短かい論文を「写像的類似」への叩き台としたい。 この論文は、副題(「写真のリアリズムの性格 (The Nature of Photographic Realism)」)が 示すように写真について、 とりわけその「リアリズム」 (写実主義/実在論)についての議論である。

3.1 透明性テーゼ

この論文の主張は直截である: ウォルトンは「写真は透明だ」と主張する。 わたしたちは写真を見るとき被写体を (字義通り)見ている、と彼は主張するのだ。 わたしたちが絵画を見ているとき、 たとえばダヴィンチの『モナリザ』を見るとき、 比喩的には「わたしはジョコンダ夫人を見ている」と 言うことがあるかもしれない。 しかし、それはじっさいにジョコンダ夫人に会うのとは 違う。 それは飽くまで比喩的な物言いに過ぎない。 それに対し、 写真を見る時 わたしたちは被写体を見ている、とウォルトンは言う。 『モナ・リザ』は表象だが、 写真は表象ではない、 それは現実(リアリティ)である、と。

この一見「とんでも」主張とも言えるかもしれない 「写真は透明だ」テーゼ (清塚 [清塚 2003] になら い「透明性テーゼ」と呼ぼう)を、 ウォルトンは二つの方法で 擁護していく。

3.2 すべりやすい坂道

一つは「すべりやすい坂道議論」 (slipperly slope argument)である。 わたしたちは眼鏡を通して物を見るとき、 眼鏡を表象とは考えないだろう。 眼鏡は透明であり、 わたしたちは眼鏡を通して現実世界を見ていると 考える。 同じことが双眼鏡、望遠鏡、 顕微鏡に言えるようになった。 以上の透明であるモノの拡張は、いわば、 坂道をすべっていっているようなものだ。 写真をこれらの延長上にあると考えても いいだろう。 これが「すべりやすい坂道議論」による 「透明性テーゼ」の擁護である。 デジタルカメラを例として取れば より説得的になるかもしれない。 すなわち、 一眼レフでファインダーを覗いている時、 わたしたちは「現実世界を見ている」と考えるだろう。 すなわちファインダーは透明なのだ。 ここで一眼レフを液晶をつかったカメラに 取り替える。 ファインダーが透明ならば、 液晶もまた透明と言うことに抵抗はそれほど ないだろう。 そしてシャッターを押そう。 わたしたちは、写真は、 その液晶の画面の忠実なコピーであると考える。 それならば、 すなわち写真もまた透明なのだ、と。

3.3 反事実的条件法

ウォルトンによる 第二の擁護作戦は「反事実的条件法」によるものである。 彼は非常に簡単にしかこの点に立ち入っていない。 ここでは、彼の議論を補填し・発展させ、 わたしの議論の一つのポイントとしたい。 まず「反事実的条件法」を簡単に説明する。 二つの事実を考えてみよう。 「リトマス試験紙を赤くする物質は すべて酸性である」と 「すべてのアメリカ大統領は男性である」という ともに真である二つの全称命題だ。 この命題に基づいて予言ができるかどうかという問題を 反事実的条件法は扱っている。 X は酸性であり、リトマス試験紙を赤くしたとしよう。 もし「X が酸性でなければ、 リトマス試験紙は赤くならなかっただろう」という 予言はわたしたちを納得させる。 この命題は法則論的であるのだ。 Y は大統領であり、男性であるとしよう。 この時「もし Y が男性でなかったならば、 Y は大統領ではなかったであろう」という予想を わたしたちはしない。 この命題は法則論的 (law-like) ではないのだ。

・・・・・ 【反事実的条件法テスト】 ・・・・・

3.4 法則論性と写真

・・・・・ 【写真はテストに耐える】 ・・・・・

・・・・・ 【確認---自然的類似】 ・・・・・

・・・・・ 【みかんの写真】 ・・・・・

・・・・・ 【写真の反事実的条件法】 ・・・・・

・・・・・ 【改良版】 ・・・・・

反事実的条件法、 あるいは法則論性の議論の 写真への応用は次のように なる。 現実世界における個物 aの 写真を a'とする。 法則論的な写像的類似が成り立っているとは、 a が(自然的に)類似していない b だったとすれば、 その写像はa'に(自然的に)類似していない b'になったであろう、 という予言をする確信を、 わたしたちは持つ、ということだ。 現実世界において似ている二つの個物は、 写真の世界においても似ている筈だと思うほどに わたしたちは写真を信頼しているのである。

3.5 現実世界とのコンタクト

知覚が対照として議論の枠組に のぼってきた。 知覚について考えてみよう。 ウォルトンは現実世界との コンタクトという考え方を示す。 知覚とは、ウォルトンは言う、 現実世界とのコンタクトを維持することなのだ。

ウォルトンは「絵画においても世界と絵画の 間に法則論関係があるだろう」という反論が あるかもしれないと言う。 その反論は成立しない、とウォルトンは続ける。 世界と絵画の間に 作者による意図や欲望などが 介在するから、 法則論関係は切断されているのだ。 絵画は飽くまで表象なのである。 それは透明ではない。

ウォルトンは描写 (depiction) から さらに記述 (description)(たとえば文学)へと 議論を発展させる。 記述では、ウォルトンは言う、 このコンタクトは二重に切断される、と。 最初に作者によって、 そしてつぎに言語という恣意性のシステムによってだ。

・・・・・ 【すべりやすい坂道は切れる】 ・・・・・

4. まとめと展望

4.1 パースの分類

写像的類似について考える叩き台として、 パースによる記号の分類 [パース 1986] を紹介したいのだ。 彼は記号を三つの種類に分類する。 すなわち、類像性 (iconicity)、 インデクス性 (indexicality)および 象徴 (symbolism) である。 ここではパース学を展開するのではなく [3] 、 飽くまで叩き台として、この分類を利用したい。 雑駁に言えば、 類像性は記号自身がその対象と似ているという 点によって、 インデクス性は因果関係によって、 そして象徴は恣意性によって特徴づけられる。 ここで問題としたいのは 類像性とインデクス性である。 この節の一つの目的はインデクス性の 考え方の洗練である。 それを因果関係としてではなく、 より広い法則論的 (law-like) 関係として考えたい。 この論文で最終的に主張したいのは 「類像性として捉えられてきた記号のいくつかは インデクス性である」という議論である。 類像性とは写像的類似に他ならないのであり、 インデクス性は法則論的関係であるので、 この結論は次のようになる--- 写像的類似のいくつかは 法則論的関係に基づくものだ、と。

4.2 まとめ

現実世界 → 知覚 → 眼鏡/写真 →||→ 絵画 →||→ 記述

表象の定義:絵画から(写像的類似)

記号の定義:表象から写真まで(自然的類似)

記号における類像性はインデキシカリティに基礎づ いている

それは表象ではない

4.3 展望

以上はウォルトンの結論で、 中川の結論は次章で述べる。


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Bibliography

[nakagawa-mitsukekata] 敏 中川.
異文化の見つけ方. 大阪大学人間科学研究科紀要, 41 pp. 81-97, 2 2015.
[wollheim-pictorial] Richard Wollheim.
On pictorial representation. The Journal of Aesthetics and Art Criticism, 56 no. 3 pp. 217-226, Summer 1998.
[carney-style] James D. Carney.
Representation and style. Philosophy and Phenomenological Research, 53 no. 4 pp. 811-828, Dec 1993.
[hanson-j-86] ハンソン, N.R.
科学的発見のパターン. 講談社学術文庫, 1986.
[goodman-art] Nelson Goodman.
Languages of Art. Hackett Pub Co Inc, Indianapolis, 2 edition, 6 1976 (1968).
[jacobson-realism] ヤコブソン, R.
芸術に於けるリアリズムについて. In 水野 忠夫, editor, ロシア・フォルマリズム文学論集 1, pages 195-213. せりか書房, 1971.

* * * * *

ENDNOTES

[1] このような疑問を、わたしは つねに避けていた。 [Back]

[2] あわてて付け加えるが、 パースは写真をインデクス性に分類している ように見える。(断片番号 二・二八一) [Back]

[3] パース自身分類方法を何度か変更している。 あるいはこの分類方法のもっている問題点を指摘する。 そのようなことには拘泥しない、そのような 事はこの論文の目的ではない、ということだ。 [Back]