1 序
1.1 模型は表象する
1.2 模型はいかに表象するか?
2 類似はない
2.1 醜い家鴨の仔の定理
2.2 写実主義批判
2.3 科学理論
2.4 概念枠組
2.5 無垢の目の神話
3 類似はある
3.1 世界の中の類似
3.2 描写と記述
3.3 原始の「写実主義」
3.4 自然的類似と写像的類似
3.5 直観的な答
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(C) Satoshi Nakagawa
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Comments are welcome
・・・・・ 【模型と2つの世界】 ・・・・・
・・・・・ 【模型とは表象である】 ・・・・・
・・・・・ 【模型は表象する】 ・・・・・
・・・・・ 【とりあえずの模型たち】 ・・・・・
・・・・・ 【小道具とは】 ・・・・・
・・・・・ 【絵画は小道具である】 ・・・・・
・・・・・ 【模型】 ・・・・・
「似ている」こと、あるいは「類似」が 問題のない概念として扱われていることに 注意して欲しいとわたしは言った。 「類似のどこに問題があるのか」と 考える人も多いかもしれない。 類似の概念は、 それほどにわたしたちの生活世界に 埋め込まれた、 自然に見える概念なのだ。
しかし、じつは、 類似の概念は多くの問題を 含んでいる概念なのである。
・・・・・ 【渡辺の紹介】 ・・・・・ [渡辺 1978]
・・・・・ 【伝言ゲーム】 ・・・・・
・・・・・ 【ゲームの第1の教訓、再認と再現】 ・・・・・
・・・・・ 【パターンとは何だろうか?】 ・・・・・
芸術の中で(現実世界の)対象との 類似を強調するやり方は「リアリズム」 [1] として知られている。 リアリズムの考え方は、 ある種の自然の中の類似を当然のこととしている。 ところが、 多くの芸術の哲学は、 このような 自然的類似を否定することから始まる。 グッドマンは『芸術の言語』 [Goodman 1969]の中で、 リアリズムとは表象と対象の関係ではなく、 表象・対象そしてその時代の表象体系との 関係であると宣言する。 同じことを、 ヤコブソン [ヤコブソン 1971]は 写実性とは伝統にもとづくと言い、 カーニー [Carney 1993] は、 類似とはスタイル(様式)相対である、と表現する。 言われていることは 自然的な類似などないということだ。
これらの芸術哲学で使われている キー概念、すなわち、 「表象体系」(グッドマン)、 「伝統」(ヤコブソン)そして 「様式」(カーニー)を 「理論体系」という言葉に置き換えれば、 科学哲学と重なることになる。 ハンソン [ハンソン 1986] の「観察の理論負荷性」が、 そしてクーン [クーン 1971]の 「共約不可能性」が示す考え方なのだ。
科学論に限らず わたしたちの生活世界自身がそのようである (自然的類似が存在しない世界である) ことを、 たとえば野矢は 「われわれはすでに分節化された世界に生きている」 [野矢 2011: 13] と表現する。 そして、この考え方こそが、 人類学が長く親しんできた 「概念枠組」 の考え方の示すものなのである。 それは人類学者の言う 「文化」なのだ (cf [中川 2015])。
・・・・・ 【人類学の例】 ・・・・・
・・・・・ 【似ているは、概念枠組相対である】 ・・・・・
これらの考え方が、 言わば、哲学の、 芸術論の、 科学論の、 そして人類学の常識である。 「無垢の眼」 [Goodman 1969: 8] を神話として否定するのである。 これらの議論を「無垢の目の神話」論と 呼ぼう。 否定されているのは 「無垢の目」が見るとされている 類似である。 そして無垢の目の神話論を 支える「伝統」、「様式」そして「文化」などの 語を、 以降「概念枠組」の語で代表させていきたい。
・・・・・ 【念のために】 ・・・・・
あらためて「世界の中に類似がない」という テーゼはあまりに日常の ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
・・・・・ 【視覚重視について】 ・・・・・
リチャード・ウォルハイム
[Richard Wollheim 1998]
は、
絵画におけるスタイルそのものを否定するような
考え方を提示する。
絵画論の中の一つの潮流として、
記号論的な絵画論があるが、
それは間違っていると彼は言う。
なぜなら、絵画には
・・・・・ 【True to と True of】 ・・・・・
・・・・・ 【たしかに】 ・・・・・
一方にヤコブソンなどによる 「絵画と構造」の考え方があり、 もう一方にウォルハイムによる 「絵画と非構造」の考え方があることになる。 この対立を、ある意味で (構造派にやや有利な形で)調停するのが ハンフリーによる議論である。
進化心理学者、 ニコラス・ハンフリー [ハンフリー 2004] の議論を紹介しよう。 彼は先史時代の天才が描いたと言われる 洞窟壁画と、 天才と言われることもある、 ある自閉症児の描いた絵画についての 議論である。 ともに驚くべき写実性をもって 描かれている。 さらに驚くべきことは、 洞窟絵画とナディアの絵が、 まるで同じ作者が描いたかのような 共通点を示している点である。 ハンフリーはこれは単なる偶然では あり得ないと考え、 その説明を考える。
彼はまずナディアの
状況(症状)を次のように記述する。
「未発達な言語、
乏しい認知能力、コミュニケーションの関心への
見かけ上の欠如」
[ハンフリー 2004: 135]
と。
ナディアは、例えば、
肘掛け椅子とデッキチェアを同じものとして
カテゴリー分けすることができなかったという
[ハンフリー 2004: 137]。
端的に言えば、
ナディアはある物体を椅子
そして、そこから 彼が出す結論は これらの特徴、 とりわけ言語能力そして認知能力の 欠如こそが ナディアをして、 あのような写実的な絵を描くことを 可能にしたのだ、と言う [ハンフリー 2004: 136]。 彼は言う、 「物がどのように見えるかをナディアが正確に 記憶することを 可能にしたのは、 まさにこの概念化の欠如であった」 [ハンフリー 2004: 137]と。
ハンフリーは続けて、 洞窟絵画の作者もまた 言語を欠いていただろうと 推測をする。 彼らは現生人類の心をもっていなかったのであり、 それゆえにこそ あのような絵を描くことができたのである。
これらはどちらも天才の描いた絵画ではない、と。 なぜならば、どちらも概念枠組に 基づいていないからだ、と。 「リアリズム」はあるとハンフリーは 主張するのだ。
・・・・・ 【まとめ】 ・・・・・
この二つの「類似」擁護議論 (一方にハッキングとクワイン、 もう一方にハンフリーとウォルハイム)を 並べることによって、 類似の議論はじつは異なった二つの種類の 類似について述べていることが 明らかになるだろう。 すなわち、 (1) 現実世界の中の二つのモノの間の 類似と、 (2)現実世界のモノと(それを 表象したとされる)虚構世界のモノ(模型)との 間の類似である。 (1)の類似が「自然的類似」とこれまで 呼んできたものである。 (2)の類似、 模型論は本来こちらの類似を問題にすべきなのだが、 これを「写像的類似」と呼ぼう。
・・・・・ 【自然的類似】 ・・・・・
・・・・・ 【表象の類似】 ・・・・・
・・・・・ 【項間の順番】 ・・・・・
・・・・・ 【おまけ】 ・・・・・
直観的な答は(1)自然的類似は存在するが、 (2)写像的類似は存在しないというものであろう。 (1)は、 クワイン風の進化論的議論が正しいとすることである。 わたしはこの立場は十分説得的だと思う。 [2] これを以降の議論の前提としたい。 問題としたいのは、直観的な答の(2)である。 (2)は「無垢の神話」論を認める、 すなわち、 ハンフリーやウォルハイムには反して、 グッドマン、ヤコブソンの陣営に与する (「概念枠組」の存在を認める)、という 宣言である。
次章では、 答の(2)、すなわち概念枠組を認める議論、 写像的な類似を否定する議論に 対抗してゆく手立てを探してゆきたい。
[1] 「実在論」とも訳せるが、 芸術の中では「写実主義」と訳す。 [Back]
[2] 適当な自然的類似を把握できない種は 自然淘汰の中で 生き残ることができなかったであろう。 その「適当な自然的類似」を作り出す メカニズムの中の基本的戦略は 渡辺 [渡辺 1978]の言う通り 属性への重みづけであろう。 属性への重みづけを間違えた種は 滅びていくことなる。 [Back]