二つのゲーム---市場と贈与

2017-06-16 15:28

中川 敏

1 序
1.1 これまで:2つの経済
1.2 これから:ゲームとして経済

2 市場経済の目的
2.1 経済学の方法

3 「贈りもの交換」の目的
3.1 「贈りもの交換」を拒否した場合何が起こるか
3.2 コミュニケーション

4 市場交換と贈与交換のルール
4.1 互酬性
4.2 人間関係
4.3 市場経済と贈与交換:まとめ

5 二つのゲーム
5.1 二つの交換の意味
5.2 二つのゲーム
5.3 将棋の場合
5.4 交換の場合
5.5 正しいゲーム、正しくないゲーム

6 近代の経済の合理性
6.1 人類学から
6.2 制度化された欲望


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1. 序

1.1 これまで:2つの経済

「進歩の思想」において 開発が基く考え方があることを、 示した。 この考え方に基く経済を「市場経済」と呼ぼう。 続く「オイコス」において、 市場経済、 あるいはそれが基礎とする考え方 (それを「市場主義」と呼ぼう)が、 経済に関する唯一の考え方でないことを、 示した。

1.2 これから:ゲームとして経済

「攻撃の形」というパターンが、 たとえばモノポリーで意味がないように、 あるいはもっと端的に言ってしまえば、 将棋の外で意味がないように、 「貧困」あるいは「開発」は、 市場主義の社会の外では意味がないのだ。

* * * * *

ファーガソンは次のように言う---

19世紀における「文明」という語と同様に、 現代の「開発」は、 価値に対する名前であると同時に、 それを通して世界の貧困地域を わたしたちが見る支配的な解釈グリッドである。 アジアのぼろを着た貧者と アフリカの子供のふくれた腹から、 わたしたちはそこに「貧困」を見る、 そして両者に欠けているものは 共通の一つのモノであることを理解するのだ---「開発」 が欠けているのだ、と。 [ferguson-anti-politics: xiiim4_dnl ]

「アジアのぼろを着た」人びとに 貧しさを見ることに大きな間違いはないだろう。 しかし、「アフリカの腹のふくれた子ども」は、 むしろ飢饉をそこに見るべき現象かもしれない。

「貧困」は作られている、というのだ。 「開発」の考え方がなければ、 わたしたちは 「アジアのぼろを着た貧者」と 「アフリカの子供のふくれた腹」に共通なもの (「貧困」)を見ることはない。 「開発」の語を通して、 始めてその二つを共通のカテゴリーにくくることが できるようになる--- そのようにファーガソンは述べている。 そして、付け加えるならば、 もちろん、開発も作られているものであるという前提は 言うまでもない話であろうと。

2. 市場経済の目的

「進歩の思想」

次の問題は経済学部の大学院の 入試予想問題集からとった問題です。 「経済学の対象と課題を明らかにせよ」。 あなたは、 これにこたえられますか。模範解答は次のようになって います。

全ての経済問題の根源は、人間の欲望が無限 であるのに対して、それを充足させる手段が希少 であることである。...

経済学の課題は、人間の無限の欲望を満たすた めに、希少な手段を如何に用いるかという問題に 答えることである。すなわち、成長の問題、安定 の問題、平等の問題として現われる具体的な諸問 題を、最小手段の原則および最大満足の原則とい う経済行為の基本的公準にしたがって評価し、解 決することといえよう。


2.0.1 最少手段、最大満足の原則

最小手段の原則、最大満足の原則というところに アンダー・ラインをひく必要があります。 平たく言えば、 なるたけ少なく損をして、なるたけ大きな得をえる、 という原則です。 経済学では、すべての人間は、すべての「交換」の時にこの 様な合理的な判断をしている、という考えるわけです。

2.1 経済学の方法

あるいは、次の問題に答えてみて下さい。「経済学の方法 について述べよ」。

 模範解答の一部を次に引用します。「人間は自己の目的と それに到達するための手段を、与えられた条件の中で出来る だけ合理的に追求するであろう。」

3. 「贈りもの交換」の目的

3.1 「贈りもの交換」を拒否した場合何が起こるか

 これらの交換の目的を理解する簡単な方法は、 これらの交換がなされているときに 「合理的」な行動をした場合どうなるか、 ということを考えてみることです。 宴会で、杯の交換 を拒否した場合、子供のくれた蝉の抜け殻を汚いからと返し た場合、ラウンドを拒否した場合、向いの客のワインを拒否 した場合、タバコを自分で吸った場合、いったい何が起きる でしょうか。おそらく、その場で起きることは、気まずい雰 囲気でしょう。これ以降、あなたの評判はどのようになると 思いますか。多分、次のような噂が飛び交うだろう、という のは充分想像できると思います。「いやなやつだ」「自分の 事しか考えていない」、「非社交的な人間だ」。

3.2 コミュニケーション

 あなたは「何か」を 拒否しているのです。私たちが日常使 う言葉でどれがこの拒否された「何か」を表わしているかを 考えてみれば、おそらく、「コミュニケーション」という言 葉がもっともぴったりくるでしょう。「もう一つの交換」は 、経済学的な目的ではなく、コミュニケーションを目的とし ているのです。

4. 市場交換と贈与交換のルール

 この二つのタイプの交換は、 私たちにはよく知られたものです。 そのやり方を まとめてみましょう ( [vanbaal-reciprocity-j]を参照)。 「取引」か ら始めます。最も典型的な例として、スーパー・マーケット での買物や、がらくた市を頭に浮かべて下さい。

4.1 互酬性

まず、互酬性という言葉を導入します。 この言葉で言いた いことは当事者同士の間でどの様な形でバランスをとるか、 という目安だと思って下さい。

4.1.1 市場経済

この互酬性に関していえば、「取引」は非常に厳密です。

【スーパー・マーケット []】 (1.1) 厳格な互酬性

 スーパー・マーケットで五〇円のキャラメルを買って、百 円玉を出せば、必ず五〇円おつりが返ってきます。決して四 十九円でも、五十一円でもありません。最小の単位(それが 何であれ)まで、厳格に互酬性がはかられます。

(1.2) 時間的・空間的直接性

また、その厳格な互酬性は、 時間的そして空間的に、直接 的です。「すぐに、その場で」バランスが取られるというわ けです。おつりがないから明日まで待つ、ということはスー パーでの買物では考えられません。

(1.3) 客の権利

そして、これらの厳格な互酬性は、 もしそれが成り立たなかった場合、 片方はそれに対して文句を言う権利があります。 おつりが足りなければ、あなたは怒り出してもよいのです 。誰もそれを変だとは思いません。おつりを明日まで待て、 と言われれば、怒って「支配人を呼べ」と言ってかまいませ ん。

(2) がらくた市

がらくた市を今度は考えてみましょう。

(2.1) 最少損失・最大満足の原理

そこにあなたが出す品物は、あなたがもう必要のなくなっ たものです。もう着られなくなってしまった子供の服、新し いのを買ったので不用の古い洗濯機、そういったものをがら くた市に出します。

決して自分の大切なビール瓶の蓋でも、蝉の抜け殻でも、 祖母の形見のブローチでもありません。買うものは、あなた にいりような物です。

自分の品物はなるべく高く売り、買うときは、なるべくや すくてよいものを買います。

4.1.2 贈りもの交換

 これらの事はあまりに当り前かもしれません。しかし、贈 物交換を考える場合、たいへん重要になってきます。という のは、贈物交換は、取引のまさに逆転した形態なのです。ひ とつひとつの点を比較していきましょう。

(3) 互酬性

(3.1) 厳格であってはならない

 贈物交換で 厳格な互酬性は成り立ちません。 いや、成り立ってはいけないのです。

あなたが内心好もしく思っている異性の友達に、クリスマ ス・プレゼントを贈ったとしましょう。たまたまそれが五〇 〇〇円の万年筆だったとします。彼女(あなたを男として話 を進めますが)から「おかえし」がきたとき、それが五千円 札だったらどうしますか。もはや縁がなかったとあきらめる べきでしょう。

あるいは、今度は、おかえしが三〇〇〇円の タイピンだったとしましょう。 あなたは、怒りだすでしょうか。スーパー でおつりが少なかったときに怒りだしたように。「あと二〇 〇〇円はどうしたんだ!」と。とても考えられないはずで す。 極端な場合、彼女からおかえしが来ないかもしれません。 どうしますか。催促しますか。 それは出来ません。 内心、 お返しを期待してはいるでしょう、 しかし、それを表に出してはいけないのです。

(4) 脱線:注意点

 ちょっと注意をしておきますが、ここで、私は決して「道 徳」の話をしているのではありません。少なくとも道徳の「 中」で話をしてはいません。これらのこと、これらの「して はいけない」ことは、私がそう思っている、ということでは ないのです。これらのことは、それをすれば、まわりの人か ら「あいつおかしんちゃう」と言われるような行動なのだ、 という事を言いたいのです。私はむしろ、 道徳の「外」で、 あるいは私たちが無意識にせよ従っている道徳について、 話をしているのです。

(5) 時間的空間的間接性

また、時間的、空間的な直接性についても、贈物交換は取 引のさかさまの様相を呈してきます。あなたが、友達に昼飯 をおごった、という状況を考えて下さい。友達はまったく上 下関係のない間柄だとします。決して恵んだわけでも、貸し を作ったわけでもない、そういった誤解の起き得ないような 間柄だったとします。例えば、同じ下宿に住んでいる女の子 同士だったとしましょう。一人がもう一人を自分で作った昼 食に招待したのです。さて、その友達がすぐに、例えばその 日の夕方に、招待を「返した」ならば、どんな気がしますか 。おそらく、あなたは、内心あまり愉快には思わないでしょ う。はっきりとした文章にしてしまえば、「あたしは、友達 だから、と思って、昼食に招待したのに、彼女はそれを『借 り』のように考えたのだワ。だから、すぐに『借り』を返そ うとしているのだワ」という様な考えが、頭をかすめるでし ょう。

実際、 私がオーストラリアにいたときも、 ディナーの招待のタイミングには 頭を痛めました。 私たちが招待されてすぐに (例えば、翌日に)こちらから招待するのは、何かおかし な気がするのです。なんだか、借金を返しているみたいで。 かといって、あまりに遅すぎると、今度はほんとに「借り」 を背負っているような気がしてくるのです。

4.2 人間関係

さて、今度はそれぞれの交換において前提とされる、あるい は結果として出てくる 「コミュニケーション」あるいは 「人間関係」に焦点を移していきましょう。

4.2.1 取り引き交換

まず、取り引き関係から見ていきます。

 取引が終れば、 当事者は分かれていきます。何らの関係も 生じては来ません。

(6) 結果としての関係の不在

スーパー・マーケットで百円玉を出して、五十円のキャラ メルと五十円のおつりをもらったところで、レジのお姉さん と仲良くなれるわけでもありません。

(7) 前提としての関係の不在:受け取る義務の不在

(前提)がらくた市で、友達に会ったからといって、彼の 売っているものがあなたの必要でないものならば、買う義理 はありません。

4.2.2 贈りもの交換

 次に贈りもの交換における人間関係を見ていきましょう。

人間関係についても、贈りもの交換が取引のさかさまであ るという様相はますますはっきりして来ます。

贈物関係は、人間関係をその中心テーマとしているのです 。贈物を通して人間関係が作られていきます。彼女に贈るク リスマス・プレゼントは、仲良くなろうヨ、という意志表示 です。クリスマス・プレゼントを交換した間柄は、決して買 物客とスーパーのお姉さんとの関係ではないのです。

(8) 受け取る義務

 また、人間関係が贈物交換を作り出すことも、もちろん、 あります。がらくた市で、友達の売り物を拒否できますが、 友達の贈物は返すわけにはいかないのです。「タイピンはい いんだけどさ、俺、この色あまり好きじゃないんだ、とっか えてくれる」とは、誰も言いません。

(9) 最大損失の原理

 そして、贈物として与えるものは、自分が大切だと思って いるものなのです。洗濯機がいりようでなくなったからとい って、古い洗濯機をクリスマス・プレゼントに贈る人はいま せん。小さくなった子供服を、誕生日にもらっても嬉しくあ りません。たとえ、好きでない色にせよ、贈り手が選んでく れた新しい服の方が嬉しいのです。

4.3 市場経済と贈与交換:まとめ

以上述べてきたことは、次のような表にすれば分かりやす いでしょう。

市場交換贈与交換
典型例スーパー、蚤の市クリスマスプレゼント
互酬性厳格ゆるやか
人間関係他人友人
直接性ありなし
---最大の満足/最小の損失(最大の損失)

4.3.1 ただし書き

 この二つは、典型例と考えてください。この二分割に合わ ない様々な交換があるだろうことは容易に想像できます。た とえば、おとくいという買物客と店の関係は、取引のよ うですが、かなり贈物交換の様相を呈しています。すぐに支 払いが行われないことがあるし(つけ)、また、ある種 の人間関係も発生しているように見えます。また、形式化し てしまった贈物として、お中元やお歳暮も考えられます。た しかに贈物交換ではあるのですが、かなりの互酬性が要求さ れています。

5. 二つのゲーム

5.1 二つの交換の意味

さて、二つの交換があることを示せたと思いますが、これ はいったい何を意味しているのでしょうか。人類学者は、今 から経済学者と「人間の本性」について論争をしようという のでしょうか。経済学者は、「人間とは、本来、けちである 」という説をとり、それに対して人類学者は、「いや、人間 とは、生まれながらにして、気前がいいのだ」と反論しよう というのでしょうか。

5.2 二つのゲーム

そうではなくて、真実は、一つの文化の中に二つのゲーム がある、ということだと思います。

5.3 将棋の場合

将棋盤と四〇個の将棋の駒という同じ材料を使って、「本 将棋」というゲームもできれば、「山崩し」というゲームも できます。

5.3.1 ゲームの目的の違い

二つのゲームは、まず目的からして違います。本将棋の目 的は、相手の王将を取ることです。山崩しの目的は、なるべ く多くの駒を取ることです。

5.3.2 ゲームのルールの違い

また、マナーあるいはやり方も違っています。本将棋で音 を出して駒を動かしても誰もとがめません。しかし、山崩し で音を出せば、とがめを受けて、順番が相手に移ります。本 将棋で角が桂馬のように動けば、ゲームが成り立たなくなり ますが、山崩しでは、どの駒がどの様に動いてもかまいませ ん。本将棋で、駒をどうやって動かすかは些細なことです、 やりたければ、ピンセットで摘んでもいいのです。しかし、 山崩しでは、ルール違反になるでしょう。

5.4 交換の場合

同じ様なことが交換の二つのゲームについても言えます。 同じ「交換」という材料で、片方に「取引」というゲームが あり、一方「贈物交換」というゲームがあるのです。

5.4.1 ゲームの目的の違い

取引ゲームの目的は、なるべく得をする事です。それに対 して、贈物交換ゲームの目的は、人間関係を打ち立てる事な のです。

5.4.2 ゲームのルールの違い

マナーも違います。取引では、互酬性が取られていなけれ ば、大声で罵ることが出来ます。それはルール違反なのです から。ところが、贈物ゲームでは、そうすること(互酬性を とらないこと)こそがルールなのです。

5.5 正しいゲーム、正しくないゲーム

どちらのゲームが正しいゲームだ、 という判断は出来ません。 どちらも正しいゲームなのです。

ただし、 一度どちらかのゲームがプレイし始められれば、 そのゲームのルールにのっとることが 求められます。 その場合には、 「正しいゲーム」が存在します。

繰り返します。 二つのゲームの外側から、 どちらのゲームが正しいかという判断は 不可能です。 しかし、 ゲームの内側に入ってしまえば、 そのゲーム、いまプレイされているゲーム、 それこそが「正しいゲーム」なのです。

一つのゲームの中に、 もう一つの別のゲームのルールを 入れることこそが、 最も忌み嫌われる間違いなのである。

5.5.1 将棋の場合

「間違い」は、最も邪悪な間違いは、ゲームを取り違える ことです。本将棋をやっていて、なるべく多くの駒を取ろう としている人、山崩しで王将を取ろうとしている人は、ゲー ムを間違えているのです。

5.5.2 交換の場合

取引で人間関係を作ろうとしている人、気前よく振舞おう としている人、あるいは贈物交換でなるべく得をしようとし ている人、互酬性に対して文句をいう人は、ゲームを間違え ているのです。

5.5.3 「ゲームの取り違え」の例

あなたが自分で作った昼飯を、同じ下宿の友達にご馳走し た時、彼女が、食べ終ったあと、材料費、手間賃を払ったと したら、彼女はゲームを間違えているのです。これこそが、 文化の中で最も嫌われるものなのです。

もう一度言います、例えば、「けち」な事それ自体は良く も悪くもないことです。しかし、贈物交換ゲームでけちなこ とは、(けちなことが悪いからではなく) ゲームを間違えて いるから「悪い」事なのです。

私がこの章で示したのは、どの文化にも(少なくとも私が 紹介したどの文化にも)交換という材料を使った二つのゲー ムが存在するのだ、という事なのです。

6. 近代の経済の合理性

現代の社会の 「取り引き交換」至上主義、 すなわち市場至上主義である。

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

6.1 人類学から

問題は、希少性による(科学的)判断が 意味を持たない場面が多々あることなのだ。 すなわち希少性を前提にする計測は、 「合理主義」の意味する普遍性を持っていないのである。 それにも関わらず、 希少性は、市場経済的状況に順応し [polanyi-livelihood-j-1: 50]、 あたかも普遍的であるかのように、 市場主義の社会(すなわち近代)の人間に 受け入れられたのである。

資源の希少性は万人がもつ欲望から発する。 ここにりんごが一つある、としよう。 わたしはこのりんごが欲しい。 それも丸ごとだ。 あなたものこのりんごが欲しい。 それも丸ごとだ。 これが欲望だ。 その欲望の網の目の中で りんご(資源)は希少性(足りない)という 性質をもつことになる。

いかにもの説明である。

わたしが主張したいのは、 この説明が間違っているということだ。

「ツーアウト満塁」が 野球というゲームの中だけ「意味がある」、 「オフサイドトラップ」が サッカーというゲームの中だけで「意味がある」、 それと同じように、 「無限の欲望」や 「希少性」は 市場主義の社会だけで意味があるにも 関わらず、 それが普遍的なものと勘違いされることとなったのである。

6.2 制度化された欲望

言い方を変えてみよう。 希少性の原因となる欲望について考えてみよう。 経済学は普遍的なものである、と言う。 それは人間の本性だ、というのだ。 欲望は市場とは無関係のものであるのだ。 市場は市場以前あるいは市場の外側の 欲望を処理する装置として発展したきた、と 経済学者は言うのである。

ガルブレイスはそうではないという ( [galbraith-affluent-socity-j])。 欲望は市場の内部で作られるのである、と。 ・・・・・ 【「依存効果」】 ・・・・・

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

利用可能な労働と、 使用可能な資源の最大限を動員しようとするどころか、 これらオーストラリア人[狩猟採集民]は、 その客観的な経済的可能性を 過少利用しているらしいのである。 [sahlins-stone-age-j: 28]

消費は二重の悲劇である。 不足ではじまり、 目の前でとりあげてしまうのだから。 国際的な分業でつくられた、 目もくらむような多量の生産物をあつめて、 市場は、すぐに手にはいるように並べておく。 しかもこれらの手のとどきそうなご馳走が、 すべて手にはいるわけではない。 というのも、何かを買えば、他の何かを放棄しなければならず、 代りに手にいれることのできたはずのものは、 一般にどうしても必要なものという点では それほど欲しいものではないかもしれないが、 いくつかの点では、 もっと欲しいものだというのが通例だかである。 [sahlins-stone-age-j: 12]


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ENDNOTES