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第3講義 大転換: 贈与から市場へ

2017-06-23 09:41

中川 敏

1 序
1.1 これまでの議論
1.2 ポイントとキーワード
1.3 ポランニーの議論

2 社会に埋め込まれた経済---あるいは贈与
2.1 経済の埋め込まれた社会
2.2 欲望は自然ではない
2.3 社会の外の市場

3 社会から離床する経済---あるいは大転換
3.1 自然と人格の商品化
3.2 社会の中の市場
3.3 大転換
3.4 頭山

4 まとめと展望
4.1 ポランニーとマルクス
4.2 実体経済学の規範的議論

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1. 序

1.1 これまでの議論

1.2 ポイントとキーワード

この章で紹介するのはポランニーの議論である。

ポランニーの議論は社会学的、歴史学的である。 対立する立場の可否は、 対象となる社会によって決まるとポランニーは主張する。 簡単に言うと、 文化主義者の議論は 「経済が社会に埋め込まれた」そのような社会で 成立する議論であり、 経済主義者の議論は、 「経済が社会から離床した」そのような社会で 成立する議論であるというのである。 すべての社会において、ポランニーは言う、 経済は社会に埋め込まれていた--- 経済という独立した領域は存在しなかったのであると。 十五世紀から十八世紀のヨーロッパにおいて、 自己調整的市場が誕生することによって、 経済が社会から離床していった、というのが ポランニーの基本的な立場である。

1.3 ポランニーの議論

ポラニーは、 この論争を歴史的に整理して 決着をつける。 「西洋社会はかつては 贈与に基く社会だった。 しかしある歴史的な出来事 (大転換)の中で 市場に基づく社会に移行した。 それ以外の大転換を経験していない 社会は贈与に基づく」と。

2. 社会に埋め込まれた経済---あるいは贈与

意識に焦点をあてるポランニーの議論の中で、 世界(存在)の変化、 「歴史」の叙述は、 (たとえばマルクスほどには)精緻ではない。

* * * * *

「誤謬」に至るまでのポランニーの議論を追っていこう。

かつて、実体的な意味での経済は、 市場経済以外の方法で営まれていたのである。 ある社会の中の、 実体的な意味での経済を 彼は「統合の形式」という言葉で呼ぶ。 統合の形式には、 市場によるもの以外に、 「互酬性」と「再分配」がある。 [polanyi-livelihood-j-1: 88--89] じっさい、 一九世紀に至るまでは、 社会の経済の中で、 互酬性と再分配が市場によるもの以上に重要性を持っていたのである。 1

かつては、 互酬性、再分配は、 決して個人の動機、欲望で動くものではない。 それは、社会関係の中で、 共同体がコントロールするものだったのだ。

ハーバーマス「経済的価値と非経済的価値 は分離不可能であった」

2.1 経済の埋め込まれた社会

2.1.1 トロブリアンド諸島

クラを、 そしてウリグブを考えてみればすぐ分かるだろう。 そこでは、個人ではなく、 共同体に焦点があてられるのだ。 個人の欲望ではなく、 共同体の規範に焦点が与えられるのだ。

2.1.2 エンデ

・・・・・ 【エンデの経済】 ・・・・・

2.1.3 古代ギリシャのオイコス

ポラーニーの描写する 古代ギリシアのオイコス (oikos)(「世帯」)と ギアツの描写する農民社会は、 そのような「埋め込まれた経済」の例である。 そこでは、経済は独立した領域ではなく、 「経済的な」行為もまた、つねに共同体のもつ倫理― 「統合性 (solidarity)」と「生存への権利」―に言及しながら 説明されるのである。 「古代社会の貨幣化されていない経済においては」 ハーバマスの語る、 「交換のメカニズムは規範的な文脈からほとんど分離していないので 経済的価値と非経済的価値とを分離するのはほとんど不可能である。」 [habermas-communicative-action-2: 163]。

2.2 欲望は自然ではない

2.2.1 ヨーロッパ中世

富への欲望は自然なものではない。 かつて富への欲望は邪悪なものと 見做されていた時代/場所がある。 富への欲望を良しとするのは、 ユダヤ商人などのごく限られた商業的民族だけであった。 [marx-grundrisse: 487]

・・・・・ 【ウェーバーの商人の記述】 ・・・・・

2.2.2 バクウェリ(カメルーン)

西カメルーンのバクウェリは、 「嫉妬」(irona)を基盤にした平等主義的な社会である、 とアードナーは記述する。 ・・・・・ 【二倍の給料で半分の仕事】 ・・・・・ [ardener-witchcraft: 145--146]

2.2.3 トロブリアンド

2.2.4 カントゥ(ボルネオ島)

富への欲望を抑圧する装置として、 例えば、ゼロサムゲームの考えかたが挙げられるであろう。 ボルネオに住むカントゥの人びとは、 人間界の中に、 そして自然界と人間界の間に、 ある種のゼロサムゲームを考えている。 ボルネオの森では、3年から4年に一度どんぐりが 大量に実ることがある。 カントゥの人たちはどんぐりの多さを喜ぶとともに 同時に不安にもかられるという。 なぜならば、 自然の豊穣は、いずれ償いを求めるからである--- 精霊は相応の死者を求めるのである。 [dove-living-rubber: 26]

カントゥにおいて、富の蓄積は悪なのである。 じっさい近くのカトリック教会の富は目立つものである。 カントゥは言う--- 「そこにはナーガ(竜)が住んでいるのだ。 人間の屍体を喰らった竜は黄金の糞をする。 それこそが教会の富なのだ」と。 [dove-living-rubber: 28] 教会の富はカントゥの道徳の侵犯によって成り立っているのである。

2.2.5 エンデ

2.3 社会の外の市場

・・・・・ 貨幣や貨幣の条件となる交換が、個々の共同体の内部で出現するこ とはない。 あるいはほとんどない。

むしろ交換は共同体の境界に接する所で、 ほかの共同体との交易の中で登場してくる。 つまり交換というものを、 共同体を原初的に構成する要素としてみなして 共同体の内奥部に据えて考えることは、 そもそも間違いなのである。 むしろ交換は、始めは、 同じひとつの共同体の成員に対して出現してくるよりも、 異なった共同体同士の 相互関係の中で出現してくる。 [marx-grundrisse-intro-j: 172]

2.3.1 社会に埋め込まれた経済

このような社会の中に 形式的な意味での経済は存在しない。 実体的な経済は、 また、社会関係の中に埋め込まれている経済であるのだ。 このような状態を、ポランニーは、 「経済が社会に埋め込まれてある」と形容する。

3. 社会から離床する経済---あるいは大転換

一八世紀に誤謬が生まれる。 それは社会の大きな変化の中に、 自己調整的な 市場経済の誕生の中に始まるのである。

3.1 自然と人格の商品化

一五世紀の土地の囲い込みから始まった変化が、 一八世紀末から一九世紀初頭の産業革命を経て、 大きく進展する。

自然と人格の資源化にともなって、 動産、すなわち商品が自律的な富の形態となっていった。

商品 (commodities) とは本来、 売買のために生産された物をのみ意味するはずである。 しかし、 十五世紀の土地の囲いこみにより、 地代の観念が生じた。 自然が資源と、そして商品と化したのである。

また、同時に 土地から追い出された人びとは、 自らの労働を売ることによってしか生きてゆくことができなく なった。 人格に値段が生じたのだ。 本来、労働は人間の活動の別名に過ぎない。 いまや、労働は値段のつく労働力となったのである。

・・・・・ 【身体の離床】 ・・・・・

買ったり売ったりするものはすべて 売買目的で生産されたはずだという思いこみは まったく間違っている。 . . . 労働とは、生命そのものとともにある 人間の活動の別名に過ぎない。 そして、それは売買のために生産されるものではないのだ。 . . . 労働、土地、貨幣が商品だというのは 全くのフィクションなのである。 [polanyi-transformation: 72]


土地も身体も、本来売るために生産されたものではない。 それは商品ではないのだ。 しかし、 歴史(囲い込み)が それらを擬制として商品に見せることに 成功したのである。

3.2 社会の中の市場

土地が商品化され、 労働力が商品化され、 市場が準備され、 いよいよ自己調整的市場経済が発生する。

商品は市場に売りだされる。 市場は外部から来た、とポランニーは続ける。 この点では、ポランニーの議論は、 マルクスの議論をなぞることになる。 ・・・・・ 【普通とは逆の展開】 ・・・・・

しかし、交易の日常生活への単なる浸透は、さらにいくつもの制度上の発 展がなかったなら、それ自体として、言葉の新しく特有な意味での経済を 生み出すにはおよばなかったのである。これらの制度上の発展の第一は、 対外交易の市場への浸透であり、それは厳格に規制された地域市場 [ロー カル・マーケット]を多かれ少なかれ自由に変動する価格をもった価格形成 市場へと次第に転換させていった。

時の経過とともに、労働と土地という 生産要素の価格が変動する革命的な市場の刷新が伴うようになった。この 変化は、その本質においてもまた重要性の点から見ても、あらゆる変化の うちでもっとも根底的なものであった。さらに、その変化がしばらくの間 進行すると、いまや賃金、農産物価格、地代を含む様々の価格は、なんら かの注目すべき相互依存性を示し、かくて、これまで認められてこなかっ た実体的な実在性の現れ出た分野こそ経済であった。

そしてこの経済の発 見 ---われわれの近代世界を形成したかんどうてきで知的な経験のひとつ ---によって、啓蒙思想としての重農学派が登場し、哲学上の一派に仕立て あげられた。アダム・スミス派彼らから「見えざる手」を学びとった。 [polanyi-livelihood-j-1: 39]

3.3 大転換

・・・・・ 【エンデの場所と非場所---具体的な市場の場所】 ・・・・・

3.4 頭山

・・・・・ 【伏線】 ・・・・・

4. まとめと展望

4.1 ポランニーとマルクス

この講義で紹介した議論は、 ある程度まとまっているので、わかりやすかったと思う。 ただし、ポランニーの議論(「大転換」)の中に マルクスの議論をまぜたので、 混乱を (とりわけ空間的比喩の面で)まねいた怖れもある。 二人の議論を独立に語りなおしておこう。

4.1.1 ポランニー

ポランニーの議論での重要な語は 「社会」と「経済」である。 (1) かつて経済は社会に埋め込まれていた。 (2) ある時、経済が社会から離床した。 これがポランニーの議論である。

わたしが描いた図はむしろ言葉の ネットワークだと思っていただきた。 その図で言われているのはつぎのような事である (ここでは第一段階の社会、経済が埋め込まれた 社会の説明だけを例にする)。

(1) かつては、 いまわたしたちが「経済」という 言葉を使いたくなるような現象 (生産、消費、流通)は、 いまわたしたちが「経済的」と呼ぶような 言葉だけでは説明されなかった。 その現象を説明するには、 「経済的」な用語だけではなく、 宗教的な、政治的な、親族的な、 そのほかさまざまな用語が使用されなければ 説明はできなかったのだ。

4.1.2 マルクス

マルクスの議論での重要は語は 「社会」と「市場」である。 (1) かつて市場は社会の外にあった。 (2) ある時市場が社会の内側に侵入した。 これがマルクスの議論である。

わたしが説明のために描いた図は、 多分に「現実的」と思ってもらっていい。 第一段階では市場は(物理的に)社会の外側にあり、 後に内側に侵入していったのだ、と。

4.1.3 実体経済と形式経済

マルクスの議論をポランニー的に言い換えることで 二つの図式の統合としたい。 そのために、ポランニーの「二つの経済」という 議論を紹介する必要がある。

ポランニーは「経済」の意味を二つに分ける。 一つは本来の意味である。 人間がいかにして生きていくかという意味における 経済である。 彼はこれを「実質的な/実体的な」(substantive) 経済 と呼ぶ。 それに対して大転換の後にでてきた意味での 経済(希少な資源・無限の欲望、最大満足・最小損失) を 「形式的な」(formal) 経済と呼ぶ。

実体的経済は人間の歴史とともにある。 形式的な経済は市場の誕生以来のものである。 その意味で後者を「市場経済」と呼ぶことに問題はない だろう。

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

4.2 実体経済学の規範的議論

実体経済学あるいはモラル・エコノミー研究 には二つの側面がある。 2 ひとつは説明的な側面、 そして、規範的な側面である。 単に、分析の道具であるというだけでなく、 われわれの社会がいかなるものであるべきか、 そのような疑問に対しても、実体経済学は答を模索するのである。

脈略を思い出してほしい。

具体的な議論の展開は以下の通りである。 (1)かつて経済は道具であり、 社会の「善」に奉仕するものであった。 現在、むしろ社会が経済に奉仕するものとなった。 経済の独立は、 マクロなレベルで作用する(共同体を崩壊させる)だけではない。 それは個人の行動にまで作用する。 人は、すべて経済的に行動するようになったのだ。

(2)かつてゲマインシャフトを動かしていた 人間的な統合が、自立した経済領域をもつ市場社会においては失なわれた。 かつては、個人的な私利私欲に、共同体の善が優先していた。 市場社会においては、人間的な紐帯が失なわれ、 言わば、 商人の集り (community of traders) のようになってしまっている。 根をもたず、ただよう、古代社会においてもっとも 蔑まれた社会になってしまったのだ。

(3)・・・・・ 【マンデヴィル---】 ・・・・・

規範にについて語るべきであったのだが、 いつのまにか規範語っている。

ポランニーは、 以後、経済学者のみならず人類学者たちとも 論争をすることになる。 その際に、最も標的とされた箇所の一つは、 交換の動機に関するポランニーの議論である。 ポランニーによれば、 自己調整的市場経済を動かす動機は 個人的な利害で(経済)合理主義的な計算であるのに対し、 互酬性を動かすのは親切さ、気前のよさであるというのだ。 3

* * * * *


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Bibliography

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ENDNOTES

[1] この部分が、事実関係における経済学者との論争の的となった。 [Back]

[2] ブース [booth-idea] は三つ挙げるが、 ここでは、制度的側面は説明的側面の一つとして考える。 [Back]

[3] 再分配を動かす動機については、 ポランニーは、ほとんど述べていない。 [Back]