第4講義 希望とノスタルジー---近代のコンフリクト

2017-06-23 09:51

中川 敏

1 序
1.1 概略

2 近代のコンフリクト
2.1 ゲマインシャフトとゲゼルシャフト
2.2 エンゲルス
2.3 啓蒙とロマン主義

3 リベラリズム
3.1 カント
3.2 ロールズ

4 コミュニタリアニズム
4.1 コミュニタリアニズムとは何なのか
4.2 「係累のないセルフ」の不可能性〜サンデル
4.3 テイラーの人間論
4.4 まとめ

5 まとめと展望
5.1 まとめ
5.2 展望

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(C) Satoshi Nakagawa
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1. 序

前回の講義(大転換)の最後で わたしはポランニーの議論の持つ 規範的側面について言及した。 ポランニーは 「経済が社会に埋め込まれている社会」を 良しとしているのだ。

今回の講義はポランニーの議論のこの側面、 すなわち何がよい社会かという面に 焦点をあて、 それをより大きな脈絡、 西洋政治哲学史という脈絡のなかに 置いていくことを目的とする。

1.1 概略

最後にはわたしの 「理想の社会」についても述べるが、 ここで述べていきたいのは、 ポラニーもその一部であるような 「理想の社会」の語り方の系譜である。

今回の講義は、 理想の社会をめぐるレトリックの中に 二つの種類を分類していく作業に費やされる。 一見したところ、 一つの種類は過去を振り返るような視線を持ち、 もう一つは未来を見据えているように見える。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

この方法論的対立は、 じつは西洋政治思想史の 中の二大潮流に比すことができる。 それは啓蒙主義とロマン主義の対立である。

共同体個人
ゲマインシャフトゲゼルシャフト
ロマン主義啓蒙主義
コミュニタリアニズムリベラリズム

2. 近代のコンフリクト

2.1 ゲマインシャフトとゲゼルシャフト

ポランニーは 自らの企図と同じものを テンニエス (T\"onnies) の著作に見る--- 「テンニースの理想は共同体の復元であった。 しかし、それは社会の前産業的段階に戻ることによるのでなく、 われわれの現在の文明に続くであろう 共同体のより高次な形態へと前進することによる復元であった。 彼はそれを、 生命の完全性を回復する一方、 技術的進歩と個人的自由の利点を保持する、 一種の文明の協力的段階と考えた。」 [polanyi-livelihood-j-1: 108]

失なわれた共同体についての 最も有名な議論は、 テンニエスによる 『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』 [toennies-gemeinschaft-j](1887年))であろう。

「テンニエスは、マルクスの唯物史観における ごとくに経済構造を土台とはせず、ゲマインシャフ トとゲゼルシャフトとの区別に照応する意志の二形 態を区別している。その第一のものは、「本 質意志 [ヴェーゼンスヴィレ]」と名づけられる。こ れは人間の衝動や欲求など自然的傾向の自発的な表 現である。第二のものは、「選択意志 [キュ アヴィレ]」と名づけられ、これは合理的・作為的 な精神の思慮をへて形づくられるものである。した がって、ゲマインシャフトは本来的ないし自然的状 態としての人々の意志の完全な統一であり、「本質 意志」によって結合されたそれ自身実在的・有機的 な生命体と考えられる。それに対してゲゼルシャフ トは、「選択意志」によって結合された観念的・機 械的な形成物であって、ゲマインシャフトにおける とは異なり、ここでは人々は本質的には分離し孤立 している存在である。「本質意志」にあっては未分 化のままにまじり合っていた手段と目的は、「選択 意志」にあってそれぞれ別個のものとして意識され ている。」 [ikumatsu-shisou: 106]

共同体個人
ゲマインシャフトゲゼルシャフト
本質意志選択意志
自然的な衝動など計算
自然的統合合理的・作為的な統合
実在的・有機的な生命体観念的・機械的な形 成物

もう一度くりかえすが、 ポランニーはテンニエスのこの著作を 念頭に置きながら『大転換』を書いたのである。

2.2 エンゲルス

同じころエンゲルスもまた テンニエスと似た人類史の構想を描きだしていた。 彼はモルガンの『古代社会』(1877年) ( [morgan-kodai-1]、 [morgan-kodai-2])を 下敷にした人類史、 『家族・私有財産・国家の起源』 [engels-kazoku](1884年) を著した。 その中で共同体は、取り戻すべきものとして 描かれる。

原初的家族から氏族社会への発展を描く中で、 エンゲルスはイロクォイの氏族制度を 原始的な民主社会として考える(第3章)。 この共同体に、 利子、商人、私的土地所有などが導入され、 悲惨な文明が生れる。 共産主義は、 イロクォイの達成した氏族社会(共同体)を、 より高度なレベルで復元するものとして 描かれるのだ。

氏族共同体悲惨な文明
イロクォイ現代社会
理想的民主主義利子・商人

2.3 啓蒙とロマン主義

「テイラーはヘーゲルを、「近代のコンフリクト」 [SS:495--521] [taylor-ss] に対して決定的な和解をもたらそうとした人物として描い ている。 近代のコンフリクトとは、啓蒙主義とロマン主義の対立であり、 それは思惟 (thought)と感性 (sensiblity)の対立、あるいは徹底した自律 [によって確立する自己?]と表現によって確立する自己との対立であると いえる。 一方の代表者はカントであり、彼は人間を純粋な道徳的意志をも った自己決定的な主体として描き、「徹底的(根源的)な自律としての自 由」こそが最高善であるとしている。また他方の(初期の)代表者はヘル ダーであり、彼は人間を表現的存在であるとみなして、自然や文化的共同 体の内において統一的な自己を表現してゆくもとの考えた。近代における この二つの人間観の対立は、ともに浅薄な人間観をもった粗野な啓蒙主義 に対する反発から生じている。[footnote omitted]そしてドイツ・ロマン 主義の文化においては、この二つの理念、すなわち表現的充実と徹底的自 由の統一が、その中心的願望を形成していた。そしてテイラーによれば、 ヘーゲルこそが、この二つの理念とその対立を最も的確に定式化し、その 独自の和解を試みた人物であったという。」 [nakano-taylor: 61]

3. リベラリズム

リベラリズムの哲学はしばしば 正義の優位を説く。 ジョン・スチュアート・ミルは正義を 「すべての道徳性の主要部分」と呼び、 ロックは自然権をもっとも重要な要素と考えた [sandel-limits-j: 2]。 しかしカントは、 「正が善よりも優先するのは、 その要求が先行するからだけはなく、 その原理が独立して導き出せるからである」 [sandel-limits-j: 2]と考えた。 このようなリベラリズムを、 サンデルは「義務論的リベラリズム」と呼ぶ。

3.1 カント

他の正義を優先するリベラリズム (たとえばミルのリベラリズム)と、 カントのリベラリズムはどこに相違点があるのだろうか。

3.1.1 正は他の道徳的要請に優先する

カントの有名な例がある。 「嘘をついてはいけない」という道徳律についてである。 悪漢に追われている・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

カントの義務論は目的論に対立するのである [sandel-limits-j: 3]。

そしてそれは ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

カントは功利主義 1 に反して、 たとえば「幸福への追求」の基盤に上に 正義を置くのではなく、 正義をこそ基盤とするのである。 正義は いかなる善の構想をも含まずに構想されうるとするのである。

3.1.2 それは主体に由来する

道徳法則の 基礎は主体のなかにあるという [sandel-limits-j: 7]。 この自律的意思をもつ主体は、 対象に優先し [sandel-limits-j: 8]、 経験論的基盤を必要としない。 正が善に優先するように、 主体はその目的に優先する。

カントにとって主体とは、 「『背後にある』何かであり、 いかなる特定の経験にも先行し、 自らの多様な知覚を統一させ、 それらを単一の意識に統合させるものである」 [sandel-limits-j: 9]。

もし「私が完全に経験的存在だとすれば、 意思は何らかの対象への欲求によって条件づけられるから、 私は自由が可能とはならないであろう。 すべての選択は、何らかの目的の追求によって支配された、 他律的な選択となるであろう。 私の意思は第一原因ではなく、 何らかの優先する原因の結果・・・・・でしかありえない。」 [sandel-limits-j: 10]

「正の優先は、道徳としても、 基盤としてもある。 それは目的に優先して与えられる主体の概念によって 根拠づけられている。 つまり、自由に選択する自律的存在として、 自分自身を理解するさいに、 不可欠と考えられる概念によって根拠づけられている。」 [sandel-limits-j: 10]

3.1.3 権利のリベラリズム

かくして、 「正義によって確保される権利は、 社会的な利益の計算には従わない」 (Rawls 1971:4 [3])が、 その代わり、 社会全体に対して、 何らかの特定の善のビジョンを課す 政策に反対するための 「個々人によって保持される切り札としての機能」がある (Dworkin 1978: 136) 「ある社会の市民は彼らの構想が相違しているので」、 「もしも、 ある構想が本来的により優れていると役人が信じているから、 あるいは、 それより多くか、 より強力な集団によって保持されているから、 別の構想より選考されるとしたら」、 政府は、 市民を平等なものとして尊重することに 失敗する (Dworkin 1978: 127)。

善と比較して、 正義の概念は「自由に選択する実体として、 われわれの基本的な立場を確立させるから、 独立し、圧倒する地位を持つ」。

3.2 ロールズ

|--------------------+------------------|
| リベラル           | コミュニタリアン |
| ロールズ           | サンデル         |
|--------------------+------------------|

・・・・・ 【イントロ】 ・・・・・

3.2.1 原初状態

・・・・・ 【【以下いささか古い---要書き直し】】 ・・・・・

ロールズの理想とする、 そして多くの人びとはそれに同意するだろうが (例えば、 [gaarder-sophie-j])、 公正な社会では、 人間の偶有的な性質── 「男である」「女である」「肌の色が黒い」等々──によって 優遇や差別があってはならないという。 そのような社会をより具体的に思い浮かべるために、 ロールズは原初状態 (original position) の契約という思考実験を提案する。

ロールズの『正義論』のなかの有名な無知のベールの議論を紹介しよう。

3.2.2 無知のベール

原初状態において人びとがあつまり、 公正な社会をつくるべく契約を行うのだ、 その会議において、 もし自分が男であることを知っていれば、 男が有利であるような社会をつくってしまう可能性がある。 もし自分が白人であることを知っていれば、 白人が有利であるような社会をつくってしまう可能性がある。 そういった偶有的な特性による差別をもつ社会をさけるために、 当事者には「無知のベール」がかぶせられるのだ。 [rawls-justice: 137] 誰も自分の性別や肌の色を知らない。 自分が男か女かわからなければ、 どちらかに有利であるような社会の契約はなされないはずだ。 以上がロールズの議論の骨子である。

ようするに、無知のベールで隠されるものこそが、 「偶有的属性」、 それによって差別をすることは不正であるような属性であるのだ。 そのような状態の中で、 各人が正義感覚に基づいて選ばれるのが正しき社会である、 とロールズは考える。 ・・・・・ 【『ソフィーの世界』】 ・・・・・

3.2.3 ロールズの人格議論

これらが長谷川 [hasegawa-seigi]の 言う属性に重なることに 留意していただきたい。

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

4. コミュニタリアニズム

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

Alsadair MacIntyre, Michael Sandel, Charles Taylor, Michael Walzer などがコミュニタリアンと呼ばれる人びとの代表であろう。 [sep-communitarianism] 彼らは、全員が一致して「コミュニタリアニズム」とよべるような 大議論を展開しているわけではない。 彼らは自分自身を「コミュニタリアン」と呼ぶことさえめったにない。 「コミュニタリアン」とは、むしろ、外側の批評家たちが与えたラベルである。 彼らが共通するのは、『正義論』 とくにその「無知のベール」論における 「アルキメデスの支点」とよびたくなるロールズの議論の進め方に 反する一点である。

4.1 コミュニタリアニズムとは何なのか

以降、コミュニタリアンの議論を紹介していく。 先程も述べたように、コミュニタリアンはあくまで他称である。 しかし、この用語が使われてきた背景には、 やはり、何らかの共通性が「コミュニタリアン」というラベルを つけられた人々には存在する〜 すくなくとも、わたしは、それが存在すると思っているがゆえに、 この名前を使っているのだ。 共通性は二つあるだろう。 ひとつは彼らの「共同体」観、 もうひとつは彼らの「権利」観である。

第一に、彼らの名前の由来にもなっている 彼らのもつ「共同体」観がある。 彼らの共同体観を把握し損ねることは、 彼らの議論を把握し損ねるということだからだ。

4.2 「係累のないセルフ」の不可能性〜サンデル

コミュニタリアンの反論を紹介するためには、 まず、 「私がそうであるところのもの What I am」 (私の本質)と 「私がもっているところのもの What I have」 (私の偶有的属性)とについて について考える必要がある。

無知のベールで隠される属性は、けっきょくのところ、 「私が(たまたま)もっている」もの(属性)であり、 私の本質、「私がそうである」もの(人格)ではないのである。 2

サンデルは、 ロールズの契約に参加する人々、 無知のベールをかぶった人々を ``unencumbered self'' (「係累のないセルフ」)をもつ人々と呼ぶ。 [sandel-republic] このように「無知のベール」論を捉えなおすと、 ロールズとカントの繋りはあきらかであろう。

・・・・・ 【unencumbered = disembedded】 ・・・・・

このような人間は考えられない、とサンデルは主張するのである。 [sandel-republic: 21--22] サンデルは、カント サンデルの議論は次のようにまとめることができるだろう--- 私と私でないものの間に境界などはないのだ--- 身体と心に境界がないように (「私が身体を持っている」わけではないように)、 私と共同体の間には境界がないのである。

サンデルの批判するロールズの 「係累のない (unencumbered) セルフ」とは、 まさに「共同体から離床した個人」の謂に他ならないのである。

4.3 テイラーの人間論

サンデルの議論の基礎となったテイラーの議論を 簡単に紹介しよう。 テイラーは人間を一階の欲求のみならず、 二階の欲求を持つことができる点において、 他の動物と区別できると主張する。 [z.taylor-pp-1: 16]。 二階の欲求とは、 欲求そのものを対象化して、 「ある欲求は望ましく、ある欲求は望ましくない」といった 形で判断することができる能力である。 テイラーは、さらに、その判断を 「弱い評価」と「強い評価」に分類する。 行為の結果だけを考えるのは「弱い評価」であり、 行為の動機や、他の欲求との質的な比較などを通して、 当該の欲求を評価する仕方を「強い評価」と呼ぶのである [z.taylor-pp-1: 13--14]。

サンデルによれば 二階の欲求を持ち、強い評価を行なう自己は、 共同体の中に深く位置付けられた自己であり、 それこそが人間存在のあり方なのである。 ロールズの描くような、 共同体から独立した、いわばの自己の存在は 考えられないものである、そのように ロールズの議論を批判するのだ。

4.4 まとめ

サンデルの反論を経てロールズの議論を読み返すと、 いくつかの個所で眉につばをつけることになるだろう。 ロールズの無知のベールはたとえば 「自らが何を善とみなすのか、 自らの人生の合理的な計画の細部、 自らの心理的な特性 (たとえば危険を嫌う傾向であるとか、 楽観的あるいは悲観的になりやすい)」 [rawls-justice: 1137] さえをも覆い隠すのだ。

ギアーツの定義にシンパシーをもつ人類学者は、 ここで、サンデルに一票を投じるかも知れない〜 無知のベールをかぶった人間とは とりもなおさず「網のなくなった蜘蛛ではないか!」、 「そんな人間を考えることは出来ない」と。

ギアーツをことさらに取り上げなくともいいのかもしれない。 たとえば、ライルは次のように言う:

「たとえば、理論的思索の経験もなく、 またその素養もないキム少年 ・・・・・ が、 「私とは誰であり何なのか?」と自問するとき、 彼は自分の姓名、年齢、性別、国籍、身分などを知りたいという願望から このような質問を発するのではない。 なぜならば、彼はこのようあん通常の個人的特徴は すべて熟知しているはずであるからである。 換言するならば、 彼はこれらの個人的特性を枚挙した後になお言い残された 何ものか---が存在していると感じているのである」 [ryle-mind-ej: 268]。 『ソフィーの世界』 [gaarder-sophie-j]は、 14歳の少女ソフィーに舞い込んだ手紙から始まる。 その手紙に書かれているのは「あなたは誰?」の一行だけだという。

サンデルの言っているのは、 姓名や年齢その他を取りさったあとに、 「私」がある、と言うことに異議を申し立てているのだ。

5. まとめと展望

5.1 まとめ

5.2 展望

わたしが立つ立場を 先に述べておこう。 わたしは創発主義の側に身を置く。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

「あれもこれも」だ。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

そこで問題になるのが 視点の問題である。 ・・・・・ 【内側と外側】 ・・・・・

内側の視点を外側から描くのだ。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

むしろ---


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Bibliography

[sep-communitarianism] Daniel Bell.
Communitarianism. In Edward N. Zalta, editor, The Stanford Encyclopedia of Philosophy. Winter 2001.
[rawls-justice] John Rawls.
A Theory of Justice. Harvard University Press, Cambridge, Massachusetts, 1971.
[sandel-republic] Michael Sandel.
The procedural republic and the unencumbered self. In Shlomo Avineri and Avner de Shalit, editors, Communitarianism and Individualism, Oxford Readings in Politics and Government, pages 12-28. Oxford University Press, Oxford, 1992.
[z.taylor-pp-1] Charles Taylor.
Philosophical Papers I: Human Agency and Language. Cambridge University Press, Cambridge, 1985.
[taylor-ss] Charles Taylor.
Sources of Self: The Making of Modern Identity. Harvard University Press, 1989.
[engels-kazoku] エンゲルス, F.
家族・私有財産・国家の起源. 岩波文庫. 岩波書店, 1 1965.
[gaarder-sophie-j] ゴルデル, J.
ソフィーの世界〜哲学者からの不思議な手紙. 日本放送出版協会, 1995.
[sandel-limits-j] サンデル, M.J.
リベラリズムと正義の限界. 勁草書房, 2 2009.
[toennies-gemeinschaft-j] テニエス, F.
ゲマインシャフトとゲゼルシャフト(全二冊). 岩波文庫. 岩波書店, 1957.
[polanyi-livelihood-j-1] ポランニー, K.
人間の経済 I―市場社会の虚構性. 岩波現代選書. 岩波書店, 1980 (1977).
[morgan-kodai-1] モルガン, L.H.
古代社会 上巻. 岩波文庫. 岩波書店, 7 1958.
[morgan-kodai-2] モルガン, L.H.
古代社会 下巻. 岩波文庫. 岩波書店, 9 1961.
[ryle-mind-ej] ライル, G.
心の概念. みすず書房, 1987 (1949).
[ikumatsu-shisou] 生松 敬三.
社会思想の歴史--ヘーゲル・マルクス・ウェーバー. Number 89 in 岩波現代文庫. 岩波書店, 2002 (1969).
[hasegawa-seigi] 長谷川 宏.
社会正義の哲学. In 法の哲学, pages 1-10. 中央公論新社, 2001.
[nakano-taylor] 中野 剛充.
テイラーのコミュニタリアニズム--自己、共同体、近代. 勁草書房, 2007.

* * * * *

ENDNOTES

[1] ジェレミ・ベンサム (1748--1832)。 [Back]

[2] 果たして、 ロールズの議論をセルフの議論へと転換することが ロールズの意図したところかどうかは問わない。 (たとえば、ローティはこのコミュニタリアンの戦略に強く反対する。) 私は、ロールズの意図は別にして、 コミュニタリアンによる ≪無知のベールからセルフ(自己)の議論への発展≫は 実り多いものだと思う。 [Back]