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1-4 原住民に怒りをおぼえるとき

エピファニーの時

2013-09-16 22:30

中川 敏

1 序
1.1 前回まで
1.2 ポイントとキーワード

2 多視点的民族誌---比喩として
2.1 多視点
2.2 多視点的民族誌
2.3 物理姿勢と志向姿勢
2.4 対人姿勢

3 教室の民族誌---志向姿勢、物理姿勢、対人姿勢
3.1 問題児
3.2 操作者としての志向姿勢
3.3 怒りと対人姿勢
3.4 相談
3.5 怒りと自由
3.6 二つの怒り
3.7 また教室へ
3.8 ダンゴムシに怒るとき
3.9 エピファニーの時
3.10 多視点民族誌の作り方

4 多視点的民族誌---実践として
4.1 一人称複数の民族誌
4.2 「実験的」であること

5 まとめと展望
5.1 展望
5.2 第4部へ

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(C) Satoshi Nakagawa
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1. 序

1.1 前回まで

いかにポストモダンの人類学の提唱する 実験的民族誌、多声的民族誌が 問題含みの提案であるかについて 第1章、第2章で述べた。

第3講義、第4講義は、 ポストモダンの提唱する 実験的民族誌の衣鉢を継ぐ ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

1.2 ポイントとキーワード

1.2.1 ポイント

1.2.2 キーワード

2. 多視点的民族誌---比喩として

第一部でエッシャーの絵、 『描く手』を題材にして 議論をした。 その絵はことさらに著者 (「描く手」)を強調していた。 しかしながら、 絵画は実際のそれを描く手を 描くことはできないのだ。

2.1 多視点

しかし、よく考えてみれば、 絵画は その中にこれみよがしに 描く手があろうがなかろうが、 描く人を示している--- 絵画は、暗示的に 視点の存在を示しているのだ--- ある絵画から、 それを描いた画家がどこに立っているのかが 分かるのである。

絵画に視点が表われていることを 見る人の意識にのぼらせたのが ピカソの『アヴィニョンの娘』である。 この絵を見てわたしたちが感じる不安は、 「視点の不安定さ」である--- そこに一つだけの視点がないのだ。 小山 [ koyama-genei ] はキリコの絵、 『街の神秘と憂鬱』の中の 多視点を浮かびあがらせる。 (図chiriko)。 この絵の中には、 じつに三つもの視点が暗示的に 示されていたのである。

[『アヴィニョンの娘』] [『街の神秘と憂鬱』]
図 ピカソとキリコ
[分析図(小山清男による)] [消失点を一致させる(小山清男)
]
図 視点

古典的民族誌は、いわば、 一視点の絵である。 ピカソやキリコのような 多視点の絵に比することのできるような 民族誌は可能だろうか、 論の残りの部分はその挑戦に 答えようとする試みである。

2.2 多視点的民族誌

まだそれがどんなものであるかを 喋っていないのだが、 それでも次のような不安を抱く読者がいるだろう--- 「多声性」と 「多視点性」はどこが違うのだ、と。 禅問答のような答で我慢してもらう--- ウィトゲンシュタインは 「語りうるもの」を 真偽命題の形で表現できるものと考えた。 だいじなことは そのように語りえないモノがある、というのだ。 それは「示す」ことしかできない [ wittgenstein-tractatus ]。 声は、エージェンシーは 語りうるものである。 視点は語りうるものではない、 それは示されるのみである。

2.3 物理姿勢と志向姿勢

まず、 ドレイの言葉を思い出してほしい。 彼の言葉を、 いまわれわれのいる立場の語彙で言い換えよう---、 物理姿勢は操作者 (manipulator) の 観点であり、 志向姿勢は原住民(エージェント)の 観点を共有するものであると。

この講義でまず 指摘したいのは、 志向姿勢にも「操作者の視点」が 多分に含まれる、ということである。

そうである限り、 多視点民族誌は 不可能であろう。 われわれは 「感情移入」あるいは 「共感的理解」に近いところまで 行きたいのだ。

2.4 対人姿勢

多視点は第三の姿勢、 対人姿勢から

多視点民族誌を可能にするのは、 これもまた古い言い回しだが、 フィールドワークのキャッチフレーズである 「参与観察」 (participant observation) である。 とりわけ「参与」がキーワードとなる。

3. 教室の民族誌---志向姿勢、物理姿勢、対人姿勢

実験室でのフィールドワーク、 原住民がダンゴムシであるあのフィールドワーク を振り返りろう。 そこでは、 民族誌家が原住民あるいは対象となるシステム (すなわちダンゴムシ)に対する姿勢を 物理姿勢から志向姿勢へと変換した 様を記述した。 ここでは、 その逆の動きを描くことから論を 始めたい。

次のような 仮想的な教室でのフィールドワークの場を 考えよう。 あなたは教員として教室にはいっている。 20人の小学生があなたの前にいる。 あなたはもちろん志向姿勢をもって 彼女らに接する。 一週間もすればさまざまなことが 分かるだろう--- 「あの子は引っ込み思案なところがある」 「あの子はリーダー格だ」 「あの子はいじめっこだ」などなど。 いい子と悪い子も区別できるように なるだろう。 もちろんまだラベルをつけられない 子もいるはずだ。 教室運営に熱心なあなたには 気になる存在である。

気づいてほしいポイントは 第一に、あなたの態度は 志向姿勢であること、 そして、これが重要なのだが、 それにも関わらず、 操作者の視点でその姿勢を 採用している、ということである。

3.1 問題児

ここに問題児がいたとしよう。 A 君はきわだった特徴のない子だ。 そしてとくに何の前兆もなく、 授業中に外に出ていってしまう。 あなたは彼の行動を理解しようと いっしょうけんめいになる。 休み時間の時に喧嘩をしたのだろうか? それとも・・・。

ある夜、 家に帰って教育関係の本を読んだあなたは ADHD(注意欠陥多動性障害)についての 記事に遭遇する--- 「あ、病気なんだ」とあなたは納得する。

きょうもA君は 授業中ふらふらと外にでていった。 あなたは「あ、これは本にでていた 症状の一つだな」と納得する。

このエピソードのポイントは、 あなたが志向姿勢から物理姿勢へと 姿勢を変更したという点である。 A 君の心を理解するのではなく、 あなたは A 君を法則 (「ADHD の子供はこのように行動する」)の 一例として見るようになっていったのである。

3.2 操作者としての志向姿勢

ドレイの言葉を思い出してほしい。 彼の言葉を、 いまわれわれのいる立場の語彙で言い換えよう---、 物理姿勢は操作者 (manipulator) の 観点であり、 志向姿勢は原住民(エージェント)の 観点を共有するものであると。

わたしが強調したいのは、 志向姿勢もまた (物理姿勢と似て)操作者の観点を 持っているということである。 それがゆえに 志向姿勢はつねに 物理姿勢へと落ちていくことが 可能なのである。

3.3 怒りと対人姿勢

この私の議論があなたに聞こえたとしよう。 あなたは物理姿勢のみならず、 志向姿勢もまた「よい教師」に ふさわしい態度ではないことを納得する。 問題はどんな態度をとればいいのか、 である。

3.4 相談

ある日、 休み時間 だれもいない教室に A 君がもどってきた。 教室に残っていたあなたに 相談があるので、 きょうの放課後どうしても 時間がほしいと言うのだ。 あなたはその日、とても 大切な用事があった。 しかしA君の顔つきが 尋常ではなかった。 その悩みの大きさを考えると、 自分の個人的な用事をキャンセルしても 相談にのってあげるべきだと 決心する。 そして、A君と放課後の 約束をするのだ。

その日の最後の授業のとき、 A君はふたたび教室から出ていった。 あなたはA君の行動を物理姿勢で、 すなわち ADHD の症状としては 考えていない。 「A 君が相談のことで いろいろ悩んでいて、 気持ちを整理したいんだな」と 納得する。 志向姿勢が戻ってきたのである。

その授業の間にA君が戻ってくることは なかった。 放課後、 生徒の帰った 誰もいない教室であなたは A 君を待つ。 10分、20分と時間はたつ。 最初はA君の気持になって (共感的理解によって) A 君の行動を納得しようとする。 しかしきょうどうしても したかった大事な用、 A 君の相談のためにできなかった 用事のことを考えはじめる。 とうとうあなたは 怒りだすのだ。

この時のあなたの 姿勢が、 志向姿勢でないこと、 新しい姿勢であること、 それをこれから見ていきたい。 この姿勢を、 仮に「対人姿勢」と呼ぶこととする。

3.5 怒りと自由

注目するのは怒りである。

ストローソンが 「怒りと自由」と題した論文 [ strawson-resentment-j ] において注目するのは この怒りである

彼は 他人への態度の二つの種類を考える--- 一つは 「人間的な関係に関わったり その当事者となったときにとる (一群の)態度」 [ dawkins-selfish-genes-j: 46 ] であり、 もう一つは 「客体的な態度」である。 「相手に対する態度が 客体への態度で占められた場合、 その彼と格闘することはあるにせよ 口論することはありえない」 [ dawkins-selfish-genes-j: 47 ] と断言する。 客体的な態度が 「物理姿勢」にほぼ重なることは 理解してもらえるだろう。 ストローソンは、 この態度を 「その人を社会的な処置の対象とみる態度」 [ dawkins-selfish-genes-j: 46 ]とも 言いわらわしている。 まさに操作者 (manipulator) として 他者を見る態度である。

3.6 二つの怒り

客体として見るのではない態度、 「人間的な関係の当事者としてとる態度」 と曖昧にまとめられた態度、あるいは 姿勢について考えてみよう。 もちろんそのほとんどが 志向姿勢に含まれるであろうことは 予測できる。 わたしは、 ストローソンが、 ここで志向姿勢と似て 微妙に違った姿勢について 述べていると考えたいのだ。 少なくともそのような考えの萌芽を 見てとりたい。

まず、彼は 前者に特徴的な感情として 「怒り」をあげる。 他者を客体として見ている限り、 人は他者に対して怒りは感じないのだ。 ちょうどあなたが ADHD を患っている A 君の「異常な」行動に怒りを 覚えないように。 1

ストローソンはさらに 怒り、 あるいは怒りの出現する場を 二種類に分類する。 [ dawkins-selfish-genes-j: 56 ] 一つは「他人のための怒り」 [ dawkins-selfish-genes-j: 57 ] であり、 もう一つは思わず覚える怒りである。

3.7 また教室へ

ストローソンの議論から、 再びあなたの教室に戻ろう。

たとえば A 君が B さんとの約束を 守らなかった場合、 あなたはA君を叱るだろう。 これが「他人のための怒り」である。 あなたは自分がなぜ怒っているかを 冷静に把握できる。 A君、Bさんが所属する 「道徳共同体」 [ strawson-resentment-j ] のもつ道徳体系、 コードが破られたからである。 そしてあなたは A 君を「矯正」しようとしているのだ。 既存の 道徳体系にA君を合わせようとしいているのだ。 その場では、もちろん、 道徳体系は見えている。

【対人姿勢】

この怒りが いかにあなた自身が 約束を破られた時に 感じた怒りと違うことを 理解してほしいのだ。 わたしが注目したいのは この後者の怒りである。 この怒りを生み出す他者への態度を 「対人姿勢」と呼ぼう。 特徴的なことは、 道徳が問題になることは (志向姿勢の怒りと)共通しているが、 その道徳体系自身が見えなくなって いることである。

志向姿勢の中での怒りと 対人姿勢の怒りという二種類の怒りが あることは、 すなわち、 志向姿勢と違うもう一つの姿勢があることは 納得してもらえたと期待する。

まとめておこう。 他人のための怒りは 志向姿勢の中に生まれるものであり、 物理姿勢の中では生じない。 問題は、 この怒りによって、 道徳的観点 [ dawkins-selfish-genes-j: 56 ] からの矯正が意図されていること、 すなわち、 ここには操作者の観点が入っているのだ。 それに対し、 思わず覚える怒りには 操作者の影もない。 自分と他者が全く対等であるという関係が、 なんら反省の契機なしに そのまま剥き出しにされているのだ。 この時の他者に対する 態度は志向姿勢に基礎を置くが、 それとは違う姿勢なのだ。

* * * * *

最後の仕事は、 この対人姿勢とはなにか、ということである。 それは参与観察に関わるものなのだ。 志向姿勢はあくまで観察の態度/姿勢であり (ジョーンズ革命の記述を思い出して いただきたい)、 対人姿勢は参与の態度/姿勢なのである。

3.8 ダンゴムシに怒るとき

『ダンゴムシ』のフィールドに戻ろう。 いささかSF的な状況を考えてみよう。 民族誌家はとうとうダンゴムシの コミュニケーションに参加できるように なったのだ。 ダンゴムシの共同体には 道徳さえ備わっていた。 たとえば、 それは法則ではなく道徳である。 たんに「後者は破られる」ということのみを 言っているのではない。 道徳は破られたときに怒りを覚えるものなのだ。

たとえば「オスとメスが衝突したら オスが道を譲る」という道徳があったとしよう。 あるときあなたが見ている前で この道徳への違反があったとしよう--- オスが道を譲らなかったのだ。 あなたは得々と このオスに説教をするかもしれない。 あなたは志向姿勢の怒りを覚えているのだ。

SF的想像力をいくら たくましくしても あなたが「われを忘れて 不道徳なダンゴムシに怒る」状況は 考えにくい。

われわれは志向姿勢(観察による 内的表象の付与)でダンゴムシと 共存できるかもしれないが、 そこに参与はできない程度に違っているのだ。

3.9 エピファニーの時

原住民に対する 志向姿勢の中の怒り (典型的には他人のための怒り)は、 観察の中で得られる、 操作的な要素を含む 客体化した道徳体系に 基づく怒りである。 対人姿勢の中の怒り、 われを忘れた怒りはそうではない。 それを原住民を研究対象として 見ているのではなく、 同じ共同体に属するものとして、 対等な人間として関係している中でのみ 出現するのだ。

原住民に怒りを、 対人姿勢の怒りを覚えるときこそが、 多視点 民族誌の鍵となる瞬間、 エピファニーの時とは、 なのだ、と主張したい。

3.10 多視点民族誌の作り方

いよいよ民族誌の書き方だ。 怒りと道徳共同体に注意しながら、 これまでの議論を整理しておこう。

(1) あなたがダンゴムシに怒りを 覚えるとき、 そのときあなたは道徳共同体を客観的に 見ている。 それは飽くまで彼らの道徳体系であり、 対象、 おそらくは操作の対象に過ぎない。

(2) あなたがA君に怒りを覚えるとき、 そのとき問題になっている 道徳共同体はあなたとA君が ともに所属する共同体である。 その中の道徳体系は、 あまりにも当たり前であるがゆえに、 不可視のものである。

あなたは (1) ダンゴムシに怒りを覚えたときとも、 (2) A君で怒りを覚えたときとも 違う、ある特権的な状況にいるのだ。 (1) は志向姿勢の中の怒りであり、 たしかに異文化(の道徳体系)は 可視化される。 しかし、あなたはその道徳体系を 生きていはない。 (2) は対人姿勢の中の怒りであり、 問題になっている道徳体系を見ることが できない。 あなたは道徳体系を生きているのだ。

異文化で原住民に怒りを覚えるとき、 あなたは重大な齟齬、 食いちがい、に気がつくはずだ。 この怒りが、 個々人の 道徳体系の消化の程度の違い ((2) の状況だ)ではなく、 道徳体系そのものの違いに基づいているのだ、 ということ に。

あなたは自分が生きてきた 道徳体系に気がつく。 それは客体としてでもな、 操作的にでもない。 生きられた道徳体系に気がつくのだ。 そして 「彼ら」がいま生きている道徳体系を、 客体としてでもなく、 操作的にでもなく、 気がつくことができるのである。 このエピファニーの時、 あらわれるのは一人称単数ではない、 あなたが気づかず生きてきた 一人称複数の世界なのだ。

4. 多視点的民族誌---実践として

4.1 一人称複数の民族誌

わたしが書くことを 勧めている民族誌は、 これ見よがしに反省的な一人称単数の 民族誌ではない。 それは いやおうなしに反省的な 一人称複数の民族誌なのだ。

エピファニーの時を大事にしながら 二つの文化を書くそのような民族誌の中にこそ 多視点が示される筈である。

わたしの提唱するこの「新しい 実験的民族誌」の中で 反省的であるのは民族誌家だけではない。 読者もまた反省的になるはずである。

4.2 「実験的」であること

「実験的民族誌の勧め」において 範例を示すことなどできないだろう。 範例があり、みながそれに従うならば それは実験的ではない ・・・・・ 【「何的」なのかしらん・・・】 ・・・・・ これから生まれ出てくる民族誌が、 ほんとうに新しいものなのか、 古い実験的民族誌の焼き直しに過ぎないものなの か、 あるいは革命以前の古典的民族誌の再来となるの か、 それは提唱者の私の責任ではなく、 実践者であるあなたがたの責任なのだ。

【ここまで】

5. まとめと展望

5.1 展望

かくして、 第1部は終わった。

文化を問題にするのは第4部である。

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

5.2 第4部へ

第2章で取りあげた 「説明と理解」の論争をふりかえろう。

理解派、とりわけ ドロイゼンは 理解の武器として「感情移入による 理解」 (empathic understanding) を提唱する。

いかにして他者に感情移入をすることが、 学問の方法論上許されるのだろうか? それが問題である。 ドロイゼン自身は、 マンハイムを先取りする形で 自らの立ち位置を問題にするという 解決法をしめしている。 ドロイゼンはわれわれが 歴史的存在であることを認識している。 そして対象と歴史学者が 同じ歴史に所属していることが、 感情移入の基礎づけとなるのである。

ある意味でそうである。 歴史的な拘束条件を システム(たとえばナポレオン)と 共有する歴史学、 あるいは 専門の社会学者とは 素人の社会学者であると宣言する エスノメソドロジーにおいては、 多声性は可能である。 社会学者とシステムは 表象プールを共有しているのだ。 その時、「多声性」はけっきょく 「一声」になるのだ。 「志向姿勢は客観的だ」という デネットの宣言は、 エスノメソドロジーの正当性を 基礎づける宣言となる。

ポストモダンが「多声」にこだわるのなら、 それは「一声」ではないからであろう。 わたしの声も他者の声も一つであるならば、 ギアツの「原住民の視点から」という モットーはまったく問題のないものとなる。 わたしは ポストモダンのこだわり、 「『一声』ではない『多声』」に 賛同する。

・・・・・ 【人類学、デネットの火星人】 ・・・・・


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Bibliography

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ENDNOTES

[1] ストローソンの議論は、 自由と決定論の論争の文脈で、 両立論の一種として書かれたものである。 彼は「ある一般的な命題の正しさを 理屈の上で確信するとによって 私たちの世界が変容し、 その結果、 個人間に生じる関係ということ 私たちがふつう理解しうているものが、 すべて世界から消え去ってしまう---こうした ことが生じるかもしれないという想定には、 本気で向かい合うことはできないと 私は考える」 [ dawkins-selfish-genes-j: 52 ] と主張する。 野矢の解説の言葉を使えば 両立論と言うより、 一種の「無縁論者」 [ noya-joron-jiyuu: 7 ]という べき立場を提唱しているのである。 [Back]