2 似ていてはいけない
2.1 似ていること
2.2 おもちゃ
2.3 芸術
2.4 科学
3 似ていないとはいかなることか
3.1 焦点の属性
3.2 本来の機能
3.3 いっぱいの課題
4 ニセモノと模型
4.1 豆本
4.2 ニセ札
4.3 仏像
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(C) Satoshi Nakagawa
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この「表象する」という作用、 あるいは何かが何かを表象するという関係は、 どのようにして可能なのであろうか。
単純ではあるが直観的な答は、
表象する何か(模型)は、表象される何かと
分子の模型は分子を表わしている。 模型は現実世界の分子に (何らかの意味で)似ているのだ。 航空機の模型は航空機を表わしている。 模型は現実世界の航空機に(何らかの意味で)似ているのだ。 呪いの人形 [ひとがた](模型)は、 呪う相手を表わしている。 それはその相手に(何らかの意味で)似ているのだ。 『麗子像』という絵画(模型)は 麗子を表わしている。 それは現実世界の麗子に(何らかの意味で)似ているのだ (すくなくとも現実世界の麗子を知っている 人には似ていると思わせるものだろうと、 わたしたちは考えている)。
・・・・・ 【ところが】 ・・・・・
廣田惠介は、 『我々は如何にして 美少女のパンツをプラモの金型に 彫りこんできたか』 [廣田 2016] の中で、 フィギュアの最初期における 「ラムちゃん模型化反対」論争 [廣田 2016: 29ffm4_dnl ] をとりあげる。 漫画の中のラムちゃん [2] がフィギュア化されることに 対する反対論と、 それに対する反論とが模型の雑誌を賑わしたのだ。 反対論者は言う「本当に好きな人は、 そのものについての具象化を好まないのです」 [廣田 2016: 29]と。 J・G・ヘルダーは論文「彫塑」 [ヘルダー 1979]の 中で、ほとんどの彫塑が彩色されていないこと についてのある議論を紹介する (ヘルダー自身はその議論に賛成は していないのだが)。 その議論によれば、 「色をつけると似ている点があまりにも大きくなりすぎ、 似ている点があまりにも似すぎてきて、自然とまるで同 一になってしまうからだ。本来、似ているという点は似 ているだけであるべきで、自然と同一であってはならな いのである」 [ヘルダー 1979: 230] というのだ。
小松左京は
『模型の時代』
[小松 1979]の
中で、
模型(むしろ「プラモデル」
あるいは「プラモ」という言葉が
適当であろう)が蔓延する未来社会を描く。
そして、そこに
さまざまな 1/1 模型(実物大模型)、
たとえば家の、あるいは自動車の
原寸大模型を登場させる。
多くの人びとがそのような模型の家に
住み、
模型の自動車に乗る。
主人公は嘆く
「原寸大で、
「道楽に実用性が出てきちゃおしまいだよ。 プラモというやつは、 ほんものそっくりでいながら、 その実、何の 役にも たたない 所がいいんだ」 [小松 1979]
芸術を鑑賞するにも、
遊びを遊ぶにも、
模型(芸術作品やフィギュア、プラモ)は
プラトン以来 [アリストテレス 1997] は芸術は自然の(現実世界の)模倣(ミメーシス)だという。
自然の模倣としての芸術論には、 当然、 さまざまな反論がある。
典型的な反論として、 ハルトマンによる次の言葉を引用できるだろう--- 「模倣はまず事物の模倣、実在の人物とその営みの模倣 と考えられ、やがて後に事物がそれにのっとって形づく られるべき理念の模倣と考えられた。いずれのばあいも 何をつくるべきかが芸術家にはあらかじめ示されるので、 どこまで芸術家が手本に到達できるかという能力の問題 だけが残る。かれらの創造の行為はここでは著しく制限 される。世界がまだ所有したことのない新しいものを芸 術家が示そうとも、そんなことはここではまったく問題 にならない」 [ハルトマン 2011 (1953): 56]。 簡単に言えば、模倣説に従えば芸術家の 創造性が問題にならなくなってしまう、というのだ。
グッドマンは『芸術の言語』の冒頭で [Goodman 1969: 3] バージニア・ウルフが言ったといわれる 言葉を引用している:
Art is not a copy of the real world. One of the dam things is enough.
アリストテレスも、 単純な模倣について述べているわけではない。 次の指摘は示唆的である。 「ある種のモノを見るのは苦痛である。しかし、われわ れが軽蔑する動物あるいは動物の死骸であっても、それ らのモノのイミテーションを見ることを、 われわれは楽しむ」 [アリストテレス 1997]と彼は言う。 彼は、芸術作品がその対象に似ているべきである、 自然(現実世界)を模倣しているのだと、 単純に主張しているわけではない。 ここに描写されている作品(動物の死骸の模型)では、 芸術は現実を忠実に再現しているわけではない。 もしそうならば見るのが「苦痛」であるような 作品がそこに現れる筈だからだ。 すなわち、いささか禅問答じみているが、 芸術作品は対象に似ていなければならないが、 同時に似ていてもいけないのである。
この禅問答のような精神を 的確に言い表わしているのが、 近松門左衛門が語ったと伝えられる [相馬 2012] 「虚実皮膜」 [3] という言葉であろう。 人形(模型)は人間(現実世界の対象)に 似ていなければならないが(「実」)、 似すぎていてもいけない(「虚」)と 近松は語ったと伝えられる。
科学の模型の場合も同様である。
科学の模型の一例として地図を考えてみよう。
ルイス・キャロルは
『シルヴィとブルーノ』
[Carroll 1982 (1889)]
の中で 1/1 の地図を登場させる。
このエピソードを聞いて、
読者はにやりと笑うだろう。
これでは地図が地図としての
(科学の模型としての)機能をはたし得ないのだ。
すでに引用したハッキングの言葉の一部に
焦点をあてたい。
模型とは
「実在的な現象から
・・・・・ 【浮力】 ・・・・・ 、 ・・・・・ 【乱気流】 ・・・・・
・・・・・ 【三つの世界の模型】 ・・・・・
・・・・・ 【さき走りの区分】 ・・・・・
・・・・・ 【渡辺のカテゴリー論】 ・・・・・
・・・・・ 【焦点となる属性の例】 ・・・・・
・・・・・ 【例として使うモノ】 ・・・・・
・・・・・ 【教訓】 ・・・・・
・・・・・ 【人工物の焦点の属性(本来の機能)】 ・・・・・
・・・・・ 【おもちゃについてのとりあえずの結論】 ・・・・・
・・・・・ 【ソロモンのママゴト】 ・・・・・ [Watson-Gegeo 2001]
・・・・・ 【おもちゃの難題】 ・・・・・
・・・・・ 【自然物の「本来の機能」】 ・・・・・
・・・・・ 【科学の特殊性】 ・・・・・
・・・・・ 【価値との関係】 ・・・・・
模型であるためには 似ている必要があるが、 似すぎてはいけない、ということになる。
これは何かに似ていないだろうか? そう、ニセモノである。 敢えてニセモノの定義をするならば、 「似ているが、すこしだけ似ていない」モノと なるだろう。 こう捉える限りニセモノと模型の 間に違いがないように見える。
スケールの問題。
・・・・・ 【対象の「機能」が残っては模型にならない】 ・・・・・
ニセ札もその意味で似ています。ニセ札は (対象と)全く同じモノを使います。
しかし、ニセ札は表象としてではなく(それなら ば芸術、模型です)、「欺き」のために使います。 (これは去年の論点です)。
今年の論点として重要なのは、それでも「違い」 があることです。実験実習で話しましたが「自然 種」と「名目種」(実験実習では「制度種」とい うコトバを使いましたが、訂正します)の違いが 注目すべき点です。ゆっくり考えてみましょう。
それでは オリジナルと全ての点において全く同じレプリカ は模型でしょうか?ニセモノでしょうか?
いま「仏像は模型です」とさらっと 言ってしまいました。ほんとうでしょうか?ミイ ラは生者を表象しているのでしょうか?ミイラは 生者そのものではないのでしょうか?すなわち、 仏像は仏陀(その他)を表象しているのではなく、 仏陀そのものではないのでしょうか?
ミイラ(これが模 型かどうかはさておき)と比較してみましょう。 ミイラは素材の種類のみならず、素材としてまっ たく同じモノをつかっています。生者が対象で、 死者が素材・・・かな?ゆっくり考えてみましょ う。
パースの分類は、 それがいくらアドホックに見えようとも、 ある重要な論点を含んでいる。 そのことを明瞭にするために 人類学の、 とりわけ構造主義の人類学の記号の 分類を紹介したい。 その分類を背景にパースの分類を見ることによって、 その特異性があきらかになるだろう。
・・・・・ 【2つの呪術】 ・・・・・
・・・・・ 【換喩と隠喩】 ・・・・・
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
[1] 「ある」と「存在する」は意識して 使い分けている。 その違いはこの論文では扱わない。 [Back]