1 序
1.1 これまでの話---人類学
1.2 これから---経済学
1.3 貧困は発明される
2 貧困の発見 --- 開発の思想
2.1 貧困の発見
2.2 貧困の拡張
2.3 単線進化論としての開発
3 民族誌から---反開発の思想 (1)
3.1 外からの開発
3.2 近代化の喜劇・悲劇
4 ネオマルキシズム---反開発の思想 (2)
4.1 従属理論
4.2 世界システム論
4.3 彼らの主張
4.4 学校と開発
5 まとめ
5.1 従属理論の「進歩」志向
5.2 これから:単一進化の図式
5.3 「近代化」とは何か
5.4 新しいビジョン
Draft only ($Revision: 1.1 $ ($Date: 2012-05-17 21:38:14 $)).
(C) Satoshi Nakagawa
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ここまで人類学の視点について 語ってきた。 人類学は 文化をゲームのようなものと見なす。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
人類学的視点で開発に語るわけだが、 それは批判的な語りとなる。
まずこれから3つばかり続く 講義の流れを予告しておこう。 文化が一種のゲームだとわたしは言った。 「経済の考え方もまた一種のゲームである」、 これが大きなテーマとなる。
第二講義(本講義)は 開発の失敗について述べる。 そうしながら 開発をささえる思想(それを、とりあえず 「経済学」と呼んでおこう)を詳述する。 あなたがたに覚えておいて欲しいのは、 この講義は経済学にのめり込んで語られる、という ことだ。 もっとはっきり言えば、 この講義の語り口は人類学的ではない、ということである。
開発を支持する考え方、「経済学」を 簡単に示しておこう。 それは一種の進化論である。 資本主義(市場主義)の経済が、 人間にとってもっとも望ましい制度と 考える、そのような考え方である。 1
わたしたちはこの思想に のめりこんでしまっている。 そこから一抜けるために、 人類学が登場する。 それが第三講義である。 そこにおいて、 市場主義とはまったく違う経済思想を 紹介したい。 そして、 2つの経済思想を2つのゲームとして 比較するのが 第四講義となる。
というわけで、 この講義の間は、 人類学的な考え方から しばらく離れることになる。 人類学的考え方を忘れてもらいたくないので、 ここに第四講義(2つのゲームの比較)で出てくる アイデアを小出しにしておきたい。
本将棋にのめりこんでいれば、 角が斜めに動くこと、 飛車が縦横に動くことは「自然な」ものと 見えてくる。 そのような規則の体系(ゲーム)を生きる中で、 人はさまざまな作戦や常識を つくりあげていく。 「駒の損得をつねに考える」、 「二枚換えはたいてい得になる」、 「離れ駒はなるべく避ける」、 「王ははや目に囲う」などなどの 常識や作戦が生まれてくるだろう。
プレーヤーは、 それらの常識や作戦を学び、 その中で 盤面を見る目を養う。
・・・・・ 【チェスの例】 ・・・・・ [degroot-65]
「貧困」とは、 近代あるいは 市場経済というゲームの中の、 パターンなのだ。
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現在原発批判が盛んである。 原発に反対することに、 わたしはとりわけて反対はしない。 ただ、彼ら彼女らが、 「反対」をした後、 どのようなビジョンがあるのかが、 わたしには分からないのだ。 あるテレビ解説者が、 「原発を止めることは、 生活を全面的に変えることだ。 原発反対は、 そのような含意があることを 肝に命ずるべきだ」といった 発言をしていたのを見たことがある。 この解説者くらいの心構えは、 原発反対者にはあると、 わたしは思いたい。 ただ、 わたしが思うのは、 「生活を全面的に変える」程度では すまないと思う。 もし、 資本主義社会そして国民国家という この社会の仕組みを変えないならば、 原発は、いずれ10年もたてば 戻ってくると思う。 2 そして、資本主義と 国民国家という枠組みをなくしてしまえば、 わたしたちは何をその代わりとすべきか 途方に暮れるだろう。
突然、原発反対運動を出して わたしが何を言いたいかというと、 開発の議論も、 それに近いもの、 「開発は悪いから止めろ」という議論に なりがちだ、という自戒である。
資本主義と国民国家をとりのぞくというのが、 理想かもしれないが、 そのようなことを述べる自信はない。 3
「開発反対」を述べながら、 「開発のない社会」として、 資本主義・国民国家抜きという 大仰な代替案でなく、 もう少し手軽な代替案を、 できれば、 講義の最後で提示していきたいと思っている。
今回の講義は、 ゲームの中から始めよう。
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原洋之介は 「貧困」「開発」の語の 歴史を次のように説明する--- 「第二次対戦後の世界で開発が国民所得統計で 順序づけられた 低開発状態からの脱出として 縮約され受容されていった背景には、 アダム・スミスの自由主義思想にも強く影響されて 近代ヨーロッパで誕生した 近代進歩主義史観が存在していたことは間違いない。 ヴィクトリア王朝文明が達成したとされる 「明々白々たる優越性」において頂点に達したとする 「進歩」という歴史観が、 近代ヨーロッパで「発明」された (Bowler)。 この発明された進歩という概念を前提として、 一九世紀中葉にイギリスとフランスとで 貧困層・貧困地域と認定された人々と地域に対して、 国家が保護者として働きかける必要が認識されはじめたなかで、 「低開発」の「開発」という概念が これまた「発明」された (Cowen and Shenton) といってよい。」 [hara-kaihatsu]
ここまではいい。 将棋がプレイされている中で、 矢倉囲いが発見されるようなものなのだ。 ビクトリア朝時代の都市の あるカテゴリの人びとを「貧困」の 名のもとに捉えることは 間違いではない。 しかし、 はさみ将棋をしている人に 「矢倉囲い」を教えても、 それはナンセンスである。 そして、 「貧困の拡張」という言葉で わたしが主張したいのは、 まさにそのような ナンセンスな事なのである。
そして、第二次世界大戦の後、 1949年の アメリカ大統領トゥルーマンにより 大統領就任演説が行なわれた。 開発の歴史で誰もが引用する演説である:
「われわれは、新しく大胆 な試みに着手しなければならない。 科学の進歩と産業の発達がもたらした われわれの成果を、 低開発国の状況改善と経済成長のために役立てようで はないか」 [kawata-kaihatsu: 2]。
かくして世界の中に 貧困が発見され その撲滅が叫ばれたのだ。
まとめ---単線進化の図式
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開発は歴史の動きから、 倫理へと 活動、グローバルスケールの貧困との戦いという 倫理の活動になってきた。
19世紀の人類学者は黒人を生物学的に劣った人種とし、自治の能力のない ものとみなした (crewe-harrison-development-28)
見当違いとは言え、 「開発」を推し進める人たちの意図は、 善意である。 ところが、じっさいの開発現場で何が 起きているかというと、 ほぼその意図する状態と逆の状態が 生まれているのである。--- 開発の進む中、 貧困はますます増加し、 環境は悪化し、 そして貧富の差が広がっていくという証拠がある [crewe-harrison-development: 14]。
「これまで誰もが 『成功した開発』として納得するような事例はなかった」 ということは、 誇張ではない。 4
それゆえ、 開発産業への批判は高まっている--- 高級取りの外国人が 手も足も出ないローカルに 実効性のない計画を押しつけ、 援助のプロセスは汚職にまみれ、 非効率性に蝕まれている。 援助はドナーを満足させることが目的であって、 受け手は問題にされない、というのだ [crewe-harrison-development: 14]。
開発のおかげで、アジアやアフリカに高給とりの外人たちがおしか ける。 --- アジア、アフリカ、中南米で 15万人の外人をかかえる。 アフリカだけで 一日に900ポンド(15万円)の金が 一人のコンサルタントなどに支払われる。
それは一大産業となったのである--- 「開発産業」である。 これに携わる外国人たちの給料に ドナーの金のうちの 年間七〇億ドルから 八〇億ドル(八千億円ほど)が費される のである。 [crewe-harrison-development: 61]
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開発ではないが、 近代化の悲喜劇を三つつ引いておこう。
3.2.1 アエタの喜劇
3.2.2 バッタクの悲劇
3.2.3 ウォプカイミンの悲劇
もう一つはニューギニアのウォプカイミンの悲劇である。
オク・テディ鉱山の開発に必要な土地のほとん どは、ウォプカイミン(Wopkaimin) の人々が所有し ていた。ウォプカイミンは人口約七〇〇人の民族集 団である。一九七三年に . . . 人類学者デイヴィッ ド・ハインドマン (David Hyndman) は、ウォプカ イミンに関するフィールドワークを行った (Hyndman 1994)。彼は特にウォプカイミンの男たち が情熱を傾ける狩猟に関心があった。彼らは、弓矢 をもって、標高約四五〇メートルのオク・テディ川 の川岸から標高約二四〇〇メートルの高原地帯まで 歩き回る。ハインドマンは、ウォプカイミンがしと める獲物のほとんどを四種類の動物が占めることを 見出した。最もしとめられる頻度の高い動物は二種 類の樹上性有袋類で、クスクスとリングテイルであ る。ユビムスビとも呼ばれるキヌゲクスクスは縫い ぐるみのようで、その体重は二キロにも満たない。 クロアシリングテイルの大きさもほぼこれと同様で ある。一方、獲物のなかで最も大きいのは野生のブ タとヒクイドリ ・・・・・ である。
ハインドマンは彼らが男女ともに畑仕事に従事 し、主食となるタロイモを含む多くの穀物を栽培し ているのに気づいた。タロイモは彼らの食卓におい て、カロリーの三分の一を占めていた。彼らはまた、 食料として実をつけるパンダーヌスや澱粉質の多い サゴヤシからなるヤシの木畑をつくる。ブタは女性 が育てる。彼らは魚やカエル、野草、シダもとって 食べた。このように、鉱山が開山する以前にはバラ エティー豊かな食生活を送っていたのだ。
ハインドマンが一九八〇年代に、オーストラリ アの大学からウォプカイミンのもとに戻ったときに 目の当たりにしたように、鉱山の開山は彼らの生活 を劇的に変えていた。熱帯雨林のなかにあった部落 は放棄され、ウォプカイミンは道路わきの密集した 村へと移動していた。彼らは、捨てられていた梱包 材を用いて小屋をつくった。これらの小屋は、後に 近代的な住宅に取って代われた。
・・・・・
一九八四年に実施した食事に関する調査によっ て、一〇年前にハインドマンが報告した伝統的な食 生活に、大きな変化が生じていたことが明らかになっ た。主食は伝統的なタロイモからさまざまな根菜類 や商店で購入するコメに代わっていた。鉱山開発に 携わり、会社の食堂で食事をする若くて働き盛りの 男たちだけが多く食べ物にありつける状態であり、 子どもの栄養失調は相変わらずのままであった。ま た、夫が鉱山会社に雇われているか、そうでないか によって女性の食生活にも新たな不均衡が生じてい た。
新たに道路わきにできた村では、健康状態にも 変化が起こった。標高の低い土地に移動したことに よってマラリアが増加した。売春とともに性感染症 も増加した。やがて鉱山会社が従業員用の医療サー ビスを共同体全体に拡張したため、村の衛生状態は かなりの改善をみせた。
鉱山開発のピークを過ぎると、一九八二年には 鉱山労働力の六〇%以上を占めていたウォプカイミ ンが担う非熟練労働は、一九八六年には五%へと急 激に落ち込んだ。鉱山熟練労働者は、海外から来た 者や同じパプア・ニューギニアでも他地域の出身者 だったのである。地域住民のなかには鉱山の周辺で 新たな職を見出した者もいれば、鉱山に貸与してい る土地の使用料に頼る者もいた。ある者は他地域出 身の不法住民で満ちあふれた道路沿いの村を捨て、 古い男性イニシエーションの儀礼や狩猟、タロイモ 栽培を復活させるために熱帯雨林に雨移り住んで新 たな集落を形成した。++
_QOUTATION( _P ++ これらすべては、結婚や死その他の人生の重大な 局面で行われる伝統的な交換に貨幣が持ち込まれたこと によって、劇的に変化した社会のコンテクストのなかで 起こったおのである。現金収入は、欧米の水準からみる と大きいものではないが、彼らの生業経済を一変させ、 社会の基盤を切り裂いたのであ る。_CITEPP(townsend-environmental-j, 83--86)【_CITE(hyndman-rain-forests)】 )
このような反医療援助論への 支えをなす理論が、 マルキスト理論、 あるいはネオ・マルキストの理論である。
何が問題を引き起こしている 「全世界的な社会/経済構造」なのだろうか。 それに答える一つの試みが、従属理論であり、 その発展とも言える世界システム論なのである。
近代化論に対する激しい反論を展開するのが、 南米に起こった従属理論である。 従属理論の代表的な著者にフランクがいる。 第三世界の低開発は、出発の遅れではなく、 本源的蓄積過程にあった第一世界による収奪の結果なのである、と フランクは主張する。 第三世界は決していまだ開発の手のついていない 「未開発」なのではなく、 「低開発」へと開発されたのである。
ウォーラスティンによる世界システム論も、 従属理論の立場を継承する。 「低開発」とは近代に作られた世界システムの一部なのであると ウォーラスティンは主張します。 世界システム論によれば、 世界は、 互いに競争しあう「中核地域」、 余剰を収奪される「周辺地域」、そして その中間 (中核から収奪され、 周辺を収奪する)「半周辺地域」から構成されます。 近代の経済の歴史とは、 さまざまな出来事をシステムが その再編などによって乗り切っていった歴史なのです。
ファーガソンはネオマルキシズムの主張を次の ようにまとめる---「資本主義システムが開発の原 因ではなく、その障害であるとしたら、第三世界に おいて進歩の力ではなく、反動の力であるとしたら、 資本主義による開発援助は根本的に矛盾した営為で ある。帝国主義的な資本主義によるものである限り、 援助は開発へのきっかけとは、すくなくとも、「本 当の」開発のきっかけになるものではない。開発の 目的は、(それらの著者によれば)その地域を世界 システムの中に組み込むこと、あるいは急激な社会 変化を妨げること、あるいはその国のエリートに賄 賂を送ること、あるいは「本当の」国際関係を神秘 化すること、等々なのだ」 [ferguson-anti-politics: 11--12]と。
開発主義と反開発主義の対立を うまく言い表しているのが ファーガソンである。 彼はポール・ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』 [willis-labour-j]を取り上げて、 次のような説明のしかたをする。 ファーガソンは教育に対する二つの立場を説明する。 一つはリベラルなもので、18世紀以来の 古典的な立場である。 学校を啓蒙、平等を推し進める道具として考える。 マルキシストは 「学校とは、産業秩序 (その中で仕事は階層化されている)に対して 労働力を再生産すべく、資本主義国家によって作られたもの」 ととらえる。平等の道具ではなく、不平等の道具なのだ、と。
『ハマータウンの野郎ども』において ウィリスはリベラリズムの考え方を ナイーブなものとしてしりぞけ、 学校は階層の再生産へ重要な役割を担っていると考える。 しかし彼は「再生産理論」の先へ進もうとする。 いままで、道具としての学校は あくまでブラックボックスとして描かれてきた。 ウィリスはじっさいの学校の様子を描こうとする。 そして、 労働者階級の師弟たちは、 マルキシストが描くように従順な犠牲者ではなく、 学校の権威に反抗するのである。 そして、皮肉なことに、 この反抗を通じて、 階級が再生産されるのである。
開発に関しても同じことが言えるだろう、と ファーガソンは考える [ferguson-anti-politics: 13]。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
しかし、従属理論は(そして世界システム論も)、 近代化論同様に「進化」を認めている点で 同質であるとさえ言うことが出きるのだ [crewe-harrison-development: 27]。 それは、上記の引用において、 ファーガソンが指摘するように、 「ほんとうの開発」を目指している点に 明瞭に現れている。近代化論が都市の視点から眺め ているとすれば、従属理論はそれを田舎から眺めて いるのだ [kearney-development: 338]。近 代化論は進歩した (developed) 都市部から歴史を 見るが、従属理論は取り残された田舎から歴史、す なわち「低開発の開発」を見るのだ [frank-capitalism]。 カーニーは、「フラン クは、近代化論が頭で立っているのに気づき、それ をひっくり返して足で立たせたの だ」 [kearney-development: 338]と言う。
原の言い分は聞くに値する---
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
経済志向でもなく、 政治志向でもない、 いわば「文化志向」の開発の人類学は可能だろうか。
[1] ここで、わたしは「リバタリアニズム」と呼ばれる 考え方を念頭においている。 [Back]
[2] この辺は、わたしも「評論家」として 喋っている。 確とした根拠があるわけではない。 [Back]
[3] 「評論家」としてのみ語ることを 許してもらえるなら、 そう述べたいのだが。 この文章からは、わたしは「学者」として語っている。 [Back]