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【補論】ギアーツの苛立ち:文化と経済

中川 敏

1 序

2 ギアーツ
2.1 インボリューション論争
2.2 ギアーツとウェーバーとマルクスと

3 前史
3.1 ウェーバーとマルクス

4 ポラーニー

5 スコット
5.1 農民のモラル・エコノミー

6 実質経済学
6.1 社会に埋め込まれた経済
6.2 「非市場社会には経済学は適用できない」
6.3 実質経済学者による市場社会の特徴づけ
6.4 実質経済学の規範的議論

7 モラル・エコノミー論争
7.1 非市場社会の「経済」も経済学で説明できる
7.2 モラル(平等)を第一に置く議論は矛盾する

8 ギアーツは何に苛立っているのか?
8.1 ブースが指摘するスコットの「経済主義」
8.2 解釈としての実質経済学
8.3 解釈としてのモラルエコノミー・実質経済学

9 伝統の創造

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(C) Satoshi Nakagawa
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1. 序

この章のテーマは、「文化と開発」である。 単純な図式化をすれば、 開発主義者はローカルな人びとを経済主義者として考え、 人類学者は彼(女)らを文化主義者として考える、ということだ。

ある人類学者による「文化と経済」をめぐる 「いらただしい」議論のまとめを引用することから始めよう。 紹介する人類学者はギアーツである。 『農業のインボリューション』の数十年後に、 この本をめぐる論争を回顧しながら、 ギアーツは次のように語る。

インボリューション論争に関する限り、 「経済偏重主義」は、 もともと避けようとしていた 「障害としての文化」対「刺激としての文化」という枠組みを 想起させる文化(あるいは社会文化)の外部化に 導いていった。 今では「ごまかしのイデオロギーとしての文化」 . . . または 「無力な飾りとしての文化」 . . . となり、 権力と搾取の力学を隠す . . . 共同幻想や、 何の実りもない言葉遊びとなりがちである。 文化は浅いものであり、底深いところでは 社会は欲望のエネルギーで動いている。 [geertz-involution-j: 205]

たとえば、あの素晴しい民族誌 『ハマータウンの野郎ども』 [willis-labour-j] (初版 1977年)を取り上げてみよう。 生きいきと描写された「野郎ども」の(対抗)文化は、 けっきょくのところ、(ウィリスの分析の中では) イデオロギーすなわち「虚偽意識」に過ぎないとされてしまう。 それは、主流社会の「階級制度」を再生産するためのものなのだ。 「野郎ども」はそれを知らぬまま、うんぬんかんぬん…と。 息をもつかせぬ華麗な民族誌から、 一気にマルクス主義のクリシェへと落下していくのを読者は経験するだろう。 「理論の役割は調査を実行可能にするというよりは、 むしろ反対に、 調査の役割は理論の強化にあるという社会[学]理論家の習性が、 ここでも明らかに認められる」 [geertz-involution-j: 206] のだ。 説明の中で 「何かが失なわれてしまったのだ」 [geertz-involution-j]。

「生態人類学」の冒頭で紹介したコーンの引用を続けてみよう。

To the reductionists, ideology and culture are mystifications or expressions of false consciousness, or they are expressions of the working of predetermined biological needs or post hoc rationalizations growing out of the ``actual'' behavior of the actors. [cohn-play: 200]

* * * * *

「文化と経済」は、 他の言い方をすれば、 「共同体と経済」と言うことも可能であろう。 ブースの語るように、 [booth-note: 949] 「共同体と経済」 (あるいはブースの言葉で言えば「モラルエコノミー」)をめぐる論争を 最初に定式化したのはアリストテレスであった。 問題は共同体というものの性質である。 アリストテレスは、共同体について考える―― それは単なる経済的利益で結びついている集団に過ぎないのだろうか、 それとも共同体とは、非経済的な何か、正義といったものの 共有によって結びついた集団なのだろうか、と。

一つの答は、もちろん、経済的な結びつきだけによる共同体 (利益集団、ゲゼルシャフト)もあれば、 そうでない共同体(ゲマインシャフト)もある、という答だろう。 [toennies-gemeinschaft-j]

2. ギアーツ

学説史的な順番は無視して、 この章で最初に扱いたいのは、ギアーツの 『農業のインボリューション』 [geertz-involution-j]である。 ギアーツの『農業のインボリューション』 が刊行されたのは1963年である。

ギアーツはブーケの「二重経済」論に依拠しながら 議論をすすめる。 「二重経済」とは、 植民地において、(1)白人の資本主義と (2)現地民の伝統的経済が両立している状況を指す ブーケの言葉である。

まずギアーツ自身による『インボリューション』の議論のまとめを ここに引用しよう。

インドネシアはきわめて人口が多いだけでなく、人口の分布は著しく歪んでお り、ジャワは国土の九%を占めているにすぎないのに、全人口の三分の二近く の人々が住んでいる(一九六一年)。 この状況は今後も持続し、拡大する見通しである。++

++ 一人当たりの収穫量を一定に、あるいはとてもゆっくりした減少率 を保ちながら増加する労働力を吸収するおもにジャワに集中する水田の持つ能 力と、スマトラ、ボルネオ、セレベス東部の島々の大部分で行なわれている焼 畑耕作体系が欠いている人口吸収能力が、このパターンを可能にしている。++

++このような労働集約化が進行する状況は、 棚田の生態的特徴や幅広い土地保有条 件、技術、労働組織の発展、伝統的農民文化と社会構造の拡張的相互作用によっ て可能となった。この過程の初期の段階を状況証拠を挙げてたどることは不可 能である。しかし、農民経済における(比較的)資本集約的な飛び地経済の形 成と同様、オランダ人による輸出作物の強制栽培(藍、コーヒー、タバコ、そ して最も重要な砂糖)の体系的な押しつけは一八三〇年から力強く加速した。 この二つの間のつながりはシンボリックである。農民の側では、一九五〇年ご ろに生じた究極的な結果は「インボリューション」であった。この用語はアメ リカ人人類学者、アレクサンダー・ゴールデンワイザーから借用した。彼は、 ゴシック建築やマオリ族の彫刻のように、一定の形態にすでに到達しているの に、それでもなお内に向かって複雑化を続けることにより進化し続ける文化パ ターンを表現するためにこの言葉を作りだした。とくにジャワ農業、そして一 般的にジャワ人の社会生活は、着実に増え続ける人口と増大する植民地的圧力 を前にして、二〇世紀中頃にひどい袋小路―つまり極端に大きくて今でも増加 し続けている労働力と、それをインボリューションを通して吸収する能力の弱 体化(マオリ彫刻でさえ、線の間のスペースが不足する)、そして小さなカプ セルに閉じ込められたような雇用の少ない工業部門という袋小路―が出現する まで、そのような内的複雑化によって自らを維持してきた。一方、多くの第三 国で―たとえばフィリピンのような隣国で―見られた一種の農村の階層分化は 抑制された。しかし他方で、ヨーロッパや北アメリカの発展の特徴である農業 に雇用される労働力比率が着実に減るという現象も抑制された。『農業のイン ボリューション』の最後に日本のかなり異なる(つまりヨーロッパともインド ネシアとも異なる)農業史との比較に言及して終えた。その歴史を私は今でも 啓発的だと思っているが、他のほどんど誰もそのポイントをつかんでいるよう には思えず、暗闇の中でただ口笛を吹いているだけの者もいた。最後に生態的 および経済的過程の分析を越えて、国家の政治的、社会的、文化的ダイナミッ クスへの研究へ向かって、インドネシア人の不安感の診断を行うことを主張し た。 [geertz-involution-j: 201--202]


ブーケ風に言いかえると、 19世紀の強制労働が、 (1)資本集約的な西洋セクターを急速に発展させ、 他方 (2)労働集約的な東洋セクター (Eastern sector)を 厳密にステレオタイプ化することによって、 この二重経済を確立したのである。

それでは、 この『インボリューション』の刊行の後に現れた 「ギアーツ・バッシング」 [ikemoto-yakusha]の経緯を辿ってみよう。

2.1 インボリューション論争

曾孫引き 1 による、農業のインボリューション批判をまとめておく。 以下の4点に反論はまとめることができる。 すなわち: (1)農外労働を無視している―農外労働を加えれば、農民の所得は停滞など せずに、増加していたかもしれない。 [ikemoto-yakusha: 275--276]。 (2)一地域の一時点の結果を一般化しすぎている [ikemoto-yakusha: 276] (3)土地所有の階級分化が起こっている。 [ikemoto-yakusha: 276]。 そして、 (4)貧困の共有に関わるような慣行が、労働節約的なやり方に取って代わられる傾向にある。 [ikemoto-yakusha: 277]

池本はそれぞれに対して次のように答えている: (1)農外所得の大きさは「貧困の共有」を示しているだけかもしれない。 (2)答なし。 (3)「しかし貧困の共有という観点を重視するならば、 問題は、耕地の所有面積や経営面積が 不平等に分布していてそれが階層を形成しているかということよりも、 そこにどのような再分配機能が存在しているかにあろう」 [ikemoto-yakusha: 277]。

(4)に関しては、まず [kano-hihan: 80] にあげられている 「傾向」の具体的な例を引用することから始めよう。 加納は次の三つの例を挙げている: (A)「誰もが稲刈り労働に参加し収穫の分け前にあずかれるという 伝統的な共同収穫慣行が崩壊しつつあり、 これに代わって、みずから募集した賃金労働者たちをひき連れた 外来の商人や在地の地主・富農が、 収穫・販売のすべてを一定代金で引き受けてしまう 「テバサン (tebasan)」と呼ばれる新制度が急速に普及している事実」、 (B)アニアニから鎌への交替、 (C)落穂拾への参加が制限されてきたこと。 これらすべてが、合理化、省力化に結びつく努力であり、 また生産物の私的排他的独占を強化するものである、というのだ。

(4) は、それゆえ、 (池本の言うように [ikemoto-yakusha: 278--279]) 「貧困の共有」があったことに対する反論ではなく (「貧困の共有」があったことは認めている) 「それが変化しえない」というギアーツの主張 (もし、そう主張しているならば)に対する反論なのである。 この変化の原因を、加納とコリアーは、 『緑の革命』と政治状況の変化の中に求めてる。 簡単に言ってしまえば、 「政治状況が変わったので、 『貧困の共有』は『効率と利益』へと変わったのだ」と。 [ikemoto-yakusha: 279]

2.2 ギアーツとウェーバーとマルクスと

論点は以上だし、 議論もそれほど問題はないように見える。 しかし、ギアーツは苛立っているのだ。

トンプソンは、18世紀の英国で起きた暴動 (riot) に関する論文の 冒頭で、それまでのいくつかの説明を概観する。 「暴動は、「腹の叛乱」``rebellion of the belly'' だったというの。 この説明のしかたは、いささか、居心地のよいものである。 分析は次のように進むわけだ: 初歩的である→直観的である→[なんのことはない]空腹なのだ、と」 [thompson-moral-economy: 21577]

3. 前史

ギアーツが何に苛立っていたかは、 実質経済学あるいはモラル・エコノミーに関する論争を 見ることにより明らかになっていくはずである。 実質経済学はポラーニーの議論、 モラル・エコノミー 2 はスコットの議論を紹介する。

まずは、ポラーニーおよびスコットに先立つ二人の先駆者から始めたい。

3.1 ウェーバーとマルクス

ウェバーをここに引用しておこう。

4. ポラーニー

アリストテレス以来あらためて共同体に注目したのが、 ポラニーである。 [polanyi-transformation]

われわれの社会では、経済は社会から独立した(「離床した」) 独立的な地位を持つが、 多くの(前市場あるいは非市場)社会においては、 経済は社会に埋め込まれている、というのだ。

ポラーニーは、「経済学者」との論争の中で、 自らの立場を「実質経済学」(substantive economy)、 「経済学者たち」の立場を「形式経済学」(formal economy)と呼んでいる (まじめな命名ではないのだろうが)。 この論考では、この二つの名前を用いることとしよう。 さらに、トンプソン経由スコットから有名になった 「モラル・エコノミー」をも、 「実質経済学」と互換的に使用していくこととする。

ブースは、モラル・エコノミー研究 (実質経済学)のもつ力を 次の 4つにまとめている [booth-idea: 653]。

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

* * * * *

タウシッグによって引用されている『大転換』の 次の部分は、ポラーニーの主張を手際よく表現しているだろう。

The postulate that anything bought and sold must have been produced for sale is emphatically untrue in regard to them. . . . Labor is only another name for a human activity which goes with life itself, which in turn is not produced for sale but for entirely different reasons. . . . The commodity definition of labor, land, and money is entirely fictitious. [polanyi-transformation: 72] (Quoted in [taussig-devil: 29--30])

5. スコット

実質経済学の考えかたを農民叛乱あるいは 日常的抵抗の分析に用いたのがスコットである、と言われる。 それにしてはじつにつまらん議論であるのは承知の事実であろう。 そのつまらなさを解明していくのが、 ここでの目的である。

スコットの議論には ベトナム戦争が背景にあることを頭に入れておこう。

5.1 農民のモラル・エコノミー

さて…

「保守的である」というイメージの強い農民たちが、 しばしば叛乱を起こし、さらには革命の担い手となる。 なぜだろう…『農民のモラル・エコノミー』 [scott-moral-economy] はそのような問いに対するひとつの解答を示す。

スコットは、 本の冒頭で、トーニーの 『中国の土地と労働』の一節を引く:

There are districts in which the position of the rural population is that of a man standing permanently up to the neck in water, so that even a ripple is sufficient to drown him. [tawny-land: 77]

スコットは、このような (のどまで水につかっているような、 生存ぎりぎりの)農民の 経済について書く。

スコットの議論を簡単にまとめると次のようになる: 生存すれすれの状態で生きる (スコットの場合、マレーシアの)農民の共同体は独特の価値観をもつ。 それは、(個人所有と対照的な)集団的な価値観である。 危険回避原則、互酬性倫理、平等、共同体の維持、 そして、とりわけ、生存へ権利から成るものである。 市場経済が農民社会に浸透するとき、 このような価値観が破壊されてしまうことに農民は危機感を覚え、 また怒りを感じる。 それが日常的抵抗・あるいはまた革命へと続くのだ、と。

農民の叛乱を理解するには、 農民がモラルエコノミーに基いて行動していることを 理解しなければならない、というわけだ。

6. 実質経済学

スコットのはじつにつまらん。 ポラーニーに議論を絞り、 ときどき関係しそうなときに スコットに言及するという作戦で 以後書き進めていくこととする。

6.1 社会に埋め込まれた経済

実質経済学における最も重要な区分は、 二つの社会体制の区分である― 市場社会は、経済が社会より離床したそのような社会であり、 非(あるいは前)市場社会は、経済が社会に埋め込まれている そのような社会である、と彼らは主張する。

ヌアの「経済的」関係は 「つねにより一般的な社会関係の一部を構成するのである」と、 エヴァンス・プリチャードは語る [ep-nuer: 90]。

あるいは、ハーバマスの語るように、 「・・・・・ 【工事中】 ・・・・・ 」 [habermas-communicative-action-2: 163]。

(社会に)「埋め込まれた経済」と「離床した経済」の対立は つぎのような三つの議論形式の中で展開される。 [booth-idea: 653]

ポラーニーの描写する古代ギリシアのオイコス (oikos)(「世帯」)と スコットの描写する農民社会は、 そのような「埋め込まれた経済」の例である。 そこでは、経済は独立した領域ではなく、 「経済的な」行為もまた、つねに共同体のもつ倫理― 「統合性 (solidarity)」と「生存への権利」―に言及しながら 説明されるのである。

6.2 「非市場社会には経済学は適用できない」

実質経済学(あるいはモラル・エコノミー研究)は、 「現在の市場社会で生まれた経済学は、 非市場社会の分析には使えない」と主張する。 希少性 (scarcity)、余剰 (surplus) その他の経済学的な概念は けっして普遍的なものではなく、 歴史的・文化的にきわめて限られた分布しかもっていない、とするのだ。

6.3 実質経済学者による市場社会の特徴づけ

ポラニーが名付ける「大転換」により、 非市場社会が市場社会へ移行する。 実質経済学者はいかにこの「市場社会」を特徴づけているのかを、 この節で見よう。

「大転換」後の市場社会 (「経済が(社会から)離床した社会」)の第一の特徴は、 経済という領域の自立、その自己制御的 (self-regulating) な性格である。

第二の特徴は、市場が社会のすみずみにまで浸透している、という 点である。

これらの二つの性格は、 ポラーニーによれば、 土地と労働が商品化したことの帰結であるのだ。

かつては、社会が経済を包んでいたのだが、 「大転換」後は、むしろ、経済が社会を包むのだ。

6.4 実質経済学の規範的議論

ブースは、 実質経済学あるいはモラル・エコノミー研究のもつ三つの側面を 強調する。 ひとつは制度的な側面、 ひとつは説明的な側面、 そして、規範的な側面である。 単に、分析の道具であるというだけでなく、 われわれの社会がいかなるものであるべきか、 そのような疑問に対しても、実質経済学は答を模索するのである。

モラル・エコノミー研究者の規範的議論は、 いままで、以下の三つの道筋を辿っていた、とブースは整理する [booth-idea: 657]: (1) 市場の独立を自由の規制として批判する擬似マルクス主義的な議論、 (2) 市場社会における統合の欠如を批判するコミュニタリアン的議論そして (3) 善の概念が市場社会において削除されたことを批判する議論。

具体的な議論の展開は以下の通りである。 (1)かつて経済は道具であり、 社会の「善」に奉仕するものであった。 現在、むしろ社会が経済に奉仕するものとなった。 経済の独立は、 マクロなレベルで作用する(共同体を崩壊させる)だけではない。 それは個人の行動にまで作用する。 人は、すべて経済的に行動するようになったのだ。

(2)かつてゲマインシャフトを動かしていた 人間的な統合が、自立した経済領域をもつ市場社会においては失なわれた。 かつては、個人的な私利私欲に、共同体の善が優先していた。 市場社会においては、人間的な紐帯が失なわれ、 言わば、 商人の集り (community of traders) のようになってしまっている。 根をもたず、ただよう、古代社会においてもっとも 蔑まれた社会になってしまったのだ。

(3)・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

7. モラル・エコノミー論争

実質経済学をめぐる論争は、 実質経済学者 (Substantivists) と 形式経済学者 (Formalists) との間で、 モラル・エコノミー論争は、 モラル・エコノミストたちと ポリティカル・エコノミスト (あるいは合理的選択論者 (Rational Choice Theorists))たちとの間で 戦われた。

論点毎に整理してみよう。

7.1 非市場社会の「経済」も経済学で説明できる

すでにみたように、 ポラーニーには、非市場社会の「経済的」行動を、 「希少性」や「合理性」からは説明できないと主張した。 この主張に対する反論を、 ブース [booth-idea]の整理に従って追っていこう。

ひとつの反論のしかたは、 マルキシズムを例として挙げるやりかたであろう。 マルキシズムは、 「希少性」等々の経済学の言葉を使用して、 非市場社会の分析に成功しているではないか、と。 [booth-idea: 658] ブースは、このような議論の一例として ノース [north-polanyi: 61--63]を引いている。

二つ目の反論は、 市場社会において、経済的でない原理をもつ共同体 (家族、政府等々)の存在を指摘することから論を始める。 もし、ある理論(形式経済学)がこのような制度を説明することが可能ならば、 一つの社会がこのような制度から成立している社会(非市場社会)を 説明することも可能である、というのだ。 この議論の中では、 非市場社会の存在は、コストの問題として処理される。 ある種の状況では、市場がコストとして有利ではないのだ。 それゆえ、コストの理由で(「経済学」の理由)から 非市場的な制度が採用されたのである。

ポプキンは、さまざまな 前資本主義社会にみられる「一見非合理にみえる行動」を、 合理的選択から説明してみせた。

7.2 モラル(平等)を第一に置く議論は矛盾する

合理的選択論者であるポプキンは、 ネオ古典経済学に基づきスコットに反論する。 農民は、スコットの言うほどに伝統に縛られているわけではなく、 じっさいのところ、様々な革新にたいして 「経済的に」反応しているのである、 とポプキンは主張する。 [popkin-rational] 農民は、けっきょくやや特殊かもしれないが、 しかしそれでも「経済的人間」であるのだ。 すなわち、 農民もまた、他の人びとと同様に、 かかるコストを利益を計算して行動するのである。 副次的であるが、ポプキンは次のような主張も展開する… 農民がもつただ乗り (Free ride) への選好を考えるならば、 農民革命が農民の価値観から生まれるという スコットの議論は成立しない、と。 [popkin-rational]

1990年代に出版されたベーツとカリーの議論 (スコットに対する反論)を詳細に紹介しよう。 議論を単純にするために、ベーツとカリーは土地の分配に注目する。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

8. ギアーツは何に苛立っているのか?

実質経済学あるいはモラル・エコノミーを巡る議論を辿るあなたは、 デジャ・ビューを覚えないだろうか。 そうなのだ、 (ギアーツの)『インボリューション』を巡る議論に酷似しているのだ。 これらの(ギアーツの言うところの)「経済偏重主義」的な考えこそが ギアーツを苛立たせる考えかたなのである。 経済偏重主義の中で、 thing got lost 「何かが失なわれているのである」 [geertz-z.papers-local: 10]。 それでは、いったい何が失なわれているのだろうか。 そのために、 いささか迂回した道筋ではあるが、 ブースによるスコットの批判を見る必要がある。

8.1 ブースが指摘するスコットの「経済主義」

二つの論文( [booth-idea]および [booth-note])で、 ブースはスコットの経済主義を指摘している。

スコットの議論は次の通りである。 農民は個人の経済的利益を最大にするために行動するのではない。 そうではなくて、共同体の保護こそが、目的なのだ。 目的は「経済」ではなく、「倫理」である。 しかるがゆえに、経済学的議論には到達不可能なものである。 しかし、スコットの議論を見ると、 農民たちの行動はたいへんに「経済学的」である。 この「倫理的」目標に到達するために、 彼らは ``economizing'' しているのだ。 全員が飢餓から逃れるために、正義が必要とされていると 農民は言っているのかもしれない。 しかし、飢餓を逃がれるために行なう行動、 たとえば、市場の導入の拒否は、 この「目的」に対する経済合理性に基づく行動である。 農民たちは、けっきょくのところ、 危険回避という原理で動き、 その目標に対する経済合理性に基づいて行動しているのだ。 [booth-idea: 659] じっさい、スコットは次のように語る― 「農民経済とは、標準的なマクロ経済学の予測するものの 特殊な例に過ぎない」 [scott-moral-economy: 14]と。

ブースはさらに続ける― 同じことが古代ギリシャにも言えるのだ、と。 非市場の文脈においても、 「希少性」や「経済合理性」は可視的なのである。 ブースは、クセノフォンによる Oeconomicus における ソクラテスの会話を例にとりあげる。 いかにして裕福な市民であるイスコマコス (Ischomachos) が 市や友人のためのつくすための資源を得るのか、 ソクラテスは知ろうとする。 イスコマコスは、彼の利益を最大にしようとはしない。 そうすると、彼は市や友だちのための時間を工面することができなく なるからである。 彼らの議論は、 どのように妻に(自分に代わって)家庭の面倒を見てもらい、 どのように農場監督官に(自分に代わって)農場の面倒を見てもらうか、 ということを中心に展開していく。 まるで企業の経営の議論が続くのだ。 違いは、繰り返しになるが、 企業では最大の利益の追及が目的であるのに対し、 イスコマコスはいかにして善き生活を送るのか、である点なのだ。 [booth-idea: 659]

8.2 解釈としての実質経済学

もし、イスコマコスが彼の世帯 oikos の経営について 尋ねられたならば、 彼はそれを「全体的社会事実」の中で説明するだろう― 彼の市民としての地位、彼が男性であるということ等々と 関連づけて説明するだろう。

われわれが、「経済学」ということを、 すなわち、 「合理的的判断」に基づく選択について語っているのだということを、 彼らに理解させることは、不可能だ、とブースは語る。 たとえ、それらがどれほど、(われわれにとって)自然なものであろうと、 それらは、前市場社会ではまったく理解されない概念・考えかたなのである。 交換を親族の紐帯抜きで語ることは、 ヌアの人びとにとって不可能であろう。 [booth-idea: 660]

モラル・エコノミーは、あるいは実質経済学は、 「解釈」なのだ、と ブースは宣言する。 [booth-idea: 660]

8.3 解釈としてのモラルエコノミー・実質経済学

ここでブースと分かれ、ギアーツに向かいあうこととしたい。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

コーンは次のように言う:

9. 伝統の創造

人類学者(の卵)であれば、 「伝統の創造」議論はご存知であろう。 もちろん、 モラル・エコノミーを「伝統の創造」議論の中に入れることも 可能だ。 トーマス「伝統の逆転」 [thomas-inversion] 3 とサーリンズ [sahlins-cery] の 「ケレケレ論争」を引くことも可能だろう。 ひとひねりしたのが 「モラルエコノミーは市場がルーツである」と主張する 「そいつは経済的じゃないね」という論文 [schrauwers-moral-economy]である。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

シュラウウェルスはさらに ギアーツの『インボリューション』にも言及して、 「東洋」の労働集約的な経済が過去からつづいているものではなく、 あくまで 「西洋」の資本集約的な経済への反応から 生じたものであるのだ、と主張する。 [schrauwers-moral-economy: 125]

モラルエコノミーは、シュラウウェルスは結論づける、 (1)決っして過去からの「自然な」経済ではなく、 市場経済の導入にともなって生じたものであり、 (2)それは「合理的な」選択なのである、と。


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* * * * *

ENDNOTES

[1] [kano-hihan] と [kano-koete]を引く [ikemoto-yakusha] から。 [Back]

[2] 正確には、トンプソン [thompson-moral-economy] が 提唱者であろうが。 [Back]

[3] 「創造」と「逆転」では洒落にもなんにもならないのだが、 原題は Inversion of tradition であり、 Invention of tradition にかけてある。 [Back]