1 序
1.1 浅いものとしての文化
1.2 ベチャとベモの乗り方
1.3 二つのオジェック
1.4 ほのめかされていること
2 欲望の原理
2.1 コモンズの悲劇
2.2 囚人のジレンマ
3 インボリューション論争
3.1 インヴォリューション批判さまざま
3.2 「社会の類型」論としての反論
4 スコット vs ポプキン
4.1 「創造された伝統」議論
4.2 農民も「欲望」に従う
4.3 市場社会の非経済的な制度も経済学で説明できる
4.4 非市場社会の「経済」も経済学で説明できる
4.5 伝統主義と修正主義
4.6 作られたモラルエコノミー
4.7 スコットの正体
5 まとめ---あるいは、ギアーツは何に苛立っているのか?
5.1 解釈としての実質経済学
5.2 解釈としてのモラルエコノミー・実質経済学
5.3 大きい述語と小さい述語
5.4 フローレス島で家を建てる方法
6 polanyi.yaml から移動した部分
6.1 贈与の発見
6.2 さまざまな論争
6.3 ジンメル
6.4 デュモン---ここまで
7 nostalgia.yaml からの移動部分
7.1 モラルエコノミー論争
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(C) Satoshi Nakagawa
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この講義では、 前の講義で紹介した二つの議論 (ギアツの『インヴォリューション』と スコットの『モラル・エコノミー』の議論)に 対する反論を紹介し、 論点をより明確にしていきたい。
この節では、 論争がどんなものであるのかを いささか印象主義的にではあるが、 予告しておこう。
まずは、論争のあとの雰囲気を紹介することから 始めよう。 『農業のインボリューション』の数十年後に、 この本をめぐる論争を回顧しながら、 著者ギアーツは次のように語る。
インボリューション論争に関する限り、 「経済偏重主義」は、 もともと避けようとしていた 「障害としての文化」対「刺激としての文化」という枠組みを 想起させる文化(あるいは社会文化)の外部化に 導いていった。 今では「ごまかしのイデオロギーとしての文化」 . . . または 「無力な飾りとしての文化」 . . . となり、 権力と搾取の力学を隠す . . . 共同幻想や、 何の実りもない言葉遊びとなりがちである。 文化は浅いものであり、底深いところでは 社会は欲望のエネルギーで動いている。 [geertz-involution-j: 205]
具体的に言うと、 文化の一例は (ギアツが本の中で強調した)「貧困の共有」である。 経済主義者たちは言う--- 「『貧困の共有』というイデオロギーは、 単なるごまかしのイデオロギーなのだ。 飾りに過ぎないのだ」と。
問題は「何をごまかしているのか」 あるいは「何を飾っているのか」だ。 それこそが「欲望のエネルギー」なのだ (と経済主義者たちは主張する)。
たとえば、あの素晴しい民族誌 『ハマータウンの野郎ども』 [willis-labour-j] (初版 1977年)を取り上げてみよう。 生きいきと描写された「野郎ども」の(対抗)文化は、 けっきょくのところ、(ウィリスの分析の中では) イデオロギーすなわち「虚偽意識」に過ぎないとされてしまう。 それは、主流社会の「階級制度」を再生産するためのものなのだ。 「野郎ども」はそれを知らぬまま、うんぬんかんぬん…と。 息をもつかせぬ華麗な民族誌から、 一気にマルクス主義のクリシェへと落下していくのを読者は経験するだろう。 「理論の役割は調査を実行可能にするというよりは、 むしろ反対に、 調査の役割は理論の強化にあるという社会[学]理論家の習性が、 ここでも明らかに認められる」 [geertz-involution-j: 206] のだ。 説明の中で 「何かが失なわれてしまったのだ」 [geertz-involution-j]。
「生態人類学」の冒頭で紹介したコーンの引用を続けてみよう。
還元主義者にとって、イデオロギーとか文化というものは、 神秘化、虚偽意識の表現なのである。 さもなくば、 それらはあらかじめ規定された生物学的欲求の作用の表出であるか、 行為者の「じっさいの」行動から 生じた後付けの合理化なのである。 [cohn-play: 200]
(経済主義者の主張する) 文化がごまかしているもの、 文化が飾っているものの詳細は本文に譲るとして、 「序」の最後に、 ギアツが代表している立場と 経済主義者の立場とをほのめかすエピソードをいくつか 列挙しておきたい。
・・・・・ 【ジャカルタのベチャ、エンデの村のベモ】 ・・・・・
・・・・・ 【ピートとベートの夫】 ・・・・・
ここでほのめかされているのは 二つの態度である。 ピートはもうけたいがために (あるいは自己の「欲望」のままに) いささか法外な値段をふっかけている。 それに対して、ベートの夫は、 社会的規範(「文化」)に基づいて行動しているのだ。 いささか先走りして付け加えておくと、 これらのエピソードは、 この講義の対象(「欲望」と「文化」)に関わっているのみならず、 結論にも深く関わっている。
ギアツに代表される態度を「文化主義者」、 その反論者たちを「経済主義者」と呼ぼう。 1
もう一度だけ整理しておこう。 「文化主義者」は 「文化こそが彼らの『経済的行動』を説明するのだ」と 主張し、 「経済主義者」は 「文化は虚偽意識であり、 行動を決定しているのは、『欲望』である」と 主張するのである。
1966年の『サイエンス』に掲載された G・ハーディンの 「コモンズの悲劇」 [hardin-commons]は 衝撃的な内容をもった論文であった。 わたしたちの議論の出発点として、 この「コモンズの悲劇」を利用することとする。
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
ハーディンは、それゆえ、 共有地は廃し、すべてを私有地にすべきであると結論するのである。
わたしたちの文脈で問題にしたいのが (3)の部分である。 これが「欲望」である。 共有地の表しているアイデア(「公共性」、「共同体」)に 対照させれば、 (3)は「個人の欲望」を 「他者を押しのけて自分だけ利益を得よう」とする態度、 あるいは「フリーライド(ただ乗り)」を 表わしていると言えるだろう。
文化主義者は、 じっさいの事例を紹介しながら、 「共有地」は維持できると主張する。 たとえば、 [peluso-impact] では 西カリマンタンの農民自身による森林管理の システムが紹介されている。 それは、モラル、文化によって維持されているのだ。
経済主義者は、 その事例は認める。 しかし、 それらの共有地を維持しているのは、 やはり、・・・・・ 【欲望】 ・・・・・ なのだ、と議論を展開するのである。 そして、欲望とは、 とりもなおさず、 「最大の利益、 最初の損失」の謂いなのである。
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
『インボリューション』の刊行の後に現れた 反論は、 「ギアーツ・バッシング」 [ikemoto-yakusha] と呼ばれる割にそれほどのインパクトはない。
加納( [kano-hihan] と [kano-koete]) によると、 『農業のインボリューション』への批判は 以下の4点に反論はまとめることができるという。 すなわち--- (1)農外労働を無視している―農外労働を加えれば、農民の所得は停滞など せずに、増加していたかもしれない。 [ikemoto-yakusha: 275--276]。 (2)一地域の一時点の結果を一般化しすぎている [ikemoto-yakusha: 276] (3)土地所有の階級分化が起こっている。 [ikemoto-yakusha: 276]。 そして、 (4)貧困の共有に関わるような慣行が、労働節約的なやり方に取って代わられる傾向にある。 [ikemoto-yakusha: 277]
[1] [ikemoto-yakusha: 275--276]、[2] [ikemoto-yakusha: 276]、 [3] [ikemoto-yakusha: 276]、[4] [ikemoto-yakusha: 277]
(2) はあきらかに社会の類型に関する議論である。 ある地域に「貧困の共有」あるいはもっと一般的に 文化主義者の分析が妥当である社会があったかもしれないが、 その他の地域にそれがあてはまるかどうかは疑問だ、 あるいは ある時点で文化主義者の言うような社会があったかもしれないが、 それが他の時点にあてはまるかどうかは疑問だ、という議論である。
その他のポイントも、 「社会の類型」議論としてまとめ得ることができそうである。
池本はそれぞれに対して次のように答えている: (1)農外所得の大きさは「貧困の共有」を示しているだけかもしれない。 (3)「しかし貧困の共有という観点を重視するならば、 問題は、耕地の所有面積や経営面積が 不平等に分布していてそれが階層を形成しているかということよりも、 そこにどのような再分配機能が存在しているかにあろう」 [ikemoto-yakusha: 277]。
考慮に値するのは(4)であろう。 まず [kano-hihan: 80] にあげられている 「傾向」の具体的な例を引用することから始めよう。 加納は次の三つの例を挙げている: (A)「誰もが稲刈り労働に参加し収穫の分け前にあずかれるという 伝統的な共同収穫慣行が崩壊しつつあり、 これに代わって、みずから募集した賃金労働者たちをひき連れた 外来の商人や在地の地主・富農が、 収穫・販売のすべてを一定代金で引き受けてしまう 「テバサン (tebasan)」と呼ばれる新制度が急速に普及している事実」、 (B)アニアニから鎌への交替、 (C)落穂拾への参加が制限されてきたこと。 これらすべてが、合理化、 省力化に結びつく努力であり、 また生産物の私的排他的独占を強化するものである、というのだ。
(4) は、 (池本の言うように [ikemoto-yakusha: 278--279]) 「貧困の共有」があったことに対する反論ではなく (「貧困の共有」があったことは認めている) 「それが変化しえない」というギアーツの主張 (もし、そう主張しているならば)に対する反論なのである。 この変化の原因を、加納とコリアーは、 『緑の革命』と政治状況の変化の中に求めてる。 簡単に言ってしまえば、 「政治状況が変わったので、 『貧困の共有』は『効率と利益』へと変わったのだ」と。 [ikemoto-yakusha: 279]
あきらかに(4)は時間軸上での社会の類型の議論なのである。 かつてはギアツの言うような社会があったかもしれないが、 いまはそうではない、と主張しているのだから。
ギアツへの反論者たちは、いわば、 経済主義者(1)、 すなわち、「コモンズの悲劇」論者であるのだ。
ギアツの一般化がどこまでを狙っていたのかによって、 この反論((4))への反論が変化するだろう。 たとえば、・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
スコットへの反論は (ギアツへの反論に比べると)より徹底的である。
スコットの議論への反論をよりよく理解するために、 ここで、人類学で「伝統の創造」と呼ばれる議論を紹介しておこう。 1983年に出版されたホブズボームとレンジャー編の 『作られた伝統』 [z.hobsbawm-j-92]という本に 収められた諸論文が展開した議論である。
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
それは[伝統の「創出」]は . . . 「旧来の」 伝統があてはまらない新たな伝統を生み出し、 それに沿って「旧来の」伝統が案出された社会的形式を 急激な社会変動が弱めるか、崩壊させるとき、 あるいはそうした旧来の伝統とその制度的担い手や施行者が もはや充分な適応力や柔軟性を失ったと判明するか、 さもなくばそれらが削除されるときに、 最も頻繁に生じると考えるべきだろう。 [hobsbawm-j-92: 14]
この論文集の性格を把握するために、 H・トレヴァーローパーの 「伝統の捏造---スコットランド高地の伝統」 [trevor-roper-j-92] を簡単に紹介してみよう。 (同じ ``invention'' という言葉を 「創造」ではなく、「捏造」と訳さざるをえないほどに)。 彼は18世紀から19世紀にかけておこった スコットランドにおける「伝統の捏造」を三段階に分けて説明する。
第一にアイルランドに対する文化的反乱が起きた。 そえは、アイルランド文化を簒奪し、 初期のスコットランドの歴史を書き改めて、 結局のところ、 スコットランド---ケルト的スコットランド---こそが 「母なる国」であり、 アイルランドは文化的に依存しているという不遜な申し立てを 行なうことであった。 二番目には、 新たな高地地方の伝統を人工的に創り出し、 それを古来からの独特でまごうことなき伝統として 提示することであった。 第三には、それらの新たな伝統を歴史のあるスコットランド つまりピクツ人とサクソン人、ノルマン人の居住する 東部スコットランド低地地方に与え、 東部スコットランドがそれを受容する過程が存在したのである。 [trevor-roper-j-92: 32]
彼らがなぜこのようなことをしたかというと、 それは自らの弱くなってしまっていた アイデンティティの確保という 一言につきるだろう。 それまでは、 彼ら、スコットランドの高地人は 「たんにアイルランドからあふれ出た人びと」 [trevor-roper-j-92: 30] にすぎず、 彼らの伝統はすべて「アイルランド的なものであ」 [trevor-roper-j-92: 30]り、 たとえば、 スコットランドの吟遊詩人は、 「アイルランドから見限られた役立たずであり、 スコットランドという重宝なゴミ捨て場に打ち捨てられた」 [trevor-roper-j-92: 31]ものだったのだ。
かくして、 スコットランドのアイデンティティ確保が個人個人によって 行なわれていく--- トレヴァーローパーの論文は、個有名に溢れている。
「伝統の創造」議論のポイントは、 方法論的個人主義的にあるのだ。 「文化」はあくまで道具であり、 根底に横たわっているのは、 個々人の欲望 [cohn-play: 200] なのである。
以上に紹介した「伝統の創造」議論を念頭に入れた上で、 スコットの議論への反論をみていくこととしよう。
もっとも強力な反論はポプキンによる 『合理的農民』 [popkin-rational]の中に展開されている。 ポプキンの議論は、ひっきょう、次のように まとめることができるだろう--- さまざまな 前資本主義社会にみられる「一見非合理にみえる行動」も すべて合理的選択から説明できるのだ、と。
ポプキンは言う--- 農民は、 スコットの言うほどに伝統に縛られているわけではなく、 じっさいのところ、様々な革新にたいして 「経済的に」反応しているのである、 とポプキンは主張する。 [popkin-rational] 農民は、けっきょくやや特殊かもしれないが、 しかしそれでも「経済的人間」であるのだ。 すなわち、 農民もまた、他の人びとと同様に、 かかるコストを利益を計算して行動するのである。 副次的であるが、ポプキンは次のような主張も展開する… 農民がもつただ乗り (Free ride) への選好を考えるならば、 農民革命が農民の価値観から生まれるという スコットの議論は成立しない、と。 [popkin-rational]
それでは、ポプキンの議論を より詳細に見ていくこととしよう。
市場社会において、経済的でない原理をもつ共同体 (家族、政府等々)の存在を指摘することから 彼は論を始める。 もし、ある理論(形式経済学)が このような制度を説明することが可能ならば、 一つの社会がこのような制度から成立している社会(非市場社会)を 説明することも可能である、というのだ。 この議論の中では、 非市場社会の存在は、コストの問題として処理される。 ある種の状況では、市場がコストとして有利ではないのだ。 それゆえ、コストの理由で(「経済学」の理由)から 非市場的な制度が採用されたのである。
「家族」を維持するのは、 コスト効率がよいからだ、というのがポプキンの議論である。 そして、 スコットのあげたさまざまな制度もまた、 コストから十分説明できるのだ、とポプキンは続ける。
ソロモン諸島を調査した宮内の立場は、 このようなポプキンを継ぐものと言えよう。 わたしがこの講義で「一見非合理な制度」と言ってきたものを 彼は「歴史的ストック」という言葉で表現する。 それは、彼によれば、 「住民が自然環境との間に作りあげてきた関係、その社会的認知としての共 同利用権、さらに人間と人間との間に作りあげてきた相互扶助のシステム」 [miyauchi-seikatsu: 158--159] などを含むものである。
かつて、 「そうした歴史的ストックが生活の安定をもたらしてきた」のだ、 と彼は続ける。 しかし、 市場経済の導入された現在、これらの 歴史的ストックは、無条件に採用されることはない。 また、無条件に廃棄されるものでもない、と宮内はつづける。 そこに選択があるのである。
それでは 「歴史的ストックはどんな場合有効なのか? まず、歴史的ストックは、 貨幣経済部門での代替よりも低コストである場合に有効である」 [miyauchi-seikatsu: 158--159]という。 彼のガリの実の例を見てみよう。
ガリの実と同じものが、 ガリの実を採るための労働量よりも少ない労働量で得られる 賃金で買えるなら、 ストックとしてのガリの木は意味がなくなる。 しかし現状では貨幣経済部門での代替はコスト高になる場合が多い。 だからこそ歴史的ストックは重要視されるのである。 [miyauchi-seikatsu: 158--159]
ここで強調されるのは 貨幣経済部門(ガリの実、コプラ、その他)の不安定さであり、 それがゆえに、 依然として歴史的ストックは有効性を維持しているのである、と 宮内は主張する。 宮内は書いてはいないが、 ほのめかされているのは、 「規範とかイデオロギーとか文化とかで 歴史的ストックを説明する必要はない。 それは個々人の合理的選択から説明しうるのである。 もし、そのような規範、イデオロギー、文化とかを 原住民が言及するならば、 それは飾りであり、 また虚偽意識である」という主張である。
ついでに言えば、 歴史的ストックでさえ、これ以外の選択肢がない状況では、 十分に「合理的」であったのだ、と ポプキンそして宮内の説は主張することとなるのだ。 ここでは、ギアツに対する反論にあった 社会的類型に言及する緩さはない--- すべての社会の制度は個々人の合理的選択から 説明しうるのである。
さらに言えば、 宮内のいう「歴史的ストック」が歴史的である必然性はない。 「伝統の創造」である。
まず、採集狩猟の社会をめぐる 伝統主義者と歴史修正主義者の対立を紹介しよう。 伝統主義者たちは、 採集狩猟社会は、 人類社会の太古からの生存戦略をいまも伝えている社会として 描く。 この考え方に異を唱えたのが歴史修正主義者 (revisionist) たちである。 彼らは、 狩猟採集社会の特徴である 平等主義や分け合い (sharing) はまったく新しい戦略であると 主張するのだ。 それは 「農耕民に追われた結果と して甘受せねばならなくなった劣悪な環境に適応して生きのびるた めに、せいぜい数百年前に新しく開発された生存戦略で」 [stuart-ohmura-yasei: 11]あるというのである。
つまり、狩猟採集社会は 「周囲から隔絶した自己完結的な社会であった」 [stuart-ohmura-yasei: 11]のではなく、 「狩猟採集民は数千年前から 周囲の「進んだ」社会と交 渉と交流をつづけてきたのであり、つねに外部からの影響をうけてきたと 主張されるのである」 [stuart-ohmura-yasei: 11]。
インドネシア、スラウェシのト・パモナを調査した シュラウエルスの 「作られたモラル・エコノミー」論 [schrauwers-moral-economy] もこの流れに 置くことができるだろう。 彼は次のように説く--- 農村に市場経済がはいってくる。土地は細分されていく。 「持つもの」と「持たざるもの」に分類されるかわりに、 「ぎりぎり」(just-enoughs)と「ぎり ぎり以下」 (not-quite-enoughs)に分類されていくのだ。 資本を蓄積でき ない農民は、親族に基礎を置く「道徳経済」に由来する ``free inputs'' を利用するしかなくなる。
「緑の革命」は二期作を可能にし、 たしかに収穫を増やすことに成功した。 しかし農民たちは「緑の革命」を維持するためにトラクターやその他の 機械を必要とした。 農民は、町の商人たち(中国人)からそれを購入する 。けっきょく緑の革命による成功はすべて町の商人の手にはいり、 農民が豐かになったわけではないのだ。
ここでも、議論は農民の合理的選択がポイントになっているのが わかるであろう。
このように議論を進めていくと、 じつはスコットは経済主義的な論者であることが 分かってくるだろう。 彼は、 生きていくにぎりぎりの状況では、 平等主義や公的な財産権が「合理的」 (経済的に「合理的」)であると述べているのだ。
二つの論文( [booth-idea]および [booth-note])で、 ブース次のようにスコットの経済主義を指摘している。
スコットの議論は次の通りである。 農民は個人の経済的利益を最大にするために行動するのではない。 そうではなくて、共同体の保護こそが、目的なのだ。 目的は「経済」ではなく、「倫理」である。 しかるがゆえに、経済学的議論には到達不可能なものである。 しかし、スコットの議論を見ると、 農民たちの行動はたいへんに「経済学的」である。 この「倫理的」目標に到達するために、 彼らは ``economizing'' しているのだ。 全員が飢餓から逃れるために、正義が必要とされていると 農民は言っているのかもしれない。 しかし、飢餓を逃がれるために行なう行動、 たとえば、市場の導入の拒否は、 この「目的」に対する経済合理性に基づく行動である。 農民たちは、けっきょくのところ、 危険回避という原理で動き、 その目標に対する経済合理性に基づいて行動しているのだ。 [booth-idea: 659] じっさい、スコットは次のように語る― 「農民経済とは、標準的なマクロ経済学の予測するものの 特殊な例に過ぎない」 [scott-moral-economy: 14]と。
けっきょくスコットとポプキンの論争は、 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・ これらの(ギアーツの言うところの)「経済偏重主義」的な考えこそが ギアーツを苛立たせる考えかたなのである。 経済偏重主義の中で、 thing got lost 「何かが失なわれているのである」 [geertz-z.papers-local: 10]。 それでは、いったい何が失なわれているのだろうか。
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
もし、イスコマコスが彼の世帯 oikos の経営について 尋ねられたならば、 彼はそれを「全体的社会事実」の中で説明するだろう― 彼の市民としての地位、彼が男性であるということ等々と 関連づけて説明するだろう。
われわれが、「経済学」ということを、 すなわち、 「合理的的判断」に基づく選択について語っているのだということを、 彼らに理解させることは、不可能だ、とブースは語る。 たとえ、それらがどれほど、(われわれにとって)自然なものであろうと、 それらは、前市場社会ではまったく理解されない概念・考えかたなのである。 交換を親族の紐帯抜きで語ることは、 ヌアの人びとにとって不可能であろう。 [booth-idea: 660]
モラル・エコノミーは、あるいは実質経済学は、 「解釈」なのだ、と ブースは宣言する。 [booth-idea: 660]
ギアツの苛立ちを端的に示しているのは、 じつは歴史学者のコーンであろう。 彼は次のように言う---
われわれは文化的秩序の研究を、 それが態度、 民間信仰、 単なるイデオロギーの形成、 虚偽意識、 あるいは社会生活の実践的な「リアリティ」に対する 外装であるとして片付けるわけにはいかないのだ。 なぜならば、 文化的秩序とは制度的秩序のまさに基底にあるものだからだ。 ほんとうの神秘化とは(私に関する限りで言えば) 文化を付帯現象 (the epiphenomenal) であるとか それ自身では自立しえないものとして描く 全ての理論である。 [cohn-play: 215]
・・・・・ 【個人と共同体】 ・・・・・
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
・・・・・ 【NIKOのトゥカン】 ・・・・・
ここから 「デュモン---ここまで」の部分は polanyi.yaml からもってきた部分だ。 [2017-06-23]
人類学は 「あたり前のことの 批判の学」である、と言うこともできる。 この項で扱う「贈与の発見」はその典型的な例であろう。
モース(1925年)の『贈与論』 [mauss-don] ( [mauss-gift]、 [mauss-gift-j])
マリノフスキー(1922年)のクラ [malinowski-argonauts] [malinowski-argonauts-j]
贈与の発見、 すなわち市場に基づかない社会の発見は、 さまざまな論争を呼んだ。 そのテーマは、基本的に一つである--- すなわち、その発見の真偽が テーマである。 反論する人たちは、 その(所謂)「発見」が 単に見掛けのものだと主張するのである。 一見気前のよさに基づく交換が行なわれている ような所でも、 それは見掛けだけであり、 じっさいは、 希少性・合理性・欲望といった 市場交換を成り立たせる原理に則っているのだ、と 反論者たちは主張する。
6.2.1 伝統と近代の「人格」議論の矛盾について
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
-- 交換 交換と人格 人格 伝統 贈与 人格にかかわる交換 見える人格 近代 市場経済 非人格的な交換 見えない人格 表 伝統と近代の人格
6.2.2 ギアツ・バッシング
そのような論争の一つに、 「ギアツ・バッシング」と名づけられた 論争がある。 彼の本、 『農業のインヴォリューション』 [geertz-involution-j]をめぐる議論である。
単純化すると、 論争の構図は次のようになる。 ギアツは『インヴォリューション』の中で、 「当該の共同体がもつ文化なしに経済活動を説明できない」と 主張した。 そのギアツの主張に対し、経済主義者たち (これはギアツの命名だが)は、 「経済活動は個々人のまさに 個人的な欲望に基づくものであり、 文化とは、その欲望にかぶせられた覆いに過ぎない」と反論 するのである。
6.2.3 モラルエコノミー論争
6.2.4 コモンズの悲劇
この脈絡で、 ハーディンによる1966年の「コモンズの悲劇」 [hardin-commons]の議論は示唆的である。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
ハーディンの議論は 「ゲーム理論」に基いている。 個人を単位に考えて、 その累積が集団に与える影響について 述べているのだ。 すなわち、還元論的に議論を進めているのである。 ・・・・・ 【ルイスの議論】 ・・・・・
6.2.5 「説明と理解」論争
この論争が、 その構造において、 「説明と理解」の論争に 似ていることは指摘するに値することだろう。 「説明」派が 「すべての現象は(科学的に、還元論的に)説明すべき だ」と主張するのに対し、 「理解」派は、 「ある種の現象は説明すべきだが、 ある種の現象は理解すべきだ」と主張する。 全く同様に、 「経済主義者」が 「すべての(経済的)現象は 経済的に(希少性・合理性・欲望から)説明できる」と 主張するのに対し、 「文化主義者」は 「ある種の(経済的)現象は、 文化的に説明すべきだ」と主張しているのである。
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・ 以下は参考資料?
貨幣はあたかも絶縁体のように ---所有と所有者のあいだに 割りこんできたのと同じように--- 客観的全体と化した団体と 主観的全体と化した人格の あいだに割りこみ、 両者に対立項としての 新たな自立性と自己形成能力を与えた。 この発展の頂点をなすのが株式会社にほかならず、 そこでは、 経営は株主たちの影響を受けることなく 完全に客観的なものとして 株主に立ち向かい、 株主は株主で、 自分たちの人格ではなく、 たんに一定の金額をかけることによってのみ会社に参加する。 [simmel-collection-j: 265]
6.3.1 土地と人格
【以下のジンメルはいらない?】
かつて、土地と人格とは緊密に結びついていた。 ジンメルは次のように言う。
[ドイツの]古代においては、 土地所有は 人格そのものに帰属する権限だった。 土地所有は 個々の領民が その市場共同体に 人格的に帰属していることから派生して いた。 しかし、十世紀になると所有の このような人格性はすでに消え失せ、 逆にあらゆる人格的権利のほうが 土地所有に依存するようになる。 しかしこのいずれの形態においても 人格と所有のあいだには、 なお緊密な地縁上の結びつきが保たれていた。 [simmel-collection-j: 263]
6.4.1 欲望(続き)---富の誕生
このような富に対する一般的な態度は、 自然と人格の資源化に応じて変化してきたのだ、 とデュモンは言う [dumont-individualisme-j: 161]。
この点において近代人とともにひとつの革命が起こった。 すなわち、不動産の富と人間に関する権力の間の絆が断たれ、 動産の富はまったく自律的なものとなった。 それはそれ自体において自律的なものとなっただけでなく、 富一般としての上位の形態となり、 いっぽう [sic]の不動産はより不完全な下位の形態となったのである。 手短かにいえば [sic]、 富の自律的で相対的に統一化されたカテゴリーが出現したのである。 それを起点として始めて、 わたしたちが「政治的なもの」と呼ぶものと 「経済的なもの」と呼ぶものの明敏な区別を立てることが可能となる。 それは伝統社会が知らなかった区別なのである。 [dumont-individualisme-j: 161]
動産が自律した富の形態へと変化したのである。 商品が誕生することとなる。 そして同時に富への欲望が誕生したのである。
19世紀から20世紀そして現代にいたる 一つの思想の流れを紹介した。
以上、ポランニー、T\"onnies
7.1.1 市場社会の「非経済的」な制度も経済学で説明できる
市場社会において、経済的でない原理をもつ共同体 (家族、政府等々)の存在を指摘することから ポプキンは議論を始める。 もし、ある理論(形式経済学)が このような制度を説明することが可能ならば、 一つの社会がこのような制度から成立している社会(非市場社会)を 説明することも可能である、というのだ。 この議論の中では、 非市場社会の存在は、コストの問題として処理される。 ある種の状況では、市場がコストとして有利ではないのだ。 それゆえ、コストの理由で(「経済学」の理由)から 非市場的な制度が採用されたのである。
「家族」を維持するのは、 コスト効率がよいからだ、というのがポプキンの議論である。 そして、 スコットのあげたさまざまな制度もまた、 コストから十分説明できるのだ、とポプキンは続ける。
7.1.2 非市場社会の「経済」も経済学で説明できる
非市場社会の存在は、コストの問題として処理される。 ある種の状況では、市場がコストとして有利ではないのだ。 それゆえ、コストの理由で(「経済学」の理由)から 非市場的な制度が採用されたのである。
7.1.3 ト・パモナの互酬性
インドネシア、スラウェシのト・パモナを調査した シュラウエルスの 「作られたモラル・エコノミー」論 [schrauwers-moral-economy] もこの流れに 置くことができるだろう。 彼は次のように説く--- 農村に市場経済がはいってくる。土地は細分されていく。 「持つもの」と「持たざるもの」に分類されるかわりに、 「ぎりぎり」(just-enoughs)と「ぎり ぎり以下」 (not-quite-enoughs)に分類されていくのだ。 資本を蓄積でき ない農民は、親族に基礎を置く「道徳経済」に由来する ``free inputs'' を利用するしかなくなる。
「緑の革命」は二期作を可能にし、 たしかに収穫を増やすことに成功した。 しかし農民たちは「緑の革命」を維持するためにトラクターやその他の 機械を必要とした。 農民は、町の商人たち(中国人)からそれを購入する 。けっきょく緑の革命による成功はすべて町の商人の手にはいり、 農民が豐かになったわけではないのだ。
ここでも、議論は農民の合理的選択がポイントになっているのが わかるであろう。 自分の子供の労賃(お駄賃)が安いから、 他の子供に皿洗いをさせずに、 自分の子供に皿洗いをさせているのだ、というのである。
7.1.4 ソロモンの相互扶助システム
ソロモン諸島を調査した宮内の立場は、 このようなポプキンを継ぐものと言えよう。 わたしがこの講義で「一見非合理な制度」と言ってきたものを 彼は「歴史的ストック」という言葉で表現する。 それは、彼によれば、 「住民が自然環境との間に作りあげてきた関係、その社会的認知としての共 同利用権、さらに人間と人間との間に作りあげてきた相互扶助のシステム」 [miyauchi-seikatsu: 158--159] などを含むものである。
かつて、 「そうした歴史的ストックが生活の安定をもたらしてきた」のだ、 と彼は続ける。 しかし、 市場経済の導入された現在、これらの 歴史的ストックは、無条件に採用されることはない。 また、無条件に廃棄されるものでもない、と宮内はつづける。 そこに選択があるのである。
それでは 「歴史的ストックはどんな場合有効なのか? まず、歴史的ストックは、 貨幣経済部門での代替よりも低コストである場合に有効である」 [miyauchi-seikatsu: 158--159]という。 彼のガリの実の例を見てみよう。
ガリの実と同じものが、 ガリの実を採るための労働量よりも少ない労働量で得られる 賃金で買えるなら、 ストックとしてのガリの木は意味がなくなる。 しかし現状では貨幣経済部門での代替はコスト高になる場合が多い。 だからこそ歴史的ストックは重要視されるのである。 [miyauchi-seikatsu: 158--159]
ここで強調されるのは 貨幣経済部門(ガリの実、コプラ、その他)の不安定さであり、 それがゆえに、 依然として歴史的ストックは有効性を維持しているのである、と 宮内は主張する。 宮内は書いてはいないが、 ほのめかされているのは、 「規範とかイデオロギーとか文化とかで 歴史的ストックを説明する必要はない。 それは個々人の合理的選択から説明しうるのである。 もし、そのような規範、イデオロギー、文化とかを 原住民が言及するならば、 それは飾りであり、 また虚偽意識である」という主張である。
さらに言えば、 歴史的ストックでさえ、これ以外の選択肢がない状況では、 十分に「合理的」であったのだ、と ポプキンそして宮内の説は主張することとなるのだ。 ここでは、ギアツに対する反論にあった 社会的類型に言及する緩さはない--- すべての社会の制度は個々人の合理的選択から 説明しうるのである。
7.1.5 まとめ
利己主義と利他主義の争いのように 見える。 それは違う。
マークトウェインの利己主義のはなし。 「人間とは何か」
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
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Bibliography
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- インボリューション--内に向かう発展. NTT出版, 2001 (1963).
- [cohn-play] Bernard S. Cohn.
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- [z.hobsbawm-j-92] E Hobsbawm and Terence O. Ranger, editors.
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- [popkin-rational] Samuel L. Popkin.
- The Rational Peasant. University of California Press, Berkeley, 1979.
- [schrauwers-moral-economy] Albert Schrauwers.
- ``It's not economical'': The market roots of a moral economy in highland Sulawesi. In Tania Murray Li, editor, Transforming Indonesian Uplands: Marginality, Power and Production, volume 4 of Studies in Environmental Anthropology, pages 105-130. Harwood Academic Press, Australia, Canada, China, France, Germany, India, Japan, Luxembourg, Malaysia, The Netherlands, Russia, Singapore, Switzerland, 1999.
- [trevor-roper-j-92] トレヴァーローパー, H.
- 伝統の捏造 -- スコットランド高地の伝統. In [z.hobsbawm-j-92], pages 29-72.
- [stuart-ohmura-yasei] スチュアート ヘンリ and 大村 敬一.
- 「野生」をめぐるイメージの虚実. In スチュワート ヘンリ, editor, 「野生」の誕生--未開イメージの歴史, pages 1-26. 世界思想社, 京都, 2003.
- [hobsbawm-j-92] ホブズボウム, E.
- 序論 -- 伝統は創り出される. In [z.hobsbawm-j-92], pages 9-28.
- [miyauchi-seikatsu] 宮内 泰介.
- 住民の生活戦略とコモンズ--ソロモン諸島の事例 から. In 井上 真 and 宮内 泰介, editors, コモンズの社会学--森・川・海の資源共同管理を 考える, pages 144-164. 新曜社, 2001.
* * * * *
ENDNOTES
[1] 通常、ギアツへの反論者は「合理的選択論者」と呼ばれている。 しかし、前回の講義で示したように、 「理」は経済主義者(「近代」)にのみあるわけではない。 様々な「理」があるのだ、ということを考慮して、 この呼称(「合理的選択論者」)は使用しません。 [Back]