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経済に埋め込まれた社会

合理主義の覇権

中川 敏

1 序

2 近代化の二つの方向
2.1 均一化の積極的側面
2.2 しかし

3 金で買ってはいけないもの
3.1 金で買えるもの、買えないもの
3.2 金で買ってはいけないもの
3.3 市場至上主義
3.4 共約可能性の神話
3.5 非場所
3.6 非場所

4 まとめと展望

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1. 序

われわれは、 前回の講義で共同体が崩壊し、 その中から個人が、 「自律的で、非社会的な精神的存在」としての個人が誕生する 様を描いた。 それは市場経済が 共同体の内部に浸透することから生まれたのである。

ポランニーにならって言えば、 それまでの共同体において 「経済は社会に埋め込まれて」いたのである。 しかし、市場経済が共同体の内部に浸透するとき、 「経済は社会から離床した」のである。

この講義で扱う現象は、 言わば、離床の一歩先の展開である。

ポランニーは、著作のある箇所で次のように述べてる。

社会関係のなかに埋めこまれていた経済システムに かわって、 今度は社会関係が経済システムのなかに埋めこまれてしまったの である。 [polanyi-bunmeishi: 49]

社会に埋め込まれていた経済が離床し、 最後には母岩であった社会をその中に埋め込むと言うのだ。 このクラインの壷のような現象は、 まさに落語の『頭山』に描写されている不条理な状況である。 頭に穴があき、その穴に雨水が溜まり池になってしまった、 そんな男の人生を描く落語である。 話の最後では、その男は人生に絶望して、投身自殺をする --- 自分の頭に出来た池に飛びこんで。

2. 近代化の二つの方向

ジンメルは近代化の持つ二つの相反する方向を指摘する。 一つは平均化、均一化であり、 もう一つは個の独立性である [simmel-collection-j: 271]。

言わば、市場に均一化の部分を譲り渡すことにより、 近代人は、 譲り渡し得ないものとして 「自我」を手に入れたのである。 これが前章で述べたことの結論である。

問題は、もう一つの方向、均一化の方向である。 この方向は、ジンメルの言うように 自我の確立とは 「一見相反する」 [simmel-collection-j: 271] 方向である そして、それは単に「一見」ではなく、 「じっさい」そうなってしまうのである--- これがこの章の結論となるであろう。

2.1 均一化の積極的側面

そのためには、 「均一化」の二つの側面を見なければならない--- 積極的側面と消極的側面である。

積極的側面は「普遍化への方向性」と言うことができよう。 一方でそれは客観性、普遍性(自然科学)を生みだし、 また一方で、 それは社会を 「もっとも離れたものをも同一条件のもとに結び合わ せ、より包括的な社会圏を生み出す方向」 [simmel-collection-j: 271] へと動かす原動力となっていった。

自然科学については ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

2.1.1 合理性---官僚制

行政も変化してくる。 官僚制が登場するのだ。

官僚制において 合理的な 規則に基づいて 体系的に 配分された役割にしたがって 人間の関係が形成されているということである。 れている。

ヴェーバーは、 近代官僚制のもつ合理的機能を強調し、 特に機能障害については論じておらず、 官僚制は優れた機械のような 技術的卓越性があると主張した。 【以上「官僚制」についてはウィキペディア】

2.2 しかし

官僚制に弊害があることは 誰もが知っていることである。 すなわち、均一化には、 負の側面があるのだ。 この章は、その負の側面について語っていくこととなる。

3. 金で買ってはいけないもの

均一化の象徴とも言うべき貨幣を 語ることから初めよう。

3.1 金で買えるもの、買えないもの

もう一度ジンメルを引こう--- 「金ですべてが買えるにもかかわ らず、ではなく、まさに買えるからこそ」 [simmel-collection-j: 278] 金で買えないものに価値が生まれてきたのだ。

3.1.1 殺人の代償

この地点で歴史発展の二大潮流が典型的な形で出会う。 原始社会で殺人が貨幣によって償われえたということは、 一方においては--- 個人がより明確かつ個別的に集団から区別されるようになった 後世と比べると--- 個人がまだそれ自体としての価値を十分には認められておらず、 他と比較のできぬかけがえのないものと感じられていなかったことを 意味している。 しかし他方においては、 貨幣のほうが まだそれほど無差別なものになっておらず、 まだあらゆる質的な意味の彼岸に立ってはいなかったことをも 意味している。 進展する人間の分化と、 同じように進展する貨幣の無差別化がここで出会い、 罰金による殺人の償いを不可能にしたのだ。 [simmel-collection-j: 278]

貨幣こそが独立した 個人の発生を促した契機なのである。

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

3.1.2 アテネ

「古代アテナイの同盟諸国が権利を剥奪される引き金となった のは、彼らが船と乗組員の従来の拠出分担を、アテナイへの貨幣支払いで 代替したことだった。一見、人的義務からの解放に見えるこの行動には、 自らの政治活動の放棄、特殊な仕事を果たし、現実に力を発揮することに よってのみ要求できる存在意義の放棄も含まれていた」 [simmel-collection-j: 273]

3.1.3 アルジェリア

1960年代のアルジェリアは 自給自足の経済から資本主義の経済への 過渡期にあった。 すなわち、 伝統から近代への過渡期にあったのだ。

伝統的な共同作業による家の建築は影をひそめ、 労働への現金支払いが大勢を占めるようになった。 労働が商品化したのである。 それでも、共食だけは残った [bourdieu-algerie-j: 42]。 共食において、家を建てる人びとは 「労働者」ではなく、「仲間」として 取り扱われたのである。

このような状況の中で、 ブルデューは面白いエピソードを紹介する。

シディ・アイシュの地域のある村落で、フランス で仕事を学んだ、ある評判のよい石屋が、一九五五 年ごろのことだったか、ある家を建てるために、呼 ばれた。彼は、食事をとらずに帰宅し、代わりに、 それに二百フランの埋め合わせを要求した。一日の 労働分(一千フラン)は、彼に、すぐ支払われ、二 百フランが加算された。そして、彼はもう二度と来 ないようにと言われた。この話は、村に伝わり、そ れ以来、村人は、どんな仕事でも、彼に頼もうとは しなくなった。 [bourdieu-algerie-j: 42]

ブルデューは結論する---

その逸話は、次の点を明らかにしている。すなわち、 現物ないしお金での支払いは、提供された労力への 報いである(それは、賃金として解されるようにも なる)。それに対して、食事は、象徴的行為であり、 スキャンダルなしには厳密に科学的次元に還元でき ない。そして、支払いと食事との間には、はっきり とした区別が確立されている。食事は、友好を確固 としたものにする交換の行為であり、見知らぬ者の あいだ [sic] に親族にも似た関係をつくりだす (人々は言う、「私は、私達仲間のなかに、食べ物 と塩とを注ぎ込む」 と) [bourdieu-algerie-j: 42]。

1955年のアルジェリアにおいて、 友好は 貨幣によって均一化してはならないものだったのだ。

3.1.4 エンデ

・・・・・ 【エンデのソンガとクマ・ギジ】 ・・・・・

3.2 金で買ってはいけないもの

金で買えるものと買ってはいけないものの 間の境界線の重要性、そして 曖昧さである。 それはつねに、 バーリンの言葉を借りれば ハグリング [berlin-liberty]の 対象となるものなのだ。 そうではありながら、 「それがある」ということこそが 重要である。

* * * * *

上記のさまざまな事例は、 伝統と近代の狭間に揺れる社会からの事例だが、 「近代」とまとめて呼称される社会においても、 その境界の交渉は重要時である。

マイケル・サンデルは 一連のリース講義 [sandel-reith]を面白いエピソードで始めている。 そこでは 「金で買えるもの、金で買えないもの、 金で買ってはいけないもの」が述べられている。

サンデルは日常的な事例から始めている。 ある保育園の事例である。 そこでは ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・ 資金調達のため「テストの点数」を売り出した中学校

・・・・・ 【ハグリング (Haggling)】 ・・・・・

これらの例を通じて私の言いたいことは、 第1に「境界線が曖昧である」ということ、 第2に、「曖昧ではるが、わたしたちは 境界線が存在することを直感している」ということ、 そして、 第3に「その境界線を確定することは重要である」という ことである。

3.3 市場至上主義

以上の作業を通じて、 現代というのがどのような状況か 分かってもらえたことを期待する。 現代とは、境界線が動きつつある状況なのだ。 そして、その動きは 「金で買えるもの」がじょじょに勢力を拡大する、 すなわち、 「金で買えないもの」がじょじょに消滅しつつある 状況なのである。

すべてを貨幣に換算して、 損得を判断する 市場至上主義 (market triumphalism) [sandel-reith] の考え方が ここに見られるのだ。

現代のこの状況を、 「近代」からの一つの可能な発展形だとして、 オジェ [auge-95]にならい スーパー近代」と名付けることは妥当であろう。 それは近代を越えたなにものか (例えば「ポストモダン」)ではなく、 近代の発展、 ただし可能であった一つの形の発展なのである。

3.4 共約可能性の神話

われわれは近代の一つの特徴である 「均一化」について述べていることを思い出してほしい。 「お金」、すなわち貨幣は、 「均一化」の一つの典型的な例として出したものだ。 議論を貨幣から離し、 より一般的に語っていこう。

近代(モダン)の特質は、 均一化されるべきものが出来ると同時に、 均一化されざるものが出来た、と一般的に言うことが できるだろう。 そうすれば、 スーパーモダンの特質とは、 すべてが均一化されていく、という傾向である。 われわれは、 常に、スーパーモダンにならないよう均一化の空間の 暴政を抑えていかなければならないのだ。 近代を「未完のプロジェクト」と呼んだのは ハーバーマスであるが、 その意味で、わたしは彼に共感を覚える。

「均一化されるもの」とは、言い換えれば、 「共約可能」 [kuhn-copernican-j] のものである。 アメリカのダム開発を描いた民族誌 『水への闘い』 [espeland-water]から 面白いエピソードを紹介しよう。

ポールは人事査定をするプログラム、MATS を使 用していたが、それは飽くまで自分の判断の裏付け としてしか考えていなかった。

いくつかの要素は交渉可能 (negotiable) では ない、ということにポールは気づいてきた。たとえ ばヤヴァパイの人びとの土地への権利は交渉可能で はないのだ。

ベンは MATS を使って二人の恋人から一人を選 ぶ、という作業をした。彼はみなの笑い者となっ た--- みなは(ベンを除いて)共約可能性に限界が あることを、暗黙のうちにせよ気づいていたの だ。 [espeland-water: 170--173]


営利を追求する会社の中で、 人は均一化される。 それぞれの能力・業績に応じてランクづけがされるのだ。 それこそが MATS の行なう作業である。 ここまでは問題はない。 ジンメルの言うように、 近代になり、 「均一化」される部分ができると同時に、 「均一化」されない部分 --- 「個人」が誕生したの だから。

ベンのやったことは 均一化できないものを 均一化しようとしているのだ。 恋人や友人は選ぶことのできない、 すくなくとも単一の基準でランクづけの できるものではない。 それぞれが個性を有しており、 その個性同士を単一の基準で比較することは 不可能なのだ。 映画『ソフィーの選択』はそのことを 端的に示している。

3.5 非場所

すべてが均一化するとは、 比喩的な言い方となるが、 すべてが無意味なものとなる、ということである。 オジェはスーパーモダンのこの傾向を 場所に関して指摘した [auge-95]。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

Its concrete outcome involves considerable physical modifications: urban concentrations, movements of population and the multiplication of what we call `non-places', in opposition to the sociological notion of place, associated by Mauss and a whole ethnological tradition with the idea of a culture localized in time and space. The installations needed for the accelerated circulation of passengers and goods (high-speed roads and railways, interchanges, airports) are just as much non-places as the means of transport themselves, or the great commercial centres, or the extended transit camps where the planet's refugees are parked. [auge-95: 34]

3.6 非場所

・・・・・ 【オジェ】 ・・・・・

・・・・・ 【エンデの場所、非場所(エンデの町、クパン、マレーシア)】 ・・・・・

4. まとめと展望


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Bibliography

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ENDNOTES