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第4章 二つの世界を遊ぶ---芸術鑑賞のしかた

中川 敏

1 序
1.1 これまで
1.2 これから

2 人類学的美学の対象
2.1 「遊びとは何か」
2.2 「世界を遊ぶ」

3 現実世界と仮象世界
3.1 虚構のパラドックス
3.2 仮象世界論
3.3 引用と世界

4 まとめと展望
4.1 まとめ
4.2 展望
4.3 注意書き文化に関する注意書き

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(C) Satoshi Nakagawa
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1. 序

1.1 これまで

1.2 これから

ここから人類学的美学の本格的な 内容に入ることとなる。

2. 人類学的美学の対象

「人類学的美学」について、 その目論見を繰り返そう--- 「遊び」を範型として、 「芸術」を見る、ということだ。 1

2.1 「遊びとは何か」

人類学的美学は、 それゆえ、 「遊びとは何か」そして 「芸術とは何か」という問いには 拘 [かかずら]わない。

なぜなら人類学的美学の対象は、 ある特別な性質をもつものと、 あらかじめ定義されているからだ。 芸術や遊びに その性質をもつモノが多いということだけを、 「人類学的美学の対象は遊びや芸術である」という 宣言は意味している。

その共通する属性について、 ここではやや回りみちをしてみよう。

2.1.1 遊びの定義

ひるがえって、 わたしの議論(人類学的美学)の範型となる 遊びについても事態は絶望的である。

ホイジンガ (『ホモ・ルーデンス』 ( [ホイジンガ 1973]) にせよ、 カイヨワ(『遊びと人間』 [カイヨワ 1990])にせよ、 遊びを定義しようとするが、 その都度、さまざまな 遊びのジャンルが抜け落ちてしまう。 かといって定義を拡大しようとすると、 ふつう「遊び」に含まないモノまで 入ってくるようになるのだ。

カイヨワを見てみよう。 冒頭近くで、彼は 「すべての遊びは規則の体系であ る」 [カイヨワ 1990:17] であると宣言する。 しかし数ページ後には 「規則をもたない遊びも多い」 ( [カイヨワ 1990:37]) ことを認めてしまうのだ。

彼は定義をあきらめ、 いささかボルヘスめいた 分類は次のとおりだ --- (1) アゴン(競争)、 (2) アレア(偶然)、 (3) ミミクリ(模擬)、 そして (4) イリンクス(眩暈)。 具体例を挙げれば、 サッカーやチェス(アゴン)、 宝くじなど(アレア)、 ごっこや演劇(模擬)そして 落下や回転による遊び(イリンクス)となる。

この分類もまた満足のゆくものではない。

彼は、続いて、次のような二つの極をもうけて、 すべての遊びをそのスペクトラムに配置する、という 提案をする。 すなわち、一方の極に パイディア(放埒、気紛れ)そして もう一方の極に 真面目さを特徴とするルードゥス(闘技)を 置いてみようというのだ。

2.1.2 遊び---世界を遊ぶ

わたしはこの語(「家族的類似」)は それほど好きではない。 日常言語の哲学 2 の遅れてきた弟子としては、 あるコトバがあるということだけで、 そのコトバについて考える価値がある、と わたしは考えている。 そこには先人の叡智がつまっているのだ。 3

* * * * *

言い訳はここまでとしよう。 遊びに関しては、 わたしたちが「遊び」と呼んでいるもの (ギリシャ語であろうが、英語であろうが、 中国語(玩、遊、戯)であろうが、 日本語であろうが)に、 なんらかの共通の属性があると思うのだ。

カイヨワに戻ろう。 四つの分類、二つの極の直前に、 彼は次のように言う: 「すべての遊びは規則の体系であ る」 ( [カイヨワ 1990:17]) であると宣言する。 しかし数ページ後には 「規則をもたない遊びも多い」 ( [カイヨワ 1990:37]) そして、「規則をもたない遊び」について 述べる。 それは、一言で言えば「虚構」である、と。

わたしは、この二つに共通した属性があると 主張したい。 それが「世界を遊ぶ」という属性である。

2.1.3 遊びと芸術

フロイトは、詩的活動の最も初期の 現れとして幼児の遊びを見る。 「遊んでいる子供というものは、 皆がみな詩人と同じように振舞つているのだ」 [フロイト 1970:4] と彼は主張する。 すなわち、子供は 「一つの自分独自の世界を創りだすことによって」 [フロイト 1970:4] 詩人と同じなのである。

2.2 「世界を遊ぶ」

ここまで来て、 あなた方は、 議論が、 第3章までの議論と 重なったことに気づいただろう。

2.2.1 人類学的美学の対象

わたしの立場(すなわち人類学的美学の立場)は、 むしろ、ある属性に注目する。 その属性を持つモノをのみ、 対象とするのだ。 遊び、それもママゴトを範例として、 わたしが意味しているのは、 「二つの世界」、 あるいは「二つの世界を遊ぶこと」である。

2.2.2 遊びのパラドックス

もう一つの問題の語は 「遊ぶ」である。

ホイジンガは( [ホイジンガ 1973:106])「遊び」に対する語として 「真面目さ」を挙げている。 「遊び」を、たとえば、「ふざける」ことと 対比させれば、 このペアは、それなりに納得のいくものかもしれない。

この数ページ前 ( [ホイジンガ 1973:52])、 彼は次のようにも言っている--- 「子供は完全な真面目さ--- これは神聖な真面目さ、 と言っても少しも間違いではな いが --- のなかで遊んでいる」と。 不思議なことに、 この主張もまた、 わたしたちは納得して聞いてしまう。

簡単に言うと、 遊びとは真面目の反対物でもあり、 同時に、真面目そのものでもある、というのだ。 これを「遊びのパラドックス」と呼ぼう。

「神聖な真面目さ」に相当することばは いくつもあるだろう。 「のめりこむ」( [中川 2008])、 「無我夢中になる」、 「没頭する」、 ``immersion''、 ``engrossed'' [Currie and Ichino 2013]、 ``flow'' ( [チクセントミハイ 1996])、 ``transportation''、 [Currie and Ichino 2013] などなどがある。

フロイトはいう、 「遊びの反対物は真剣と いうことではない、 --- それは現実なのだ」 [フロイド 1970:4--5]と。 場としてみればその通りであろう。 遊びには外側があるのだ。 4 その外側に立つ人 (「いちぬけた」人)にとって、 遊びは「馬鹿馬鹿し」いものである。 外側に立つ人から見れば、 外側こそが「真面目さ」を体現した 世界であり、 遊びは「不真面目な」「ふざけた」 行為に満ちた世界である。

一見、 こう語ることによって遊びのパラドックスは 解けたように見える。 すなわち、 「真面目であり、かつ真面目でない」というのは、 「(遊びは)内側からは真面目で、 外側からは不真面目である」という、 視点の違いを含む判断を、 視点を省略したことから出てくる 見掛けだけのパラドックスに過ぎない、と。

2.2.3 遊ぶことと生きること

ポイントは、 じつは、内側からの眺めは、 この外側からの判断を含んでいる、という点である。

ふたたび自閉症のママゴトの例を 出そう。 「ケーキですよ」と石を出す例だ。 自閉症児は、 村上によれば( [村上 2008:111]) その石を食べてしまうのだ。 この状態を「ゲームを生きる」と表現することに しよう。

「(ゲームを)生きる」と対照させることによって、 「(ゲームを)遊ぶ」の意味がより鮮明になるだろう。 たしかに、プレーヤーはゲームにのめりこんでいる。 しかし、 同時に 「それがゲームに過ぎない」ことを 分かっているのだ。 プレーヤーは決してゲームを生きてはいない。 言わば、 のめりこみながら 同時に(としか言いようがないのだが) 一抜けているのだ。

3. 現実世界と仮象世界

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

3.1 虚構のパラドックス

芸術にも同様のパラドックスが 生まれる。 ここでは、とりあえず、 文学・映画・演劇を例にしたい。

3.1.1 信念のパラドックス

「信じている」という言葉を ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

[George Currie 1990]

どちらも不十分である。 [戸田山 和久 2016]

3.1.2 感情のパラドックス

ウォルトン( [ウォルトン、 K・ 2015])を引こう。 あなたは恐怖映画を見ている。 スライムが ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

3.1.3 「世界」

【これは取ったほうがいいかしらん】

これからしていゆくことは 「遊ぶ」という わたしたちのこの 不思議な 営為を解明していくことなる。

この不思議な営為をとりあえず 説明する (というより記述する)仕方は 「二つの世界」という言葉を導入する ことだろう。 すなわち現実世界と虚構世界である。

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

遊びと芸術を復習しておこう。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

芸術は・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

* * * * *

もう一度言おう、 人類学的美学が対象とするのは このような意味での「二つの世界を遊ぶ」という 言い方が適用できるようなさまざまな ジャンルである。 目的は、 「世界」と「遊ぶ」の意味を解明 (explicate) することにある。

3.2 仮象世界論

芸術の理論として、 二つの世界を想定することはじつは古くからある。

以下のドイツを中心とした仮象世界論は、 西村の卓越した論考『遊びの現象学』 ( [西村 1989]) によるところが 大きい。 わたしはほとんどの原著 5

3.2.1 ハルトマン

このように世界を設定して 芸術の鑑賞を理解しようとするのは、 19世紀からあった理論である。 西村 [西村 清和 1989] は芸術鑑賞の理論として 二つの世界論、 現実世界と仮象世界の議論をとりあげる。

西村の学説史を大幅に省略して、 ここでは、 ハルトマン(1882--1950)から始めよう。 彼は芸術の鑑賞を、 自我の分裂としてとらえる。 一つは現実世界 (real world) に住まう 現実自我 6 、 もう一つは 「観念的で虚構の、想像上の主体、 つまりはひとつの仮象自我 (einem idealen, fingirten, imagin\"aren Subjekt, einem Schein-Ich)」 である ( [西村 1989:193--194])。 7

悲劇の主人公の感情を、 鑑賞者は仮象自我の感情として 味わうのである。 西村のまとめを引用すれば、 「一方で、仮象自我は、・・・[主人公に] 自己投影しつつ、しかも同時に、 他方で、実在的自我はこころやすらかに、 下界にふみとどまったままにある」 ( [西村 1989:193]) というのだ。

ハルトマンによれば、 美的体験は仮象自我と実在自我との間の 分裂の体験である、というのである ( [西村 1989:194])。

ハルトマンのこの定式化は、 「自我」という言葉遣いが やや気にかかるが、 わたしが「二つの世界を遊ぶ」という言い回しで 言いたかったことと、 ほぼ重なるだろう。

3.2.2 西村の批判

西村は、 ハルトマン以降のいくつかの 仮象世界説、 およびベイトソンの メタ・メッセージ説 (ベイトソンの議論については後述する) とをまとめて、 つぎのように結論づける。

もしもいっさいの比喩を排して、本気でわれわれが、仮 象自我やファンタジー世界自我など、この意 識の二重性を主張すれば、それは唯一、精神 分裂の二重性以外ではない。もしもベイトソンのいうよ うに、遊びが「意識的なダブル・バインド状況」だとす れば、遊びとは「意識的な精神分裂」だということにな る。 [西村 1989:207]

ハルトマンの言うとおりだとすれば、 わたしたちは精神分裂病 8 になってしまうと西村は言うのである。 ここで西村が言う「精神分裂病」は 解離性障害、 とりわけ多重人格のことであろう。 たしかに「自我」という言葉の選択は あまり適切ではないかもしれない。 しかし、 わたしは、 基本的にハルトマンの議論に賛成である。 わたしたちは二つの世界を、 なんらかの方法で経験しているのだ。

3.2.3 迂回:ベイトソンのダブルバインド論

まずベイトソンの議論に関する 誤解を解く必要があるだろう。

たしかにベイトソンは精神分裂病を 念頭に「遊びと空想の理論」 [Bateson 1987]を 始めとする一連の論文を書いている。

詳細は後述するが、 西村が俎上に載せている「ダブルバインド」とは 次のような状況である。 母親が子供に対して、 何度も 「わたしはあなたを愛している」と言う。 これはいい。 しかし、 それらの個別のメッセージを発しながら、 全体として (たとえば身体の所作などによって) 「わたしはあなたは嫌いだ」という (メタ)メッセージを発する。 このような状況を、 ベイトソンはダブルバインドと 呼んだのだ。

このような「ダブルバインド」状況を 子供のころに経験した人間が 精神分裂病(統合失調症)にかかりやすい、というのが、 (雑駁であるが)ベイトソンの議論である。

わたしの議論には直接関係しないが、 「精神分裂病 (統合失調症)の原因としてのダブルバインド」という (ある意味で「悪名高き」) 仮説は(経験的に)すでに 廃れていることは付け加えておきたい。

さらに、ベイトソンの議論から 因果関係を抜き去って、 次のように読むことも可能だと、 わたしは思う。 すなわち、 「統合失調症の人はダブルバインドを うまく対処できない」と。 そして、この主張こそが、 統合失調症と自閉症の緊密な関係 9 を考慮するば、 わたしが主張してきたこと 「自閉症児は遊びを遊べない」と 重なることを見てとっていただけるであろう。 [okada-schizophrenia]

すなわち、「遊びはダブルバインドだ」という ベイトソンの議論は、 西村のまとめとは逆に 「統合失調症でない人こそが 遊びを遊べる」という意味なのである。

3.2.4 「自我」から「観点」へ

ベイトソンの汚名は晴らせたが、 問題は残る。 ハルトマンの「自我の分裂」という言い方である。 この言い方こそが、 西村をして「精神分裂」と言わしめた 原因である。

わたしは、 ハルトマンは言葉遣いにおいて 不用意であっただけで、 その言わんとすることに問題はないと 考えている。 何かが分裂しているのだが、 それを「自我」と呼ぶのは (もちろん「自我」をどのように 定義するかによるのだが) 誤解を招く、とわたしは主張したい。

それでは分裂しているモノを 指し示す最適の言葉は何だろうか? 既にこの講義で使用した 「観点」 (perspective) という語が 最もふさわしいと考える。

3.3 引用と世界

「自我」を「観点」と言い換えることで わたしが達成したいことは、 虚構を経験すること(「遊ぶ」こと)が、 自己の内奥と言いたくなるような レベルで起きていること (要するに「自我の分裂」では)ではないことを 示すことにある。

その目標にむかって、 この節は次のような構成をとる。 (1)引用を分析する、 (2)

3.3.1 使用と言及

3.3.2 固有名詞節

[Quine 1940] [タルスキ 1987] [Davidson 1985] [玉井 1983] [Greenberg 1939]

3.3.3 直示理論

3.3.4 往復運動としての引用

3.3.5 引用を遊ぶ

3.3.6 アイロニー

4. まとめと展望

4.1 まとめ

4.2 展望

4.3 注意書き文化に関する注意書き

ここで、 この章の議論にはあまり関係してこないのだが、 次章以降にかかわってくる重要な 警告を書きつけておきたい。 それは、 芸術と遊びそして文化は、 以上述べたような共通点があるが、 重大な違いがある、ということである。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・


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Bibliography

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[tarski-truth-j] タルスキ, A.
真理の意味論的観点と意味論の基礎. In 坂本 百大, editor, 現代哲学基本論文集. 勁草書房, 1987.
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[okada-schizophrenia] 岡田 尊司.
統合失調症--その新たなる真実. PHP新書. PHP研究所, 10 2010.
[nakagawa-gengo] 中川 敏.
言語ゲームが世界を創る. 世界思想社, 2009.
[todayama-horror] 戸田山 和久.
恐怖の哲学 ホラーで人間を読む NHK出版新書, 1 2016.

* * * * *

ENDNOTES

[1] ときどき「科学」もそこに入る。 [Back]

[2] ある意味、相当数の 人類学がこの定義にあてはまると、 わたしは考えている。 [Back]

[3] 「芸術」にそれがあてはまらないのは、 おそらく、この語の使用そのものが [Back]

[4] 「文化」というゲームには 外側はない。 [中川 2008] [Back]

[5] 読んだのは、 ハルトマンの翻訳 ( [ハルトマン 2011 [1953]] のみである)を読んでいない。 [Back]

[6] 西村( [西村 1989])は 「実在自我」と訳している。 [Back]

[7] 西村の記述はいささか親切ではない。 いまわたしがまとめている 議論がハルトマンによるものかどうかは、 まったく明記されていない。 ただし、この段落は ハルトマンについて述べた段落に続く段落に 書かれているので、 ハルトマンによる議論だというのが、 素直な解釈であろう。 しかし、 わたしは ハルトマンの『美学』に該当箇所を 見つけることはできなかった。 [Back]

[8] 2002年8月に日本精神神経学会は 「精神分裂病」という名称に変えて、 「統合失調症」という語を使うことを決議している。 西村の本は1989年の出版である。 [Back]

[9] 統合失調症と アスペルガー症候群、広汎性発達障害(自閉症 スペクトラム)とは緊密に関係している [岡田 2010:loc-1660]。 また、DISC1と呼ばれる遺伝子は、 統合失調症と自閉症の双方の 発症に関係している ( [岡田 2010:loc-1848])という。 [Back]