3 中級---単相と複相
3.1 単相の物語
3.2 まわり道---則天去私の共同体
3.3 まわり道の続き---のめりこむ
3.4 単相の裂け目と複相の萌芽
4 上級---アスペクトと全体論
4.1 猫とクリーニャ
4.2 相貌と全体論
4.3 エンデのキョウダイ
4.4 バリの恥
4.5 アスペクト(相貌)把握能力
5 まとめ
5.1 言葉づかい
5.2 単相から複相へ
5.3 ゲームと異文化
5.4 単相から複相、そしてもう一つの単相へ
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(C) Satoshi Nakagawa
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「幸福な意味盲」なる存在を考えてみよう。++
++ 彼は生まれつきの本性が十分なものであるため、 いっさいの教育を受けることなく社会の慣習に従い、規 則に従う。++
++ 【中略】さらに彼を無菌状態におくために、幸福 な意味盲たちだけの集落を作ろう。・・・・・ [327/8] 彼らは ・・・・・ 完璧に単相的な世界を実現する。++
++ われわれの目からすれば、彼らは完璧に規範に従っ ている人びとであり、いわば「則天去私」の集団である。
・・・・・ 彼らに内在的 な観点に立てば、そこでは自然と規範は融合し、むしろ 規範は消失していると言うべきだろう。++ [野矢 2012:327--328]
文化とは記号の体系であり、記号をささえるものは 約束と信用である。 その点にかんするかぎり、言語のように 心細いけれど大切な記号も、貨幣のようにたのもしいけ れど味気ない記号も、ちがいはしない[sic] 。++
++ 行くたびに態度の豹変する床屋や、使うたびにすっ かり意味の変わってしまうことばや、預けた金をおろさ せてくれない銀行は、私たちの文化をおびやかすであろ う。 ・・・・・ [236/7]
言語や文化がときに人を疲れさせるのは、信用の体 系を維持するために不断の努力が必要だからである。そ の努力がみのって、(ありえないことだが)万一理想的 な、うそのない世界が出現してしまったら、言語はうそ の可能性を失ったかのように見えるだろう。そうしてた ちまち、言語は言語ではなくなり自然の事実となってし まうだろう。 [237/8]
健全な状態にある言語には、その本来の性癖である 《うそのおびえ》がつきまとっているはずだ。信用の体 系としての文化は、自己を維持するために、つねにその 周辺部にうその脅威を必要としている……と言いかえ、 哲学的に問題を拡大することができるし、たぶん、拡大 すべきであろう。
[佐藤 1992:236--238]
[村上 2008]
[ラカン 1972]
さてさて ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
たとえば、 日本語の猫という概念と掃除機という概念を 集めた集合を考えよ、と彼はいう。 そのような概念が通用している文化を考えよ、と。 彼ら(その文化に住まう人々)はそれを 「クリーニャ」と呼ぶ。 そのような想定をしたあとで、 彼は言う--- 「だが、あるものがクリーニャーとし て見えるということがどのようなことなのか、もはやあからさまにわれわ れの想像を越えているだろう」 [109:野矢 2011]と。 なぜなら、アスペクトとは 生き方の問題だからなのだ。
われわれにとっては、 一匹の猫はどうしたって 猫としての相貌をもっている。 それは容易に変えることはできない。 それはすなわち、 われわれがその分類を引き受け、 いわばその概念を生きているからである。 概念を変えるということは、 生き方を変えるということなのである。 [109--110:野矢 2011]
相貌に言及してる別の箇所を見てみよう。 相対主義者がしばしば言及する 「立場の違い」という言い回しを捉え、 立場とは命題の集合ではない、と野矢は宣言する。 そして立場が命題の集合でないならば、 何かと問い、 それは「観点」であると彼は答える。 「そして観点の異なりに 応じて異なってくるものは、相貌である」 [128:野矢 2011] と。
野矢の議論は、 クリーニャの相貌を得るとは、 クリーニャを生きることであり、 それは(ほとんど)不可能である ということになってしまう。
野矢の前半部の議論、 クリーニャの相貌を得るとは、 それを生きることであるということに、 わたしは賛成する。 そして、わたしは人類学者として言いたいのだが、 それは可能なのだ。 ここでも重要なのは、 相貌が全体性と関わっているという点にある。
4.2.1 芋とドブの人々と西洋人
人類学者は職業がら、 クリーニャのような 奇妙な例を沢山知っているのだ。 南太平洋の島、ドブでは、 芋は人間であるという [Fortune 1932]。 パプア・ニューギニアのカラムの人びとの間では、 ヒクイドリは鳥ではない [Bulmer 1967]。 1
そのような奇妙な例を出す前に、 英語と日本語を例にして、 クリーニャの準備運動をしておこう。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
ここではわたしのよく知っている 東インドネシア、フローレス島に住む エンデの人々の例を出そう。
4.3.1 (同性の)キョウダイ
エンデ語に「アリ・カッエ」 という言葉がある。 親族用語である。 わたしが最初にエンデの村に入ったとき、 アプさんという村人が わたしの「お父さん」となってくれた。 彼は、わたしの「アリ・カッエ」を紹介してくれた。 彼の息子たちである。 わたしはすぐにこの言葉を「兄弟」として 理解できた。 姉妹は「ウェタ」と呼ぶことも すぐに学んだ。
4.3.2 父系のイトコたち
しばらくすると、 わたしが「アリ・カッエ」と呼ぶべき人が、 単にアプさんの息子 (わたしの「兄弟」)だけに限られているわけでは ないことに気づいた。 父系の従兄弟たちもまた「アリ・カッエ」なのだ。 さほど悩むこともなく、 これは日本の姓(名字)を適用して考えればいいことに 思い至った。 すなわち「中川家」の男のメンバーが アリ・カッエなのだ、と。 2
4.3.3 女性のアリ・カッエ 1
次の関門は、 女性の「アリ・カッエ」がいることだ。 姉妹は、さきほど言ったようにウェタと呼ぶ。 しかし、日本ならば姉妹のようなものである 兄弟の嫁たち(「義理の姉妹」)もまた アリ・カッエなのである。 この例もまた「中川家」を基本に考えて、 納得した。 すなわち、ウェタ(姉妹)たち は中川家を出ていく者であり、 (女の)アリ・カッエは中川家の中に いる者たちなのだ、と。
4.3.4 女性のアリ・カッエ 2
最後の謎は、 また別の女性のアリ・カッエと呼ぶという 形で示される。 母の兄弟の娘たちをもアリ・カッエと呼ぶのだ。
これはエンデの親族のルール、 母方交差イトコ婚というルールと 関連づけてはじめて理解できるアリ・カッエである。 エンデでは、 男は母方の交差イトコ (母の兄弟の娘)と結婚することが 期待されている。 3 すなわち、母の兄弟の娘は、 このルールに従うならば、 中川家に嫁入りする女性たちなのだ。 男のアリ・カッエの嫁たちを アリ・カッエと呼ぶのが 事後承諾的呼び方とすれば、 母の兄弟の娘をアリ・カッエと呼ぶのは 事前の期待にもとづく呼び方と言うことができるだろう。
4.3.5 マメその他---観点の獲得
この時点で、わたしはエンデの親族体系の 全体を(ほぼ)理解した。 それゆえ、母方の叔父と妻の父を同じ名称 (マメ)で呼ぶこと、 あるいは 母方の叔父の娘の夫を、兄弟と同じことば (「アリ・カッエ」)で呼ぶことも すべて理解できたのである。 4
「アリ・カッエ」の相貌は把握できるのである。 それは全体の中の位置(価値)をつかむことである。 いったん、その相貌を把握すれば、 「アリ・カッエ」はごく自然なものだ。
4.3.6 まとめ
その観点はエンデの親族制度の内側の ものである。 しかし、エンデの親族制度を 知らぬ人には、 「クリーニャ」の相貌と同じように、 無意味なものでしかないだろう。
生活世界の二重性を示すもう一つの例として、 バリの例を出したい。 ギアツの「バリにおける人格、時間、振舞い」 [Geertz 1973] という論文の概略を 紹介する。 5 ギアツの詳細な記述を強引にまとめて 述べると、 バリの文化の主テーマは「匿名性」なのだ、という ことになる。 緻密で長大な記述を通して、 ギアツは上記の主張、 バリの文化が「匿名性」であることを 裏付けていく。 そのような議論の中で ギアツが明らかにしたいのは、 これまで人類学その他の文献の中で 「恥」 (``shame'') と訳されてきた バリの言葉、ルック の ほんとうの意味である。 ルックは決して「恥」ではない、と 彼は言うのだ。
4.4.1 個人の匿名化
バリでは、 実名の関係が希薄であり、 たとえ日々つきあっている人びとでさえ、 いわば、 「匿名」の関係として捉え直される、という。 実名を使うことは その担い手をかけがえのない者として 捉えることである。 ここで言う「匿名化」とは 相手を「かけがえのない者」として 捉えず、 取り替えのきく者、 カテゴリーとして捉える、ということである。
バリには六つの人間に関する標識がある。 バリ人たちは、 これらの指標を使い分けることによって、 実名化を避けながら 社会生活をおくるのである。 ここでは重要な出生順位名、 そしてテクノニムについてのみ述べよう。
個人の指標の第一は個人名である。 そして、それはもちろん存在する。 しかし個人名は重要ではなく、 公的にはほとんど聞かれないのだ。 個人名は、極めて私的で、 秘密にされるという。
4.4.2 出生順位名
日常、頻繁に使用されるのは 出生順位名である。 それは個人に自動的に与えられるのである。 ・・・・・ 【ハルト、タイリク】 ・・・・・
わたしは両親の 二番目の子供である。 もしバリで生まれたならば、 わたしの個人名、「中川敏」は 幼児の頃はともかく、 それなりに大きくなったなら めったに使用されることはない。 それよりも「ニョマン」として知られるのだ。 わたしは誰とも違う「中川敏」としてではなく、 そこら中にいる「ニョマン」の一人として 生活を送るのだ。 村の中にはニョマンが溢れているだろう。 わたしの家に限ってもニョマンは一人ではない筈だ。 またわたしの祖先にもニョマンはいる。 わたしは数ある「ニョマン」の一人、 取り替え可能なカテゴリーの一員に過ぎないのだ。 ギアツは言う:
・・・・・ 名の循環的継承、絶えることなく無限に続く四段階の反 復を形成するのである。肉体としての人間は生まれ、やがてかげろう のようにはかなく消えていくが、社会的には登場人物 は永遠 に変らない。 [Geertz 1973:312]
4.4.3 子供名前
しばらく「ニョマン」として過ごしてきた 私が結婚したとしよう。 結婚だけでは、 まだ「ニョマン」から卒業できたわけではない。 子供ができて始めてニョマンから 別の名前で呼ばれるようになる。 「子供名前」 6 である。 たとえば わたしの子供の名前が「カイ」であったとしよう。 そうするとわたしは「カイの父」として 村の中で知られるようになるのである。
わたしは、言わば、 「親の世代」として知られるようになるのである。 村の政治の中で重要な役職にもつくことが できるのだ。 わたしは、村で最も活動的な世代に属するのである。 ただし、それは「親の世代」の一員としてである。 わたしは世代の階梯を一段、一段と登っていくことにな るだろう。 「祖父の世代」になれば、 わたしは活動からは引退するが、 親の世代に助言を与える賢明な年配者と なるだろう。 さらに「曾祖父の世代」にまで いたれば、神々の世界に近い、 そして扶養家族の一人となるのである。
わたしは 飽くまである世代の一員、 あるカテゴリーの一員なのである。
この他に場所の名称や、 カーストによる称号や 司祭・首長などの公的称号をつけることにより、 わたしは必要なだけ特定化され、 村の社会生活は順調に営まれるのだ。
4.4.4 時の匿名化
繰り返す 出生順位名により 個々人が匿名化されたように、 時間も繰り返す順列的な暦によって 匿名化される。
わたしたちの社会でも たしかに繰り返す順列的な暦はある。 この月曜は過ぎさるが、 また別の月曜はやってくる。 この1月は過ぎさるが、 また別の1月がやってくる。 しかし、最も重要なのは 二度と戻ってこない時間である。 21世紀の何月何日であるこの特別の日は 二度と戻って来ないのだ。 今日という日はかけがえのない、 取り替えの効かない日なのだ。
バリに順列歴は溢れている。 わたしたちの一週間は7日で繰り返す。 バリに7日の暦は、もちろん、存在する。 その他に10日で繰り返す歴、 9日で繰り返す歴、 8日、6日、5日、4日、3日 そして2日で繰り返す歴があるのだ。 7
この中でも、 とりわけ 5日周期、 6日周期、そして7日周期の暦は重要であるという。 たとえば、 ボダ(5)とアリアン(6)の日は宗教的に重要な意味 を持っているという。 この日は30日に一度めぐってくることになる。 ボダとクリオン(7)の重なる日はライナンと呼ばれて、 神々に食物を供える日である。 この日は35日に一度めぐってくる。 そして、 ボダとアリアンとクリオンが 重なる日は ガルンガンという最も重要な祭の日である。 ガルンガンは210日に一度めぐってくる。
4.4.5 舞台
これ以上の詳述はしない。 これらの記述を重ねることにより、 ギアツはバリ人にとって社会生活が 一種の舞台のようなものであるという 考え方をわたしたちに示すのだ。
これまでに何度も上演された『ハムレット』を 考えてみてほしい。 舞台の上では同じ ハムレットが死んだ父王の亡霊に会い、 同じオフィーリアが狂い、 同じホレーショが登場するのだ。 上演と上演の間には、 役者は変わるだろう。 そして時も流れてしまっているだろう。 しかし、舞台の上では 同じハムレットが、 同じ時間を過ごすのである。
バリ の社会生活も舞台のようなものなのだ、と ギアツは言う。 役者は実名を持っている、 かけがえのない者だろう。 しかしその役割・役柄である ハムレットは同じであり、 繰り返す時間を生きるのだ。 バリ人に個性がないとか、 すべての人が取り替え可能だなどと 言っているのではない。 ギアツが主張するのは、 実名性をもったバリ人ひとりひとりは、 いったん社会生活の中にはいれば、 匿名性を生きるのだ、ということである。
4.4.6 ルック
舞台の比喩を説得的に示した後、 ギアツはいよいよ「ルック」について 語る。 たしかに「ルック」の身体所作や その語られ方そして 出現の文脈などなどを見ると、 「ルック」を「恥」と訳すことで とりあえずの理解は可能かもしれない。 しかし、「ルック」の語の使用法の ディテールを見ていくと、 「恥」が決して適訳ではないことが 分かってくるのだ。
人がルックを感じるのは 儀礼に参加する直前、 あるいは公的な儀式に参加する直前である。 それは舞台裏から舞台へと登場する 直前に相当するのである。 その時に感じる「気後れ」、 それこそが「ルック」なのだ、と ギアツは言う。 すなわち、 「ルック」は「恥」ではなく、 「舞台恐怖症」(stage fright) なのである。 バリ人は個々人として生きていく場を持つ。 しかし重要なのは儀式化された社会生活なのだ。 バリ人たちはその重要な場への登場に緊張する。 その時に感じる感情、それこそが ルックであると、ギアツは論じる。
・・・・・ 【「ママ、学校へ行きたくないよ」ジョークで、 これがわれわれの社会にも適用されることを示す。】 ・・・・・
4.5.1 相貌の誕生
「相貌」を把握できるまでのレベルでの アスペクト把握は、 二つの世界が問題になる。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
[1] ヒクイドリについては、 わたしの『言語ゲームが世界を創る』 ( [中川 2008]) で詳しく説明している。 [Back]
[2] もっとも世代深度は日本よりは よっぽど深く、一〇世代に至ることさえある。 [Back]
[3] 詳しくはわたしの『交換の民族誌』 [中川 1992] を見ていただきたい。 [Back]
[5] 以下の記述は、 かなり大胆に要約、わたしの勝手な 状況描写をつけくわえているので、 典拠のページ数はつけない。 [Back]
[6] 人類学では、 ギリシャ語由来の「テクノニム」という 用語を使用する。 「テクノ」は「子供」、 「ニム」は名前の意味である。 [Back]