1 はじめに
1.1 文化と政治---ギアツの悩み
1.2 国家の自然さ
2 試験によくでるティモール・レステ
2.1 ポルトガルが来るまで
2.2 ポルトガル時代
2.3 日本占領期
2.4 ポルトガル時代(戦後)
2.5 インドネシア時代
2.6 レフェレンダム以降
3 ティモール・レステの二つの語り方---外側から
3.1 人類学の中のティモール・レステ
3.2 政治学の中のティモール・レステ
3.3 ののしりあい
4 ティモール・レステの二つの語り方---内側から
4.1 エポカリズムとエッセンシャリズム
5 インドネシアのナショナリズム
5.1 東インドの成立
5.2 よりよい政治学
6 国民語りと「文化」の拮抗---独立の後で
6.1 想像された共同体
6.2 「文化の復興」
Draft only ($Revision$ ($Date$)).
(C) Satoshi Nakagawa
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今年の院ゼミのテーマは「ナショナリズムの人類学」である。 はったりをかませば、 「文化と政治」ということになる。
The theme of this year's Inzemi is "Culture and Politics".
具体的には、 ティモール・レステ共和国 1 という国家を題材にして、 人類学がナショナリズムという課題をどう とりあつかうべきかを探っていきたい。
The example we are to deal with is a nation called Timor Leste, the first independent nation in this century.
ギアツは言う:
誰もが知ってはいてもどう論証したら よいのかまったくわからないことの一つに、 一国の政治はその文化のを図案 [デザイン] 反映している、ということがある。 一見、この命題は明白である。 フランスの政治はフランス以外のどこで 成立しえようか。 しかし、 そういうかたわら、 すぐに疑問が起きる。 一九四五年以来、 インドネシアは独立戦争、 議会制民主主義、内戦、大統領独裁、 大虐殺、軍政を経てきた。 一体、そのどこに図案 [デザイン]が あるといえるのだろう。 [geertz-politics-j: 208]
One of the things that everyone knows but no one can quite think how to demonstrate is that a country's politics reflect the design of its culture. At one level, the proposition is indubitalbe --- where else could French politics exist but France? Yet, merely to state it is to raise doubts. Since 1945, Indonesia has seen revolution, parliamentary democracy, civil war, presidential autocracy, mass murder, and military rule. Where is the design in that? [geertz-politics: 311]
要するに文化が政治を決定しているように 見えることがある。 しかし、インドネシアを見ると、 政治の中に文化を見ることは困難なのだ。
彼の困惑の根源が何なのかは、 次の引用から読み取ることができるだろう。
イデオロギーの社会的決定要因の説明においては、現在主なアプローチが 二つある。利益説と緊張説である。 [footnote omitted] 前者においては イデオロギーは仮面であり武器であり、後者においては兆候であり治療で ある。利益説においてはイデオロギー的見解は、利益を追求する普遍的な 闘争を背景として理解され、緊張説においては、社会的心理的不均衡を正 そうとする慢性的な努力を背景として理解される。前者においては人は権 力を追求し、後者においては人は不安から逃れようとする。当然人は両方 を同時に行うことがあるから--- また一方いおいて他方を得ようとしさえ するかもしれないから---、両説が必ずしも矛盾するわけではない。しかし 緊張説(利益説が直面した経験的困難に対抗して生まれたものであるが) の方が議論としては単純ではなく、こちらの方が切れ味がよく硬直性が少 なく包括性が大きい。 [geertz-ideology-j: 15]
There are currently two main approaches to the study of the social determination of ideology: the interest theory and the strain theory. [footnote omitted] For the first, ideology is a mask and a weapon; for the second, a symptom and a remedy. In the interest theory, ideological pronouncements are seen against the background of a universal struggle for advantage; in the strain theory, against the background of a chronic effort to correct sociopsychological disequilibrium. In the one, men pursue power; in the other, hey flee anxiety. . . . but the strain theory (which arose in response to the empirical difficulties encountered by the interest theory), being less simplistic, is more penetrating, less concrete, more comprehensive. [geertz-after: 201]
まずナショナリズムあるいは国家についての 一般的な議論をしておきたい。 基本的に、中川の 『モノ語りとしてのナショナリズム』 [nakagawa-nationalism] の議論の 繰り返しとなる。
この節で焦点をあてたいのは
国家のもつ自然さである。
それは謎に満ちた自然さなのである。
すなわち、
どの国家も、
内側から見れば自然であり、
外側から見れば不自然なものである。
日本という国家の
客観的に(と敢えて言わせてもらおう)見れば 不自然なものが、 その概念の使用者には自然に見えるという点こそが、 ナショナリズムの、あるいは「国家」という概念のもつ 謎なのである。
もっとも、よく考えてみれば、 この謎は国家あるいはナショナリズムに限ったものではない。 それは言語のもつ謎の自然さと同じものである。 日本語話者にとって、 あのすぐに噛みつく獰猛な哺乳類を「イヌ」と呼ぶのは、 自然なことである。 しかし、テトゥン語話者にとって 同じモノは「アス」であり、 日本語話者が「イヌ」という語をつかうのは不自然 きわまりないのだ。
国家が、ナショナリズムが
ティモール・レステは 今世紀(21世紀)において最初に 独立をはたした国家である。 マスメディアを通じてわたしたちが目にした その独立への軌跡は とりわけ暴力と死に 満ちたものであった。
地図(図 map)を見てみよう。
外から見てある国家が不自然だと指摘することの 無意味さについては、すでに詳述した。 しかしながら、 どうしても 「とは言うものの・・・」と続けたくなるだろう--- それ程に東ティモールは(異様に)不自然な国家に 見えるのだ。
すべての概念は不自然である。 それが自然さを持つのは、 グッドマン ( [z.goodman-ww-j]) は主張する、 伝統や歴史の中にうまく適合している ("entrenched") からである。
というわけで・・・ ティモール・レステが国家になるまでを、 その適合の歴史を、 とりあえず、辿ってみることとしよう。
東ティモールを語るには ティモール島全体を語らなくてはならない。 そのティモール島は、フォックスは言う、 「一つの場所ではない。それは多数の場所である」 [1]。
ティモール島の多様性を、言語の側面から見ていこう。 グライムズ( [z.grimes-ethnologue])は、 東ティモールの言語の数を 17 としている。
海洋民族である オーストロネジアン語族の人々がティモール島に 住みついたのは約5000年前だろうと言われている。 [fox-powerlessness] 5000年という短期間のわりには、 言語の多様性は大きい。 ダワン語、テトゥン語、そして マンバイ語が三つの大きな言語である。
オーストロネジアンの後に
ノン・オーストロネジアン
(トランス・パプアン)の話者が
ニューギニア(おそらく)のバードヘッドから
やってくる。
複雑に入り組んだ言語の分布は、 頻繁な民族の移動そして闘争があったであろうことを 思わせる。 言語分布のもつ一つの特徴は、 東側の多様性に比して、 西側の均一性である。 セマウ島の Helon を除けば、 ほとんどがダワン語の地域だ、ということである。 これらの分布に関連して、 フォックス( [])は 次のような (コンタクト以前の)歴史を想定している: 最初に拡張をしたのはテトゥンであろう。 中央の南部に本拠を置いた彼らは 強力なウェハリ王国のもと、 一方で北へ、そして南海岸沿いに拡張する。 次に(おそらく500年ほど前に)ダワン(アトニ)の 拡張がはじまる。 そして、ヘロンなどを追いやりながら、 西半分を覆うにいたるのだ。 東側の最も大きな語族はマンバイである。 マンバイ語は(テトゥン語よりは)ダワン語に 近い。 おそらく、 テトゥンの拡張が、 ダワンを東(マンバイ)と西(ダワン)とに 分けたのであろう、とフォックスは考えている。
話を単純にするために、 2 ポルトガルがティモール島に来た時点での ティモールの政治状況を以下のようなものと しよう: (1) ウェハリ王国がそれなりの力をもって、 中央から東部にかけて勢力をもっていた。 (2) アトニの王国であるソンバイが、 ウェハリの西側に勢力をもっていた。 (3) ウェハリのさらに東には リクサエン王国 3 と呼ばれる 王国があったようだが、 16世紀にはすでに弱体化していた。
ポルトガルとの接触以前に ティモールが孤立していたわけでないことも 付け加えておく。 中国との交易、 白檀、そして蜜蝋の交易が行なわれていたのだ。 ティモールの外界との接触の歴史は、 白檀をめぐる歴史である、と言ってもよい。
2.2.1 初期
1511年、ポルトガルによりマラッカが 陥落する。 この時を境にいわゆる「東南アジア」が(西洋人の目に) 存在を始め、 そのようにして成立させられた「東南アジア」の 各地域の歴史が「世界史」の中に組込まれることになる。 [hall-68]
・・・・・ 【ヴァスコ・ダ・ガマ、マラッカ、マジェラン】 ・・・・・
ポルトガルが目をつけたのは、もちろん、 白檀の交易である。 4 1561年には、最初の宣教師がマラッカから ソロール島へ派遣される。 二つの点に注意書きが必要だろう。 ソロール島やフローレス島に最初の砦が 建築されたのは、 おそらくティモール島に 良港がないという理由であるようだ。 彼らは、やむを得ず、フローレス島を本拠地 としたのだろう。 もう一つは、 これ以降もしばらくは、 ポルトガル本国から行政官が送られてくることは なかった、ということである。 それゆえ、 神父たちが貿易者たちの保護に積極的に関わり、 ひいては自分たちも交易に関わったのである。
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それらの
2.2.2 オランダとの確執
ハゲルダルは言う、 この頃までティモール島の政治的状況は、 土着の色を強く残していたものであろう、と。 [hagerdal-lords_of_the_land: xm4_dnl ] (cf [nordholt-71])
2.2.3 17世紀後半
2.2.4 18世紀
2.2.5 19世紀
2.2.6 ポルトガルの支配
これまでの記述から分かるように、 ポルトガルの東ティモールの植民地支配が いつから始まったかを定めるのは、 たいへんにむずかしい。 とりあえず、政庁がディリに移動した1769年からと 考えておこう。 18世紀後半からである。
ひとつ注目すべき運動は 「ラプタ」運動である。 それはプロテスタントに基づく、 ナショナリズムの運動である。 それが始まったのが 日本軍政期であるのか、 それ以前なのかはいまひとつハッキリしない。 わたしのインフォーマント (1963年生まれ)によれば、 最初のラプタの牧師が来たのは 1930年代だという。
第二次大戦後、東ティモールは 再びポルトガルの植民地(総督府の支配下)となる。 戦後のポルトガル時代は、 30年という、それなりの長さを もった期間であるが、 あまり多くのことは知られていない/ 語られていない。
カーネーション革命を受けて、 東ティモールの政治状況が活発化する。
1974年に以下の政党が結成される。
ティモール・レステは2つの像をもっている、 すなわち、外部からティモール・レステは 二つの語られ方をされてきたのである。
わたしの東ティモールへの興味は 民族誌的なものである。 わたしの第1回のフィールドワーク(1979年)に持っていた 唯一の本がフォックス編になる 『生命の流れ』 [z.fox-flow] である。 [traube-86] [z.mcwilliam-traube-land_and_life]
それは、わたしにとって、 Van Wouden の 『東インドネシアの社会構造の諸タイプ』 [wouden-68] の一例として、 あるいは 「東インドネシア」という研究領域 (studieveld) ( [fox-intro-flow]、 [dejong.pe-80]) の中の 一つの民族誌的な実例として、 わたしは見ていた。
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
一方で1974年、75年以降、 とりわけ1999年以降の新聞報道などを 通して語られる東ティモールは、 「なにか一つのモノ」という感じを 抱かせる書き方であり、 わたしたちもそのように 「東ティモール」というものがある、という 捉え方を、なんとはなしに、することとなる。 そのようなわたしたちの捉え方を 代弁して、 松野は『東ティモール独立史』の冒頭を 次のような文章で始める:
二一世紀最初の独立国、東ティモール。この小さな国の独立は、 幾多の苦難をのりこえて達成された。 一六世紀からのポルトガル植民地支配、 第二次大戦中の日本占領、 そして一九七五年からの二四年間続いた 隣国インドネシアによる支配と、 五世紀にもおよぶ外国支配の下で、 ティモール・レステは自由となる日を夢見て きた。 [matsuno-dokuritsu-shi: 1]
まだ出来ていない東ティモールの
歴史の教科書ならば、
このように書くだろう。
現在から見ればこのように見えるのだ。
東ティモールは、多くの人にとって、
世界のなかに
[jollife-78] [dunn-timor] [nakano-taylor] [matsuno-dokuritsu-shi]
3.3.1 神秘化
政治学者である Henk Schulte Nordholt (H. G. Schulte Nordholt の息子だとおもう)が、どこかで【要確認】、 「現代インドネシアの暴力を人類学者が 文化的に見ようとしている(たとえば jago の一類型として)。 しかし、 そのような見方は暴力を美化する 危険な見方だ。 現代インドネシアの暴力は、とりわけて、政治的なのだ」という ような警告を書いてはいた。
政治学者は、 自らを「ホントウのこと」の探求者として描く。
3.3.2 「ほんとうのこと」などない
ティモール・レステを語るのに インドネシアを抜きにしては語れない。 インドネシアは隣接 (metonymy) としてだけでなく、 モデル(metaphor)としても重要なのだ。
ギアツはナショナリズムを四つの 段階に分けて考えるよう、われわれに示唆する [geertz-after-j: 82]。 すなわち、 (1) ナショナリズム運動の形成と成立の段階、 (2) その勝利の段階、 (3) それが国家組織に衣がえする段階、そして (4) 国家に再編されたナショナリズムが他国と向き 合う段階である。
ここではこれほど細かくは分類せず、 「ナショナリズムの誕生」((1) と (2))と 「ナショナリズムの再編」((3) と (4))とに分けて 考えよう。
オランダ人が彼等の東インドにおける 植民地を「オランダ領(東)インド」 (Nederlandsch [Oost] Indi\"e) と呼ぶようになるのは 一八世紀以後のことであった。 しかし、一八世紀はもとより、 一九世紀が終わるで オランダの領土はジャワ島以外にはそれ程の 広がりを見せていなかった。 [nagadumi-keisei: 4--5]
5.2.1 「言説空間」という考え方
1999年(リファレンダム)あるいは 2002年(独立宣言)のどちらから数えるかは ともかく、 独立後すでに約15年を経たティモール・レステという 国家は、 ナショナリズムを意識的に維持する段階に きているであろう。
強烈な個性をもった指導者、 よくできたドラマのような革命闘争への ノスタルジア。 政党政治、議会制、官僚制、そして 軍人、事務員、地方の有力者たちなどの 新しい階級に対する幻滅。 進路の不確かさ、 イデオロギーの疲弊、 現実に広がる無差別暴力。 [geertz-after: 76]
The signs of this darkened moode are everywhere: in nostalgia for the emphatic personaities and well-made dramas of the revolutionary strugglee; in desenchantment with party politics, parlieamentarianism, bureaucracy, and the new class of soldiers, clerks; and local powers; in uncertainty of direction, ideologial weariness, and the steady speread of random violence; and, not the least, in a dawning realization that things are more complicated thant they look; that social, economic, and politicla probles, once thought to be mere reflexes of colonial rule, to disappear when it disappeared, have less superficial roots. [geertz-after: 235]
ギアツのこの文章は現在のティモール・レステを 的確に表現している。
ヒックスは2006年のエッセイの冒頭で、 すでに何度も繰り返されていることではあるがとしながら、 つぎのような諸問題を列挙する。
井上は2014年に刊行された論文の中で、 現在の東ティモールの問題を列挙していく。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・ その上で、彼女は村でのかわされる かつてのはなばなしい独立闘争の話をも ただし、 発表されたのは1971年であり、
インドネシアの国民語りはたいへんに 成功したものだと思う。 詳しくは、 『モノ語りとしてのナショナリズム』の 第五章「光のモノ語り」を読んでいただきたい。 ここで、 既発表の章に付け加えたいことがある。 それはセールストークのうまさである。
「ゴトンロヨン」 (gotong royong) という言葉が、 インドネシア性をあらわすものとして 60年代から80年代にかけて喧伝された。 どの
6.1.1 ナヘ・ビティ
6.1.2 ウマ・ルリック
6.1.3 鰐(わに)
ティモール・レステの、 すくなくとも、ディリの町のそこここに 鰐 (crocodile) の紋章を見ることができる。
6.1.4 ペツァウン/ウマネ
ウマ・ルリック
[1] 「ティモール・レステ」の他に 「ティモール・ロロサエ」、「東ティモール (East Timor)」などが使われる。 内側からも外側からも「ティモール・レステ」という 語が、最近は、もっとも頻繁に使われるようだ。 [Back]