異文化の見つけかた,相対主義と引用

中川 敏

1 序

2 相対主義と独我論
2.1 言語論的独我論
2.2 語り得ぬものとしての他者
2.3 独我論の風景
2.4 自閉症
2.5 文化相対主義
2.6 ピジョンホール文化相対主義

3 反相対主義としての独我論
3.1 「概念図式」論文
3.2 神の視点
3.3 反論の帰結
3.4 則天去私の共同体

4 独我論の外へ
4.1 濱本の言語観
4.2 デイヴィドソンの言語観
4.3 詩人がもっているもの
4.4 反水源地モデルの風景

5 独我論から相対主義へ
5.1 自閉症児がもっていないもの
5.2 いくつかのおとぎ話
5.3 いくつかのおとぎ話
5.4 アスペクト
5.5 二重の視点

6 引用
6.1 引用
6.2 「のめり込む」対「一抜ける」
6.3 引用いろいろ
6.4 遊び
6.5 アイロニー
6.6 ブレヒトの異化(オストラネーニエ)

7 芸術
7.1 引用の引用
7.2 前衛と後衛(キッチュ)
7.3 キャンプ
7.4 サブカル評論
7.5 不完全な引用と完全な引用

Draft only ($Revision$ ($Date$)).
(C) Satoshi Nakagawa
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1. 序

「私」は他者と同時に誕生した。 同様に、 自文化は異文化と同時に誕生した。

2. 相対主義と独我論

以上が正しいことを示すことが、 この小論の目的である。 それぞれに名前をつけておこう。 「世界には私の他に他我もある」と主張する立場を 「(個人)相対主義」、 「世界には自文化の他に異文化もある」と主張する立場を 「文化相対主義」と名付ける。

それぞれに反する立場にも 名前を与えよう。 「世界には私しかいない」と主張する立場を 独我論、 「世界には自文化しかない」と主張する立場を (「唯-文化-論」はあまりに不細工なので) 文化的独我論と呼ぼう。 後者はしばしば「普遍主義」 (あるいは「絶対主義」)と呼ばれる。

次の表 rel-abs が この小論全体の見取り図となるだろう。 この論文の売りの一つは、 普遍主義(あるいは絶対主義)を独我論として 位置づける、という点にある。 そのような措置が妥当であることは、 この論文全体を通じて示していく。

相対主義普遍主義
プロタゴラス独我論
文化文化相対主義文化独我論 or 普遍主義
表 相対主義と普遍主義
RelativismUniversalism
MindProtagorasSolipsism
CultureCultural RelativismCultural Solipsism or Universalism
表 Relativism and Universalism

わたしの意図を繰り返しておこう: わたしは独我論に反して、 相対主義を擁護していきたいのである。

2.1 言語論的独我論

今回の議論において 鍵となるウィトゲンシュタインの 独我論 (表の右上の枠である)について 復習しておこう。

野矢は『他者の声、実在の声』 [ noya-mind ]で ウィトゲンシュタインの 『論理哲学論考』(トラクタートゥス) [ wittgenstein-tractatus ]に展開される 独我論を、 通常の独我論(現象的独我論)とは 違う、ユニークな独我論、 「言語論的独我論」として再提示する。

『論考』を独我論に位置づけようとするのであれば、それ は言語と 世界を 同等視するよう[101/2]な、すなわち、論 理空間[footonote omitted]と世界の可能性の広がりとを 同じものと捉えるようなところに成立する独我論でなけれ ばならない。そこでこれを、現象主義的独我論と区別して、 言語的独我論と呼ぶことにしよう。

「論理空間」とは、 野矢の簡単なまとめによれば 「いまの私に開かれている 思考可能なものの総体」である。

最初の絵、ムンクっぽい絵を参照して いただきたい。

2.2 語り得ぬものとしての他者

言語の限界が世界の限界であり、 その外側(絵では暗闇となっている) とは「語り得ぬ」ものなのである。 そして他者とはまさに、 この論理空間の外側の別名に他ならないのである。

前回の発表 (「ダンゴムシに怒りを感じるとき」)は、 この「どうしようもなく正しい」独我論を前提にして、 それでも他者について語ろうとする試みであった。

ここでは、戦場を個人から 社会に移しかえて、 同じ試み、 独我論から 抜け出そうとする試みを繰り返すこととなる。

2.3 独我論の風景

この独我論から帰結する風景を描いておきたい。 ウィトゲンシュタインは言う 「独我論を徹底する と純粋な実在論と一致する」(五・六四)と。

ウィトゲンシュタインの独我論と実在論との 同一性の議論を、 野矢はすばらしい喩えで説明する。 「世界のすべてが自分のものだとして育て られてきた」 [ noya-kataru: 140 ] そのような王様を考えてみよ、と。 そのような教育の結果、 「彼は「自分のものではない」ものが何ひとつ想像 できず、「これもまた私のものだ」などという庶民的考えをもつこともな かった。「私の」という所有格は、彼にはまったく無用 だった」ということになろう。 独我論も同じである。 他者の心のないところでは、 わたしの心さえも存在しない。 たとえ端的に心に関する事象、 痛みや悲しみをとりあげても、 「それはもはや心の描写としての眼目を失い、 世界描写に等しいものとなっ てしまうのではないだろうか」 [ noya-mind-bunko: 125 ]と。 そして野矢は次のように結論する: 「「唯一の私の心」 という言い方はできない」 [ noya-mind-bunko: 125 ]だろうと。

すべてを所有する王の語彙に 「わたしの」や「所有」がないように、 独我論者の語彙に 「わたしの」や「心」は存在しない。 まとめよう。 独我論には「わたし」は存在しない。 そしてそこに広がる風景は 存在論の世界なのだ。

純粋存在論の世界とは、 認識論の世界に比べれば「影のない」 あるいは「のっぺらぼうの」世界と呼べよう。 認識論の風景はわたしの知ることのできない もの、 たとえば「ここからは見えない場所」、 「わたしからは知りえない他者の心」などの影を持つ 風景である。

2.4 自閉症

【以後の文章では PC 的配慮をいっさいしていない。 引用は不可。 正当化としては ヤコブソンが「失語症」の症状から 言語の特徴を示したように [ jacobson-j-1977 ]、 わたしは自閉症の症状から 心の特徴を示したいのだ。 】

純粋な独我論は、(1) 経験的には 幼児と自閉症者に見られるものであろう。 (2) 理論的にはウィトゲンシュタインの独我論 (言語論的独我論) ( [ wittgenstein-tractatus ]、 [ noya-tractatus ]) がそれに当たる。

この並行関係を示すのは至難のわざであろう。 ここでは、 印象的な自閉症の研究家、村上による 一つの知見を引用したい。 ここで示したいのは 研究者によって描かれる自閉症児に開ける風景と 独我論の風景の酷似である。

否定性というカテゴリーの成立が、 三次元空間(奥行き)を可能にしたように、 対人関係においても 「他者の心は知り得ない」という否定性が、 「私」と「あなた」という奥行きを可能にしている。 他者の体において、 図式化不可能な余剰あるいは欠如を「人格」によってふた をするのである。 [ murakami-2008-autism: 171 ]


自閉症、あるいはアスペルガー障害の人たちは、 否定性が欠如している、と村上は言う。

さらに、 彼らには他者がいないだけではない。 そこには「私」すらいないのである。 村上は言う:

クレーン現象を行う自閉症児の場合には、 非人称的欲求はあるけれど も、行為主体あるいいは行為の統覚はない、と先にまとめた。これは、言 いかえると、超越論的主観性はあるけれども、行為主体にも想定されるは ずの純粋自我はない状態である。欲求を含む体験の統一、束は成立してい るが、そこに能動性の極はない。それゆえ、あたかも自我が傍観している かのような一見矛盾した状態が生起している。 [ murakami-2008-autism: 159 ]

自閉症児には、 独我論者がそうであるように、「他者」のみならず、 「私」はないのである。 1

2.5 文化相対主義

さて、以上で敵の描写を終える。 このような言語論的独我論に対して、 わたしは文化相対主義を擁護していこうと思う。

相対主義は危うい立場である。 ほとんどの相対主義者は、 自分の立場を述べる際にさまざまな 防壁をあらかじめ作成する。 ギアツによる自身の立場の命名、 「反反相対主義」 [ geertz-anti-anti ] はその最たるものである。 自分が「相対主義」に立つ、と宣言することは、 それほどに危険なのである。

2.6 ピジョンホール文化相対主義

わたしが擁護したい相対主義は、 みなが怖くて主張しない、そのような 相対主義である。 それは、 「異なる文化に属する人々は 異なる世界に住む」 (これは濱本論文 [ hamamoto-relativism ]の冒頭の 引用である) というテーゼだ。 このテーゼ自身は、 それほど奇を衒ったものとは思えない。 しかし、 そのテーゼと表裏一体となったものとして、 さらに 「異なる文化に属する人々は 理解できない」というテーゼも同時に主張するとき、 相対主義は 「無防備な立場」 [ hamamoto-relativis: 105 ]と なろう。 そして、 この「無防備な立場」こそ、 わたしが弁護したい類の相対主義である。 この相対主義を 知的「アパルトヘイト」 [ hamamoto-relativism: 107 ]と呼ぶことも 可能だろうが、 わたしは、 ピジョンホール(鳩の巣箱) 相対主義と呼びたい。

このようなピジョンホール文化相対主義が 成り立つためには、 次のような言語観を必要とする:

(1) コミュニケーションは 話し手が自分のメッセージを規則にのっとって コードに載せ、 聞き手はそのコードを規則にのっとって デコードする、

(2) これらの規則は 文化の中で共有されている。 この言語観を野矢にならって( [ noya-mind-bunko ]) 「水源地モデル」と呼ぶこととしよう。 ひとつの水源地があり、 共同体のすべての成員がそこから水を汲むとき、 全員が同じ水を共有することになる。 規則もそれと同じように、 水源地から共同体に供給され、 全員がその規則を共有するようになる、 というわけである。

以上のように私の擁護したい 文化相対主義、すなわちピジョンホール文化相対主義を 提示したとたんに、 読者はすぐにも反応したくなるであろう。 というのは、 これこそ、 批判を恐れて誰もが公言しなかった類の、 すなわち「無防備な」相対主義であるからだ。

3. 反相対主義としての独我論

この節では、 反相対主義の議論が独我論であることを 示す。

3.1 「概念図式」論文

ピジョンホール相対主義を完膚なきにまで 叩きのめしたのが デイヴィドソンの 「概念図式という観念について」 [ davidson-scheme ]である。 その中で デイヴィドソンは概略つぎのような 議論を展開する。 以下、文化と言語を同一視して 記述する。

異文化が理解(翻訳)不可能だとすれば、 その当該の文化(言語)が 文化(言語)であるということが どうして分かるのか。 あるモノが 理解(翻訳)不可能であるならば、 それが文化(言語)であると言うことは 不可能である。 証明終わり。

3.2 神の視点

デイヴィドソンの批判は次のように 言い換えることも可能であろう: 「ピジョンホール」の構図は鳥瞰図である。 いったい誰がそのような鳥瞰図を得ることができるのか。 それは神の視点である。 そのような立場に立ちうる人間はいない。 私たちが持ち得るのは一つひとつのホールの中からの 視点、 虫瞰図のみである。

3.3 反論の帰結

デイヴィドソンの議論の帰結が、 ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の 独我論 (野矢の言う「言語論的独我論」) とそっくりであることに 注目してほしい。 絵で描けば、 次ページにある通りになろう。 上にあるのが、 周りを暗闇で取り囲まれている独我論者である。 周囲の暗闇こそが論理空間の外部、すなわち 他者である 下の方の図を見ていただきたい。 ピジョンホールの一つの穴から見るかぎり、 ほかの穴(文化)は(文化としては)見えない--- それは暗闇である。 その周囲の暗闇こそが論理空間の外部、 すなわち異文化なのだ。

3.4 則天去私の共同体

ここでデイヴィドソンが 水源地モデルの信奉者だと仮定しよう。 すなわちコード・デコードと規則の共有という 言語観を持っているとしよう。 この時、 「概念枠組みという観念」おいて描かれる 文化は、 野矢の言う「則天去私」の共同体に重なることとなる。

則天去私の共同体とは、野矢によれば、 すべての人が規則に従い、慣習に従うその ような共同体である。 「天に則り、私を去る」、 すなわち人びとは規則について 考えることなく、 行動がそのまま規則に則った行動となるのである。 規則はもはや規則ではなく、 自然の法則となるのである。 世界は単相的なものとなる。

4. 独我論の外へ

デイヴィドソンの 「概念図式」論文 [ davidson-scheme ] の水源地モデルバージョンの結論は 次の通りとなる: (1)水源地モデルを採用する限り 相対主義は成立しない、 (2)そこに現れる共同体は 則天去私の共同体である。

この結論、とりわけ(2)の結論は、 われわれの知っている人類の共同体と 大きく異なっている。 すなわち、 この議論はどこかで間違っているのだ。

すぐ目につく方法は 水源地モデルを否定するやり方である。 ここでは そのような議論を2つ紹介したい: 濱本の議論 [ hamamoto-relativism ]、 とデイヴィドソン自身による議論 [ davidson-86 ] である。 2

4.1 濱本の言語観

濱本は「水源地モデル」批判を、

ブロックは、 相対主義では社会の変化が説明できないという。 なぜなら、 (濱本の引用を引用するが) 「あらゆる認識が、 異義をとなえるべき対象にあらかじめ適合的に形づくられている以上、 新たな見なおしなどというものは不可能だから」 [ hamamoto-relativism: 111 ] ( [ bloch-77: 281 ])だ。

濱本は、ここに現れている言語観を 「奇妙な」 [ hamamoto-relativism: 111 ]ものであると言う。 そして、それこそがブロックの議論の弱点となるのである。 その奇妙な言語観とは、 「現実についてある特定の仕方以外で 語ることを許さず、 現実をある唯一のしかたでしか提示できないような 概念なり言語」 [ hamamoto-relativism: 111 ]があるという 考え方である。

すなわち、濱本は、 現実をある一つの仕方でしか提示できないような 言語はない、と主張するのである。

濱本の言語観を表わすキーワードは 「ズレ」である。 彼は言う: 「言語が自らのうちに自分自身との「ズレ」を 含み、 また不断にそうした「ズレ」を生みだすことによって 特徴付けられる体系である、という 言語に関するきわめて基本的な事実」 [ hamamoto-relativism: 112 ]があるというのだ。

正直な話、「何ものかが自分自身とズレがある」という 言い方はわたしには理解できない。 あるものが自分自身から 「ズレ」てしまったら自分自身ではあり得ないだろう。 その理解への一つの鍵が、 濱本の次のことばである: 「言葉の『本来の用法』だとか 『文字どおりの意味』だとかを仮定したり確定しようとする 努力がつねに困難に陥るという事実」 [ hamamoto-relativism: 112 ]が、 ズレの存在の一つの証拠だと彼は言う。 ここでは、とりあえず、 言葉の意味は(「意味」がなにであれ)その場その場で 違ってくる、といった曖昧な捉え方をしておこう。

4.2 デイヴィドソンの言語観

上記の私による濱本解釈は、 デイヴィドソンの 「墓碑銘のすてきな乱れ」 [ davidson-derangement-j ] [ davidson-86 ]からヒントを得た 解釈である。 この論文は難しい論文である。 わたしが理解した限りでは、 デイヴィドソンは (当該の論文で彼自身が引用しているが) 次のハンプティ・ダンプティと同じことを 主張しているようである。

ハンプティ・ダンプティは怒ったように言った。 「わたしが言葉を使うとき、 その言葉は私が思うとおりの意味をもつのだ。 それ以上でも以下でもない」と。 (Through the Looking Glass by Lewis Carroll)


簡単にデイヴィドソンの議論の筋をまとめると次のようになる。 まず、ある特定の言語に対する理論(規則)を 彼は二つに分ける:事前理論と当座理論である。 言語がじっさいに発話される以前から 話し手・聞き手が持っているのが事前理論であり、 じっさいに発話される、 すなわちコミュニケーションの場で発動する理論 (その場で作り上げられている理論)を当座理論 3 である。 ちなみに、 これまで言語に関して議論されていた 水源地モデルは、事前理論に関してであった。

彼の導き出す結論は、 「言語というものは存在しない」という 挑戦的な言い方であらわされる。 すなわち、 事前理論はない。 すべて当座理論だけで会話は達成されていくのだ、 ということである。 4 たしかに、 事前理論があるかのような状況がほとんどだが、 それはたまたまであり、 論理的には当座理論だけでじゅうぶんだ、 これが彼の結論である。

4.3 詩人がもっているもの

濱本の「代価」 [ hamamoto-relativism ]に戻ろう。 彼は言語はつねに自分自身とのズレを内包していると 主張した。 この主張はあいまいだが、 デイヴィドソンと重ねあわせて理解することは それほど濱本の意図と違ってはいないだろう。 まずはデイヴィドソンの極端な議論を薄めて、 みよう。 事前理論もあるが、 だいじなのは当座理論である、と。 そのようにデイヴィドソンの議論を飼い馴らした 上で、 濱本の議論をつぎのようにまとめることができる--- すなわち「ずれ」とは 事前理論と当座理論のずれなのである。

濱本は、 このズレを、経験論的に詩人を持ち出して説明する。 もし、ブロックの言うように一つの事象に対して 一つの言いまわししかないような言語だけわ れわれが持っているのならば、 この世に詩人などいなくなってしまうだろう、と。 すなわち、彼によれば、 詩人の存在こそがこのズレの証拠なのである。 5

4.4 反水源地モデルの風景

それぞれの議論の紹介に入る前に、 それらの結論が導く風景を描写しておきたい。

タンバイア [ tambiah-85g ] 「東南アジアにおける銀河政体」という論文の中で、 東南アジアにおける(伝統的な)国家は 西洋近代のように国境によって 明確に区分されるような構造をとっていないと 主張した。 東南アジアの国家は、 中央に光源(たとえば王宮)があり、 その光の届く範囲を国家とする、 そのような国家像を呈しているのだという。 光は光源から離れればじょじょに衰える。 それと同じように東南アジアの国家には 明確な境界は存在しないのだ、と主張した。

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

・・・書いててあまりいい比喩ではないような 気もしてきたが・・・

あまり踏ん切りがよくない。 わたしはピジョンホールホールが好きなのだ。

5. 独我論から相対主義へ

濱本の相対主義擁護のレトリックは次のようになる--- 「もし相対主義があやまっているのなら 詩人など存在しないはずだ。 詩人がいるということは、 相対主義が正しい、ということだ」と。

わたしが展開する相対主義擁護のレトリックは 次のようになる--- 「もし相対主義があやまっているのなら、 わたしたち全員が自閉症となる。 そうではないということは 相対主義が正しい、ということだ」と。

5.1 自閉症児がもっていないもの

それでは、 われわれが持っていて自閉症児に欠けているものは 何だろうか。

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

5.1.1 二重構造の把握

玉井 [ tamai-jiheisho ]は 次のような事例を挙げる:

ある日彼 [自閉症児]は、 明治村にいった。ここには昔、京都市内を走っていた電車が ある。展示品であると同時に、広い構内の交通機関の役も果たしている。 昔通りの服を着た車掌さんがいて、 観光写真に収まってくれる。 彼はその車掌さんに、

「京都の市電は廃止になった?」ときいた。

「廃止になったよ」

同じ質問は7、8回つづいた。 彼はいまここで乗ってきたではないかといいたかったの であろう。 そういういいかえができないのが、自閉症児の特徴のひとつでもある。 [ tamai-jiheisho: 110--111 ]


玉井はここに欠けている能力を 「ここは博物館である。したがってここで動い ているにしてもそれは社会に通用するものではない」 [ tamai-jiheisho: 111 ]という「二重構造」 [ tamai-jiheisho: 111 ]を 把握する能力と呼ぶ。

5.1.2 知覚的空想

同じ現象を村上は 「知覚的空想」(の欠如) [ murakami-2008-autism: 111 ] と呼ぶ。 6 自閉症児を観察する中で、 村上は ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

5.1.3 視点の二重化

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

5.2 いくつかのおとぎ話

[ husserl-phantasy ] [ brough-intro ]

5.3 いくつかのおとぎ話

この「視点の二重化」こそが、 自閉症児の持っていないものであり、 また独我論からは帰結しないものである。

5.3.1 鏡像段階---心

ラカンの鏡像段階説を紹介しよう。

幼児は、ある段階までは、 各感覚(手があること、足があること)を ばらばらにしか経験できない。 しかし、 鏡の中に自分を見て (とくに母親といっしょにいる自分を見て)、 その鏡像こそが自分であると認識する段階が来る (6ヶ月から1才半だという)。 そのとき、すべての感覚を統覚する「自分」が 生まれるのだ、というのだ。

ここでのポイントは、 幼児が「自分」を発見するのは、 飽くまで、 彼女が自分を他人(母親)に見られたものとして 発見するのだ、ということである。

「自分」の発見は 同時に「他人」の発見でもあるのだ。 [ lacan-mirror-j ] [ mp-youji ]

5.3.2 模型の視点

幼児に鏡像段階について聞くわけにも いかない。 わたしたちの中には同じような 経験をした人もいる。 矯正歯科でしばしば使われる歯の模型である。

石膏でかたどった自分自身の 歯の模型を見せられるとき、 私たちは不思議な感覚に襲われる。 その不思議な感覚を説明してみよう。

人間は「自分の歯」が、 もっともプリミティブな意味で典型的な 自分だと思っているだろう。 それは「自分の内側」にあり、 他の人に見えない、内奥の自分なのである。 そして舌を通じていつもそれを実感できる、 そのような具体的な内奥の自分なのだ。 (じっさい、筋肉の発達が充分でない 幼児でも舌で自分の口腔内をさぐることは できるだろう)。 言い換えれば、それは 心のようなものなのだ。 心も歯も、 自分には最も親密で、 そして他人には見えないもの、 そのようなものとして「典型的な自分」を 表すものなのです。

さて、 歯の模型を見て感じる不思議な感覚とは、 一つしかないと思っていた 「自分の歯」を見る視点が、 じつはもう一つあること (歯医者さんの視点である)に気づき、 たじろぐ (disorineted)、 そのような感覚なのだ。

5.3.3 ジョーンズ革命---心

[ sellers-empiricism-j ]

5.3.4 信念文の発生---文化

ポンチ絵を見ていただきたい。 [ hamamoto-wager ]

5.4 アスペクト

野矢が則天去私の共同体という仮想の共同体を 想定したのは、 ウィトゲンシュタインによる アスペクト盲の議論 [ wittgenstein-pi ] を追う流れの中である。 アスペクト盲 とは、 ある図形を一つのアスペクトのもとでしか見れない そのような(想像上の)疾患である。

アスペクト盲議論の一つの重要な事実は、 アスペクト盲の人間にとって 彼の見ているアスペクトは、じつは、 アスペクト(見え)ではない、ということである。 あるモノがアスペクトになるのは、 他のアスペクト(他者の視点)がある時だけである。 アスペクト盲の人には、 他のアスペクトはないのであるから、 それは単純に存在である。

相対主義普遍主義
アスペクトを見る人アスペクト盲
文化文化相対主義者則天去私
表 相対主義とアスペクト盲

5.5 二重の視点

6. 引用

「視点の二重化」、あるいは 「知覚的想像」、あるいは 「遊び」でキーワードは充分では あるのかもしれない。 これを「引用」という言葉で言い換えると、 もう少し理解が広がることが期待される。

6.1 引用

引用について考えよう。

6.1.1 言及としての引用

哲学の中で、言葉の使いかたには二種類が、 すなわち、 「使用」 (use) と 「言及」 (mention) があると言われる。 たとえば、 「中川は阪大の教員だ」という文で、 「中川」という語は使用されている、という。 それに対して、「『中川』は全部で二文字だ」という (引用をつかった)文では同じ言葉 (「中川」)は言及されている、と言う。

引用とは言及の典型的な例である。 引用される時、 すなわち言及される時、 言葉はモノのように扱われる。

『言語ゲームが世界を創る』 [ nakagawa-gengo ] で使った言葉、 「のめり込む」と「一抜ける」が、 使用と言及とに対応する。 引用するとは(すなわち、 言及するとは)それから一抜けることなのである。 「中川」という言葉を、 その意味(それが中川を指していること) はしばらく忘れて、 一抜けて見る、モノとして見る--- そのような視点を獲得するのが、 引用の効用なのでである。

6.1.2 使用としての引用

引用が言及であること (一抜けることであること)は大事なことであるが、 もう一つ大事なことがある。 それは引用された語は使用されて (のめりこんで)いないわけではない、という ことでである。

「中川が 『明日学会で発表するつもりだ』と言った」という文を 考えてみよう。 「明日学会で発表するつもりだ」は、たしかに、 引用である。 中川の発言は、ここで、 言及されている。 しかし、 その意味を忘れてモノのように見る (一抜けて見る)という今迄の「言及」の説明は あてはまらない。 引用は言及であるけれど、 同時に(間接的にせよ)使用されてもいるのある。 (これがデイヴィドソンが「引用」 [ davidson-quotation ]の論文の中で 冒頭で指摘したことである)。

引用とは使用(のめり込むこと)と 言及(一抜けること)とを同時に行なう 作業なのである。

6.2 「のめり込む」対「一抜ける」

それでは相対主義について 「引用」という言葉で (そして「一抜ける」という言葉で) 説明してみよう。

生活するとは、 自文化を生きている状況である。 それはのめり込んでいる状況である。 そのような人が、異文化に出会ったとしよう。 そこで引用がされる。 「エンデでは母方交差イトコ婚をしている」という 報告は一種の引用である。 ただし、それは言及のみであり、 エンデの人の慣習をモノのように語っているだけなのだ。

これはまだ相対主義ではない。

相対主義は、自分の文化をも引用できたときに 成立するのである。 外側の視点、すなわち、 エンデの人の視点から 「日本では母方交差イトコ婚をしていない」という 「珍しい」慣習を報告できたとき、 その報告者は相対主義を身につけたと言えるのである。 彼は、自分の文化を生きてきたのだが、 その文化が引用の対象になる時、 その引用の内容が単に言及されるモノ (珍しい慣習)ではなく、 生きられるモノであることを知っている。 それゆえ、遡って、 「エンデでは母方交差イトコ婚をする」という報告をも、 単なる言及として、 すなわち珍しい慣習としてではなく、 生きられていることを知ることができるのだ。

すなわち、引用の内容が 生きられた体験であることをも知ること、 すなわち使用と言及を同時にするとき、 彼は相対主義を体得したと言えるのである。

6.3 引用いろいろ

さて、 これまでは相対主義の原理を説明するための議論であった。 いわば「人類学原論」である。 これからは「人類学各論」となる ---

じつは「視点の二重化」や「引用」の議論は、 さまざまな民族誌を読みとくのに役立つのだ、という ことを示していきたい。 ここでは、 特別な社会だけに見られる民族誌ではなく、 日本という社会にも見られる引用の議論を していこう。

6.4 遊び

When a play is not a play? When it's serious. [ schwartzman-1976-childrens_play ]

すぐ考えつくのは「遊び」です。 『言語ゲームが・・・』でも「遊び」を例に出しましたが、 「遊び」は「のめり込む」「一抜ける」という言葉を 使うのに最適の文脈です。 あるいはベイトソンの「遊び」論 [ bateson-1972-play ]のメタメッセージ論も、 引用として解釈し直せます。 子犬が遊んでいる(お互いに噛んでいる)状況です。 子犬たちは、ここで「これは遊びである」という メタメッセージを発している、とベイトソンは 言います。 ぼくの言葉で言い換えれば、 子犬は噛むことを引用符に入れているのです。

6.5 アイロニー

[ sugeno-shin_shujigaku ]

菅野はアイロニーについていくつかの説を 検討した後、 スペルベルとウィルソン [ sperber-wilson-relevance-j ]による 「反響説」がアイロニーを説明する 最もよい方法であると結論づける。 彼の説明をしばらく追っていこう。

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

6.6 ブレヒトの異化(オストラネーニエ)

アイロニーの行為を呼ぶのに、ブレヒトから「異化」 (Verfremdung)の名を借りたのは十分な理由に立っての ことである。 演技を字義的な本物の行為へ 転身せしめる魔法などを、 演劇は求めるべきではない、 と彼はいう。 彼はその代わりに、 演技の原理として異化を主張して倦まなかった。 異化とは何か。 簡単にいって、 それは出来事や性格から当然なもの、 既知なもの、明白なものを取り去って、 それに対する驚きや好奇心を作り出すことだ。 [footonote omitted] では、どうしたら そういう効果を生むことができるのか、 演技を模倣ないし直接引用ではなく、 実地教示 (Denmonstration) として 構成することによってである。 演技者は、出来事を間接的に引用し、 反復するとこに努めなくてはならない。 演技が「繰り返し」だからこそ、 観客は感情同化に流されずに、 自己の能動性を保ちつつ、 それを観察し、認識し、研究することができるのだ。 [ sugeno-shin_shuji: 197 ]

7. 芸術

博物館も一種の引用だと言えよう。 博物館に展示されている (もう使われなくなった)電車は、 電車でありながら、 同時に引用されたものなのだ。

美術、とりわけ絵画もそのようなもの、 すなわち、引用されたものと言えるだろう。 絵に描かれた(例えば) 真珠の耳飾りの少女にのめりこむと 同時に、 それが「絵」に過ぎないことを同時に体験する、 それが絵画の鑑賞である。 引用符にあたるのが額縁である。 [ davidson-quotation ] [ goodman-ww-3-inyou ]

7.1 引用の引用

議論がここまで来たとき、 現代美術で額縁だけを描いた絵のことを思い出し、 ウェブで探してみたが、見つからなかった。 7 この幻の絵を『額縁』と呼ぼう。 同じような効果を出したじっさいの作品として デュシャンの 『泉』を挙げることができるだろう。 市販の便器をひっくりかえして 署名をした作品である。

その「効果」とは、 引用符を見せることである。 額縁は2つの視点を成立させる引用符の役割を 果しているのだ。 その役割を果たすためには、 額縁そのものは見えてはいけない。 『額縁』(という絵)は、 絵画を成り立たせている引用という メカニズムそのものを鑑賞者に意識させる、という 効果をもっているのである。 『泉』は同じことを美術家という引用符に 対して行なっている、といえるだろう。

そのような効果を、ちょっと気取って 「引用の引用」と呼ぶことも可能だろう。 さて、 「引用の引用」という言葉は、 グリーンバーグによる前衛芸術論を思い出させる。

7.2 前衛と後衛(キッチュ)

美術評論家、グリーンバーグの1939年の論文 「前衛とキッチュ」の議論 [ greenberg-kitsch ]は 次のように要約できる。 現代は2つの対照的なものを生んできた。 一つは前衛であり、 一つはキッチュである。 まず前衛について述べよう。 これまでの美術が自然の模倣だったのが、 現代の美術は、言わば、模倣の模倣と言える (「芸術のための芸術」、「純粋芸術」)。 西洋の産業社会は前衛 (avant-garde) を生み出すと同時に、 後衛 (rear-guard) をも生み出した。 それがキッチュなものたちである。 グラビア雑誌の表紙だとか、 ポップソングだとか、 漫画などである。 キッチュは前衛の結果だけを模倣するのである。

このあと、グリーンバーグは キッチュの悪口を書いていくのだが、 それは省略する。

7.3 キャンプ

これに対して、 1960年代にはいって、 ソンタグが「キャンプ」について書く [ sontag-camp ]。 ソンタグのこの議論は、とても分かりにくい。 勝手に2つの議論 グリーンバーグの議論と関係づけながら ソンタグの議論を まとめよう: ソンタグの議論はキッチュの(少なくとも一部のキッチュの) 擁護論なのだ、と。 もっと分かりやすく言えば 時代に先駆けた サブカルチャー擁護の弁なのである。

「キャンプ」という言葉は私も知らなかった。 少なくとも日本では根付かなかったようだ。 辞書によれば、次の通りである。

ひねくれてインテリ受けするほど極端な、 陳腐さ・工夫・月並みさ・見せびらかし


このようなキャンプについての、 わかりにくいソンタグの議論を 要約することは諦める。 この論文でソンタグは、 「キャンプなもの」「キャンプでないもの」の 例をいくつもだしているのだが、 ぼくには知っている作品がほとんどない。

知っている作品は日本の怪獣映画だ。 彼女は、 『ラドン』、 『地球防衛軍』(The Mysterians)、 『美女と液体人間』(The H-Men) を キャンプなものとして挙げている。

この例や辞書の定義から考えると、 「キャンプ」とは、 Β級映画やゆるキャラなどに見られる (インテリ好きの)特徴だと考えるのが、 とりあえずは、いいようだ。

さまざまな作品を挙げて 「これはキャンプだ」「これはキャンプではない」と 言っていることから分かるように、 ソンタグは「キャンプさ」というものを作品を 分ける基準としてつかっている。 ソンタグの議論に反して、 私が提案したいのは、 「キャンプさ」というのは見るひとの側に 存在する、という考え方だ。 ソンタグの立場に立てば、 「キャンプな」作品を作者は意図的に作れることになる。 私が主張しているのは、 「キャンプな」作品は鑑賞家が作るものだ、という ことである。

グリーンバーグの「キッチュ」論と結び付けて、 私の言いたいことを まとめると次のようになる --- 前衛は引用の引用である(芸術のための芸術である)。 それに似て非なるものがキッチュであり、 それは後衛である(芸術ではない)。 そのキッチュな作品に目をつけて芸術として 解釈したものこそが キャンプな作品なのだ、と。

別のまとめ方をしてみよう--- 前衛は評論家を必要としない。 作家は作品を前衛として (すなわち引用の引用として)作り出すのである。 それに対して、 キャンプは評論家が必須条件である。 評論家がそれをキャンプだと見なすことによって、 それは引用に すなわち芸術作品になり得るのである。

7.4 サブカル評論

さきほどソンタグのキャンプ論は、 いわばサブカル評論の先駆けだ、と言いました。 「サブカル評論」ということばで私が指しているのは、 オタクや AKB48、あるいは ラノベ(ライト・ノベルのことだそうです)などの 評論 (たいていの場合、 難解な哲学的な表現に彩られている評論) である。

なお、サブカル評論について私は ほとんど無知である。 これからの議論は、 たんにおぼろげにもっているぼくの サブカル評論に対する偏見に基づく、 たいへんに無責任な議論である。

7.5 不完全な引用と完全な引用

「引用」を紹介したときの 私の議論を思い出して欲しい。 引用は言及(一抜けること)だが、 それだけではない。 引用はつねに使用(のめり込むこと)と 表裏一体にいるのだ、と言った。

言及だけしている引用を 「不完全な引用」と、 そして言及と使用とを同時にしている 引用を「完全な引用」と呼ぼう。 「エンデでは母方交差イトコ婚をしているんだ。 おかしいだろう」と言うことは、 不完全な引用である。 それに対して、 「エンデでは母方交差イトコ婚をしている。 その事実を、エンデの人たちは生きているんだ。 ぼくらがこの文化を生きているように」と言うとき (すなわち相対主義に立つとき)の語り方は、 完全な引用である。

私が言いたいのは、 サブカル評論や現代美術は引用されているモノ (サブカルであり、また芸術そのものでもある)に 対して、 単に言及しかしていないように見えるということである。 最初の頃に使った比喩をもう一度使えば、 彼らは引用された作品をモノのように扱っている、とい うことです。 それは不完全な引用なのだ。

Camp sees everything in quotation marks. It's not a lamp, but a "lamp"; not a woman, but a "woman." To perceive Camp in objects and persons is to understand Being-as-Playing-a-Role. It is the farthest extension, in sensibility, of the metaphor of life as theater. [ sontag-camp ]

[ danto-artworld ]

Bibliography

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ENDNOTES

[1] 酒井は自閉症児における「私」の不在を、 他者の不在にむすびつけて論じている [ sakai-jiheisho: 148 ]。 これについては後に詳述する。 [Back]

[2] 「水源地モデル」の命名者である 野矢も、このモデルを批判している。 それは概略、 後期ウィトゲンシュタインの「生活の形式」こそが 規則への「一致」を生み出している議論である。 「私的規則の不可能性」とまとめることができる議論な のだろうと思う。 しかし、 わたしにはよく理解できないので、 ここでは省略させてもらう。 [Back]

[3] と言っても、ある理論がじっさいに聞き手・ 話し手の頭にあるわけではない。 コミュニケーションが成立した時、 ある種の理論に合致するように成立していたと 記述が可能である、という意味でしかない。 [Back]

[4] スペルベルとウィルソンの 「関与性理論」 [ sperber-wilson-relevance-j ]が、 当座理論を説明する理論のように思えるが、 よく分からない。 [Back]

[5] デイヴィドソンは、おなじように 言い間違いの多い人を、彼の議論の 証拠として挙げている。 [Back]

[6] 「知覚的想像」(conceptual phantasy) は フッサールの言葉である。 [ husserl-phantasy ] [ brough-intro ] [Back]

[7] マグリットの絵があったが、 ぼくの記憶はこの絵ではない。 たぶん、そんな絵はぼくの記憶にしかないのかも しれない。 [Back]