人生そのものが引用である
---
ホルヘ・ルイス・ボルヘス
2 アスペクトと引用
2.1 アスペクト
2.2 引用
2.3 まとめ
3 人類学と引用
3.1 流用と先住民の叡智
3.2 地と図
3.3 まとめ
4 アイロニーと引用
4.1 アイロニー
4.2 ハイパーインフレ
4.3 まとめ
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(C) Satoshi Nakagawa
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この論文は「異文化の見つけ方」 ( (中川 2014))の 続編である。 当該論文の出発点は古典的な 相対主義の文化観である。 そのような文化観に基づく限り、 論理的に「異文化」の存在の余地はない--- 「異文化」は語り得ぬものとなる。 文化は自閉症的様相を呈すのだ。 その出発点から異文化を議論に 入れるために、 当該論文は経験論的な手法で議論を 進める。 われわれの(「人類の」と言ってよい) 生得の能力 (それによって、全ての人が 自閉症になるわけではない能力)に 訴えかけたのである。 アスペクト把握である。 アスペクト把握こそが 自閉症者に欠けている能力であり、 その能力を人類学者に付与するならば、 古典的な文化観は、同時に 相対主義を可能にする、 そのように議論を進めた。
この論文では、 アスペクト把握を付与したいのは、 現地の人びとに対してである。 すなわち、 民族誌の分析にアスペクトの考え方を適用していきたいのだ。 人びとがもう一つの文化を見つけるプロセスを見ていきたいのである。
メルロ=ポンティは言う:
「人はけっして同時に二つの世界に属するわけに
はゆかないのだ」
(219:メルロ=
ポンティ 1967) と。
彼の多言語話者の比喩をそのまま用い、
わたしは文化が変化するとき、
それは
呪術を例にすると分かりやすいだろう。 途中の段階が曖昧なものとする議論として、 浜本の斜面の比喩がある。 人が呪術的思考法に陥っていくさまを、 人が尾根から谷底へ斜面をすべりおちていく様子に例えている。
尾根を歩いている限りほんのちょっとどちらかに足を踏み 出すと、どちらかの斜面に入ることができる。・・・・・ 一方の斜面に 足を踏み入れると、重量の力であれなんであれ、人をそ ちらの斜面の下へ下へと向かわせる抗いがたい力が働い ている。しばらくそれに身を任せて、斜面の下へ向かっ ているうちに、いつのまにか再び分水嶺に引き返して反 対側の斜面に行くことが困難になっている。 (11:浜本 2014)
これは、 「科学的」な考え方をもっていた人が、 いつの間に呪術的な思考法に呪縛されていくさまの 比喩である。 この比喩では最初の段階(尾根)と 途中の段階、そして最後の段階(谷底)に 明確な境界はない---それはのっぺらぼうの斜面なのだ。 わたしが言いたいのは、 このすべり落ちていく状況が離散的である、 というのである。
白川・関による 呪術の心性をあらわす、 「Aと分かっているでもやはり(B)」 ( (白川 2012)、 (関 2012))のイディオムのほうが わたしの議論に適合的である。 「呪術が癌に効かないのはわかっている、 でもやはり(もしかしたら効くかもしれない)」 ( (Favret-Saada 1980))という ためらいの心性である。
科学的思考法という文化
(浜本の「尾根」)から呪術的思考は見えない。
文化の自閉症的な段階である。
呪術的思考法に呪縛されるとき
(「谷底」)、
こんどは科学的思考法が見えない。
「Aと分かっているでも(B)」という
この異文化の垣間見える瞬間、
以上の議論を 分かりやすくするために、 「よろめきドラマ」の比喩を使って 言い換えておきたい。 「ためらいの心性」の物語とは、 平穏無事な生活から、ためらいを経て、 堕落していく物語であるのだ、と。
その目的に向けて、 前論文でとりあげたアスペクトの議論が重要になる。
アスペクト議論を簡単にまとめておこう。
ウサギにもアヒルにも見える反転図形がある。 Aがこの図の前に立ち、 「これはウサギだ」 (1) と言う。 この状況を、野矢は「単相状態」と呼ぶ (210:野矢 2012 (1995))。 この状況ではアスペクトは介在しない。 見え(アスペクト)は問題にならず、 ウサギはそこにあるのだ。 ちょうど独我論に我がないように、 単相に相(アスペクト)はないのだ。 Bが同じ図の前で言う、 「これはアヒルだ」と。 これもまたBにとっての単相状態である。 よろめきドラマの比喩でいう 「平穏」にあたるものである。
二人が会話しはじめると、 それがウサギなのかアヒルなのかという 問題が生じる。 その論争が終わった後の、 論争の報告を考えてみよう (2)。 Aは報告する、 「Bにはこれがアヒルに見える」 (2a) と。 あるいは、同じことだが、 「Bは「これはアヒルだ」と言う」(2b) と。 見え(アスペクト)が介入してきたのだ。 この段階を野矢は「複相状態」と呼ぶ。 ためらいの状況である。
次の段階を考えよう。 Aがこう言うのだ、 「わたしにはこれがアヒルに見える」 (3) と。 この段階に達すれば、 Aは「これをウサギとして見る」ことも可能となる。 (3) は (2) と同じく「ためらい」の状況だが、 より堕落に近づいている。 (2) を「出会い」と呼ぶこととしよう。 まだ浅いためらいの状況である。 (3) は、より深いためらいの状況であり、 「誘惑」と呼ぶこととしたい。
野矢はある段階でアスペクトを 「相貌」と言い換えはじめる (野矢 2011)。 ここでは、とりあえず、 「『出会い』の段階より 深い把握をもったアスペクト把握」という (いい加減な)定義をもって、 この語、相貌、を導入したい。 その語を使えば、 Αは(Βによる)相貌を見出したのだ、と 言える。 相貌が誕生したのだ。 すなわち、 誘惑(3) とは相貌をもった複相状態なのだ。
そして最後の段階 (4) として、 Aが「これはアヒルだ」と言う状況を考えることが できるだろう。 Aは、Bの相貌を把握した(誘惑された)だけでなく、 Bの文化に呪縛される(のめりこむ)ことに なってしまうのだ。 Aのこの状況は、(1) におけるBの状況と 同じである。 すなわち、Aはふたたび単相にまいもどったのである。 ただし、この時、 AはBの文化の中に呪縛されているのである。
アスペクト(相)が問題になるのは、 複相状況においてのみである。 単相状態((1) と (4))にアスペクト(相)はない。
ここで、単相状態だけで生きている人間を考えてみよう。 すなわち「として見る」ことの出きない人間である。 このような人間こそが、ウィトゲンシュタインが 『哲学探求』 (Wittgenstein 1968) で問題にする 「アスペクト盲」である。 野矢を引用しようー
アスペクト盲は 「あの雲はなんだか猫に見える」とは言わない。 そしてまた私が「この黒板消しを スリッパとして見てごらん」と促しても、 何をしてよいのか分からない。 タクアンを卵焼きに見立てることもできない (166:野矢 1999)。
アスペクトを把握する能力とは ゲームを遊ぶ能力であると言い換えることができる。
村上は自閉症児の一つの特徴を
「知覚的空想」
(
(Husserl 2005))の能力の欠如と呼ぶ。
その能力を説明するために
彼が出す例が
「石をケーキとみなす」というアスペクト把握は、
ままごとというゲームの場の中で起きることである。
あるいは
「タクアンを卵焼きに見立てる」
(166:野矢 1999)という
アスペクト把握は
「花見ごっこ」というゲームの場の中で
起きることなのだ。
アスペクト把握がゲームを遊ぶ能力である、 ということは、 別の言い方をすれば アスペクトが全体論的性質をもつ、 ということである。 それこそが、 『言語ゲームが世界を創る』 (中川 2009) の中でわたしが強調したことである。
この論文では『言語ゲームが・・・』とは 違った形でアスペクト把握の全体論的性質について 述べたい。 さきほど導入した野矢による相貌議 論を使って説明したい。
野矢は 『語りえぬものを語る』( (野矢 2011)) の中で、 「アスペクト」を「相貌」と言い換える。 とくに定義を示してはいない。 たとえば、 日本語の猫という概念と掃除機という概念を 集めた集合を考えよ、と彼はいう。 そのような概念が通用している文化を考えよ、と。 彼ら(その文化に住まう人々)はそれを 「クリーニャ」と呼ぶ。 そのような想定をしたあとで、 彼は言う--- 「だが、あるものがクリーニャーとし て見えるということがどのようなことなのか、もはやあからさまにわれわ れの想像を越えているだろう」 (109:野矢 2011)と。 なぜなら、アスペクトとは 生き方の問題だからなのだ。
われわれにとっては、 一匹の猫はどうしたって 猫としての相貌をもっている。 それは容易に変えることはできない。 それはすなわち、 われわれがその分類を引き受け、 いわばその概念を生きているからである。 概念を変えるということは、 生き方を変えるということなのである。 (109--110:野矢 2011)
相貌に言及してる別の箇所を見てみよう。
相対主義者がしばしば言及する
「立場の違い」という言い回しを捉え、
立場とは命題の集合ではない、と野矢は宣言する。
そして立場が命題の集合でないならば、
何かと問い、
それは「観点」であると彼は答える。
「そして観点の異なりに
応じて異なってくるものは、相貌である」
(128:野矢 2011) と。
フライパンを調理器具
ゲームと結びつけて、 わたし風に言い直そう。 「ツーアウト満塁の絶対絶命のピンチ」という 相貌をわたしたち、野球好きの人びと、は得ることができる。 その相貌は、しかし野球を知らないひとには 決して得ることのできないものなのだ。 東インドネシアのフローレス島の エンデの人々は 自分の(日本語でいう)兄弟と 父方の並行イトコ(男)、 そして母方の交差イトコ(女)と 兄弟の嫁たちを同じ名前 「アリ・カッエ 」で呼ぶ。 (中川 2009) アリ・カッエ の相貌は、 エンデの人の観点からはごく自然なものだ。 その観点はエンデの親族制度(ゲーム)の内側の ものである。 しかし、エンデの親族制度(ゲーム)を 知らぬ人には、 「クリーニャ」の相貌と同じように、 無意味なものでしかないだろう。
「相貌」 の語を これまでの議論に取り入れれば、 つぎのようになる。 まず、 アスペクトを二種類に分ける。 一つは全体論的理解を欠いた、 あるいは観点を欠いた(言わば「浅い」) アスペクト把握である。 これは「出会い」段階の理解である。 もう一つは全体論的な理解にのっとった、 あるいは相応の観点からの(「深い」)アスペクト把握、 すなわち相貌の把握である。 これは「誘惑」の段階の理解である。
さて、次に行なうことは、
直接アスペクト把握を
民族誌の道具として導入するのではなく、
それを引用論と重ね合わせるという
迂回をした上で導入をしたい。
哲学的な議論の蓄積のある「引用」という
概念を経由することにより、
アスペクト把握という能力は
より精密に定義されるだろう。
また、
民族誌の中のアスペクト把握を引用として
とらえることにより、
哲学的な引用論に貢献できることも
期待している。
引用論の詳細に入る前に、 「アスペクト把握」を「引用」と言い換えることの 妥当性を示しておこう。
わたしは自閉症児に欠けている能力として アスペクト把握がある、と言った。 すなわち 自閉症児に欠けているのは 引用の能力だということになる。
同じ
それでは 引用論を簡単に紹介しておこう。
引用について、
入門書的に説明すれば、
次のようになる。
言葉には二つの使い方がある。
使用 (use) と言及 (mention) である。
「中川は大学の教員である」という文において、
ここに登場するすべての言葉は
引用を言及のみに限って、 特徴づける理論がある。 これを引用の「固有名詞説」と呼ぼう。 クワインは次のように言う: 「論理分析の観点から言えば、 引用とは一つの単語あるいはサインとして 見做されるべきである」 ( (26:Quine 1940)) と。
引用論には膨大な蓄積があるが、
基本的にはクワインのような
引用を言及の典型として見る議論であった。
その流れに転機をもたらしたのが、
デイヴィドソンによる引用論
(Davidson 1985)である。
彼は、引用とは言及と同時に使用でもあることを
指摘したのだ。
「中川は『相対主義が可能だ』と言った」という文を
考えよう。
たしかに、
第一段階の理解として、
引用の部分をモノとして見ること、
すなわち「中川は P と言った」と見る段階を
想定するのは間違いではない。
しかしこの文の十全な理解のためには、
引用された内容、すなわち
「相対主義が可能だ」の内容
の理解が必要である。
すなわち、
引用とは言及であると同時に使用でもあるのだ。
さて以上の引用論を、 アスペクトの議論へと接木しよう。
わたしが『言語ゲームが世界を創る』 (中川 2009)の中で展開した ゲームについての議論を、 引用の言及・使用と アスペクトの単相・複相への架橋としたい。
わたしは当該の著書の冒頭の章で、 ゲームに対する二つの態度、 「のめりこむ」と「一抜ける」を議論の中に導入した。 二つの態度の対照は、 ゲームのルールの可視性に関連する。 将棋にのめりこめば、 ルールは見えなくなる。 それは言わば自然法則のようなものとなるのだ。 ところが、そこから一抜ければ、 ルールがありありと見えてくる。 これが当該の本での描写である。 これを、まず、単相・複相の言葉で 語り直そう。
プレイヤーがゲームにのめりこめば、 世界は単相状態になる。 言い換えればプレーヤーはアスペクト盲となるのだ。
私は、自分が従っている意味や規則といった 規範など意識してはいない。 なめらかな生活と実践の中にあって、 私はまさにアスペクト盲として、 盲目的にそうしているのである。」 (168:野矢 1999)
ところが、いったん一抜けると世界は複相状態になる。 プレイヤーは、 「これは遊びだ」というメタ・メッセージ ( (ベイトソン 2000))を 了解した上でプレイをすることになるのだ。
わたしが言いたいことは、
単相状況と複相状況に重ねあわせた
「のめり込む」と「一抜ける」という
二つの態度こそが、
使用と言及に相当するのである、
という点である。
「中川は『相対主義が可能だ』と言った」という
文において、
二つの態度が可能である。
固有名詞説に従い、
上の文を
「中川は P と言った」と100%言及として
解釈する方法が
一つである。
この時、引用者は中川が言った内容に
関心はない。
引用者は引用文に対して一抜けているのだ。
それに対して
「相対主義は可能である」が表現している思想
(Gedanke) について考えようとする態度、
すなわち P へ
さて、 次節から引用の概念を使用して、 民族誌の分析をするわけだが、 その前に、 簡単にデイヴィドソンの 引用の理論を紹介しておこう。 デイヴィドソンは自身の引用に対する 理論を「直示理論」 (Demonstrative theory of quotation) と呼ぶ。 直示する (to demonstrate) とは、 指差しなどの(言語外の)現象にたよって、 世界のモノを指すやりかたである。
わたし風にアレンジした 「簡易直示理論」 1 を、ここに示しておこう。
簡易直示理論による分析は次のようになる。 「『中川』は漢字二文字である」は、 「中川。これは漢字二文字である」となる。 あるいは 「中川は『相対主義は可能である』と言った」は、 「相対主義は可能である。 これを、中川は言った」と。 言い換えの際の「これ」を発話するとき、 なんらかの直示(たとえば指差し)が あるものと考えてほしい。
一つのポイントは、 直示理論は、 純粋に言語的な理論ではなく、 言語外へと、 言わば、はみ出している理論だ、 ということである。 それは語用論のレベルに 位置付けられるものである。
アスペクト論と引用論との接木を
まとめておこう。
主張したかったことは、
引用論の中心テーマである
使用と言及は、
そのままアスペクト論の
単相(のめりこみ)と
複相(一抜ける)に相当する、ということだ。
もう一つ大事なことがある。 アスペクト論において、 わたしは、複相を2つに分けた、 すなわち「出会い」の複相と 「誘惑」の複相、 すなわち アスペクトの複相と 相貌の複相である。 この区分に相応する区分が、 引用論にも見出すことができる、 ということである。
引用論の紹介を思い出していただきたい。 固有名詞理論と直示理論を紹介したのだが、 固有名詞理論だけで説明できる引用もあるのだ、 ということである。 固有名詞理論で説明できる、 すなわち言及しかしていない引用がある、ということを 指摘しておきたい。 「『XXX』は日本語にない」などが典型的な例となろう。 ここでは、 引用はまさに固有名詞、非構造化された記号として のみ出現している。 引用されているモノを 理解はできないのである。
この指摘は、 引用の種類、 すなわち言及だけの引用と 言及と使用の両方を行なっている引用とがあることを 示している。 それを指摘してわたしが言いたいことは、 この二つの種類の引用が、 冒頭で示した「出会い」(アスペクト)と 「誘惑」(相貌)に相当するのだ、 ということである。 すなわち、 引用のない文は「平穏」の文であり、 引用を使う文のうち、 その引用が言及だけの文は「出会い」に、 そして言及も使用も使用している文は「誘惑」に 相当するのだ、ということである。
かくして、
アスペクト論を引用論が、比喩的に言えば、
相同であり、
2つを重ねあわせて議論することの妥当性・重要性は
理解されたであろう。
ゲームの場で起きていることを 「メタ・コミュニケーション」 (ベイトソン 2000)と呼ぶことができるであろう。 「ケーキをどうぞ」と一人が言うとき、 そのメッセージとともに、 「これは遊びだ」という メタ・メッセージがあるのである。
要するに、
遊びが成立するためには、
のめり込まれても
一抜けられてもダメなのだ。
自閉症児のように石を口にしても、
「つまらん」と放り出されても、
遊びは成立しない。
ある種の引用で使用と言及が同時に
起きているように、
遊びでは
のめり込むことと一抜けることが
同時に起きているのだ。
よろめき型 | 平穏 | 出会い | 誘惑 | 堕落 |
---|---|---|---|---|
モーム型 | 平穏 | 興醒め | 疑惑 | 熱中 |
アスペクト論 | 単相 | 複相(アスペ クト) | 複相(相貌) | ? |
引用論 | 使用 | 言及 | 使用と言及 | ? |
ゲーム論 | のめり込む | いち抜ける | 遊ぶ | ? |
この表には、 いくつかこれまでの議論に出てこない 項目がある。 説明しよう。
まず「モーム型」の列だ。 わたしは、 呪術をよろめきドラマになぞらえて 「平穏→出会い→誘惑→堕落」の年代記を つくりあげた。 しかし、事はこの順に起きるとは限らない。 じゅうぶんあり得る逆順の年代記が モーム型と名付けられた列なのだ。 よろめき型の列は左から右へと読んだが、 モーム型の列は右から左へと読む--- 恋におちいった(熱中)人間が、 その恋に疑惑を抱き、 興醒めし、 さいごに恋のない平穏無事な日常へと戻る モームの小説のような 2 ストーリーを 念頭に置いている。
表には載せられなかったが、 これまで時々使ってきた 「ためらい」という言葉の位置を確認しておきたい。 アスペクト論において 「複相」という語が2つの位置をカバーしている様に、 ロマンス論(よろめき型とモーム型)において、 複相が占めている二つの位置 (出会いと誘惑、疑惑と興醒め)を 占める語として、 この語(「ためらい」)を使用していきたい。
なお、堕落(あるいは熱中)の項は、 ここまでの議論では触れていないので、 空白となる。
この説では、 以上のアスペクト把握としての引用論を、 民族誌に適用した例を示していく。
まずは小手調べだ。
ちょっと前に流行った
伝統社会の人びとの抵抗の一形態としての
「流用」 (appropriation) とは
引用の別名であることは明らかであろう。
ただし、それは使用をともなう引用ではなく、
言及だけの引用である。
カーゴカルトもまた、
そのような引用(言及だけの引用)として
解釈し得るであろう。
「流用」が伝統社会による近代社会の 言及だけの引用ならば、 「先住民の知恵」は、 近代社会による伝統社会の 言及だけの引用である。 近代社会が、 たとえば、 プナンの持っている薬草の知識を、 それがおさまるべき全体を無視してとりだし (Brosius 2006 (1997))、利用する。 それはちょうど臓器移植を、 死体から臓器を剔出するさまを、 思い起こさせる。 近代社会はプナンの社会全体に関心はないのだ。
それらは単なる「出会い」であり、 まだ異文化の観点は把握されていないのだ。
以上は引用の言及の機能だけに
限定された事例をとり挙げた。
続いて、
言及と使用が同時に働く例を
見ていこう。
引用を含む文、 たとえば「中川は『相対主義は可能だ』と言った」に おいて、 デイヴィドソンは、 「相対主義は可能だ」を「引用されている材料」 3 その材料を含んでいる文脈(いわゆる 会話の地の文)を 「引用している文」と呼ぶ。
このペアを、
これ以降「図」と「地」と呼びたい。
すなわち、
「相対主義は可能だ」の部分が図であり、
「中川は・・・と言った」の部分が地だ、
と語り直したいのだ。
図と地の語を 引用論に導入することが 有意義であることを、 簡単に芸術の例をつかって示したい。
グリーンバーグは言う、 芸術は自然の模倣(引用)であった、と (Greenberg 1939)。 そしてアバンギャルドの芸術は 芸術の引用、 すなわち引用の引用だと続ける。
近代のアートワールドを図と地を 使用して、 次のように記述することが可能であろう: 地は日常であり、 そこには日用品(芸術作品ではないモノ)が 置かれている。 図は美術館である。 それは 引用符として働く。 芸術作品は美術館に入れられ、 括弧でくくられるのだ。
そのような意味で、 アバンギャルドは、いわば、 引用符との戦いだ、と言える。 デュシャンは作品『泉』において、 だれが見ても日用品である便器を 引用符で囲んだ(美術館に展示した)。 アバンギャルドによる引用符への挑戦である。 ただし、 これは言わば芸術の枠内での 芸術への挑戦であり、 ある意味で、 この挑戦の敗北は見えていたと言えよう。
登 (
(登 2015))
は、
新世代のアバンギャルド(たとえば
マーサ・ウィルソン)の活動を
分析し、
この挑戦の新しい展開を描く。
ウィルソンらは、
日用品に引用符を与えるという
デュシャンの試みとは
対照的な挑戦をする:
芸術作品から引用符を
はずすのである。
具体的には
芸術作品を美術館の外側へと
配置するのだ。
デュシャンが地を図にしたのに対し、
ウィルソンは図を地にしたのである。
さて、 図と地を引用論に導入することの 有意義さは納得してもらったこととしよう。 つづいて、引用論、とりわけ図と地の概念を、 ひとつの民族誌の解釈に適用してみたい。
次の例は私自身の昔の論文の 引用論による言い換えである。 4
取り上げる論文は
「学校者と出稼ぎ者」
(中川 1999)である。
この論文で取り上げられるのは、
出稼ぎを契機にした
フローレス島のエンデのある村での伝統と近代という
2つのゲームのせめぎあいである。
具体的には
伝統の「クピ(地名)が世界一高い山である」
(そしてそこから世界中の民族が発生した)という教え
と、
近代(学校)の「クピは決して世界一高い山ではない」
という教えの矛盾についてである。
エンデの村では
二つの矛盾する教えが共存しているのである。
エンデの村人の合理性を維持したまま、
この共存をどのように説明すべきか、
これが論文で取り組んだ問題である。
この問題を分析するにあたり、 わたしがまず最初に採用した議論は、 スペルベル (スペルベル 1979 (1975)) の象徴的知識に関する議論である。 スペルベルがドゥルゼの民族誌からもちだした 疑問は概略次のようなものである: ドルゼの人びとは (1) 豹はキリスト教徒であり、 安息日には断食すると言う、そして (2) その安息日に彼らは豹の襲撃を恐れているのだ。
この
この引用の議論を、
しかしながら、直接にエンデの事例に
適用ができない、という点がわたし自身の議論の
出発点となる。
なぜなら、
(もちろん、
象徴的知識が引用符に囲まれる事例もあるのだが)
しばしば象徴的知識ではなく、
百科全書的知識が引用符に囲まれているからなのだ。
わたしが辿りついたのは
次のような結論である:
(1) 二つのゲームがある。
(2) 会話状況のなかでどちら一つが
地になっているゲームは生きられている (人びとがのめりこんでいる)ゲームであり、 人びとは図になっているゲームからは 一抜けているのだ。 地になっているゲームはそれがゲームとしては 意識されていない。
「よろめき型」を語り直してみよう。 こうなる。 平穏の状況とは地だけの状況である(単相状況)。 ためらいで図が浮かびあがってくるのだ (複相状況)。 堕落するとは、 図が地になってしまう状況のことである。 いままでの地が消えてしまうが、 いままでの図が全てを覆うわけなので、 けっきょく地だけの状況、 すなわち単相状況となるのだ。
これまでの時点の議論を補足して、 表 homology を 完成させよう。 表 complete を 見よ。
よろめき型 | 平穏 | 出会い | 誘惑 | 堕落 |
---|---|---|---|---|
モーム型 | 平穏 | 興醒め | 疑惑 | 熱中 |
アスペクト論 | 単相 | 複相(アスペ クト) | 複相(相貌) | 単相 |
引用論 | 使用 | 言及 | 使用と言及 | 使用 |
ゲーム論 | のめり込む | いち抜け る | 遊ぶ | のめり込む |
記述 | 原住民 | 旅人 | 人類学者 | 原住民 |
修辞 | 主張文 | パロディ | アイロ ニー | 主張文(嘘) |
なお最終列(修辞)は、 次の節で扱う議論を先取りしたものである。
これまでとり挙げてきた民族誌では、 人はのめりこむか一抜けるかどちらかであった。 冒頭で述べた出会いから誘惑、 すなわち「ためらい」は顕現してこない。 ここから 引用の中のためらいについて述べていきたい。
とり挙げるのは修辞論である。
とりわけアイロニー、
および
それに関連する限りでのパロディについて述べたい。
アイロニーの通常の辞書的定義 「じっさいに喋ったことの反対を意味すること」 ( (239:Cooper 1992))では、 アイロニーの真髄はまったくつかめない。 たしかに一面的にはアイロニーは 「喋ったことの反対を意味して」いるかもしれない。 それでは、 嘘と区別がつかなくなってしまうだろう。 そうではなくて、ある種の時間差を置いて、 解釈が反転するのが アイロニーである。
菅野(
(菅野 2003))は、
(スペルベルとウィルソン 1999)にのっとり、
アイロニーを
アイロニーはある声を引用することによって、 分かっている解釈者に 反対のメッセージを伝える。 ままごとにおいて「これはケーキだ」が、 一種の嘘であることと呼応する点である。
ここで秀逸なアイロニーとして、 秋月による『OL進化論』 ( (秋月 2004))の中の 「娘よ」と題された4コマ漫画を見てみよう。 父と娘の会話である。 父が言う---「子供のころお前はほんとうに 手先が不器用でだった」。 「しかも根気がなくってあきっぽい」 「ひとつのことをこつこつ続けるのが苦手」と 続けたあと、 3コマ目で一転して、 父は言う--- 「将来が心配だと思ったけど、 お前も成長したんだな」と。 4コマ目で落ちがつく--- 「こんなにたくさん栗をむいて食うとは」。
この漫画を利用して、 引用としてのアイロニーを分析してみよう。 まず、アイロニー=引用であるので、 全体を引用部でくくろう。 父の発話全体、 「お前も成長したんだな」が 引用符で囲まれて、 「『お前も成長したんだな』」となる。 これを直示理論で書き直すと次のようになる。 「お前も成長したんだな。これは嘘である」と。
これにより、
アイロニーと嘘との違いが明瞭になるだろう。
嘘は「お前も成長したんだな」がメッセージの内容であり、
それが伝われば、
嘘は成功したことになる。
事実と違うメッセージを伝えたのだ。
それに対し、
アイロニーのメッセージの理解に時間差がある。
前半部分は、もちろん、嘘とおなじである。
しかし後半部分があり、
それが嘘であることをもメッセージとして伝えているのだ。
この二つが(時間差を置いて)
ともに理解されてはじめて、
アイロニーは成功したと言えるのだ。
7
嘘は単相であり、
アイロニーは複相なのだ。
アイロニーの機能として 嘲り (riducule) があることは しばしば指摘される (例えば (239:Cooper 1992))。 さきほど例に挙げたアイロニーもそうである。 アイロニーの中でもとりわけて 嘲りの要素が強いものには、 ある種の特徴がある。 たとえば「きみのジャケットはとても 趣味がいいね」というアイロニーの 嘲りの要素を強めようとするとき、 人は引用が引用であることを、 とりわけて強調する。 すなわち声を変えるのだ。
直示理論にしたがって言えば、
引用は直示、すなわち言語外の
事象を巻き込む語用論的現象である。
書き言葉であれば、
それは引用符である。
話し言葉では使えないので、
苦し紛れに指で引用符を示す
(finger quote) 。
まさに直示である。
そして、
声を変えるもまた言語外の直示である。
菅野は、 アイロニーのもつ嘲りの役割を否定するわけではないが、 それはむしろパロディによって担われる、と 考える。 ともに、エコーとして (あるいは引用として)の言語行為である。 パロディに嘲りの効果がいかにして 生まれるかについて、 あるいは少なくとも パロディがアイロニーとどこが違うかについて、 菅野は深い洞察を示す。 アイロニーがエコーしているのは 記号内容(シニフィエ)であり、 パロディがエコーしているのは 記号表現(シニフィアン)だと言う ( (149:菅野 2003))。
パロディは外観だけの真似であり、 アイロニーは内容を理解した上での真似なのだ。 外観だけの真似が人を嘲る最上の方法だということを、 子供たちは本能的に知っている --- 大人との論争に負けそうになったときに、 彼らはこのパロディ作戦、物真似攻撃を繰り広げるのだ。
そして、アイロニーが使用と言及を伴った引用 (アスペクト論でいうところの相貌把握)であり、 そしてパロディが言及だけの引用(浅いアスペクト把握) であることは、 もはや言うまでもないであろう。
最後にとり挙げたいのが 貨幣の問題である。 あるいは制度一般の問題である。 これは、モーム型の物語となる。
早川は『ハイパー・インフレの人類学』 (早川 2015)において、 2007年から2009年までの間、 ジンバブエを襲ったハイパー・インフレを 詳細に描く。
インフレは時間とともに物価があがる、 すなわち貨幣の価値がさがる、 そのような現象である。 ハイパーインフレでは、 貨幣の価値は「見る見る」下がっていく。
二〇〇八年一二月半ばには、 行列に並んでいるあいだに パンの値段が二倍になり、 ある店では商品価格の表示を 取り替えるために 一日に三度もシャッターが閉められた。 (7:早川 2015)
このような状況で わたしたちが予測する人々の行動は、 貨幣を見限って、モノへ執着するという 行動であろう。 貨幣への信頼は全くなくなっているからだ。 都市部であれば、 モノは店にしかないのだから、 買い占めなどが起きるだろう。 もしかしたら、店の主人は はやばやと店を閉めてしまうかもしれない。 金の貸し借りなど ほとんど意味がなくなり、 そんなことは起きないであろう、と。
たしかに上に書いたようなことが全く起きていない わけではない。 しかし、早川の本が描写するのは、 それと逆行するような、 「不合理な」(経済学者の声で発音して欲しい) 行動なのである。 人は友達からお金を借りて、 その同じ金額を数日後に返却するのだ。 同じ額面のお金を返してもらって、 貸した人は文句も言わないのだ。 もちろん、同じ金額の貨幣の価値は 数分の一にまで目減りしているにも 関わらず、なのだ。
ジンバブエの「危機」の時代、
人びとは
ひるがえって考えてみれば、
貨幣という
「何々を信じること」についての議論において、 ルーマンは 「信頼 (trust)」と「安心 (confidence)」 8 を区別する (Luhman 1988)。 信頼とは裏切りの可能性を念頭に置きながら、 とりあえず信じることである。 「安心」については、 山岸 (山岸 1998)の例が わかりやすいだろう。 彼は「針千本マシン」という装置を考える。 そのマシーンを装着された人間は、 約束を破ると針千本を飲まされるのだ。 このような人間と約束をした人間は、 彼が約束を破るという裏切りの可能性など 考慮しない。 これを「安心」と呼ぼう、というのだ。 9 もう一つの「安心」の例を出そう。 それはわたしたちの自然現象に対する 態度である。 昨日も日は東から登り、 きょうもまた東から登った。 明日もまた日が東から登る--- このことを誰も疑いはしない。
ルーマンとほぼ同じ区分を採用して、 ギデンズは次のように言う。
近代に安心 10 はない。 われわれはそれをプレイする余裕はない。 (ギデンズ 1990)
わたしが「貨幣は不思議な制度だ」ということで 言いたいのは、 この脈絡でなのだ。 近代における「安心」に基く制度が存在する、 それが貨幣制度なのである。 わたしたちは、 貨幣を全面的に信じて生活をしている。 「信じている」ことさえ念頭に浮かばないほどの 信じている、 すなわち「安心」しているのだ。
しかしながら、貨幣に限らず、
制度が制度として機能するために、
それが「約束」のもとづくものだ、ということが
念頭に浮かんではならない。
飽くまで「自然」なものと見做されるほどに、
それは信じられていなければならないのだ。
一度それが約束に基く人為的なものだと
気づかれれば制度として十全な機能は
妨害されることになる。
他の言い方をすれば、
制度は地である限り安全だが、
一度それが図になってしまったと途端に、
制度としての機能が不完全になるのだ。
ハイパーインフレは モーム型の物語、すなわち よろめきと逆方向の物語である。 みなが熱中している間、 制度は安心に基づいて機能している。 しかし、 その制度が人為的なものと気づかれると 一気に破綻するかもしれないのだ。 熱中から疑惑へ、 そして興醒めに至れば、 制度の崩壊が起こるのだ。 ジンバブエが直面したのは そのような問題なのである。
意識的ではないにせよ、 ジンバブエの人びとはカタストロフを避けるべく 自然でなくなってしまった貨幣を あたかもまだ自然であるかのように、 あたかもまだ普通に通用しているかのように演じるのだ。
芸術について興味深い議論を展開している ウォルトンは( (Walton 1993))、 すべての芸術に共通する点として 「振りをすること」("make believe") を挙げている。 あたかも芸術が(人生であるかのように) 演ずるのだ。 それは、わたしの言葉で言い換えれば、 誘惑に身をさらしながら、 堕落の一歩手前で踏み止まることである。
グリーンバーグの言うように
芸術が引用(図)ならば、
引用の
[1] トークン、タイプ、シェイプ等の 大事な語彙を抜かす。 [Back]
[2] いくつもあったが、 よく覚えていない。 [Back]
[3] デイヴィドソンは、それは 刻印 (inscription) である、と主張する。 (Davidson 1985) [Back]
[5] とくに特定する必要もない、 と菅野は言う。 [Back]
[6] もともと菅野の議論自身、 使用と言及の区別から始まっている。 「反響」を「引用」と言い換えることに 問題はない。 [Back]
[7] 「アイロニーの成功」については、 より詳細な議論が必要である。 しばしばアイロニーはある人びとに対して成功しないことが、 その成功の条件となることさえあるからだ。 一部の人にだけアイロニーのメッセージが伝わることに より、 ある種の「仲間意識」がそこに生まれることが 期待されている、というのは、 アイロニーの実例においてしばしば見られる。 この陰謀を成功させるためにも、 言語外の現象が使用される。 典型的なのは「目配せ」であろう。 [Back]
[8] Confidence を「信用」と訳している 訳書がある。 ただし「信頼」と「信用」の日本語での 区別は分かりにくい (もちろん英語の trust と confidence の 区分も明瞭なものではないが)。 信頼との区別がある程度分かりやすい 山岸( (山岸 1998))の 「安心」の訳語を採用することにした。 [Back]
[9] この区別を贈与交換と市場経済の民族誌に 適用したのが、わたしの 「豚と発動機」である。 (中川 2012) [Back]