2 模型の人類学
2.1 科学の中の模型
2.2 芸術と遊びの中の模型
2.3 民族誌世界の中の模型
2.4 介入すること・弄ぶこと
3 似ているということ
3.1 似ていないこと
3.2 似ていること
3.3 似ていること、再び
4 写真は似ているか
4.1 透明性テーゼ
4.2 知覚
4.3 現実世界と知覚
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(C) Satoshi Nakagawa
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この論文は二つの目的をもっている。 第一の目的は「模型の人類学」という、 またもう一つの人類学の分野の宣言をし、 そのおおざっぱな枠組を示すことである。 第二の目的は「模型の人類学」の最初の議論として、 「模型であること」を支える「似ていること」 について考えることである。 「似ていること」は大きな問題であり、 この小さな試論の中で その問題への新たな切り口を提示したい。
人類学の目標の一つは、 われわれが生活世界の中でどのように世界を理解するの かを解明することであろう。 この節では、その目標に向かって書かれた わたしの最近の議論を紹介することで 模型の人類学のもつ 位置を明かにしていきたい。
わたしは最近の論考を通じて、 科学と芸術と遊びを通底するものとして見ることで、 生活世界の中での理解を把握しようと試みている。 2009年の論考 (中川 2009) の中で、 わたしは科学を語るのに真理 あるいは「真実らしさ」(verisimilitude) を 基準に見るのではなく、 プレイヤビリティ(「遊びやすさ」)という 基準 [1] を考えてみようと提案した。 すなわち、 科学を遊びに重ねて考えていこうというのである。 当該箇所で告白しているように、 この概念、あるいは考え方(「プレイヤビリティ」)に、 その時点ではっきりとした定義を与えることは できていない。 むしろ、 おぼろげなこの「プレイヤビリティ」という考え方を 手にしながら、 さまざまな問題を考える、 そして同時に「プレイヤビリティ」という考え方を 洗練させてゆく、 そのような戦略を採りたいのだ。
わたしは、さらに、「引用と人生」 (中川 2016) の中で、 ケンダル・ウォルトン (Walton 1993) に倣い、 芸術を鑑賞する仕方を遊びを遊ぶ仕方に重ねた。 [2]
これらの領域を重ねることによって 暗黙裡に示していることを、 いま科学に焦点をあてて言い換えるならば、 「理解する」とは 「遊ぶ」ことなのだ、ということとなる。 そして、 遊ぶとは (ウォルトンの議論に倣えば) 「振りをすること」、 「ごっこ遊びをすること」 (make-believe)、 引いては「空想すること」(imagining, phantasizing) なのである。 そしてこれらの諸活動を支える能力こそが 「複相把握」の能力であることは 「異文化の見つけ方」 (中川 2015)で 示したとおりである。
これらの領域 (科学、芸術、遊び、そして民族誌的世界)を 貫く人類学的な探求は 大胆過ぎる野望であろう。 その大きな野望を見据えて、 とりあえず取り扱いの可能な 小さな部分を切り取ることとする。 それは模型を通して、 これらの領域を横断してゆくという戦略である。 すなわち、 これから続く一連の論考では、 模型を介しての理解がどのようなものであるかを 示す。 科学・芸術・遊び・生活世界 (狭くは民族誌世界)において、 模型(モデル、芸術作品、小道具、おもちゃ、 呪具その他)がどのように 理解にかかわっているかを見ていきたい。 「模型の人類学」という新しい人類学の サブ領域を開拓してゆきたいのだ。
この節では「何故模型なのか」そして 「何が模型なのか」について簡単に述べてゆきたい。
「何故模型なのか」への答は概略 次のようになる。 (1) ハッキングが科学論 (ハッキング 1986) の中でモデルについて 述べていた。 (2) ウォルトンが芸術・遊び論 (Walton 1993) の中で 小道具について述べていた。 (3) そして人類学の中で「モノ性」 (「物質性」 materiality)についての議論 (たとえば (Miller (ed) 2005)) が盛んになってきた。 この三つの交差点に浮かび上がるのが 模型なのだ。 すなわち「模型」に焦点をあてるのは (理論的というより) 極めて戦略的な選択である。
それぞれの議論を簡単に紹介しておこう。 そしてそれぞれの領域において、 模型としてわれわれが探求の対象に 含めるもの(そして含めないもの)、 すなわち「何が模型か」を示して ゆきたい。
科学における理解に関連して、 わたしはI・M・ハッキングの考え方を 出発点としたい。 その考え方は彼の本 のタイトル、 【Representing and Intervening】 (表象と介入) (Hacking 1983) ( (ハッキング 1986)) [3] に表われている。 科学の活動として理論を作る(「現象を表象する」)こと 以上に、 実験をする(「現象に介入する」)ことが 重要であることをハッキングはその本のなかで 示した。 科学の活動の目標を 「現象を理解する」と言うことに 大きな抵抗はないだろう。 すなわち、 わたしの出発点は、 科学における 理解とは、 「世界を表象する」ことであり、 そして同時に「世界に介入する」ことなのだ、 という点にある。
理解をこのように (表象と介入として)捉えると、 模型のもつ戦略的地位が見えてくる。 その分厚い記述の中で、 ハッキングは 科学におけるモデル(あるいは模型)について 述べる。 乱暴にまとめてしまえば、 科学において、 モデルとは表象と介入の両方の様相を呈すという のである。
より詳しく紹介しよう。 科学に関しては 二種類のリアルなモノが考えられる。 ひとつは現象であり、それは「生起」するという 意味で実在(リアル)であり、 もうひとつは理論であり、それは 「正しい」(少なくとも正しさを目指している)という 意味で実在(リアル)である (ハッキング 1986: 418)。 そして彼は次のように続ける--- 「モデルは中間的なものであり、実在的な現象からある 側面を吸い上げ、数学的構造を単純化することで、その 側面を現象を支配する理論に関連づける」 (Hacking 1983: 418)。
模型に焦点をあてることによって、 わたしたちは表象と介入としての理解を 捉える近道にいるのである。 すくなくともそのように想定して 一連の論を続けてゆきたい。 模型に焦点をあてるとは、 理論的な選択ではなく、 繰り返すが、飽くまで戦略的な選択である。
科学のモデルについてハッキングは次のように言う: 「「モデル」という言葉は諸々の科学においてさまざま な事物を意味するようになった。分子生物学の初期には、 分子のモデルというのは子供たちが趣味で作る航空機の 縮小モデルのようなものであった」 (ハッキング 1986: 416) と。 わたしが当初問題としたいのは、 科学の中でも、 このような「航空機の縮小モデル」に代表されるような モデル/模型である。 科学の抽象的なモデル (これらは「模型」とは訳さないだろう)は、 少なくとも当面は考察の対象に含めないこととする。
このような「子供たち」のこしらえる玩具の ような模型の持つ科学における重要性については、 J・D・ワトソンによる二重らせんの発見の物語が 雄弁に語ってくれるだろう。 彼はライナス・ポーリングがα―ヘリックスを 発見したのが模型によるものであることに気がつく--- 「決め手となった秘訣は、どの分子がお互いに隣り合っ ていそうかを、問うてみることだったのだ。紙と鉛筆の かわりに、道具としておもに使われたのは、一見幼稚園 の子供の玩具 [がんぐ]そっくりの 一組の分子模型だった」 (ワトソン 2012: 57)で ことに彼は気づいた。 「だから、われわれが同じやり方でDNAの構造を解け ない理由は何もなかった。われわれがすべきことは、一 組の分子模型を組み立て、あれこれといじりまわすこと である」 (ワトソン 2012: 57)というわけである。
ウォルトンは芸術鑑賞を、 遊びを遊ぶことに重ねる ことによって解明してゆく (たとえば (ウォルトン 2015) あるいは (Walton 1993))。 彼は次のように言う: 「[子供の遊びの特徴である]ごっこ遊び (make-believe) [の精神]は大人になっても続いてゆく。 それは芸術と対面するときに現れてくるのだ」 (Walton 1993: 3)と。 それでは遊びとは、とりわけ 「ごっこ遊び」とは、 どのようなものだろうか。 それは、ウォルトンは言う、 「想像すること」(imagining) の 一種であり、 小道具 (prop) を使った想像することなのである (Walton 1993: 3)と。
ウォルトンの言う「小道具」とは、 具体的には パイに見立てた泥だんご (Walton 1973)であり、 熊に見立てた切り株 (Walton 1993)である。 ままごとの小道具や、 人形遊びの人形、 そして「航空機の縮小モデル」、 「子供の玩具」などである。
それでは芸術における小道具とは何であろうか? 人形との連想で彫刻がすぐ思い浮かぶところだが、 彼は絵画をその典型例として出してくる ( (Walton 1973)など)。 絵画は(1)それ自体一つの世界、 虚構世界を表象しているが、 同時に(2)鑑賞者を含んだ世界を虚構世界に 変換するのである。 とりわけ後者の状況において、 絵画の (もちろん彫刻もだが)小道具的性格 (あるいはわたしの言葉使いをすれば「模型」的 性格)がはっきりとする。 前者の場合(絵画がそれ自身で虚構世界を形作る時)には 鑑賞者はその世界の外側にいる。 それに対して後者の場合(絵画が、 自身がその一部となるような より大きな虚構世界を形作る時)には、 鑑賞者は絵画の作り出す虚構世界の内部に存在すること に なるのである。 ちょうどままごとをしている時に、 石がケーキと見立てられ、 遊ぶ人がその石/ケーキを含む虚構世界の 登場人物になるのと同様なのである。
ウォルトンは、当然ではあるが、 絵画の中でも「表象的絵画」 (representational picture) に 議論の焦点を置いている。 われわれも、当面は表象的絵画に、 あるいは表象的彫刻に対象を限定する こととする。 いわゆる「現代芸術」を対象から、 とりあえず、外して議論をしたい。
この節の冒頭に人類学の模型の議論として ミラー(編)の『モノ性 (Materiality)』 (Miller (ed) 2005) を挙げた。 じっさいはミラー(編)の本の中で 「模型」と言えるモノはほとんど例として挙がっていない。 またミラーの本は、 理論的にも確とした枠組を提示しているわけではない。 しかし、 モノ性に焦点を与えることによって、 たとえば、キーン (Keane 2005) が描くような 感覚の問題へと人類学者は関心を向けるようになるだろ う。 キーンはさらにモノ性を考える上で、 パースのインデクス性の議論 (パース 1986) に言及しながら、 因果関係の重要性についても述べる。 わたしは、 このような議論 (感覚、因果性)から派生する問題系の 中で模型を通しての理解について考えてみたいのだ。
ミラーの序文で興味深いのは 近年の人類学における「モノのエージェンシー」の 議論との関わりあいである。 アクターネットワーク理論(ANT)で 「モノのエージェンシー」がしばしば 語られる。 しかし、それは言わばアカデミックな言い回しである。 ANT の論者は誰も(エージェンシーをもった)試験管が 仕返しをしに来るとは、 あるいは(エージェンシーをもった)自動車が 恩返しをするとは、 もちろん、考えていない。 「しかし」とミラーは言う (Miller 2005)。 民族誌の中にはそのような (言わば)本来の「モノのエージェンシー」が 満ち溢れているのだ、と。 典型的な例として呪具を考えることができるだろう。 われわれは呪具、とりわけ 表象的な呪具 (たとえば人形 [ひとがた]など) を扱ってゆきたい。
時間は逆になるが、 ミラーの論文集の中で示唆されているような 方法論をつかっての模型の人類学の 一つの範例が タウシッグの『ミメーシスと 他者性:感覚のひとつの歴史』 (Taussig 1993) であるとわたしは考えている。
以上の議論が様々な形で暗示しているのは、 模型は現実世界に存在しながら、 そのまわりに「虚構世界」と呼びうるような 場を作り出しているだ、ということである。 模型はその形作る虚構世界を 通して現実世界を表象する。 そして同時に、 われわれは 科学者として、 (芸術の)鑑賞者として、 遊びを遊ぶ者として、 さらには呪医として、 (その虚構世界を通して) 現実世界へと介入してゆくのである。
以上がわたしの「模型の人類学」の宣言である。
この節以降では、言わば、 「各論」に入っていきたい。 この論文の冒頭で述べたように眼前に広がる 領域は広大である。 模型の特徴として述べてきた表象と介入に 注目したい。 この論文は表象について考察していきたい。
模型は、現実世界の中に存在しながら、 そのまわりに虚構世界を作り上げ、 そして現実世界の【何か】を表象する。
この「表象する」という作用、 あるいは何かが何かを表象するという関係は、 どのようにして可能なのであろうか。
単純ではあるが直観的な答は、 表象する何か(模型)は、表象される何かと 【似ている】のだ、というものであろう。 類似という二項関係がその答だ、というのである。 模型を扱う場合、 類似する項(模型)は虚構世界の中にあり、 [4] 類似される項は現実世界の中に存在する。
分子の模型は分子を表わしている。 模型は現実世界の分子に (何らかの意味で)似ているのだ。 航空機の模型は航空機を表わしている。 模型は現実世界の航空機に(何らかの意味で)似ているのだ。 呪いの人形 [ひとがた](模型)は、 呪う相手を表わしている。 それはその相手に(何らかの意味で)似ているのだ。 アリストテレス (アリストテレス 1997) は芸術は自然の(現実世界の)模倣だという。 かくして『麗子像』という絵画(模型)は 麗子を表わしている。 それは現実世界の麗子に(何らかの意味で)似ているのだ (すくなくとも現実世界の麗子を知っている 人には似ていると思わせるものだろうと、 わたしたちは考えている)。
自然の模倣としての芸術論には、 しかしながら、 さまざまな反論がある。
典型的な反論として、 ハルトマンによる次の言葉を引用できるだろう--- 「模倣はまず事物の模倣、実在の人物とその営みの模倣 と考えられ、やがて後に事物がそれにのっとって形づく られるべき理念の模倣と考えられた。いずれのばあいも 何をつくるべきかが芸術家にはあらかじめ示されるので、 どこまで芸術家が手本に到達できるかという能力の問題 だけが残る。かれらの創造の行為はここでは著しく制限 される。世界がまだ所有したことのない新しいものを芸 術家が示そうとも、そんなことはここではまったく問題 にならない」 (ハルトマン 2011 (1953): 56)。 簡単に言えば、模倣説に従えば芸術家の 創造性が問題にならなくなってしまう、というのだ。
アリストテレスも、じつは、 単純な模倣について述べているわけではない。 「ある種のモノを見るのは苦痛である。しかし、われわ れが軽蔑する動物あるいは動物の死骸であっても、それ らのモノのイミテーションを見ることを、 われわれは楽しむ」 (アリストテレス 1997)と彼は言う。 彼は、芸術作品がその対象に似ているべきである、 自然(現実世界)を模倣しているのだと、 単純に主張しているわけではない。 ここに描写されている作品(動物の死骸の模型)では、 芸術は現実を忠実に再現しているわけではない。 もしそうならば見るのが「苦痛」であるような 作品がそこに現れる筈だからだ。 すなわち、いささか禅問答じみているが、 芸術作品は対象に似ていなければならないが、 同時に似ていてもいけないのである。
この禅問答のような精神を 的確に言い表わしているのが、 近松門左衛門が語ったと伝えられる (相馬 2012) 「虚実皮膜」という言葉であろう。 人形(模型)は人間(現実世界の対象)に 似ていなければならないが(「実」)、 似すぎていてもいけない(「虚」)と 近松は語ったと伝えられる。
廣田惠介は、 『我々は如何にして 美少女のパンツをプラモの金型に 彫りこんできたか』 (廣田 2016) の中で、 フィギュアの最初期における 「ラムちゃん模型化反対」論争 (廣田 2016: 29ffm4_dnl ) をとりあげる。 漫画の中のラムちゃん [5] がフィギュア化されることに 対する反対論と、 それに対する反論とが模型の雑誌を賑わしたのだ。 反対論者は言う「本当に好きな人は、 そのものについての具象化を好まないのです」 (廣田 2016: 29)と。 J・G・ヘルダーは論文「彫塑」 (ヘルダー 1979)の 中で、ほとんどの彫塑が彩色されていないこと についてのある議論を紹介する (ヘルダー自身はその議論に賛成は していないのだが)。 その議論によれば、 「色をつけると似ている点があまりにも大きくなりすぎ、 似ている点があまりにも似すぎてきて、自然とまるで同 一になってしまうからだ。本来、似ているという点は似 ているだけであるべきで、自然と同一であってはならな いのである」 (ヘルダー 1979: 230) というのだ。
小松左京は 『模型の時代』 (小松 1979)の 中で、 模型(むしろ「プラモデル」 あるいは「プラモ」という言葉が 適当であろう)が蔓延する未来社会を描く。 そして、そこに さまざまな 1/1 模型(実物大模型)、 たとえば家の、あるいは自動車の 原寸大模型を登場させる。 多くの人びとがそのような模型の家に 住み、 模型の自動車に乗る。 主人公は嘆く、「原寸大で、 【ほんものそっくり】で、 しかも人間をのせてほんものそっくりに動く模型、 というのは、いったい【ほんもの】と、 どこがちがうのか?」 (小松 1979) と。 模型愛好家の彼には、このような「実用性」を 持つ模型は耐えきれないのだ。 彼は自説を唱える、 「道楽に実用性が出てきちゃおしまいだよ。 プラモというやつは、 ほんものそっくりでいながら、 その実、 【何の】 【役にも】 【たたない】所がいいんだ」 (小松 1979)と。
芸術を鑑賞するにも、 遊びを遊ぶにも、 模型(芸術作品やフィギュア、プラモ)は 【ほんもの】と似ているが、 どこかが違わなくてはいけないのだ。
科学の模型の場合も同様である。 科学の模型の一例として地図を考えてみよう。 ルイス・キャロルは 『シルヴィとブルーノ』 (Carroll 1982 (1889)) の中で 1/1 の地図を登場させる。 このエピソードを聞いて、 読者はにやりと笑うだろう。 これでは地図が地図としての (科学の模型としての)機能をはたし得ないのだ。 すでに引用したハッキングの言葉の一部に 焦点をあてたい。 模型とは 「実在的な現象から【ある】側面を吸い上げ」 (ハッキング 1986: 418) (傍点は筆者) るモノなのだ。 すべての側面を吸い上げれば、 それは(小松左京の言うように)ほんものに なってしまうだろう。
この小節は「自然の模倣説」、 すなわち芸術作品は(あるいは一般に模型は) 現実世界の対象に似ていなればならない、という 議論への反論の紹介である。 わたしが強調したいのは、 これらの反論もまた「似ている」ことを 自明のこととして、 とくに問題のある事象と考えていないことを 指摘したいのである。 すなわち、 「虚実皮膜」論に代表される 「反模倣説」は、 「似ているけど似ていない」ことをもって、 模型の本質としている、ということだ。 この時、「似ている」という事は、 より正確には、 「あるモノがあるモノに似ている」という関係は、 問題のない関係として扱われているという点に、 注意をしていただきたいのだ。 そして、当論文の残りの部分は「似ている」ことの 分析に費される。 [6]
「似ている」こと、あるいは「類似」が 問題のない概念として扱われていることに 注意して欲しいとわたしは言った。 「類似のどこに問題があるのか」と 考える人も多いかもしれない。 類似の概念は、 それほどにわたしたちの生活世界に 埋め込まれた、 自然に見える概念なのだ。
しかし、じつは、 類似の概念は多くの問題を 含んでいる概念なのである。
芸術の中で(現実世界の)対象との 類似を強調するやり方は「リアリズム」 [7] として知られている。 リアリズムの考え方は、 ある種の自然の中の類似を当然のこととしている。 ところが、 多くの芸術の哲学は、 このような 自然的類似を否定することから始まる。 グッドマンは『芸術の言語』 (Goodman 1969)の中で、 リアリズムとは表象と対象の関係ではなく、 表象・対象そしてその時代の表象体系との 関係であると宣言する。 同じことを、 ヤコブソン (ヤコブソン 1971)は 写実性とは伝統にもとづくと言い、 カーニー (Carney 1993) は、 類似とはスタイル(様式)相対である、と表現する。 言われていることは 自然的な類似などないということだ。
これらの芸術哲学で使われている キー概念、すなわち、 「表象体系」(グッドマン)、 「伝統」(ヤコブソン)そして 「様式」(カーニー)を 「理論体系」という言葉に置き換えれば、 科学哲学と重なることになる。 ハンソン (ハンソン 1986) の「観察の理論負荷性」が、 そしてクーン (クーン 1971)の 「共約不可能性」が示す考え方なのだ。 科学論に限らず わたしたちの生活世界自身がそのようである (自然的類似が存在しない世界である) ことを、 たとえば野矢は 「われわれはすでに分節化された世界に生きている」 (野矢 2011: 13) と表現する。 そして、この考え方こそが、 人類学が長く親しんできた 「概念枠組」 の考え方の示すものなのである。 それは人類学者の言う 「文化」なのだ (cf (中川 2015))。
これらの考え方が、 言わば、哲学の、 芸術論の、 科学論の、 そして人類学の常識である。 「無垢の眼」 (Goodman 1969: 8) を神話として否定するのである。 これらの議論を「無垢の目の神話」論と 呼ぼう。 否定されているのは 「無垢の目」が見るとされている 類似である。 この類似を「自然的類似」と呼ぼう。 そして無垢の目の神話論を 支える「伝統」、「様式」そして「文化」などの 語を、 以降「概念枠組」の語で代表させていきたい。
実在論者ハッキングは言う: わたしは「自然的類似がある」と言うほどに 哲学的素養がないわけではない。 しかし、自然的類似は認めざるを得ないのではない だろう、と。 (ハッキング 1986l) クワインも言うように、ハッキングは続ける、 自然的類似を把握できないような種に 生き延びる余地はないのだ。 「無垢の目(そして自然的類似)はある」 とハッキングは、 そしてクワインは主張するのである。
進化心理学者、 ニコラス・ハンフリー (ハンフリー 2004) は次のような議論を展開する。 彼は先史時代の天才が描いたと言われる 洞窟壁画と、 天才と言われることもある、 ある自閉症児の描いた絵画についての 議論である。 彼は言う、 これらはどちらも天才の描いた絵画ではない、と。 なぜならば、どちらもスタイル(概念枠組)に 基づいていないからだ、と。 「リアリズム」はあるとハンフリーは 主張するのだ。
リチャード・ウォルハイム (Richard Wollheim 1998) は、 絵画におけるスタイルそのものを否定するような 考え方を提示する。 絵画論の中の一つの潮流として、 記号論的な絵画論があるが、 それは間違っていると彼は言う。 なぜなら、絵画には【構造】はないのだから、と。
この二つの「類似」擁護議論 (一方にハッキングとクワイン、 もう一方にハンフリーとウォルハイム)を 並べることによって、 類似の議論はじつは異なった二つの種類の 類似について述べていることが 明らかになるだろう。 すなわち、 (1) 現実世界の中の二つのモノの間の 類似と、 (2)現実世界のモノと(それを 表象したとされる)虚構世界のモノ(模型)との 間の類似である。 (1)の類似が「自然的類似」とこれまで 呼んできたものである。 (2)の類似、 模型論は本来こちらの類似を問題にすべきなのだが、 これを「写像的類似」と呼ぼう。
直観的な答は(1)自然的類似は存在するが、 (2)写像的類似は存在しないというものであろう。 (1)は、 クワイン風の進化論的議論が正しいとすることである。 わたしはこの立場は十分説得的だと思う。 [8] これを以降の議論の前提としたい。 問題としたいのは、直観的な答の(2)である。 (2)は「無垢の神話」論を認める、 すなわち、 ハンフリーやウォルハイムには反して、 グッドマン、ヤコブソンの陣営に与する (「概念枠組」の存在を認める)、という 宣言である。
最後の節では、 答の(2)、すなわち概念枠組を認める議論、 写像的な類似を否定する議論に 対抗してゆく手立てを探してゆきたい。
直前に宣言したように、 この節(最終節)では概念枠組を否定し、 写像的類似(「リアリズム」の可能性)を擁護する ことを目標とする。
概念枠組の考え方を 支えるのはソシュール以来の 「恣意性」の議論である。 わたしたちは(現実)世界をそのまま捉えるのではなく、 概念枠組というフィルターを通して捉える。 そして概念枠組には【自然さ】はない。 それは恣意的である。 概念枠組を否定しようとする わたしの議論を(菅野 (菅野 1999)に倣い) 「恣意性の神話」論と呼びたい。 それは自然主義の一種となるだろう。
写像的類似について考える叩き台として、 パースによる記号の分類 (パース 1986) を紹介する。 彼は記号を三つの種類に分類する。 すなわち、類像性 (iconicity)、 インデクス性 (indexicality)および 象徴 (symbolism) である。 ここではパース学を展開するのではなく [9] 、 飽くまで叩き台として、この分類を利用したい。 雑駁に言えば、 類像性は記号自身がその対象と似ているという 点によって、 インデクス性は因果関係によって、 そして象徴は恣意性によって特徴づけられる。 恣意性を否定するとは、 この分類体系の中の象徴というカテゴリーを 捨象する、ということだが、 それはこの論文の射程内ではない。 むしろ問題としたいのは 類像性とインデクス性である。 この節の一つの目的はインデクス性の 考え方の洗練である。 それを因果関係としてではなく、 より広い法則論的 (law-like) 関係として考えたい。 この論文で最終的に主張したいのは 「類像性として捉えられてきた記号のいくつかは インデクス性である」という議論である。 類像性とは写像的類似に他ならないのであり、 インデクス性は法則論的関係であるので、 この結論は次のようになる--- 写像的類似のいくつかは 法則論的関係に基づくものだ、と。
「類像性として捉えられてきた記号の いくつか」の例として 取り上げるのは写真である。 [10]
ウォルトンによる 「透明な絵 (Transparent Pictures)」 (Walton 1984)という 短かい論文を「写像的類似」への叩き台としたい。 この論文は、副題(「写真のリアリズムの性格 (The Nature of Photographic Realism)」)が 示すように写真について、 とりわけその「リアリズム」 (写実主義/実在論)についての議論である。
この論文の主張は直截である: ウォルトンは「写真は透明だ」と主張する。 わたしたちは写真を見るとき被写体を (字義通り)見ている、と彼は主張するのだ。 わたしたちが絵画を見ているとき、 たとえばダヴィンチの『モナリザ』を見るとき、 比喩的には「わたしはジョコンダ夫人を見ている」と 言うことがあるかもしれない。 しかし、それはじっさいにジョコンダ夫人に会うのとは 違う。 それは飽くまで比喩的な物言いに過ぎない。 それに対し、 写真を見る時 わたしたちは被写体を見ている、とウォルトンは言う。 『モナ・リザ』は表象だが、 写真は表象ではない、 それは現実(リアリティ)である、と。
この一見「とんでも」主張とも言えるかもしれない 「写真は透明だ」テーゼ (清塚 (清塚 2003) になら い「透明性テーゼ」と呼ぼう)を、 ウォルトンは二つの方法で 擁護していく。
一つは「すべりやすい坂道議論」 (slipperly slope argument)である。 わたしたちは眼鏡を通して物を見るとき、 眼鏡を表象とは考えないだろう。 眼鏡は透明であり、 わたしたちは眼鏡を通して現実世界を見ていると 考える。 同じことが双眼鏡、望遠鏡、 顕微鏡に言えるようになった。 以上の透明であるモノの【拡張】は、いわば、 坂道をすべっていっているようなものだ。 写真をこれらの延長上にあると考えても いいだろう。 これが「すべりやすい坂道議論」による 「透明性テーゼ」の擁護である。 デジタルカメラを例として取れば より説得的になるかもしれない。 すなわち、 一眼レフでファインダーを覗いている時、 わたしたちは「現実世界を見ている」と考えるだろう。 すなわちファインダーは透明なのだ。 ここで一眼レフを液晶をつかったカメラに 取り替える。 ファインダーが透明ならば、 液晶もまた透明と言うことに抵抗はそれほど ないだろう。 そしてシャッターを押そう。 わたしたちは、写真は、 その液晶の画面の忠実なコピーであると考える。 それならば、 すなわち写真もまた透明なのだ、と。
ウォルトンによる 第二の擁護作戦は「反事実的条件法」によるものである。 彼は非常に簡単にしかこの点に立ち入っていない。 ここでは、彼の議論を補填し・発展させ、 わたしの議論の一つのポイントとしたい。 まず「反事実的条件法」を簡単に説明する。 二つの事実を考えてみよう。 「リトマス試験紙を赤くする物質は すべて酸性である」と 「すべてのアメリカ大統領は男性である」という ともに真である二つの全称命題だ。 この命題に基づいて予言ができるかどうかという問題を 反事実的条件法は扱っている。 X は酸性であり、リトマス試験紙を赤くしたとしよう。 もし「X が酸性でなければ、 リトマス試験紙は赤くならなかっただろう」という 予言はわたしたちを納得させる。 この命題は法則論的であるのだ。 Y は大統領であり、男性であるとしよう。 この時「もし Y が男性でなかったならば、 Y は大統領ではなかったであろう」という予想を わたしたちはしない。 この命題は法則論的 (law-like) ではないのだ。
反事実的条件法でチェックしているのは、 わたしたちの確信あるいは信頼の問題である。 そのことをはっきり させるためにある(法則論的な見地からは) 曖昧な命題を考えてみよう。 「あるチームのすべての負けた試合には Z が出場していなかった」 という真である命題である。 ある試合に Z が出場せず、 チームはその試合に負けたとする。 「もし Z が出場していたならば、 あの試合は勝利していただろう」という 反事実的条件法を考えてみよう。 これが法則論的になるかならないかは、 Z にどれほどの活躍をしていたかという わたしたちの評価にかかっている。 Z の貢献を信頼すれば、 この命題は法則論的であるし、 そうでなければ、 この命題は単なる積み重なった 偶然(「普遍的相伴」 (フォン・ウリ クト 1984: 28))について述べているに過ぎないと わたしたちは見なしているのである。
反事実的条件法、 あるいは法則論性の議論の 写真への応用は次のように なる。 現実世界における個物 【a】の 写真を 【a'】とする。 法則論的な写像的類似が成り立っているとは、 【a】 が(自然的に)類似していない 【b】 だったとすれば、 その写像は【a'】に(自然的に)類似していない 【b'】になったであろう、 という予言をする確信を、 わたしたちは持つ、ということだ。 現実世界において似ている二つの個物は、 写真の世界においても似ている筈だと思うほどに わたしたちは写真を信頼しているのである。
ここでウォルトンは現実世界との コンタクトという考え方を示す。 知覚とは、ウォルトンは言う、 現実世界とのコンタクトを維持することなのだ。 描写(depiction)(たとえば絵画)では、 このコンタクトは作者の存在によって切断される。 記述 (description)(たとえば文学)では、 このコンタクトは二重に切断される--- 最初に作者によって、 そしてつぎに言語という恣意性のシステムによってだ。
「透明性テーゼ」は挑戦的であり、 見ようによっては「とんでもテーゼ」でもある。 予想されるように多くの反論がなされた。 [11]
論争は、もちろん、 原著者の意図に沿いながら、 透明性テーゼについて語る。 わたしの主張は、 ウォルトンの論文は写真についてではなく、 むしろ知覚についてである、 すくなくともそのように読むことが より興味深い議論に発展する、というものである。 そのような読み替えに向けての第一歩を、 原著における予想される反論への譲歩の中に見て とりたい。
その譲歩は仮想上の反論に対したものだ。 その反論は「すべりやすい坂道」議論に対する反論であ る。 すなわち「坂道はどこで止まるのか?」ということだ。 ウォルトンはこの(仮想上の)反論を受けて、 坂道のさらに先まですべってみせる。 「絵画の中にも透明なものがある」というのだ。 ウォルトン自身は具体的な例を出してはいない。 これまでの議論から言えば、 透明な絵画とは、 作者の意図が介在しない類の絵画であるはずだ。 たとえば、 高校の時に行なった生物の授業での 左目で顕微鏡を見ながら、 右目で見たものを描いていく実習が いい例となろう。 ここには被写体とスケッチの間に 法則論関係があることが重要な点である。
ここで先程エピソード的に紹介した ハンフリー (ハンフリー2004)の 洞窟絵画と自閉症児の絵画の 議論を思い出してほしい。 ハンフリーが主張しているのは、 これらにおいてもまた被写体と法則論的な関係があると 言うのだ。 たしかに、 これらにはスタイルがなく 写実性(法則論性)が 見受けられるというのは、それなりに 説得力のある議論である。 しかし、顕微鏡を使ってのスケッチと違い、 自信をもって「それらが透明だ」と言えるかというと、 わたしたちは躊躇してしまう。 なぜ顕微鏡でのスケッチに法則論性があると言え、 洞窟絵画にそれが言えないのだろうか。
この違いを齎すのは 描き手の意図の問題である。 わたしたちが描き手である顕微鏡のスケッチでは、 意図はそこにある。 わたしたちは(スケッチが対象と)法則論関係をもつように 注意しながら、 スケッチを描く。 顕微鏡の中の被写体が違えばどうなるかと問われれば、 それに応じて違うスケッチができると、 わたしたちは答えるであろう。
リアリズムの絵画にはある種の雰囲気 (「写実性」としか言いようのない雰囲気)が あるのは確かである。 その雰囲気がハンフリーの挙げる 洞窟絵画と自閉症児の絵に、わたしたちは、 たしかに感じる。 しかし、自信をもってこれらが 透明だと言うことはできない。 なぜなら 作者の意図が不明だからだ。 どちらの場合も、 作者の意図を確認できないだろう (洞窟絵画の作者はすでに死亡しているし、 自閉症児とのコミュニケーションは難しいだろう)。
わたしたちは、しかしながら、 作者の意図を想像できる。 それが顕微鏡スケッチの作者と同じ意図だと 考えれば、 洞窟絵画は透明になる。 そこにスタイルや意図を想像すれば、 洞窟絵画は普通の、すなわち 透明ではない絵画となる。 [12] 問題は確信/信頼に存するのだ。
わたしが主張したいのは、 「透明である」というのは絵を分類する属性ではない、 ということだ。 ある絵が透明であるかどうかを決めるのは、 その絵が持っている属性ではなく、 わたしたちがその絵に対して持つ態度(信頼)によって 決まるのだ。 ある態度においては、 ある絵画を透明であるとするだろうし、 他の態度の中では、 ある写真を透明でないとするだろう、 ということだ。 鑑賞者の態度によって、 すなわち、 確信/信頼の度合いによって、 特定の絵画が透明になったり、 不透明になったりするのだ。
議論の本筋に戻ろう。
あるモノが透明であるとは、 そのモノが人間と現実世界との間のコンタクト(知覚)を 遮らない、ということである。 あるモノが透明でないとは、 そのモノが 人間と現実世界の間のコンタクトを遮るということ である。 このときそのモノは表象となる。
このように知覚と表象を捉え直したうえで、 わたしはウォルトンの「透明な絵」論文を 次のように読みたい。 すなわち、 (すでに述べたが) この論文は写真についての論文ではなく、 知覚、とりわけ視覚(見ること)についての論文なのだ、と。 そしてその論文の主張は(わたしの読みかたでは) 「見ることは進化する」となる。 「すべりやすい坂道議論」こそが 進化の道程なのである。 ウォルトンの論文のポイントは、 「これまでわたしたちは 眼鏡、顕微鏡、望遠鏡などを視覚の 延長として捉えてきた。 さぁ、写真もその延長としようではないか」 という呼びかけだと考えるのだ。
問題は現実世界と知覚のあいだの 写像的類似、すなわち法則論的関係である。
ウォルトンの論文に示唆的な箇所がある。 すでに述べたように、彼は、 記述 (description) は、 言語の恣意性によって人間と現実世界の間の コンタクトを切断すると主張した。 ライオン(個体 【a】)と 豹(個体 【b】)とは、 世界において似ている にもかかわらず記述(「ライオン」と「ヒョウ」)に おいてその相似はあらわれない。 あるいは 兎(個体 【a】)と 鰻(個体 【b】)とは 世界において似ていないにも関わらず 記述(「ウサギ」と「ウナギ」)において似ている、 という議論である。 その箇所からかなり後の部分で、彼は 自分の議論をくつがえす。 いささかSF的な状況を考えてみよう、と 彼は言う。 マッドサイエンティストがあなたを改造して、 あなたは記述のみによって外界とつながるように なったのだ。 この箇所で、ウォルトンは、 もし世界とのコンタクトが記述のみになってしまったら、 いずれ写像における類似(「ライオン」と「ヒョウ」) を、あなたは感じとれるようになる、と議論する。
ここで知覚を視覚のみに限定して、 このSF的状況を考えてみよう。 それはSF的状況というより、 生物の原初の状況にかなり近いものと 言えるだろう。 当初、 生物はバークレー的な考え方をもて遊ぶかもしれない。 「ここに石がある」という知覚をわたしは持っている。 しかし、それはわたしの中の出来事であり、 けっして世界の中の出来事ではない、と。 知覚は不透明なものと見なされている。 超越論的観念論である。 あるいは、彼は カント的な言い方を好むかもしれない。 わたしは世界の写像として知覚をもっている。 しかし【世界それ自体】はわたしには把握できないのだ、 と。 そんな哲学的瞑想にふけっていた生物も、 自分が腹をへらしていることに、いずれ、気づくだろう。 彼は生きのびていかねばならない。 餌を捕食し、 捕食者から逃げなければいけないのだ。 彼はもはやカント的な世界に遊んでいる余裕はない。 そして頼りになるのは知覚だけである。 彼はとりあえず知覚が世界と法則論的関係をもっている、 写像的な類似性を維持していると仮定するしかない。 透明性が誕生したのだ。 経験論的実在論と呼べよう。 その仮定にたよって、 いわば知覚に賭けて彼は行動する。 もし失敗すれば、彼の子孫は生き残らないだろう。 【種】を擬人化して語ることを許してもらえば、 知覚への賭けは、 自然淘汰を通して【信頼】へと変化するだろう。 進化論の枠組で言うならば、 定義によって知覚は現実そのものであるのだ。
超越論的観念論は、 経験論的実在論と連続的であるのだ。 その連続性は進化のメカニズムによって 保証される。 模型と類似性に関して言い換えれば、 模型の不透明性と透明性とは連続的である。 模型が不透明であるとは、 写像的類似がない状態である パースの言う「象徴」であり、 その時、 模型は 恣意性によって現実世界とのコンタクトを 切断されている。 模型が透明であるとは、 現実世界とのコンタクトが維持されることにより、 類似が最大限になる状態である。 それはもはや「表象」ではなく 感覚そのものである。 模型のこの二つの状態の連続性は 鑑賞者の信頼という態度によって 保証されているのである。
[1] この語の背後にあるのは、 グッドマン (グッドマ ン 1987) の「プロジェクティビリティー」(projectibility) (投射可能性)という語である。 [Back]
[2] 遊ぶ仕方の発展として嘘の美学を 分析したのが (中川 (印刷中)) である。 [Back]
[3] 翻訳タイトルは 『表現と介入』である。 「表現する」という語は わたしは``expressing'' の訳語として使用したい。 ``representing'' には「表象する」の 訳語を採用することとした。 [Back]
[4] 「ある」と「存在する」は意識して 使い分けている。 その違いはこの論文では扱わない。 [Back]
[5] 「ラムちゃん」とは当時の人気漫画 『うる星やつら』(高橋留美子作)の登場人物である。 [Back]
[6] 虚実皮膜論は、この論文ではとり扱わない。 しかし、これが模型を扱うに最も重要な論点の 一つであることは間違いがない。 とりあえずの分析をほどこしておこう。 この状況は、 「模型が対象に似すぎている時、 模型は虚構世界を作ることに失敗する」と 言い表せるであろう、と。 この「とりあえずの分析」でも「似ている」ことは 前提となっている。 虚実皮膜論を取り扱う前に、 どうしても、 「似ている」こと(類似の概念)の 分析を行なわなければならないのである。 [Back]
[7] 「実在論」とも訳せるが、 芸術の中では「写実主義」と訳す。 [Back]
[8] 適当な自然的類似を把握できない種は 自然淘汰の中で 生き残ることができなかったであろう。 その「適当な自然的類似」を作り出す メカニズムの中の基本的戦略は 渡辺 (渡辺 1978)の言う通り 属性への重みづけであろう。 属性への重みづけを間違えた種は 滅びていくことなる。 [Back]
[9] パース自身分類方法を何度か変更している。 あるいはこの分類方法のもっている問題点を指摘する。 そのようなことには拘泥しない、そのような 事はこの論文の目的ではない、ということだ。 [Back]
[10] あわてて付け加えるが、 パースは写真をインデクス性に分類している ように見える。(断片番号 二・二八一) [Back]
[11] それらの反論、そしてそれに対するウォルトンの答えを 清塚 (清塚 2003)が 手際よくまとめている。 [Back]
[12] この部分の議論が、期せずして ダントーのアートワールド (ダントー 1964) の議論に重なった。 ダントーは、絵画の鑑賞には スタイルと、そのスタイルをめぐる雰囲気 (さまざまな批評)などなど(「アートワールド」) を知ることが必須だと述べている。 ここで述べているのは、 ある絵画に「アートワールド」を措定できない場合の 一つの帰結である。 すなわち、その絵画は透明になるのだ。 [Back]